39 もうひとつの最終回(おジャ魔女どれみドッカ~ン!)
「おジャ魔女どれみ」シリーズ20周年を記念したスピンオフ的な映画が公開されました。
そのCMを見て、ベストエピソード放送があると知り、どうにも書かずにはいられませんでした。
「鷹良箱」を始めた時から書きたかったものの1つなので、いいきっかけになりました。
愛が溢れているので、ちょっと長いです。
2020年11月13日から、「魔女見習いをさがして」というアニメ映画が封切られました。
これは、1999年2月から日曜朝8時半放送枠(今のプリキュアの枠)で放映された「おジャ魔女どれみ」の20周年記念として、「どれみ」を見て育った3人の女性の物語だそうです。
この映画を記念して、「どれみ」シリーズのおジャ魔女どれみ ベストセレクションというのをスカパーの東映チャンネルで、5話ずつ3回やってくれるそうです。
その中に、「鷹良箱」第16回で触れた「きれいなお母さんはスキ?キライ?」が入っています。
「どれみ」シリーズは、4年間にわたり放映され、それぞれのテーマは
「おジャ魔女どれみ」(通称「無印」) 魔女になるための試験に合格
「おジャ魔女どれみ#」 魔女の赤ちゃんハナを育てる
「も~っと!おジャ魔女どれみ」 魔女界の元老院メンバーに認められる
「おジャ魔女どれみドッカ~ン!」 先々代の女王の呪いを解く
でした。
その後、OVAで
「おジャ魔女どれみナ・イ・ショ」 (「も~っと!」の時期の物語)
がリリースされています。
ものすごくざっくり言うと、
告白する勇気をくれる魔法のお守りを買いに行った春風どれみは、店主のマジョリカを見て「魔女だ!」と言ってしまい、魔女ガエルになったマジョリカを元に戻すために魔女見習いになった
というお話です。
魔女は、人間に正体を見破られると魔女ガエルになってしまうという呪いがあり、元に戻るには、正体を見破った人間を弟子(魔女見習い)にして魔女に育て上げ、その者から元に戻る魔法を掛けてもらうしかないのです。
そんなわけで、どれみは魔女見習いになり、友達のはづき、あいこの2人も魔女見習いに加えて魔女の試験合格を目指して魔法を練習するわけです。
「無印」中盤で、どれみの妹:ぽっぷも魔女見習いになり、ライバルとなる魔女見習い:おんぷが登場します。
「#」では、魔女界の次期女王であるハナちゃんを育てることになり、「も~っと!」では、ももこが加わり、「ドッカ~ン!」では、ハナちゃんが魔法で急成長して加わりました。
「無印」当時は小3だったどれみ達は、「ドッカ~ン!」では小6になり、最終回で卒業しています。
ちなみに、東映アニメーションにとって、「とんがり帽子のメモル」以来15年ぶりの完全オリジナル作品だったそうです。
「え!? 原作:東堂いづみって書いてあるよ?」と思う人もいるでしょうが、「東堂いづみ」は東映アニメーション企画作品に与えられるダミー原作者(チーム名)であり、実在の人物ではありません。
サンライズの「矢立肇」や東映の「八手三郎(「やってみろ」をもじったのだとか)」と同じですね。
「ドッカ~ン!」では、魔女ガエルの呪いを掛けた先々代の女王:マジョトゥルビヨンを目覚めさせて呪いを解除するのが目的となっています。
マジョトゥルビヨンは、人間に恋をし、女王の座を捨てて人間界で暮らします。
彼女は、人間と魔女の寿命の差を知りながらも結婚し、年老いた息子を看取りましたが、息子の死に、6人の孫達が誰1人として駆けつけなかったことに絶望しました。
その絶望は、人間と魔女が交流することを妨げる“魔女ガエルの呪い”となり、マジョトゥルビヨン自身は、封印の眠りに就いたのです。
どれみ達は、彼女を封印する6本の茨を、6人の孫にまつわる幸せな思い出を見つけ出すことで消していきます。
実は、孫達は駆けつけようとしたけれど事故で間に合わなかったという事実を突き止めて、最後の茨が消え、マジョトゥルビヨンは目覚めました。
