真夜中遊園地
ぼくは納戸のドアを強く睨みつけた。目だって力をこめれば光線とか出て穴をあけられるんじゃないか……などと思ったわけではない。ぼくだってもう六年生だ。そこまで子供じゃない。
だけどやっぱり、ドアの前から動けない。
足を肩幅に開いて、両脇におろした拳をギュッと握り締めている。
こんなに睨みつけなくたって、ノブを回せばドアは開く。鍵がかかっているわけではない。
だけど、今しがたお母さんの手で閉められたドアを開けたら大人になれない気がした。
だって、お母さんは言ったんだ。
「あっくん、いい? こうしてみんな大人になるのよ」って。
わかっている。お母さんだって意地悪でこんなことをしたわけじゃない。そうした方がいいって思うからやったんだ。わかっていても、ぼくは心の中で何度も「ちくしょう、ちくしょう」とわめいた。声に出したら叱られそうな言葉遣いだけど、だからこそふさわしい気がした。
「ちくしょう」
小さく声に出してみる。
お母さんに対して言っているのか、自分自身に対して言っているのか、自分でもよくわからなかった。
睨みつけていてもドアは開かない。
ぼくは手のひらでバンッとドアを叩いて、自分の部屋へ戻った。
☆
机の上には参考書やノート、プリントなんかが山積みになっている。さっき合宿から帰ってきたばかりだからだ。
ぼくが通っている私立小学校は、そのまま中等部に進める。だけどお父さんやお母さんは別の中学へ行かせたいらしい。そのために塾に通っているし、集中講座の合宿にだって行った。
それはべつにいいんだ。いろんなことを知って、テストで正解を出すのは気持ちがいい。ほかの中学へ行った方がもっといっぱい知ることができるなら喜んで行く。おじいちゃんやお父さんみたいに立派なお医者さんになりたいし。
でも。
それがなんでミルクと離れなきゃならない理由になるのかわからない。それが大人になるってことなのか? でも、ぼくが女の子だったらまだミルクと一緒にいられたのかもしれない。
だって、お母さんは言ったんだ。
「男の子は大きくなったら、ぬいぐるみを抱いて寝たりしないのよ」って。
ミルクは白猫のぬいぐるみだ。首に小さな銀の鈴をつけている。
ぼくが生まれたときにお父さんが買ってきたらしい。赤ちゃんの頃の写真にも一緒に映っている。その頃のぼくは、ミルクとあまり大きさが変わらなかった。
ミルクは本物の猫そっくりのぬいぐるみで、大人たちはミルクがぬいぐるみだと知ると必ず驚いた。そんなこともおもしろくて、ぼくは大きくなっても、休みの日はどこに行くときもミルクを抱いていた。
学校に行けば友達はいっぱいいるけれど、ミルクはまた特別だった。ぼくは別にお人形遊びが好きというわけではない。ぬいぐるみだって、たくさん持っているわけでもない。乗り物やロボットや恐竜のおもちゃとかいろいろ持っている。どれも大切なおもちゃだ。
ミルクはおもちゃじゃない。友達だ。兄弟だ。
ふわふわでかわいくて、ぼくは毎晩一緒に寝ていた。
ぼくにとって、ミルクを合宿に連れていくのは当然のことだった。だけどバッグに詰めていたらお母さんにつまみ出されてしまった。
「勉強しに行くのに、おもちゃを持って行ってはだめ」
ミルクはおもちゃじゃない。それに、ぼくはひとりで眠る自信がなかった。
だから、出発の朝、出かける間際に急いでバッグに押し込んだんだ。
その結果がこれだ。
塾の先生から報告を受けたお母さんの手によってミルクは納戸行き。
納戸にはおもちゃがたくさん詰まっている。ぼくが生まれたころに使っていたベビーベッドやメリー、ラトルまでしまってある。ほかにも読まなくなった絵本や、幼稚園で描いた絵などもぜんぶある。ぼくが使い終わったものたちはみんなここへ集められる。
その納戸にミルクも入れられてしまった。
合宿にぬいぐるみを連れてきている人はほかにもいた。少し叱られてはいたけれど、没収されたわけでもなかった。だけどぼくは笑われた。ぼくだけ男子だったから。
なんで男子だと笑われるのだろう。本物の猫をかわいいと思うのはよくて、ぬいぐるみの猫をかわいいと思うのはいけないだなんて、ぼくにはよくわからない。かわいいものはかわいいし、好きなものは好きだ。
お母さんは言う。
「大人になっていくのはね、そういうものなの」
昼間のうちはまだよかった。でも夜になるとどんどん寂しくなってきた。寝ようとして横になっても、ミルクのいないベッドは物足りない。合宿から帰ってきたばかりで疲れているはずなのになかなか寝付けなくて、ごろごろと寝返りを繰り返してばかりいる。
もうどうにもたまらなくなって、勢いよく掛け布団をはねのけた。部屋のドアを細く開けて廊下を見渡す。お父さんもお母さんも眠ったみたいだ。ぼくはこっそり廊下に出た。
納戸の前に立ち、念のためもう一度耳を澄まして辺りをうかがう。だいじょうぶそうだ。ノブをつかみ、ゆっくり動かす。
ちょっとだけだ。ちょっとミルクをギュッと抱きしめるだけだ。部屋に連れて帰るわけじゃない。だからお母さんの言いつけを破ることにはならない。
そう言い聞かせながらドアを開き――立ちすくんだ。
