3.憩いの泉
俺たちは出口を目指してトラップが張り巡らされた暗がりを歩く。
ただ、闇に目が慣れてしまえばただの長い一本道だった。
それほど脅威というわけでもなく、しばらくすると雑談ができる程度の余裕ができてきていた。
「それでそれで? その降りて来られなくなったバルーンピッグはどうやって助けたの?」
「めちゃくちゃ空高くまで昇ってたからマウンテンホッパーとかエアリアルワイバーン、果てはユニコーンの手まで借りなくちゃいけなくなったんだ。だけどこのユニコーンがまた気難しくてさ。あのバルーンピッグはオスだから助けないとか言い出して」
「あはは、何よそれ」
俺が語るのは、かつて世界を歩いた頃の話。
ある時を境にするまで、まだハイエルフのアトラス・オーカブトだった。
自由に大地や街並みを駆けまわり、時に動物たちの力を借りながら問題を解決していたものだ。
過去の記憶は何百年も経った今でさえ鮮明に残っている。
楽しいことも、辛いことも。
俺が見捨てた三人の仲間のこともでさえ。
外の世界に興味のあるらしいディダミアは、笑いながら俺の話に耳を傾けてくれた。
紫紺の瞳にキラキラと期待の光を灯して。
ただ。
「ここから出れば、わたしもそんな冒険ができるのよね」
時折見える不安げな表情が妙に気になった。
何をそんなに気にしているのだろうか。
最初に押し倒されたときのように諦めている、訳ではなさそうだ。
けれど拭きれない心配ごとがありそうなのは確からしい。
「なんだ、不安なのか?」
「そんなわけないでしょ」
からかうと、下がっていた彼女の視線がツンと上がる。
話してくれるつもりはないらしい。
まぁいいや、進むとしよう。
「そろそろ出口よ」
「やっとか、長かったぁ……」
まだ出口に差し掛かってもいないのに、ドッと疲れが身体に降りかかってくる。
重くなった足を引きずるように俺は足を進めた。
◆
洞窟から出た俺たちを出迎えたのは一面の白だった。
霧だ。
深い霧がどこまでも深く森を覆っている。
見えるのは目の前に広がる小さな湖ぐらいか。
それより先はしっとりとした空気の中でめいっぱい伸びる草木に阻まれ、よく見えなくなっていた。
と、俺の視線がある一箇所に向かう。
外周に立つ木の傍に小さなテントがあるのが目についたからだ。
木の枝を軸に葉を何枚も重ねて壁が作られ、とても通気性が良さそうな仕組みになっている。
誰かここに住んでいるのだろうか。
「何、人の家ジロジロ見て」
「家?」
どこから見てもテントにしか見えないが。
「里の中にもあるんだけどね、あんな気味悪いところには戻りたくないもの。それにここって周りから見えづらいし、なかなか他のエルフも入ってこない穴場なのよね」
言いながらキョロキョロと周りを見回す。
誰かを探しているのだろうか。
尋ねると、ディダミアは今までとは違う柔らかい笑みを浮かべた。
「フラウっていうわたしの友だち。この湖の近くを縄張りにしてるんだけど……まぁいいわ。そのうち戻ってくるだろうし」
そこ、座ってていいわよ。
彼女は湖のほとりにある小さな切り株を指差して離れていく。
「秘密基地から干し肉を取ってくるわ。アトラスもお腹減ってるでしょ」
「おぉ、助かる」
どういたしましてと右手を上げて、テントの中に引っこんでいく。
座って休んでいようかとも思ったが、渇きを訴える喉が潤してくれと主張していた。
泉に近づいて覗きこむ。
どこか燻んだように見える金髪に苦笑いを零しながら、両手を水につける。
その瞬間、驚いたように水面からぶわりと光の玉が舞い上がった。
水の精霊だ。
その数は優に百を超えているだろう。
「すごい数だな」
思わず感嘆が漏れる。
これだけの数の精霊はそうそう見られるものじゃない。
水の精霊は集団を作らず、ある一定範囲の水辺を気まぐれに移動する習性を持っているのだから。
俺の行きつけの泉でも一度に五匹見ることができたら多い方だった。
よほどこの泉が気に入っているのだろうか。
「はい、アトラス」
「うぉっ! あ、あぁ、ディダミアか」
「何驚いてんの?」
「いや、綺麗な光景だなと思っててさ」
あまりに幻想的な光景に、ディダミアが近寄ってくるまで気づかなかったほどだ。
「ふぅん。まぁいいわ、はいこれ」
しかし彼女はそんな俺を不思議そうに見ながら干し肉を渡してきた。
それほど日常的なものなのだろうか。
「ありがとう。この湖いつもこうなのか?」
「ここ最近はずっとね。あ、でも勝手に契約とかしないでよ。全部わたしの相手なんだから」
「ここにいる全部?」
「そうよ」
これまたとんでもない事実を、何でもないことのように告げられた。
「すごいな。なかなかできるものじゃないぞ」
驚きの声を漏らすと、干し肉を口の中に放りこもうとしたディダミアの動きが止まる。