こうして魔女になる資格を得たどれみ達でしたが、熟慮の結果、魔女にはならず人間として生きることを決意して、シリーズは最終回を迎えます。
魔女ガエルの呪いが消滅したのが46話で、最終回は51話。
この後、47話「たとえ遠くはなれても」で、おんぷが芸能活動しやすい隣町の中学に進学すること、ももこが両親の仕事の都合でアメリカに戻ることが語られ、48話「あいこのいちばん幸せな日」で、あいこが両親の再婚に伴い大阪に引っ越すことが語られ、49話「ずっとずっと、フレンズ」で、はづきが私立の中学に進むことが語られた後、50話「さよなら、おジャ魔女」で、どれみ達とぽっぷの6人が魔女にならないことを宣言し、51話「ありがとう!また会う日まで」で、仲間達が自分から離れてしまうと拗ねたどれみに、クラスメート達が“どれみを好きであること”を語りかけるという、かなり贅沢な話数の使い方をしています。
「ドッカ~ン!」中盤頃には、既にシリーズ終了が決まっていたそうですから、4年間の物語に終止符を打つべく、丁寧に5人の去就を描いたのでしょう。
元々どれみは、好きな人に告白する勇気が欲しくて魔法に頼ろうとしていました。
けれど、物語が進むうち、それは魔法に頼る必要のないことだと気付きました。
はづき達にしても、魔女になる必要性はありませんでした。
どれみの場合、自身の希望はともかく、マジョリカが自分を元に戻してもらうためにアイテムを与えたという経緯があるので、本来なら、途中で「やーめた」というわけにはいきませんが、魔女ガエルの呪いが解けたことで、魔女にならないという選択肢ができたのです。
ちなみに、ハナちゃんは元々魔女として生まれましたし、次期女王なので、魔女一択です。
こうして、「おジャ魔女どれみ」という物語は、どれみ達が魔女を目指す物語でありながら、誰1人として魔女にならないというエンディングを迎えました。
最終回のラストシーンでは、「無印」OPである「おジャ魔女カーニバル!!」が流れる中、中学生になったどれみが誰かに告白するところで終わります。
ですが、もうひとつの最終回と言うべきお話があったのです。
鷹羽的に「どれみ」シリーズで一番好きな「ドッカ~ン!」40話「どれみと魔女をやめた魔女」です。
内容は、こんな感じ。
(ストーリー)
ある日、遠回りをして帰ろうとしたどれみは、魔女の佐倉未来と出会った。
未来は、ガラス細工を作っており、魔法は使わないことにしているのだという。
魔法のような未来の手さばきの中で生み出されていくガラス製品を見て彼女に憧れたどれみは、自分でもやらせてもらえることになったが、同時に2つのことができないために上手く作れない。
未来は、町を案内してくれたどれみに、お礼としてビー玉を渡し、
ガラスってね、冷えて固まっているように見えて、本当はゆっくり動いているのよ
この海の水みたいにね
ただし、何十年も、何百年も、何千年も掛けて、少しずつゆっくりと
あんまりゆっくりで、人間の目には止まっているようにしか見えないだけ
でも、何千年も生きる魔女は、ガラスが動いているのを見ることができる
いずれ、私もそれを見る
と、遠くを見るような目で語る。
翌日も未来の家に行ったどれみは、未来の持っている沢山の写真を見付ける。
そこには未来が初めてガラス作りを習った人などが写っていた。
その中にあった若い男とのツーショット写真を指して、未来は
この人は、2日しか一緒にいなかったけど、ちょっと好きになりかけた人
でも、やめた
私、年上好みなの
と懐かしげに言う。
未来は、世界中を引っ越して歩いては、それぞれの土地で知り合った友人などと写真を撮っており、どれみとも記念写真を撮ろうとする。
そして、どれみの「どうしてすぐ引っ越しちゃうの?」という問いに
同じ人間といると、色々不都合があるからよ
だって、あなたもこれから魔女になるなら…
と言いかけて、「ここもいつか引っ越しちゃうの?」と寂しげな顔をするどれみをくすぐって無理矢理笑わせ、その様子を写真に残した。
