二章 同魂の双子 1
二章 同魂の双子
1 二〇二四 葉月―初
八月上旬、お盆休みにはまだ少し早いくらいの蒸し暑い時期。
僕は柄にもなく興奮気味に、先日の体験について話していた。
夕陽も沈んだ夜の入り口。ワーキングチェアーとソファーに座って仕事をする二人の女性のBGMとして、僕の口はせっせと貢献し申し上げている。まさに、BGMさながらに興味を示してもらえない悲しさについては、舞い上がっる今の僕には、何ら気になるものではなかった。
そんな僕の中での特ダネニュースは、夏真っ盛りには定番も定番。思い出すだけで気も踊る、嘘のようで間違いなく本当の、つい二十四時間前の出来事だった。
つまりは昨日だ。昨日の夜遅く、僕が唯花の家から自宅までの帰路を歩いていたときのこと。書類整理の仕事を、夜行性の唯花に付き合って片付けていたら、そんな時間になってしまったのだった。
昼間にはうるさい蝉の声もなく、街灯もまばらな道を僕は一人で進んでいた。怖いなんて少しも思ったりはしなかったが、それでもできるだけ早く家に辿り着きたかった僕は、いわゆるショートカットを試みた。以前に街の大きな病院を訪れた際、付近の公園を突き抜けるといい感じのルートを描けると分かっていたのだ。
そうしてその公園に踏み入ったとき、僕はこの歳になって初めて、背筋の凍る感覚を味わった。寒気というのだろうか、恐怖というのだろうか。さらに加えて、そのどちらにも当てはまらない強い衝撃を、このときの僕は感じていた。
それは言うなれば、途方もない違和感だ。ただ純粋に、何かが現実とそぐわないことを知らせる凄まじい違和感。
おかしな感覚を脳天に受け、意識が麻痺する中で僕は、両眼の視点を正面に合わせる。
僕の視界の中心にいたのは、淡い月明かりに照らし出された少女であった。見た目には中学生くらいであろうか。異常なほど細く長く、膝まであろうかというほどの黒髪。それがさらさらと夜風にはためいていて、なおかつ白いゆったりした服をなびかせ、ぼんやりと揺れるように振り向くそれは、僕の知識と良く良く重なる“幽霊”の姿そのものだった。
どちらかといえば僕は、そういった迷信は信じないタイプの性格だが、実際に目の当たりにしてしまうと考えは揺らぐ。どこまでも論理的かつ理性的な現実においても、もしかしたら自分の前にだけ不思議な現象というものは起こるのかもしれない。超常現象的展開が存在するのかもしれない。そんな風にも思ってしまう。見たこともないほど儚げな少女の前で、僕はありがちな非合理思考に囚われていた。
眼球から飛び込む情報の処理にいささか不具合が生じ、口を開けたまま立ち尽くす。
動かぬ僕を見兼ねたのだろうか。少女は弱く、言葉を発した。
「……こんばんは。どうか、したの?」
声を耳にして、僕はとても驚いた。客観的にとらえれば、携える容姿に相応な若く高い声である。しかしながらその雰囲気に内包され、とても無視することのできない強い印象として抱いたのは、限りなく深い妖艶だった。
端的に言えば魅力である。ただし単純に可愛らしいとか綺麗だとかいう意味のものではなく、文字通り人を魅了する力のこと。人を魅せ、虜にする力だった。
「え、ええっと! 別に、特には!」
僕の返答は、不自然なほど大声になった。動揺していたということもあるし、あるいはそうやって気を張っておかないと、よもや骨抜きにされてしまうような気がしたのだ。
「……そう。あなたも散歩?」
「き、帰宅の途中。何て言うか、バイト帰りみたいなもので」
「へぇ……そうなの。ところでお兄さん、私のこと、知ってたりする?」
月明かりに溶けこむ少女は、ただ周りの景色を見て佇むだけで、微動だにせず話していた。こちらには横顔を向け、閉じ気味な瞼を被った瞳だけを動かして僕をとらえる。その様子は実に、ミステリアスだ。
だからだろうか、少女の放つ雰囲気に当てられて、違和感に狂わされて、僕は次の発言にこんな言葉を選んでしまった。
「幽霊さん、かな……?」
冷静に考えればそんな物言いは失礼だし、想像力の豊か過ぎる人だと認識されておかしくない。初対面の異姓に対して向ける言葉では、決してないのだ。
でも僕は、このときばかりは信じ込んで、少し浮ついていたというのが本音である。僕の日常は既に壊れてしまったと、以前に唯花に言われた影響かもしれなかった。
そうして奇人扱いを覚悟するばかりとなった僕であったが、意外にもそれは少女の反感を買うことはなく、同時に会話の発端にさえなった。
「ふふっ。ああ、そう……お兄さんは、わかる人なの」
「え、嘘!? 本当にそうなの?」
「ええ、まあ。強運ね、お兄さん」
少女は僕の方を振り向く。相対する少女の姿は、幽霊だと思えばなおのこと、淡く儚くて、透き通って見えた。これで一瞬でも明滅して見えたなら、もう間違いなく怪奇の域だ。
まあ僕としては、強運でツイているよりもむしろ憑いている方だと思いもしたが、これはさすがに本人の前では言えそうにない。
僕らはふとしたきっかけで少しずつ言葉を交わし、取り留めもない雑談に自然と興じた。向こうの事情は知らないけれども、どうせもう夜遅いことに変わりはないし、僕としては多少油を売ったところで構いやしない。赤の他人と話すなんて普段なら気が乗らないところだが、幽霊は他人換算には入らないだろうという気分だった。
会話の中身としては、白い服は礼儀なのかとか、やはり髪は長くないといけないのかとか、どのくらいこの世界にいられるのかとか……僕はそういう、取るに足らないことを聞いた気がする。
少女によれば、服はこっそり出てきたから着替える暇がなかったからで、髪は長い方が雰囲気を出せるかららしい。そしてはやり、この世界にはそう長くはいられないようで、近いうちに期限がきたらいかなくてはならないとのこと。どうやら幽霊にも色々あるようだ。
