1.童貞ハイエルフの殺し方
数千年を生きるエルフを殺す方法は、大きく分けて三つある。
怪我、病気。そして──
そこは魔法のせいで昼のように明るい洞窟の中だった。
目の前以外の全てを高く滑らかな岩肌で囲まれ、閉じこめられた甘ったるい匂いが鼻を通って不快感を喚び起こす。
どこからか滲み出た水がつぅっと壁を伝い、落ちていく。
そんな場所で、俺──ハイエルフのアトラスは千年近く生きた中でも最大の危機に瀕していた。
唯一の道とも言える目の前にはにじり寄ってくる際どい格好の美女たち。
追い詰められている岩壁は突き放すような冷たさしかなく、天高く見上げれば俺が落とされた穴は固く閉じられている。
逃げ場はどこにもなかった。
「ハイエルフ様、ワタシたちと子を為しましょう?」
「ほら、落ち着いてください。身を任せてくれさえすればいいのです」
彼女たちは媚びる飼い猫のような声で妖艶に微笑む。
その姿は髪や目、肌の色までバラバラで、統一感はまったくない。
一致しているのは長く尖った耳と瑞々しい肌。
それがここにいる無数の女性たちの種族を教えてくれていた。
エルフだ。
「お、お前ら、自分たちが何をしようとしてるのか本当に分かってんのか!
『永遠の加護』を破ることになるんだぞ!」
──貞操を失うこと。
さすれば神より授けられた永遠の加護は破られ、エルフの身体は老衰が始まってしまう。
その状態ではせいぜい生きられても五十年ほどだろう。
しかし、叫んだところで彼女たちは止まらない。
「族長様はエルフ再興のためと仰いましたもの。これ以上の幸せはございません」
「それにほら、興味はおありでしょう?」
「そ、そうだけどさぁ!」
ムニュンやらポヨンやら、柔らかいものを押し当てられて動悸が早くなる。
今まで興味を持ったことがないと言えば嘘になる。
だが、俺はそんなことよりも自らの永遠を失う方が怖かった。
「ムリムリムリ、ムリですって。ほら、そういうのは愛がないとダメって言うし!」
「愛はこれから生まれますわ」
「凛々しい顔つきをして可愛らしいことを仰るのですね」
どうにか、どうにかして逃げなければ。
魔法が使えればこんな窮地、一気に脱出できるのに……っ!
歯噛みしながら視線を右腕に落とす。
そこには銀色の腕輪が忌々しく輝いていた。
召喚されたばかりの時に油断してつけられた、魔封じの腕輪だ。
今まで思いのままに使えていたはずの魔法が使えない状況がこんなにもどかしく感じるなんて。
かくなる上は、一か八か!
「──あ、あそこにオークだ、オークがいるぞ!!!」
「「「「「っ!!!」」」」」
瞬間、美女たちから笑みが剥がれ落ちる。
エルフの天敵として有名な略奪者・オークは、今の時代でも恐れの対象だったらしい。
これ幸いと飛び上がり、壁を蹴って大きく跳躍した。
そのまま誰もいないところに着地する。
「お待ちになって、ハイエルフ様ぁ!」
「まだまだお楽しみはこれからですわよ!」
背後から聞こえてくる甘ったるい声を振り切り、俺は自由を求めて全力で走り出した。
走り続けてどれくらいの時が経っただろうか。
追ってきた女たちを撒いた頃には疲れ果て、俺は洞窟の壁にもたれかかっていた。
「はぁ、はぁ……厄介なところに来ちまったな」
呼吸を整える。
花を手当たり次第に煮詰めたような甘ったるい匂いが微かに漂ってくる。。
そのことが、まだあの女たちから逃げ切れていないのだと教えてくれた。
こんな状況になったのも全て『族長』なるクソジジイが原因だ。