更に翌日、どれみは再びガラス細工に挑戦し、せっかく形になりそうなところまで行ったのに、皿にするかグラスにするかで迷っている間に形が崩れてしまった。
はづきやあいこ達がそれぞれ得意なものを持っているのに対し、自分だけが将来に何も見えないと言うどれみに、未来は
見えなくていいじゃん
と優しく微笑む。
そしてその後、ようやくどれみはグラスを作り上げた。
後は1日掛けて冷ますだけになって、未来は、どれみに
明日、必ず来て
明後日じゃ駄目。明日
と言う。
未来は、どれみに1通のエアメールを見せながら、その差出人について
彼、もうすぐ90になるんだけどね
彼にガラスを教えたの、実はあたしなんだ
彼がまだあたしより年下に見えたころの話
それが今では、あたしよりもずっと年上になっちゃった
と話す。
それは、この前見た写真の若い男のことで、男はガラスの勉強のためにベネツィアに来ないかと未来を誘ってきたのだった。
そして、未来は
彼は今、あたしのことを昔好きになった女の娘や孫だと信じてる
だからあたしも、彼が昔好きになった女の娘や孫を演じ続ける
魔女には、こんな生き方もあるのよ
分かる?
と続け、「分かんない」と答えるどれみに、
あなたは人間で、まだ魔女見習い
魔女の世界を知っているようで、実はガラス越しにしか見ていないようなものなの
でも、もし、その先を見てみたいなら、あたしと一緒にベネツィアに来る?
どれみ、あたしと一緒に来る?
と、一緒にベネツィアに行く気があるか尋ねてきた。
散々悩んだどれみは、翌日の放課後、未来の工房へと走る。
「未来さん! あたし来たよ!!」と庭に駆け込んだどれみの目の前には、閉ざされた扉とどれみが作ったグラス、この前撮った写真、そして
ごめんね。またどこかで会いましょう。 未来
というメモだけが残されていた。
というわけで、このエピソードの解説です。なんで“もうひとつの最終回”なのでしょう。
前提として、このエピソードの後、どれみがメインを張るのは最終回「ありがとう!また会う日まで」だけです。つまり、実質最後のどれみ主役回です。
そして、このエピソードは、シリーズ中でも非常に特異なものになっています。
視覚的にも、随所にガラス越しの風景や人物が描かれるという凝った演出になっていますが、何より特徴的なのは、この回では、誰1人魔法を使いませんし、どれみ達が変身すらしないのです。
魔法を軸にしているはずの物語にあって、魔法が全く絡まない話というのは、相当に特異です。異常と言ってもいいでしょう。
また、登場人物も偏っていて、ほとんどどれみと未来しか登場しません。
はづき達ほかの魔女見習いは、はづき&あいこ、ハナ、おんぷ&ももこがそれぞれ50秒程度、ぽっぷが1分程度しか登場しませんし、マジョリカが画面に登場している時間など僅か3秒に過ぎません。
その分どれみと未来の描写に時間が注ぎ込まれているわけで、その濃度は目を見張るものがあります。
ちなみに、未来を演じているのは、なんと原田知世さんです。
ただし、このエピソードが完全無欠かと言えば、決してそんなことはありません。
たとえば、前述のとおり、はづき達はほとんど登場しないわけですが、そこには演出上以外の理由はないため、いつも一緒にいるどれみ達を見慣れている視聴者には、違和感を与えかねない描写になっています。
また、作中では少なくとも4日が流れているというのに、はづき達がそれぞれの理由から未来の工房に行けない理由は1日分ずつしかありません。
特に、行きたくてしょうがないはずのハナが、たった1回行きそびれただけで、その後ちっとも姿を見せないのは不自然です。
その1回も、成績がトップクラスのハナには相当似つかわしくない「補習」という理由で、説得力の欠片もありません。
しかも、ぽっぷに至っては、どれみの妹でありながら、未来の存在そのものを知らされないまま終わっているという…。