「あのさ。お兄さんって……幽霊とか、そういうのが好きだったりするのかしら?」
「あ、いや……今までは、否定派だったんだけどね」
「じゃあ、本物を実際に目にして……怖くないの?」
「そうだね。君には色々と質問にも答えてもらったし、もう恐怖はあまり」
正直なところ恐怖は本当に感じなかったが、それよりも強い異質感は感じていた。やはり人ならざるものだけあって、さらにそれと言語による意思疎通を実現しているだけあって、不思議な感覚というものはどうしても拭えず僕の中にあった。
しかし、だからといって特にそれが不快であったかと問われれば、別にそんなことはなかった。その感覚をあえて無視するまでもなく、会話自体は興味も持てて良好だ。
空には煌々と輝く月。ぼんやりとした光は、周りの星々を見え辛くする。僕ら二人は少々広めな独特の距離を保ち、深い夜空を見上げて話した。
「ところで……せっかくの機会だから、今度は私が質問してもいいかしら?」
「え、ああ。うん、どうぞ」
相変わらず少女の方には、動作と呼べるほどの動きはなく、その心象はどうにも度し難い。けれども、進んで話題を提供してくれるということは、いくらかの好感は得ていると考えて良いのかもしれなかった。
「幽霊の私が聞くのも変だけど……もしお兄さんに、もうすぐ死がやってくるのよって言われたら、どう思う?」
そして、何だろう。最近の初対面の人との会話において、この類の質問の占める割合の多さといったら。あるいはもしかして、これが違和感の正体か? この少女もやはり幽霊だけあって、僕の現状を察知することができるのだろうか。
まあ、そんなこと口が裂けても聞けないけれど……。
僕は少女の質問に、ただ純粋に答えた。
「どうにかなるなら、それなりに抵抗するよ。好んで死にたいわけではないから。でも、もしどうにもならないのだとしたら、どうもしないよ。たぶんね」
「そう。潔いのね、随分と」
「あはは。何ともならないことも、この世界にはあるものだしね」
潔い、というのだろうか。全てを受け入れてしまえることを、少女はそうやって表現した。でもきっとそれは、もっと突き詰めて言ってしまえば、もっと的確に言ってしまえば……諦めが良いという意味の表現なのだ。僕は自分のことを答えたつもりなのに、そこにはどこか、他人事のような軽さを感じる。
ああ、そうだ。口に出してみて改めて実感する。僕の発言はまるで他人事のようではないか。
確かに僕のこの現状――僕が余命約二年を残して死に瀕しているという状況は、唯花がどうにかすると言ってくれている。いやに自信満々に、百発百中の契約を結んでくれている。何せ千年の経験則に準じた契約だ。
しかしその経験則を僕が信じるのも、比べれば幽霊を信じるのとあまり大差はないではないか。唯花には悪いが、実際にはこのまま僕の寿命が戻らずに死に至ることも、十分考えられる顛末である。僕はそういう事態も、ちゃんと想定しておかなくてはならないはずだ。
だから僕は、少女への答えの訂正と同時に、自分に向けての言葉として、続けて述べる答えを選んだ。無心でボーっと生きていても、最低限しなければならないと思うことが僕にだってある。
「あ、でも………待って。どうもしないって答えたけど、そこだけやっぱり言い換えるよ。きっと準備をする。死ぬ、そのための準備を」
「……準備?」
「うん。思い残すことがないように、人並みにはね。あとはそう、自分の死に、そして生に、意味があるように……かな」
口で語れば、大仰な言い方になってしまう。でも、それはいつか唯花に語った事柄とも関連していて……永遠に生きるわけでもなく、いつか必ず終わりを迎える人生なら、遅かれ早かれ考えなくてはいけないことだ。
少女は、僕の次なる発話を待っていたようだった。言葉少なに、それでもいささかの興味を示して、僕に主張の釈明を求めた。
「僕は、人生には意味があるんだって、そう思いたい。そうあってほしいって、願う。そしてたとえば、人の生に大きな意味を付与するのは、その死かもしれない。どう生きて、そしてどう死ぬか。人間にとってとても大事なことだ。小説でも映画でも、幕の引き方が大切なのと同じで」
少女は、ただ笑った。静かで涼しげな、笑みを零した。
「なるほどね、よくわかった。お兄さんって……面白いのね」
「面白い話をしたつもりはなかったけど……あれかな、幽霊になる心構えでも、試されたかな」
「あら鋭い。そんなところよ」
さすがにそれは冗談だったのかもしれないが、僕の話に少しくらいは満足してもらえたようだった。
夜空を仰いで目を細め、やがて通常の何倍もの時間をかけつつ、首を動かしてこちらを見る。双眼は僕を視界にとらえ、のちにまたゆっくりと閉じられた。
「素敵なお喋りだったわ。こんな話を真面目にしてくれる人は、そうはいない。でもごめんなさい。そろそろ私は戻らなきゃ」
言うと、少女はまるで浮いて滑るように歩き出した。僕らの距離は徐々にゆっくり縮まっていく。帰り道は、僕のきた道の方なのかもしれない。
「そっか。もう遅いしね。気を付けて」
僕は少女に同意を示し、別れの提案に承諾する。
一方、僕の帰り道は、少女の後方にある公園の出口だ。お互いが帰路に着こうとすると、一度交差して反対を行くことになる。
両者の間隔に反比例して、僕の心音は高まっていった。すれ違いざま、肩が重なるくらいすれすれの隣を行く少女に対し、僕はこの緊張が伝わらないようにするだけで必死だった。
だからだろうか。少女を真横にして聞いたこんな言葉は、非常に鋭く、僕の脳を貫くことになる。
「お兄さんこそ、悪い悪霊に連れていかれないようにね」
心の中の異質感と、この状況が作る夢幻性……そして少女に抱いた違和感が、絶妙に混ざり合って奔流する。瞬間、どうにも処理し難い感覚が僕の全身を支配する。