アイツは魔法で見ず知らずの俺を強制転移させ、里の者と子を作れと言ってきやがった。
曰く、現在のエルフは混血化が進んでおり、エルフとしての力は四分の一以下になってしまっているのだという。
そこで純血たるハイエルフと子を為すことで力を取り戻そうとしているのだとか。
──いや知らんし。
こんな洞窟に突き落とされた俺にはいい迷惑だ。
元々、未開の森の中で隠棲していた身である。
誰かと関わることなく生きてきたし、これから先も関わるつもりはなかった。
それをこんなところに落としやがって……。
あの気持ち悪いしたり顔、ここから出たら一発ぶん殴ってやる。
幸いにも風は吹いている。
なら、どこかに外へ繋がるところがあるのだろう。
小さな穴が空いているだけかもしれない。
追っ手が使った風魔法の名残かもしれない。
けれど、この状況ですがることができるのはそれだけだ。
僅かな希望を胸に抱いた俺が再び歩き始めた時だった。
途端、先ほどまでいた場所から水が吹き上がってくる。
そして。
「覚悟ぉおおおおおおおおおおおおおお!」
「──ぐほっ」
水の中から大声を上げてナニカが飛びこんできた。
そのまま硬い岩肌に押し倒される。
「ふふん、ずっと罠貼って待ってた甲斐があったわ!」
──それは、海にも似た色をした女だった。
肩にかかるほどの青い髪と輝かしい紫の瞳は水に濡れ。肌は太陽を浴びた白砂のよう。
今まで見たこともない美しさに思わず息を呑む。
だが、追っ手の前で惚けるなんて悪手にも程があって。
いつの間にか俺の四肢は水魔法で拘束されてしまう。
「あなたがハイエルフね! 悪いけど大人しくわたしの野望の礎になりなさい!」
「は、離せ!」
「無駄よ、いくらあなたでも魔法を破れるはずがないもの!」
得意げな彼女の言う通り、どれだけ暴れても水の枷は壊れない。
今の俺では、腹に乗った彼女の両手を払い除けることすら叶わない。
くっ、ここまでか……。
思わず目を閉じる。
「……?」
しかし、いつまで経っても俺の貞操が奪われることはなかった。
疑問に思って目を開ける。
「……………………」
女性は、顔を真っ赤にして固まっていた。
不思議に思っていると、視線に気づいた彼女は慌てて口を開く。
「え、あ、その、や、やる! やってやるんだから! じ、じっとしてなさい!」
「いやこっちは何も動いてないんだが!?」
意気込みは激しく。
しかし、やはり童貞が奪われる時は訪れなかった。
顔を真っ赤にした女はあうあうと口をまごつかせるだけで、ズボンの紐にすら手をかけない。
すっと頭が冷静になっていく。
「よく見たらまだ子どもじゃないか」
腕や足は細く、胸も貧相な少女だ。
可愛いとは思うが、今の好みからはほど遠い。
あと五百年ほど前に出会っていれば惚れこんでいただ、ろう、が──。
「は、はぁっ!? 子どもって何よ!」
「子どもは子どもだろ! と、というか着替えて来い! もしくは乾かせ!」
「そんなこと言ってどうにか逃げるつもりなんでしょ。お見通しなんだから!」
「違うって! 色々見えてんだよ!」
「見えて……?」
少女は自分の姿を見下ろす。
若草色の服は水に濡れ、彼女の身体のラインや胸にまいたサラシまではっきりと浮かび上がらせていた。
「きゃぁ! 変態、むっつり、こっち見んな!」
「お子さま体型なんざ興味ないわ!」
「また言ったわねコイツ! わたしだってもう成人してるんだから!」
「知るか! つーか襲ってきたのはお前らだろ! 何で恥ずかしがってんだよ!」
「はぁっ!? あんな子作りのことしか考えてない人たちと一緒にしないで!