後述の五叉路も、普段は登場していませんから、突然降って湧いた設定が話の重要なポイントを占めているということになり、そういう意味で、非常にいびつな構成になっていると言わざるを得ません。
そして、「可愛い魔女さん」としか言われていないどれみが「魔女ガエル~」と騒ぐのも大きな誤りと言えます。
「魔女見習い」と言われない限り大丈夫だということは、どれみ自身、『無印』4話『みんなで魔女なら怖くない!』で、はづき達から「魔女!」と言われても魔女ガエルにならなかったという実体験がありますし、この話より後ではありますが、『ドッカ~ン!』44話『急がなきゃ!最後の手がかり』では、ロビーに「魔女!」と言われた5人が「セーフ…」とホッとする展開もあったくらいで、熟知しているはずなのに。
「魔女」と「魔女見習い」の差異が重要な意味を持つこのエピソードにおいて、この混同はかなり痛いのです。
また、細かいことですが、長いこと魔法を使っていないはずの未来がパスポートを持っていたり(でないと日本に入国できない)、ガラス用の溶鉱炉が置ける一軒家に住むなど結構生活費が掛かりそうな生活をしているということにも少々不条理を感じるし、どれみに正面から「魔女として一緒に来ない?」という質問をぶつけてきた未来のことを、最終回で全く思い出しもしないというのは、あまりにも中途半端です。
でも、それでもこの話は、鷹羽の心を捕らえて離しません。
それは、この話が単独で見る限り綺麗にまとまっていることと、非常に暗示的な物語になっているからです。
その意味で見る限り、「魔女ガエル~」以外、今挙げた欠点は欠点でなくなります。
このエピソードの中で、度々映される道路標識があります。
冒頭、五叉路ではづき&あいこと別れた後、どれみが「遠回りして帰ろ」と言って右に進む分かれ道にある、「大」の字を逆さにしたような形の標識です。
この道路は、十字路を直進するとすぐ先で三叉路(Y字路)になっているという形式の五叉路であり、三叉路部分で左に進むといつもの帰り道、右に行くと未来の工房の方に続いているのです。
この道路は、Bパート途中(作中では3日目)でおんぷ&ももこと一緒に帰るときにも使っていますが、このときも3人は十字路部分で別れています。
友人達と別れて1人になったどれみが、2つに分かれた道を前に“どちらへ進むべきか”悩むシーンですが、この道は二重の意味で暗示的なものになっています。
つまり、“2つに分かれた道”と“5つに分かれた道”の2つです。
このエピソードでは、“2つに分かれた道”、つまり二者択一が1つのキーワードになっています。
最初の二者択一が、冒頭、この三叉路部分で“左に進む”か“右に進む”かというものです。
直接的には、“まっすぐ帰る”のか“遠回りして帰る”のかということですが、これは右に進んで未来に出会ったことで、“未来に会わずに帰る”のか“未来に会いに行く”のかという意味の二択に変化していきます。
ちょうど、恋愛シミュレーションゲームで、○○に行くことで新登場の△△というキャラと知り合うと、以後の選択肢が「○○に行く」から「△△に会いに行く」に変化するようなもの、といえばわかりやすいでしょうか。
そして、2つ目の二択はガラス細工を“皿にする”のか“グラスにする”のかというものです。
どれみは、ここで迷ったために、どちらも選べないまま“どちらにもなれなかったガラクタ”を作ってしまいました。
3つ目の選択肢は、“未来と共にベネツィアに行く”か“日本に残る”か、すなわち“魔女として生きる”か“人間として生きる”かというものです。これについては後でまた。
実は、明示されてこそいませんが、このエピソードには、ほかにも“魔女になるか人間のままでいるか”という二択を与えられたキャラ達がいます。
はづき達4人の仲間と、ハナの5人です。
おんぷ、ももこ、ハナには、どれみから“未来の工房に行く”か“行かない”かという選択肢が投げかけられました。