やがて少女が僕から離れて後方に立ったとき、さよならの代わりに再びこんな質問をした。
「あ、そうだ。最後にこれだけ聞いておくわ。お兄さんは自分の生に、そして死に……具体的にどんな意味を持たせるつもりなの?」
少女はきっと、振り返ってすらいない。
だから僕も、動くことなく前を向いたままで、質問に答えた。
「具体的に、か。……ごめん、それはちょっと……もう少しよく考えてみないと」
少女が歩いて行く足音が聞こえる。直前の質問よりも遠い場所から、消えゆく寸前の淡い声で、最後の感想が僕に届く。
「そっか。なら……本当に死ぬその時までに、見つかるといいね」
足音が完全に聞こえなくなってから、僕はゆっくりと公園を出た。
頭の中は、濁流の去ったあとのようにぐちゃぐちゃだ。理解の範疇を超えた出来事に出合うと、人はどうにも思考を投げ出してしまうのだということを、このとき僕は理解した。
そこから寝るまでの記憶は、この出来事と比較して印象が薄過ぎたためか、まったくといっていいほど頭に残っていない。
僕のBGMは、ここまでだ。早口で次々と語ったために、ものの十分程度だっただろうが、聞き手二人は既にほとんどの興味を失っていたらしかった。そのことに関しては、僕は一通り話し終わってから気付いたものだ。
「詞ってば……それで、その子が幽霊だって信じたわけ? 溜息が出るほど単純ね」
「年下の少女にからかわれるなんて、川澄くんは少々純情過ぎるのではないか?」
まったく、なんて否定的なコメントだ。非常に傷つく。特に二人とも、唯花はパソコンから、灯華さんは書類から一瞬たりとも目を離さずに返答しているあたり、その興味のなさは疑う余地がない。
「……反応が雑で、悲しいなあ……」
BGMはBGMらしく、一人でずっと喋っていればいいということだろうか。そりゃあもちろん、笑い話でもなければ役に立つ話でもない。聞き流していい話かどうかと問われれば、その答えには肯定を返すしかないのだが……。
だからといって、だ。
「灯華ー、詞が悲しんでるわよー? ちゃんと話、聞いてあげなきゃ」
「唯花こそ、面倒な事務作業は川澄くんにまかせっきりで、別に急ぎの仕事もないのだろう?珍しく積極的に話題を振ってくれているのだから、反応してやらないと怒られるぞ」
だからといって、これは二人とも冷たいと思う。
「おかしいなあ……話の中には、至極魅惑のキーワードが含まれていたはずなんだけど」
灯華さんは無理でも、せめて唯花の興味を引くくらいの自信はあったのに。にも関わらず、予想外のあまりに冷めた反応に、むしろこちらが驚いてしまうくらいだ。
「魅惑のキーワードって? 可愛い少女のことかしら?」
違う。唯花の感性はそんなものか。
「それじゃあまるで、僕が変な趣味の人みたいじゃないか!」
「何だ、違ったのか? 私もてっきり、キーワードと言えばそれしかないと思ったのだが」
灯華さんまで……この人の感性も、大概似たようなものだった。二人は、きっとそのあたりがどうかしているに違いない。
「だいたいですね。その女の子が可愛いとかいう話だったら、もっとそういう部分が際立つように話しますよ。だいいち、その少女が可愛かったかどうかということを、僕が今、一度でも問題にしましたか!?」
「でも、可愛かったのだろう?」
「それは……まあ……綺麗な子でしたけど……」
何だろう。灯華さんは、なぜかこういうところばかりが鋭い。女の勘か? だとしたら恐ろしい限りだ。
「詞ってロリコンなの? 確かにそういう趣味の人は一定数いるものだけどさ。まさか詞がねえ」
「僕はロリコンじゃないよ! 断じて!」
「せめてもっと早く言ってくれればなー。服装だけでもそれに合わせてあげたのに。私、可愛い系の服も多少は持っているわよ?」
「だから僕はロリコンじゃないって言ってるじゃないか! そんな気遣いは嬉しくないっ!」
唯花は唯花で、灯華さんに対する僕の返答から、とんでもないところまで思考を発展させたらしい。僕がロリコン? 本当に本当にとんでもない。それに、いくら唯花が服装だけを努力したとて、彼女にその類の属性は一生かかっても付かないだろう。
「みなまで言わせる気ですか。キーワードは“幽霊”です! 幽霊!」
実際のところ、さきほどの僕の話にそれ以外の特徴はない。このキーワードに気を回さずして、いったいどこに注目するのか極めて謎。二人は女の子の容姿に興味がいってしまったようだが、普通の人なら勘付くところだ。
「えー……。灯華ー、どう思う?」
「いや、でもなあ? 幽霊だぞ? この科学技術の発展したご時世に、よもやそんな心霊現象を真に受ける人がいるとは」
「そうよねえ。そりゃあ、むかーしむかしはそういう話を信じている人の方が大半だったけど……もう最近はねえ」
しかし相変わらず、彼女らの幽霊に関する興味は冷めていた。それはもう本当に、冷め切っていた。夢もロマンも、へったくれも何もない。
「……科学も所詮、宗教の一つのようなものなんですよ。あくまで人間が生み出した一つの思想の側面に過ぎないんですよ! 今更常識にとらわれるなんて視野が狭いです、二人とも! 自分たちだって十分、非現実的な立場の人間だって言うのに!」
どんな話であれ、自分の意見が信じてもらえないのは悲しいものだ。たとえそれが迷信めいた伝説でも、狂気じみたお伽噺でも。
ここまで言われてしまっては、僕もそう簡単に引き下がりたくはない。二対一で分は悪いが、僕にだって意地はある。
「僕もこれまでは、どちらかといえば否定派でしたよ。でもですね。あの雰囲気は特別でした。あの子のオーラから感じる違和感は、紛れもない本物だったと思うんです。昨日から残るこの不思議な感覚は、どうしても理性とは別物です」