窓のカーテンは開け放されていて、月の光が差し込んでいた。その白い明かりに照らされて、ぼくが使わなくなったものたちが目に飛び込んできた。
あらゆるものが動いていた。ミニカーが走り、メリーが回り、絵本が蝶のように飛んでいる。
「え……なにこれ……」
ぼくの小さな独り言に、みんなが一斉にこっちを向いた。びっくりというか、あっけにとられている顔をしている。顔のないおもちゃまで、目を見開き、口をぽかんと開けているように見える。
「なにやっているんだ! 早くドアをしめろ!」
足元から聞こえる声におどろいて、ぼくは考える間もなくあわててドアを閉めた。
みんながほっとしたように再び動き出す。
「ここに来るのはいいが、見つからないようにしてくれよ。捨てられたらたまらないからな」
足元を見下ろすと、見慣れた白猫が二本足で立っていた。
「ミルク! 会いたかったよ!」
抱き上げて、抱きしめて、頬ずりをした。
「おい、やめてくれ、くすぐったいじゃないか!」
腕の中でミルクが身をよじる。首の鈴が音をたてる。
「あ、ごめん」
ぼくはそっとミルクを床におろした。ミルクは器用に体をひねり、全身をなめて毛並みを整えている。まるで本物の猫みたいだ。
納戸に入ったときに動きが止まっていたみんなは、いまはもうそんなことは忘れたかのように元気よく動き回っている。ロボットや恐竜のおもちゃはベビーベッドで飛び跳ね、色とりどりのミニカーは壁沿いをぐるぐる走り回ってレースをしている。
さっきはどうやら人間であるぼくが来たことよりも、ドアが開いていることに驚いたようだ。
「あっくんも一緒に遊んでみないか?」
ミルクがクイッと顎で差した先には、窓からの月明かりに浮かび上がる大きな回転木馬があった。大人ふたりが腕を回しても届かないくらい大きい。そうやって大きさを測っているのを見たわけではないから、本当はもっと大きいのかもしれない。上には、パラソルみたいな屋根がついていて、その下では、きらびやかな鞍をつけた馬や、細かな彫り物がしてある馬車がくるくると回っていた。
かすかにオルゴール曲が流れている。
ぼくが生まれたお祝いにおじいちゃんが贈ってくれたものらしい。どこか遠い国の職人さんの作ったものだと聞いたことがある。
学習机を持つ前は、この回転木馬のオルゴールがぼくの部屋の真ん中に飾ってあった。土台の横についたネジを回すと曲が鳴って、木馬が回りだす。ミルクを抱いてベッドに腰かけ、ずっと眺めていた。
懐かしくなって、もっとネジを巻こうとしてかがみこむ。すると、ミルクが「ちがうちがう」と、ぼくのパジャマの裾を引っ張った。
「あっくんも回転木馬に乗ってみないか?ってことだよ」
よく見れば、キャラクターがプリントされたタオルや、動物の顔をかたどったクッションが馬の背に乗っている。手足がないのによく落ちないものだ。
屋根のてっぺんはぼくの頭と同じくらいの高さだけど、さすがに中にある木馬に乗るのは無理だ。
「とっても楽しそうだけど、ぼくには小さすぎて乗れないよ」
「なに言っているんだい。相手に合わせてもらおうと思うなよ。あっくんが小さくなればいいだけさ」
「そんなことできるわけないだろ」
「ああ、まったく! どうしてそうすぐに決めつけるんだ! ここをどこだと思ってる? 真夜中遊園地だぞ。入園した者みんなが楽しめる遊園地さ! だから遊びに来たんだろ?」
「ちがうよ。真夜中遊園地なんて知らない。ぼくはただ、ミルクに会いに……」
言いかけて、ふと気づいた。会いたかったのはぼくだけじゃないかって。ミルクは歓迎してくれるけれど、ぼくのことを待っていたわけではなさそうだ。それは少しほっとして、少し寂しいことだった。
みんなのはしゃぐ声が飛び交っていて、ぼくの言葉はミルクに届かなかったようだ。ミルクはぼくに返事はせず、部屋の隅にあるもう一つの木馬の脇に立ち、馬の背中をぺちぺち叩いた。揺り木馬だ。これはいまのぼくでも乗れる大きさだが、名前の通りその場で前後に揺れるだけだ。回転木馬とは大きくちがう。
「これだよ、まずはこれに乗ってくれ」
「これは回転木馬じゃないよ」
「そんなことはわかっている。ものごとには順序ってものがあるのさ。楽しみたいなら乗るべきだと思うね」
「わかったよ。乗ってみるよ」
ぼくと離れ離れになってもちっとも寂しそうじゃないミルクに少し腹を立てながら、おそるおそる揺り木馬にまたがった。かなり丈夫に作られているらしく、六年生のぼくが乗っても軋みひとつ聞こえない。体を前後に動かして、木馬を揺らす。
ゆらゆら……ゆらゆら……
ただ揺れているだけなのに、笑いがこみ上げてくる。本の蝶たちが頭の上を飛び回る。
ぱたぱた……ぱたぱた……
ゆらゆら……ゆらゆら……
だんだん力が入らなくなってきて、うまく揺らせない。そしてついには止まってしまった。どうしたものかと思っていると、ミルクがぼくの手を取って揺り木馬からおろしてくれた。
「……え?」
景色が変わっていた。目の前にミルクがいた。足元じゃなくて、目の前にミルクの顔があった。
あれ? ぼく、ミルクと同じくらいの背丈になっている……?