もっとも、ハナは、「行きたい」のに行けない理由があり、強制的に“行かない”という選択肢を選ばされたわけで、実際には選択権など与えられていなかったのですが。
おんぷとももこは、「また今度」、つまり“行かない”という選択肢を選びました。
はづきとあいこに与えられた選択肢は、少々形が違い、“どれみと一緒に進む”か“自分のするべきことを優先するか”という形になっています。
もちろん、これには未来に会うという結果が分からないうちに与えられた選択肢だったという事情もあります。
ともかく、こうして一度「会わない」という選択肢を選んだはづき達4人と、強制的に「会わない」を選ばされたハナは、以後、二度とその選択権を与えられることはありません。
正に「一期一会」で、チャンスを逃した5人には、救済措置は与えられないのです。
先程例に出したゲームで言うと、未来は隠れキャラで、ある特定の場面で決まった選択肢を選ばないと二度と登場しなくなる、というわけです。
ここで、もう1度この五叉路を思い出しましょう。この道は、十字路の直進方向にY字路がある、つまり、Y字路に向かって直進している途中に脇道があると見ることができます。
これがまた、どれみ達の進む道の違いを示唆しています。
ハナを除くどれみ達5人は、これまで同じ魔女見習いとしての道を歩いてきました。
そして、どれみ以外の4人は、どれみが迷った二択に到達することなく脇道に逸れ、ハナは五叉路に連れて行ってもらえさえしない。
これを、どれみが投げかけられた“魔女として生きるか”“人間として生きるか”という二択と併せて考えると、はづき達5人は、その選択肢の前に“自分の道を進む”ために別の道を行ったとも見えるのです。
つまり、ハナが本人の希望と関係なく、そこに続く道にすら連れて行ってもらえなかったのは、魔女界の次期女王という将来が約束されたハナには、たとえどれほど人間に憧れたとしても、“魔女か人間か”などという選択権は与えられていない、ということなのです。
同様に、ぽっぷに、そもそも選択権が与えられなかったことにも理由があります。
このエピソードの翌週に放送された41話『ぽっぷが先に魔女になる!?』では、ぽっぷが魔女を目指す理由が“どれみと同じことをしたいため”であることが語られ、50話『さよなら、おジャ魔女』でも「お姉ちゃんが魔女になんないなら、あたしも(ならない)」と言っています。
つまり、主体性のないぽっぷには、選択権を与える意味もないというわけです。
だから、五叉路に連れて行ってもらえた、つまり“自由意思で進む道を選ぶ権利”を与えられたのは、はづき達4人だけということになります。
そして、同じ仲間でも、はづき&あいこと、おんぷ&ももこは、魔女見習いになった理由が違います。
はづき&あいこは、どれみに誘われて魔女見習いになりましたが、おんぷ&ももこは、どれみに出会う前から魔女見習いでした。
だから、おんぷ&ももこは、未来という“魔女か人間か問いかけてくる存在”へと続く道へ進むことを誘われ、はづき&あいこは、その先に何があるか分からないまま“今後もどれみと共に進むか”と問いかけられるという違いが生じているのです。
また、十字路で別れた4人の中に「MAHO堂へ行く」という理由を唱える者がいなかったのは、『どれみ』において、MAHO堂が“魔女見習いのための場所”という意味合いを持つため、“魔女か人間か”というテーマにそぐわないからですが、同時に、4人が当たり前のように“人間として生きる”道を選んでいることの暗示でもあります。
すなわち“魔女か人間か”で悩む必要がないということです。
しかも、彼女達がどれみと別れた理由はそれぞれ違います。
ここで、2つ目の暗示“5つに分かれた道”が出てきます。
五叉路は、1本の道が4つに分かれた道と見ることもできますが、中心点(交差点)から5方向に分かれて進む道と見ることもできます。
つまり、この五叉路は、“5人全員が今後それぞれ別の道を生きていく”という意味をも与えられているのです。