必死だろうか、僕は。特に声を大にしているわけでも、身振り手振りに情熱を込めているわけでもないが、それでも訴えるような口調にはなっていた。
脳天から身体を突き刺すあの感覚、異質な気配は、疑いなく僕がこの世に生を受けて以来、初めてのものだったのだ。それがどんなものなのか、僕以外の他者にも知ってほしい。そして考えた末の他者の宛てが、この二人くらいしかいなかったということだ。僕が少しばかり諦め悪く語るのは、きっとそういう想いもあったのだろう。
百聞はどこまでも戯言だが、一見すればそれはたちどころに、疑いのない真実となる。この目で見てしまったからには、信じないわけにはいかないのだ。唯花たちにとって僕の言葉はやはりただの戯言でも、僕には語るくらいしか術がない。
こうして室内には、突然に物音がなくなった。唯花と灯華さんが作業の手を止めたのだ。二人同時に、僕の発言に合わせて止めた。僕の訴えが、ついに彼女たちの注意を引きつけたのかと、そう思った。
「いつになく真剣だな、川澄くん。そんなに言うのなら、そうだな……」
「灯華、もしかして気になったの?」
「ならなくはない、といったところか」
「まあ、そうね。キーワードとして、可能性はゼロではないわね」
察するに、何とか興味を引きつけたこと自体は確信して良さそうだった。けれども如何せん、この二人の阿吽の息にはついていけない。会話内容は、概ね僕にはわからなかった。
「ならば、うん。触れておいて損はないさ」
「でも、時期が時期だけに望み薄だけどね」
「時間は、関係あるものなのか?」
「どうかしら。ないこともないんじゃない? 慣れって意外と重要だもの」
やっと……やっとまともに会話に混ざってくれるようになった。
と思ったら、僕は一瞬にして蚊帳の外。何の意思疎通を図っているのかわからないけれど、いやむしろわからないからこそ、やはり間違いなく蚊帳の外だ。さながら、どうぞどうぞと誘ったものの、赤い布もろとも吹っ飛ばされた闘牛士のよう。
そこからも彼女らの会話は少々あったが、僕はすっかり割り込む機会を逸していた。ちょっとした首を突っ込む隙すら、見つけられなかったのだ。仕方ないから、飛び交う言葉を耳でひたすら追うばかり。かなり虚しい気分を味わう。
「ねえ詞、それで……って詞? 聞いてる?」
と、そこに、久々に僕へお声がかかったようだ。とっくに呆け始めていた僕は、唯花の言葉に後れをとる。
「こら詞。あほ面は美しくないわよ。言い出しっぺでしょう。しっかり聞いてて」
「いや、そりゃ話し始めたのは僕だけどさ……」
あほ面って……。
「でしょう? けど、さっそくその話の腰を折って悪いのだけれど」
「って、腰を折るなら言いだしっぺも何も関係ないじゃないか!」
話の腰を折る、と最初から公言するのもなかなか珍しいものだ。もう完全に明確に容赦なく、僕の話を乗っ取るつもりでいるらしい。
唯花は文句を受け付ける様子など微塵もなく、既にそのための一言目を紡いでいた。
「その幽霊の少女に感じた違和感について、詳しく話してみて」
そして突然、どうにも難しいことを言う。説明だなんてそんな……。
だいたい唯花は、その少女が幽霊だとは思っていないくせに。いったい何のための質問だろう。
「何それ。詳しくって言われても……違和感は、違和感だよ」
「だから、それはどんな違和感なの?」
「どんな……? うーん……まるでこの世のものではないような、超常的な感覚? 普通じゃない、みたいな?」
そもそも違和感とは、よくわからないけれど何かがそぐわない感じを表す言葉だ。厳密な定義は別としても、少なくとも僕はそういう意味で使った。説明は困難だということが、既にその表現の中には内包されていると思うのだが。
「詞って説明下手ね」
要するに、上手く伝えられない部類の感覚なのだ。だからこそこんなコメントをもらってしまう。仕方がないとはいえ、僕はそんな唯花に少しだけむっとした。いちいち言われなくても、別に説明が得意な自覚なんてない。
僕は何かを言い返そうとも思ったけれど、図星に返す言葉はない。言い訳選びに必死な僕の口よりも早く、次に唯花に声をかけたのは灯華さんだった。
「唯花、聞くならもっと直球がいいぞ。前置きばかりいくら重ねても、おそらく永遠に話は進まないだろう。君の悪い癖だ」
それは、暗に僕の理解力に見切りをつけた言葉だろうか。違うと願いたいところだが……ただし悲しきかな、それも事実。長話での唯花の前置きは長いし、彼女には無意識にでも真実を勿体つける癖があるようなので、今の灯華さんの助言はありがたかった。
唯花の方も「それもそうね」と言って言葉を選び直す。
「じゃあ詞、改めて聞くわ。その少女が遺失者の可能性は、あるかしら?」
けれども、僕はその質問に対して固まってしまった。
真面目な質問だというのはわかった。だが唯花の放つ言葉はときに、場所も状況も選ぶことなく、僕を非現実へ引きずり込む。ほんのわずかでも内情を知っている僕にとって、唯花と、そしてともすれば灯華さんの言動は、常にそういう意味を持っているのだ。
もしかすると唯花がいつも並べ立てる前置きは、聞き手のショックを和らげる効果を持っていたのかもしれないと、このとき気付いた。
「ほら、だから呆けるの禁止。どうなの、可能性は。あるの? ないの?」
そんな僕の心境を知るはずもない唯花が、質問への回答を急かしてくる。
「い、いや……それは……わからない。僕が感じたのは、何度も言った通り、違和感だよ。その中身まで詳しくはわからない。ただ単純に、普通からかけ離れていることしか、わからなかった」
「普通からの隔絶、ねえ……」
違和感。具体的に表現できない感覚だからこそ、僕はそれを違和感と呼ぶ。中身が何かわかったなら、その感覚には別の呼び名が付くはずだろう。
それよりも、唯花の質問を経た僕には、気になることが一つ浮かんだ。