ちょ、ちょっと乾かすから待ってて! 『水の精霊よ、服を乾かしなさい』」
そう言って、少女は頬の赤みも引かぬままに呪文を唱える。
するとその言葉通り、服に染みこんでいた水がすぅっと乾いていった。
──丁寧な魔法だな。
ふと思う。
乾燥魔法はまんべんなく乾かすことが難しいのに。
罠を貼り続けられる魔力量といい、長生きすれば良き魔法使いとして大成するかもしれない。
おかしなところではなくもっと広い世界を見て、様々な経験を為してほしい。
もし彼女がこの集団のしがらみに囚われているのなら、俺が──
って、やめろ。
何また厄介ごとを背負いこもうとしてんだ。
さっさとこんなところを抜け出して森に帰る方法を見つけるべきだ。
幸いにも拘束魔法は緩んでる。
四肢に力を込めたなら、こんなものすぐに壊せるはずなんだ。
だいたい、お前はそんなことをして責任が取れるのか。
それが嫌で森に引きこもったんじゃないのか。
胸の奥で、かつての自分が──かつて、『勇者』と呼ばれていた頃の俺が問いかけてくる。
「責任、か」
胸の内に起こった自問自答に小さく呟く。
俺がこの少女の面倒を見切れるとは思えない。
自分が決めたことに苦しくなって手放すようなヤツは森に引きこもるぐらいでちょうどいい。
よし、さっさとここから逃げてしまおう。
……そう考えたはずなのに。
「なぁ、いいのか」
ならば何故、俺は彼女に尋ねているのだろうか。
「何がよ」
「今ここで俺の童貞を奪えばお前の加護もなくなる。すぐにシワシワになって、そのうち魔法も使えなくなるんだぞ。それでもいいのか」
「その分思いっきり楽しめばいいじゃない」
少女は笑う。
自らに言い聞かせるように。
それを見た俺の心は、また強くかき乱された。
だって、その表情は、その笑顔は──
『──いいんだよ、アトラス。私はもう長くは生きられないから』
生きることを諦めた友と同じだ。
心が大きく揺さぶられる。
疑問、説得、命乞い、告げようと思った全ての言葉がかつての思い出に上書きされる。
そんな俺に彼女は業を煮やしたのか、はぁとため息をついて口を開いた。
「正直エルフの力なんてどうでもいいの。私はこの辛気くさい里を出るためにアンタを利用する。それで、私は海に行くのよ」
「……………………海?」
何とか言葉を絞り出す。
「そう、海。この大陸の果てにあるんでしょ」
「確かにあると思う。でも、どうして海なんだ」
「里から出て行ったセイレーンに……わたしのママに、成長した姿を見てもらうの」
ディダミアの視線はどこまでもまっすぐで、揺らぐことのない本心を俺に伝えてくる。
ただ、その表情に儚さを感じるのはきっと気のせいじゃない。
……そうか。
あのクソジジイは言っていた。
ここに純血のエルフはいないと。
つまり彼女も何らかの混血であるわけで、でも多分この場所ではそんな純粋な願いさえ叶えられなくて。
「何、また子どもっぽいとか言ったら承知しないわよ」
「いや、そうじゃない。いい野望だと思う」
あぁ、いい野望だ。
腐って森に篭っていた俺でさえそう思えるほどに。
もしかしたら……もしかしたら説得できるかもしれない。
彼女はツンと澄ましているが、すぐに俺をどうこうするつもりはないようだ。
話が通じないわけでもない。
何をバカなことをと自分でも思う。
こんな無責任なことは今すぐ辞めるべきだ。
けれど、やはり。
「海の広さを知ってるか」
言葉は止まってくれなかった。
「な、何よ急に」
「まず海に行くまでが大変なんだ。マグマ煮えたぎる山を越えて、どこまでも続く草原を駆けて、人間が営む港を抜けてようやくだ。
そうして大海原にたどり着いたからって、すぐにセイレーンを見つけられるわけがない。海はとてつもなく広いんだから」
「……泉の何倍も?」
「あぁ、何百倍も、何千倍もだ」
色褪せることない思い出の数々を彼女にぶつけていく。
クソジジイに強制転移させられる前はただ森の奥に引きこもっているだけだが、こんな俺にも外を見ていた時期はあったのだ。
紡いでいく言葉に、彼女は不審がりながらも耳を傾けてくれた。
「世界はお前が思ってるよりもすげー広いぞ。五十年やそこらじゃ探しきれない。だけど、今襲わなかったら、一緒にここを出るのを協力してくれたら、全部俺が連れて行ってやる! 限りない時間を使って探してやる!」
「嫌」
「だから今は見逃して──ん? 今なんつった?」
「嫌って言ったの」
そっかー。嫌かー。
マジかぁああああああああああ。
身体からどっと力が抜ける。
割と渾身の説得だったのだが、どうやら少女には通じなかったらしい。
あははは、もうどうにでもなーれ!
けれど。
あぁ、けれど、運命はまだ俺を見捨てていなかったらしい。
腹に乗ってた手がぶるりと震える。
彼女は澄んだ紫の瞳を逸らすことなく、淡い唇を開いた。
「『連れて行ってもらう』つもりはないわ。私は自分の足で、自分の時間で海に『行く』んだから」
震えは声まで伝わり、俺の耳朶に届く。
瞳に宿った光は期待か恐怖か。
その言葉の裏には何があるのか。
「その話、乗ったわ。私はディダミア。アンタの名前は?」
俺に分かるのは、ディダミアがニヤリと笑ったことだけだった。