『ドッカ~ン!』ラストで、はづき達4人は、それぞれが自分の道を選んでいきます。
このラストの展開は、番組では、どれみとの関わりを中心に描写されているため、どれみの周りから1人また1人と離れていくかのように感じられますが、よく考えてみれば、5人は全員バラバラになっているわけで、MAHO堂という“交差点の中心”から5方向の道にそれぞれ歩いていったと見ることもできます。
今回の五叉路は、そういう部分も既に暗示しているのです。
さて、それを踏まえて、先程の3つめの選択肢“未来と一緒にベネツィアに行くか”“行かないか”について考えてみましょう。
どれみは丸1日悩んだ末、その答を持って未来の工房にやってきたはずですが、結局答を口にしてはいません。
これは、テレビシリーズとしての構成上、当然のことです。
魔女になるにせよ、ならないにせよ、最終回まで11話も残っているこの時点で、その答を明言するわけにはいかないからです。
なぜなら、50話『さよなら、おジャ魔女』で、どれみ達が“魔女にならない”という選択をしたことは、大きいお友達にはとっくに読まれていた展開ではありますが、テーマとしては、4年間にわたって描いてきた“魔女になる”という目的を放棄する大どんでん返しです。
ましてや、このエピソードの時は、まだ女王から“魔女になるかどうか考えるように”と言われる前ですから、本来この時点で、そんな選択肢を突きつけられる必要はなかったはずなのです。
前述の『ぽっぷが先に魔女になる!?』で、どれみは、既に自分が魔女を目指した当初の目的である“告白する勇気”について、「でも、それって魔法を使わなくてもできることじゃん」と自覚しています。
その上で、「魔法を必要としている人が」「どこかにいると思う」と、魔法の必要性について語り、魔女になる最終回があり得ることをほのめかしています。
また、47話『たとえ遠くはなれても』でどれみがももこに「魔法を使えばすぐ会えるから」と言っていますが、魔女にならなかった以上、アメリカにいるももこには簡単に会えないわけで、結果的に、この約束は反故になりました。
ですが、この話を制作している時点で、制作者側はどれみ達が魔女にならないことは承知しているわけで、それを敢えてこう言わせているのは、この時点ではまだ魔女になる可能性があることを強調するためと言えます。
つまり、こんな後から考えれば白々しいセリフまで出しているほど、“どれみ達が魔女になるかどうか”は重要なドラマだったのです。
どれみが、40話のこの時点で「魔女になる」と言えばあの最終回は存在できなくなるし、「魔女にならない」と言えばラストで盛り上がらなくなります。
だからこそ、未来は返事を聞くことなく姿を消さなければならなかったのです。
ですが、作品全体としての都合はともかく、このエピソード単体としては、どれみに決断させていなければ話が終わりません。
“どれみが2つのことを同時にできないこと”も、“皿にするかグラスにするか選べなかったためにガラクタになってしまったガラス細工”も、最終的にどれみが“未来と一緒に行くか行かないか”の結論を出す必要性を示す、つまり、“魔女か人間か両方は選べない”し、“どちらかを選ばないと、どちらも選べなくなる”ということを暗示するために張られた伏線だからです。
そして、未来は、ベネツィアに行くから「明後日じゃ駄目」、つまり“明後日にはもういない”という意味のことを言っています。
その最後の日に、「行く」「行かない」以外の答はあり得ません。
溶けたガラスが冷えて固まるまでの制限時間内に、グラスにも皿にもなれなかったガラスは、ガラクタになってしまう。
つまり、嫌でも白黒つけざるを得ない状況が出来上がっているのです。
ここで制限時間である「明日」に、「まだ返事は考えてないけど、とりあえず見送りに来ました」などと言い出した日には、どれみは何も考えていないことになってしまいます。
では、どれみの答は何だったのでしょう?