「っていうか、相手が遺失者かどうかなんて、見ただけでわかるものなの?」
「わかるわよー。別に見なくてもわかるけど。私があなたに初めて話しかけたとき、あなたの遺失を見抜いたじゃない」
「ああ、そういえば……。でもそれって、唯花にだけできることじゃなかったの? 僕にもできるの?」
「あ~……うーん……。そうねえ……そうくるわよねえ。もういっそのこと、全部話した方が早いかなあ……」
唯花は、腕を組んだり人差し指を顎にあてたりしながら、様々な仕草で思考をする。僕の投げかけた質問は、思っていた以上に彼女を悩ませるものだったようだ。
回答を待つ方としては、その緩慢な動きにはじれったさが募るが、でもここは黙っていた方が良いだろう。下手に急かしても、小言が増えるだけで答えは遠のくばかりだろうし。
「ねえ灯華ー。いいかなー?」
「ん? お前がいいと思うのなら、いいのではないか?」
「そうねえ……」
思考を経て、相談を経て、唯花はまだ何かを悩んでいる。
「前に、私にしてくれた話だろう? あまり知られてはいけない話だったのか?」
「いや、そういうわけじゃないけど。単純に灯華はどう思うのかなーって。立場的に、色々思うところがあったりしないの?」
「川澄君ならば大丈夫だろう。それに、どちらかといえば私よりは、川澄くんの方が知る権利を持っている人間だと思うぞ。何せ、彼にとっては他人事ではないのだからな」
相談の内容は、やはりというか理解不能だが、それでも聞く限りでは僕に関わる話らしい。灯華さんはさておき、僕と唯花にとって他人事ではない話。それは以前と同じ推測の結果として、遺失に関する話だろうとわかった。
「ま、そうね。じゃあ説明してあげる。面倒だから先延ばしにしたかったけれど、でもこれも、いい機会なのかな」
考えるための姿勢を一通りとり、ようやく唯花の中で結論が出たようだ。ソファの上で居住まいを正し、僕を呼ぶ。話しながら歩き回っていた僕を、向かいのソファに座らせた。
「説明って何? 難しいこと? あまり複雑な話は得意じゃないんだけど……」
「何よー、せっかく人が面倒なのを我慢して、話してあげるって言ってるのに」
「うん、それはとてもありがたいけど……。でも、面倒って……身も蓋もない言い方だね」
「だって事実面倒なんだもの。できるだけ簡単に話すつもりだけど、私にだって限界はあるわよ」
「が、頑張ります……」
「そうね。頑張って理解できるのなら、その方がいい。知っておいて損はないことだわ。特に、私や灯華といる場合にはね」
どんな話が飛び出してくるのかと緊張しながら、僕は「わかった」と頷いた。
唯花は「まあ、詞なら大丈夫よ」と笑ってくれたが、実際のところはどうだろう。彼女は僕のことを過大評価しているようにも過小評価しているようにも見える。とにかく僕は、できれば彼女の期待を裏切りたくはない。
「それじゃ、まずは基本的なことね。この世界にある全てのものに言えることなんだけど、それぞれにはそれぞれの“器”があるのよ。その存在に対して大きくも小さくもない、ぴったりのサイズの器がね」
「う、器? いきなり……抽象的な話だね」
「いいから、我慢して聞く! で、その器っていうのは、それがこの世界に存在して得ていくものの大きさに合わせて、変化していくの。過不足なく丁度良くね。例えば灯華の場合は……灯華が生まれて、お勉強して賢くなったり、色んな感情を味わったり……そうやって得たものを、ぴったり収めることのできる器を持っているわ。もちろんそれは灯華だけじゃなくて、この世界のほぼ全ての存在が、そうなんだけどね」
続く話も、繰り返すまでもなく抽象的だった。想像力の要求される話だ。僕が難しい顔をする横で、話の引き合いに出された灯華さんが、これまた微妙そうな顔をしている。
どうやらこの話での器というのは、器量とか度量とか、そういった意味のものではないらしかった。単純な入れ物ということだ。とすると、生きてそこに収めていくものというのは、人の場合ならば記憶とか感情とか、そういった類のものだろうと思う。
「でね。その“ほぼ全て”に含まれない存在はというと……?」
「えっと…………僕、たち?」
「そうね。よくできました」
唯花と、そして今や僕も属する遺失者というカテゴリは、ことあるごとにこの世界では例外的なポジションのようだ。それは一般とはかけ離れた非日常のものであり、非現実的なものであり……ゆえにどこまでも異質な存在なのだろう。
未だ僕に遺失者としての自覚が生まれていないことは、きっと唯花にも見抜かれていることと思うけれど……だとすればこの話は、そんな僕への助言であり、さらにあるいは警告でもあるのかもしれなかった。
「そんな私たちが、普通とどう違うのかというとね。その器に違いがあるのよ」
「でも器って、個人によって様々なものなんでしょう? 違うのは当然じゃないの?」
「えっとー……器そのものじゃなくて、状態に違いがあると言ったほうがいいかな。器は人それぞれ違っても、皆々ぴったり満杯だって言ったでしょう」
「つまり、僕たちの器はそうじゃないと?」
自身の持つ想像力と、順応性と、理解力を、ほとんど限界まで用いないとついていけない。特に僕という人間の感性は、このステレオタイプな現実という枠組みにどっぷり浸かって囚われているために、その方面の努力はよりいっそう必要だった。
「そう。私たち遺失者の器は、満たされていないの。隙間があるのよ。ぽっかりと空いた、空白が」
「でもそれも、余裕があっていいと思うけどな。僕は」
「机の引き出しじゃあないのよー? 詞の頭の中みたいに、スカスカのからっぽでいいわけじゃないの」
な、何て言われようだ。スカスカ空っぽはさすがにひどい。余裕を好むかぴったりを好むかは、服装の趣味のようにそれぞれ価値観が分かれるところなのに。どちらが優れているとも言えないはずなのに。