かと思えば、ジト目でこちらを見つめてきた。
「……何よ。急に褒めても何も出ないわよ」
「洞窟から出してくれただろ?」
「そ、それは利害が一致してただけ。あむっ」
照れ隠しか、干し肉を口の中に放りこむ。
褒められ慣れていないのだろうか。
どれだけ謙遜しようと、彼女が告げた言葉がすごいことに変わりはない。
エルフとしての力の大きさは生き物や精霊の種類と契約数に大きく関わってくる。
同じ種類の獣の場合なら一匹から借りた者と、十匹から借りた者では後者の方が遥かに強い力を使うことが可能だ。
ただ、だからと言って手当たり次第に結べばいいとわけではない。
動物や精霊はエルフの道具ではなく、自身の意思を持つ対等な関係だ。
真摯に向き合うことを忘れて力を求めたのなら、彼らはすぐさま契約者に牙を剥くだろう。
「何よ」
「愛されてるなと思ってな」
半眼を向けてくるディダミアの周りには、戯れるように水の精霊が舞っている。
見てるだけで彼らの喜びが伝わってくるようだ。
それだけディダミアというエルフは良い契約者なのだろう。
「わたしは別に愛されてなんかないわよ。それよりも早く干し肉食べたら?」
「それもそうか。じゃあいただきます」
口に含むと甘い香りが鼻を抜けていく。
肉は硬く、一度顎を動かしただけでは噛みきれない。
だが、その代わり噛めば噛むほどじんわりとした肉の味が口いっぱいに広がった。
「このかったい感じ、落ち着くわぁ……」
「ほとんど味しないでしょ。チェリの木で燻して匂いを消してるだけだし」
「これがいいんだよ、これが」
「ふぅん」
毎日食べたいかと言われたら首を傾げるが、こういうときに食べるのは大歓迎だ。
たまに食べたい思い出の味とでも言うのだろうか。
特にこういう疲れたときなんかには、一噛みごとに出てくる肉の味が身に染みるのだ。
あぁ、美味いなぁ。
だがそんな折、どこか覚えのある匂いが鼻をかすめた。
鼻の奥を突き刺すような、鉄にもにた匂い。
「──血の匂いだ」
「え、もしかして血抜きが十分じゃなかった?」
「違う」
ついさっき鼻を突いたのは長時間燻したようなものではない。
流れたばかりの新鮮な血の匂い。
「……っ!」
ディダミアもそれに気づいたのか立ち上がり周囲を見回す。
そうしている間にも血の匂いはどんどん濃くなる。
これは……近づいてる!?
思わず身構える。
藪から飛び出して現れたのは一匹の白いオオカミだった。
「フラウ!?」
「ぐるるるるる……」
オオカミは俺とディダミアの間に入り、彼女を前に庇うように立ちはだかる。
その足は酷く傷つき、白い毛は所々赤い血で汚れている。
立っているのもやっとだろう。
それでもなおオオカミは俺に牙を剥いていた。
「フラウ、落ち着いて。その人は敵じゃないわ!」
ディダミアの声が飛ぶ。
しかしオオカミは止まらず襲いかかってくる。
「──ぐっ」
「アトラス!」
とっさに出した腕に鋭い痛みが走る。
腕輪を噛ませて動きを止めたが、覆いきれない部分から牙が突き刺さっていた。
問いかける。
「落ち着け。その牙を振るいたい相手は誰だ。俺か? ディダミアか? それとも別のヤツか?」
ハイエルフとして、森を守っていた番人の一人として。
怒りに狂った眼と視線を交錯させる。
「お前が誤った者に牙を振るうのなら、俺はお前を討たないといけない。
問おう、森を守りし母の眷属よ。その鋭き牙は何のためにある」
「……」
だんだんとオオカミの息が落ち着き、瞳から怒りが消えていく。
再びディダミアの声。
「フラウ、それ以上はやめて! わたしは大丈夫だから!」
その一瞬、オオカミの瞳に安堵が浮かび──光が消える。
意識を失った白狼はどさりと地面に落ちた。
「アトラス、フラウ!」
「気を失っているだけだ。息はある……ぐ」
「あ、ちょっと待ってて、確か薬草があったはずだから!」
ディダミアは慌てて秘密基地へと走り去っていく。
俺とオオカミの周りでは水の精霊が心配するように踊っていた。
それを眺めていると、心なしか痛みが和らいでいくような気がする。
「治癒魔法をかけてくれてんのか。ありがとな」
一匹一匹の力がそこまで強くないので、すぐに完治するわけではない。
ただ、じんわりとでも回復力を高めてくれるだけでも十分ありがたかった。
だいぶ思考に余裕ができてきた俺はフラウと呼ばれたオオカミに視線を向ける。
今は気を失っているが、明らかに様子がおかしかった。
「何かに追い立てられていたのか……?」
【精霊】
水や木、草花などから突如発生する小さな光の球。
その原因は不明だが、一説としては含まれた魔力が形を持つことで発生すると言われている。
会話はできないがぼんやりとした意思や感情があり、心を通わせた者に力を貸してくれることも。