鷹羽は、どれみは“未来と行く”ことを選んだのだと確信しています。
そして、それは、とりもなおさずどれみが“魔女として生きる”ということでもあります。
アバンタイトルでのどれみの
あの人の言葉の意味、私もいつか分かる日が来るのかなぁ
という言葉、これは、未来の「魔女には、こんな生き方もあるのよ」という言葉に対するどれみの「わかんない」という呟きを受けてのものでした。
そして、この言葉の意味を理解できるのは、魔女だけ。
である以上、どれみの答は“魔女として生きる”以外にはありえないのです。
どうして未来は待っていてくれなかったのか? どうしてどれみは独り言ででも答を言わなかったのか? そして、どうしてどれみは最終回近辺で未来のことを全く思い出さなかったのか? それは、“番組として用意したラスト”、つまり“魔女にならない”とは違う答が用意されていたからに他なりません。
物語のテーマ上、どれみだけが魔女になるという展開はあってはならないものです。
たとえばどれみが未来に「後で行くから魔女になるまで待っていて」と言ったとしたら、ラストでほかの仲間達が皆人間として生きることを選ぶ中で、どれみ1人だけが(ぽっぷも追従するでしょうが)魔女になる道を選ぶことになり、物語としての本筋を見失うことになってしまいます。
『どれみ』という物語の本筋である
好きな相手に告白する勇気が欲しくて魔法を手にした少女が、魔法に頼らず告白する
から見れば筋違いなテーマであるが故に、この話は回想すらしてもらえなかったのです。
しかし、『どれみ』のもう1つのテーマである
何の取り柄もないドジな少女が、実は誰からも愛される少女であることに気付く
ということからすると、決して外れたテーマではありません。
どれみは、努力と苦労の末、自分の力でグラスを作り上げました。
そして、未来という“自分と共に生きたいと願う人”に出会ったののです。
ここでちょっと考えてみましょう。
未来というキャラクターは、先々代の女王:マジョトゥルビヨンのアンチテーゼとも言えます。
マジョトゥルビヨンは、人間の男性に恋をし、寿命の長さが違うことを熟知した上で、共に生きることを選びました。
その結果、息子が年老いて死んでいくのを看取る羽目になったわけですが、それを承知の上で、それでも愛する人の傍にいることを選んだのです。
一方、未来は、自分が年を取らず、相手だけが年老いていくのを見続けることを嫌い、離れることを選びました。
「私、年上好みなの」などと冗談めかして言っていますが、未来がその男にガラスを教えたということから考えて、出会った時点で未来は既に相当な年齢だったはずですから、年上の男などいるわけがなく、はぐらかしているだけの話です。
これもまた愛する人と“共に生きる”か“離れて生きる”かの二択と言えるでしょう。
もちろん、ここには魔女ガエルの呪いのことなども関係してくるでしょうが、未来は、“離れて暮らし、時々会いに行く”という選択をしたようです。
未来がしょっちゅう引っ越している理由である「同じ人間といると、色々不都合がある」というのは、容貌が衰えないことに違和感を覚えられてしまうから、その前に引っ越してしまうということです。ちょうどマジョトゥルビヨンが、息子夫婦が年老いても若い姿のままでいたように。
そして、その男が未来を「昔好きになった女の娘や孫だと信じてる」のは、つまり、自分が娘と思われるくらいのころに会いに行き、また、孫と言って通じるころに会いに行ったということでしょう。
ここで未来の名前がポイントになります。
『どれみ』世界では、魔女にファミリーネーム(ラストネーム)というものは存在しません。
花から産まれ、誕生に立ち会った魔女が育てるという特質上、血の繋がり=家系を表すファミリーネームは存在し得ないのでしょう。