「この器に関しては、今みたいな考え方はダメ。必ず丁度。それが一番安定なの。だいいちその余裕だって、本当は持っていたはずのものを失くしてしまって、それで生まれた空白なのよ?いいわけないじゃない。器という概念について、満たされた状態から見たら、超過も不足も相対的には不安定。良くない状態と言えるわ」
まあ、遺失者の器が超過だなんてことはないんだけれどね、と最後に唯花は一言付け足す。
「えっと……とりあえず、僕たちの器は不足状態というわけだね。でも、不足していて不安定だと、その先いったいどうなるの?」
「不安定な状態のものは、安定な状態を目指そうとする。よくある物理法則なんかと同じよ。学校でそういうの、習わないかしら?」
水は高いところから低いところへ流れる、みたいなもののことだろうか。あるいは、唯花の言った法則はもっと別のもののことかもしれないが、僕にはこれくらいしかぱっと浮かばない。でも、別にいいだろう。
気になれば確認をとれなくもないが、またけなされそうなのでやめておく。
「と、とにかく。不安定な器は、安定を目指すんだね。でもそれって、具体的にはどういうことなの? もしかして、放っておいたら失くしたものを見つけ出して、ぴったりな器に戻るんじゃない?」
「運が良ければねー。でも、自分の失くしものって、不思議と自分じゃ見つけられないものなのよねー」
唯花は「あははー」と朗らかに笑っていた。
確かに、自分で失くしたものって、なかなかどうして簡単には見つからない。人に探してもらうとすぐ見つかっても、自分一人ではいつまでも見つからない。そういうことは、ままあるものだ。気持ちとしては、わからなくもなかった。
「まぁまぁ、それはさておき、ここからが大事よ。いい? しっかり聞いてね?」
そして、本件は今から山場のようだ。
これ以上の思考が僕に可能かどうかは疑問だが、しっかり聞けと改めて釘を刺されては無視もできない。一応は頑張って聞くとしよう。
「空白のある欠けた器は、失くしたものを取り戻そうとするわ。その、失くしものを求める気持ち、心の鼓動は、“共鳴”するのよ」
「……共鳴?」
「不安定な器から出る波動。それは、同じく不安定な器にだけ感知できる特殊な波動なの。安定した器には感知できない、共鳴波。詞の言葉を借りて表せば、つまり違和感よ」
これを聞いて、僕は思った。唯花の口から出る話には何度も抱いた感想だが、それはもう突拍子もない話だと。
だがしかし、直後には納得していた自分がいた。少しだけ驚いたのは事実だが、その驚きさえも瞬時に引いていったのだ。
失くしてしまった悲しみ、辛さ。そして、それを取り戻したいと願う心。何も失くしていない人には理解のできない、失くした人にだけわかる、悲嘆。
そういう意味では、共鳴というのもあながち有り得ないことではないのかもしれないと、僕には思えた。
「詞、オーケー? 理解できた? できたのなら、最初の質問に立ち返るのだけれど」
理解は、できた。全てではなくとも、八割くらいは。もしかしたら僕が当事者なだけあって、感覚的な面での把握が先行し、それが頭での認識を補佐してくれたのかもしれない。
「うん。昨日の少女についてだね。どうかな……今の話を聞いて、もしかしたらっていう気もするけれど……」
「まあ、そんなところよね。やっぱり、確信にはほど遠いのかしら」
……う、そりゃあ、会ったときはそんなこと知らなかったし。ただでさえ曖昧な感覚を思い出しながら審議するというのは、非常に困難な作業だ。今この瞬間、少女は僕の前にいないのだから。
僕が座って悩み続ける一方、唯花はパッとソファから立ち上がって伸びをした。小難しい説明をして、彼女の身体も固まったようだった。
結局のところ、確実に確かめるには、昨日の少女自身にも確認が必要になるわけだし、これ以上はどうにもならないわけか。せっかく難解な説明を理解したのだから、少し実践をしてみたいと思わなくもなかったが……。
いや、待てよ。唯花の説明によれば、あるいは……。
「ねえ唯花。共鳴って、遺失者同士なら、誰でも起こり得る現象なんだよね?」
「ん~? そうだけどー?」
「じゃあ、僕が唯花から何かを感じるかどうかで、確かめることができるんじゃないの?」
「あー、まあねー。何~? 詞は、私から何か感じるのかしらー?」
ストレッチをしながら歩き回る唯花は、僕の質問に興味を示した。
そうして今度は、バフッという音が出るくらいの勢いで、僕の座っているソファにダイブする。
瞬間的に僕は横へずれたのだが、このソファは三人掛け程度の大きさだ。唯花が寝そべればスペースをとられ、必然的に僕は端の方へ追いやられる形になる。
「っふふ。どう ?感じる? 私から何か、感じるの?」
「ちょ、ちょっと……狭っ……」
「逃げちゃダメよ~。大事な確認なんだから~」
下から僕を覗き込み、上目遣いで迫ってくる。あまつさえ、彼女の手が僕の頬に伸びてこようとしたときは、さすがに驚いてソファから飛び退いたものだった。
唯花は冗談のつもりだったろうが、こっちは到底そうもいかないのだ。理由はもちろん、そう、恥ずかしいから。
「あ~ん、詞の意地悪~」
「こ、怖い怖い。変な誘惑はやめて」
「怖くないわよ。ほらほらー、近くにいた方が分かりやすいかもしれないでしょー?」
「手が怖い、動きが! あと目も! 灯華さん、ちょっとこれ、止めてください」
おかしい。まっとうな質問をしただけのはずだったが、唯花に変なスイッチが入ってしまったみたいだ。
でも、僕のできる抵抗は逃げることくらい。度の過ぎた悪戯の制止は僕には無理だし、ここでは是非、灯華さんの助け舟を期待したかった。
「何だ。女体は嫌いか?」
っておい! ダメだこの人! いやむしろ、この人もダメだ!