天井が高くなり、納戸が広くなったように見える。おもちゃたちはさっきよりずっと大きい。ぼくだけが小さくなった。
「気分はどうだい?」
ミルクがにやりと笑う。
「なにがどうなっているんだか……」
「ひと揺れごとに小さくなったのさ。少しずつだったから気づかなかっただろう? さあ、これで回転木馬に乗れるぞ」
ミルクはぼくを栗毛の木馬の背に押し上げると、自分は隣の白馬にひらりとまたがった。
木馬は上下に揺れながら回っていく。オルゴールの曲に合わせて周りの景色が流れていく。
くるくる……くるくる……
木馬はどれもちがう早さで上下していて、隣のミルクとぼくも上になったり下になったりしながら回る。
くるくる……くるくる……
回る景色の中で、本が飛び、ミニカーが走り、ベッドメリーが回り、モービルが揺れる。ラトルがリズムを刻み、ロボットや恐竜が飛び跳ねる。ここではみんな好き勝手に動き回っている。とても楽しそうだ。
隣を見るたびに高さの変わるミルクに、ぼくは話しかけた。
「ミルクはぼくといるより、ここにいる方が楽しいの?」
「なぜ比べるんだい? きみと過ごした日々も楽しかったし、今夜だって楽しいさ」
「ぼくはミルクがいないとさみしいよ」
「なら、また遊びに来ればいい」
「でももう来られないかもしれないんだ。ぼくは男の子だから、大きくなるとミルクと遊んじゃいけないらしい」
「なんだい、それはまた妙な決まりごとだな。守らないと誰かが楽しめなくなるのかい?」
「さあ? そんなことはないと思うけど……」
「それならそんな決まりごとは無効だな」
「ムコウ?」
「なし、ってことさ」
「……それでいいのかな?」
「さあな。のぼって、おりて、回っても、誰も回転木馬から落ちたりしない。どれだけくるくる回っても、きみはきみのままだ」
「そんなの、あたりまえじゃないか」
「そうさ。あたりまえさ。きみという大きな囲いから出なければ、どう動いても構わないってことだろ? ここでこうしてみんなが動き回っていても、おもちゃでなくなるわけじゃない。真夜中遊園地は自由なのさ」
「遊園地の話をしているんじゃないよ」
ぼくがそう言うと、ミルクはふんっと鼻を鳴らした。
まるでそれが合図だったかのように、回転木馬の動きとオルゴールの曲がだんだんとゆっくりになって――止まった。
おもちゃたちは昼間いた場所に戻って静かになった。
窓からは月明かりが去り、朝焼けが見えている。もうすぐ朝日が差し込むだろう。
木馬に乗ったまま、ミルクが差し出した右手を握る。ふわふわして気持ちがいい。
「猫の手がいるときは、この鈴を鳴らしてくれ。すぐに駆け付けるから」
「うん。ありがとう」
固い握手を交わしたあと、ぼくはミルクの手を借りずにひとりで木馬からおりた。
ミルクが白馬からひらりとおりて、言った。
「さあ、朝が来る。閉園だ」
☆
目覚まし時計が鳴る前に、ぼくはひとりきりのベッドで目覚めた。
ミルクと会いたいときは会おう。一緒に出かけたいときは出かけよう。いけないことなんてないんだ。ぼくは男の子だけど、大きくなっていくけど、ミルクとは友達でいたい。
掛け布団をはいで起き上がる。
カーテンを開くと、朝が来ていた。
開いた手の中で、小さな銀の鈴が朝日を受けてきらめいた。
*おしまい*
ひだまり童話館 第15回企画「くるくるな話」参加作品です。