そもそも灯華さんに助けを期待したという点で、駄目なのは僕の方だろうか。でも、ここには他に人がいないし……。
雰囲気的にはもはや貞操の危機すら感じる。唯花の洒落は、僕には洒落程度で済まないことが多過ぎる。
「あら、私から逃げようなんて、愚かよねぇ……」
そう広くもない室内だ。ソファから離れようとも、ものの数秒で僕は退路を失った。部屋の隅に追い詰められ、パシッと手首も掴まれて、唯花の顔は目前まで迫った。目を瞑ろうにも、それはそれで怖いものだ。妖艶な笑みとともに近づく彼女を視界の中心にとらえ、髪の香りも、睫毛の本数まで分かるくらいに接近する。
いったい全体、何の冗談だ。あまりにも唐突でついていけない。
「あの……こ、これ……ギャグにも洒落にも、なってないんだけど……」
今の僕には、唯花の顔しか見えるものがなかった。白い肌も、黒い瞳も、ほんの数センチ足らずしか離れていない。
「ギャグでも洒落でもないのだから、逃げるなんて失礼だわ。集中して。どう? わかる?」
「まずは、離れてよ。これじゃあ、わかるものも分からないって……」
集中ったって、こんな状況ではそんなの無理だ。確かに神経は研ぎ澄まされているけれど、それはどちらかと言えば別の部分。触覚に嗅覚に……他にも色々。それらが彼女から受ける刺激に対し、無視なんて到底できるはずないのに。
「唯花、離れ――!?」
と、二度目の抗議をしたそのときだった。
瞬間、脳天から貫くような感覚が、僕の身体の全体に走る。鮮やかに強く、そして鋭く。僕が昨日感じたものと、それは同じか、似たものか。あるいは似て非なるものか。しかしとにかく、日常では感じることのない異質な衝撃を、今まさに感じ取ったのだと分かった。
心が直接反応する。揺さぶられ、鳴り、引き合う。強烈なまでの呼応が、二つに重なって僕に届く
「あ――。わかる――。唯花……それに……」
そんな共鳴という現象に、神経の制御を奪われてしまったのだろうか。僕は、さきほどまで離れてと言っていた唯花を見つめ、握られていない方の片手を動かし、そっと彼女の頭へ回す。
僕が触れたのは目の前に凛と咲く、かんざしだった。
「へぇ……本当、かあ」
吐息すら感じる距離に、唯花はいる。彼女がそう呟いたのが、僕に聞こえないはずはなかった。
唯花は近づけた顔を少しだけ離し、かんざしに触れる僕の手に、そっと手のひらを重ねてくる。
「灯華、間違いないわ。詞はもう、こんなにも早く、遺失の共鳴を感じ取れる」
唯花が灯華さんにかける言葉は、その声色は、さきほどまでの悪戯半分な声とはまったく異なるものだった。艶やかという点で似てはいても、今の真面目な声の方が何倍も何十倍も、深く落ち着いていた。
対する灯華さんの様子も、阿吽の呼吸で真剣な口調だ。
「そうか。実に優秀じゃないか。川澄くんは」
「そうね。例の子、探してくれないかしら?」
「ああ。任されよう」
灯華さんは、備え付けられたデスクトップのパソコンを起動し、機敏な動きで何かの作業に取り掛かった。
しかしながら、そんな様子がわずかばかり気にはなったものの、僕の注意は未だに唯花の頭上に注がれていたのだった。
「唯花、これ……。本物の花……?」
「スターチスの花。可愛いでしょう? 以後、お見知りおきをお願いするわ」
「スターチス……? 花が……人じゃないのに、どうして」
「あら、遺失が人に限られる現象だなんて、そんな話はなかったわよ? 確かに稀ではあるけれど、花だって何かを失くすことはあるのでしょう。私たちと同じように、生きているのだから」
僕が感じた衝撃は、二重だった。その正体のうち一つは、もちろん唯花。そしてもう一つは、どうやらこのかんざしということらしい。
花がその器から何かを失うなんて、飛び抜けた話の中でも、一際奇怪なことだろう。それはまるで、花にも心があるかのようだ。感情が、あるかのようだ。
「まあ、詞がこの花のことを作りものだと思っていたとしても、無理はないわ。だってこの子も、私と同じなんだもの」
「うん。悪いけど、てっきり造花なんだと思っていたよ。まさか本物の花だなんて……驚いた」
いつも唯花の頭の上で、煌びやかな桃色を放っている小さなかんざし。アクセサリーなのだから当然、常にその咲時のように大きく花弁を開いているのだと思っていた。満開の花を模して造られてのだと思っていた。
でも違った。
「唯花と同じってことは……その花も……?」
「おそらくね。どのくらい私と一緒にいるかは、もうあまり覚えていないけれど……でももう、かなり経っているわ。そして私は一度も、この花が枯れたところを見たことがない。今までずーっと咲き続けている」
「そう、なんだ。以前の唯花の話に頷いておいて、おかしなことだけれど……よもや信じられないよ」
僕の感想に唯花は笑いながら「別にいいのよ」と言ってくれた。そしてまた「じきに慣れるでしょうから」とも言ってくれた。
彼女は僕の前でかんざしをとり、胸の前に両手で持って優しく続ける。
「とにかくね、そういうわけだから私は、この子をとても気に入っているの。気に入っていること自体は前にも言ったと思うけれど、理由は初めて教えると思う。理由はもちろん、この子が私と同じだから。この世界で唯一、私と同じ道を歩む存在だから」
「それは……永遠に生きるという道?」
「ええ。この子とはね、ずっとずっと一緒にいるの。私は今まで長く長く生きてきて、それなりに親しかった人は何人もいたけれど、その誰とも、ずっと一緒にはいられなかった。数十年かしたら、すぐに別れなきゃならなかった。みんな私よりも先に逝ってしまったから」
胸元の小花を見つめて話す彼女の顔は、わずかに下方へと向いていて、俯いて見えた。慟哭を露わにするというわけではなかったけれど、それでも何か、少しばかりの寂しさのようなものを漂わせ、そこはかとなく自虐的な笑みまで浮かべた。
もちろん普通の人間は、時間が経てば老いて死ぬ。それはこの世の常識であり摂理であり、反する唯花の想いは身勝手な寂寞だ。彼女自身も分かってはいるのだろう。心境はとても複雑そうだ。
「まあ、私の方がおかしいんだから、寂しいなんて言えないけどね。でもそんな中で、この子だけはずっと一緒にいてくれるの。想い入れっていうか仲間意識っていうか……大切に思ってるの」
悲愴的な言葉の中に、ひとしずくの慈愛が感じられる。目尻を下げ、落ち着いた彼女の笑みは、儚げで美しかった。
けれども僕は、唯花にはそんな笑顔なんて似合わないと思うのだ。本当なら、僕がここで気の利いた言葉でもかけて、彼女をいつもの満開の笑顔にしてあげたい。そんなことができたら、きっとすごく格好良い。
でも、何と声をかけたらいいのだろう。僕は情けなくも迷ってしまう。
「………………」
言葉が選べず、沈黙するしかなかった。
「っと、それはいいのよ。脱線脱線。話を元に戻しましょう。さすがは私の助手ってところよねー。有能かつ順応性に溢れる詞は、偉いわよ!」
そして僕が頭を悩ませている間に、彼女は自ら沈黙を破ってしまった。
明るい唯花に戻ってくれて嬉しい反面、少しの後悔も心の中に滲んで残る。
「いや……うん。って、あれ? それ、僕を褒めてるんだよね? 自画自賛じゃないよね?」
「やぁね。両方よ、両方」
唯花はもう、とっくに気分を入れ替えたらしく、軽快な口調と仕草で対応した。とはいえ、今のはやっぱり、さりげなく自分のことも褒めていたのか。なんて人だ。
対して僕は、即座に反論をした。面倒でも、ここは突っ込んでおかなくてはいけない。唯花の自画自賛をスルーしたりしたら、今後から事あるごとに自分を褒めそうだ。それはきっと、大いに癪に障るに違いない。
でも唯花は、僕の言葉など気にもせず華麗に受け流す。かんざしを元に戻し、くるっと回れ右をしてソファに戻った。
それを見て僕も、溜息をつきながら、彼女と向かいのソファに腰を掛けることにする。呆れて、疲れて、安堵して……ついたのはそんな溜息だった。
数分して、灯華さんからさきほどの件の報告が返ってきた。
「二人とも、もう話はいいのか? というか、むしろ少し待たせてしまったか」
その声に、僕と唯花は揃って視線を灯華さんに移した。
「いや、久々に例のデータベースを覗いたものだから、ちょっとばかし時間をとられたよ」
「例のデータベースって、何です?」
「灯華は、自治体の管理するデータベースの閲覧権限を持っているのよ。それで……わかったの?」
な、何だって? それって個人情報じゃないか。プライバシーとかはどうなるんだ。
「ああ、わかったよ。川澄くんの話に出てきた少女だが、やはりというかもちろん、幽霊ではなかったな。街の病院の入院患者のようだ。実在する人間で、年の頃は中学三年といったところか。入院は長期に渡っているそうで、この夏でもう一年と半年になるらしい」
個人情報、プライバシー。どうなるも何も、駄々漏れだった。逆に言えば、そういう権限を持っている灯華さんがすごいということになるのかもしれないが……僕もあれで調べられた形跡があったりしたら、嫌だな……。
「ふ~ん。そこって、私が詞に初めて会ったところ?」
「だと思うぞ。ならば、場所はわかるな? 近いうちに行ってきたらどうだ」
「だってさ、詞。明日、行こっか」
「え、明日? また随分と急だね」
唯花に初めて会った病院というと……あそこか。一度だけ診察を受けた記憶がある。
でも結局何も解決しなくて、無駄足だった。というかそもそも、診てもらう必要なんてなかったわけだけれど。
あれから経過観察になったものの、唯花と出会ったのもあって、二度目の診察には訪れていない。初診の次の週にまたくるよう言われていたような気もする手前、ちょっと顔を出し辛いものがあるけれど……。
「早い方がいいじゃない。どうせ暇なんでしょう?」
唯花にこう言われてしまっては致し方ない。実際のところ確かに暇だし、返す言葉も特になかった。
僕の曖昧な了承により、この計画は決定となる。
しかし、一度会ったとはいえほぼ初対面の人のお見舞いに行くなんて初めてだ。いやそもそも、ほとんど面識のない人の見舞いに行くということ自体が、一般的にはかなりのレアケースだろう。唯花に気負いなどはないのだろうが、僕は正直なところ不安だった。
それでもまあ、何だかんだで行くのだろうけど。
決定となった今となっては、もはやその件は話題から退き、唯花と灯華さんが楽しそうに雑談をしている。部屋では二人の声だけが聞こえていた。灯華さんはパソコンなど久しぶりにつけたものだと言い、唯花はメンテナンスがどうのこうのと文句を言うのだ。
まるで本当の親子のよう、あるいは姉妹のようにも見えるものだな。僕は何となく二人の姿を眺めていて、無意識にそんな感想を抱いてみる。
やがて宵の景色は闇夜に変わって、太陽は月に置き換わり、唯花をマンションまで送り届けてその日は終わった。