だから、「佐倉未来」というのは、彼女の本名ではないはずです。
マジョミライという名前の可能性もありますが、男は「Mirai Sakura」宛てにエアメールを送ってきています。
そもそもエアメールが届くということ自体、転居先の住所を教えている=ちょくちょく連絡を取っているということなのですが、重要なのはフルネームを教えていることです。
前述のとおり、魔女の名前にはファミリーネームという概念がないらしいのに、未来はきちんとフルネームを作って人間同様に暮らしているのです。
結婚してファミリーネームが変わらない国は、中国など一部だけですから、未来は、初めて会った頃、娘として会いに行った時、孫として会いに行った時など、毎回違うファミリーネームを名乗っているはずです。
これは、未来が魔女見習いを経て魔女になった元人間だったとしても同じことです。元々の本名が佐倉未来ということはまずあり得ません。
しかも、女性で親子三代同じファーストネームというのは、ちょっと珍しいですから、ファーストネームも違うものを名乗っていたでしょう。
だから、彼女が「未来」という名前を付けたのは、孫を演じるようになったころだと思います。
同じように人間の名前:巻機山リカという名前を使って暮らしているマジョリカと比べるとよくわかります。
マジョリカは、「マキハタヤマリカの魔法堂(MAHO堂の元々の名前)」の店主として生活するために偽名を使っているに過ぎず、親子3代を演じている未来とは意味が違うのです。
さて、未来の
ガラスってね、冷えて固まっているように見えて、本当はゆっくり動いているのよ
この海の水みたいにね
ただし、何十年も、何百年も、何千年も掛けて、少しずつゆっくりと
という言葉に、このエピソードの重要なテーマが籠められています。
じっと見続けていたとしても、変化は小さすぎてわからない。
親戚の子が、久しぶりに会うと大きくなっている。それは、時間をおいて会うから、変化に気付くのです。
未来は、二十数年に一度程度、男に会いに行っていたのでしょう。
そして、愛した人が少しずつ年を取っていくのを認識していくのです。
本気でゆっくりと動いているガラスの姿を見たいなら、それは楽しみな将来でしょう。
それなのに、「いずれ、私もそれを見る」と言ったときの未来の表情は、例えばアサガオの種を植えて、花咲く日を心待ちにしているような顔ではありません。
鷹羽には、もっと悲しい、でも確実にやってくる“未来”を見据える目に感じられます。
では、何を見据えているのか。
それは、当然、愛した人の死でしょう。
未来が写真に撮った“ちょっと好きになりかけた人”は、時を置いて会うたびに年老いていき、近い将来確実に死ぬ。
写真の中の彼は、いつまでも年を取らないのに、現実の彼は、いつの間にか年を取っていくのですから。
好きになった相手だけが年を取って死んでいき、自分はそれをどうにもできないという運命を、彼女は距離を置くことで、つまり、共に生きないことで受け入れたのです。
それは、恋人に限らず、友人との間でも同じこと。
共に年老いていく人間同士なら、互いの年齢差は変わらない。
車の相対速度と同じで、同じ速度で動いている者同士の見た目は“動いていない”に等しいから。
それは「あんまりゆっくりで、人間の目には止まっているようにしか見えない」ということ。
けれど、年を取る速度が人間よりずっと遅い魔女は、人間の年を取る速度が“見える”のです。
「彼がまだあたしより年下に見えた頃の話。それが今では、あたしよりもずっと年上になっちゃった」という未来の言葉は、それを表しているのです。
そんな運命を、未来はガラスに例えたのではないでしょうか。
“ガラスが動いているのを見る”とは、“愛すべき人々が年老いて死んでいくのを見る”ということなのです。
ガラスが動いているのを見たいと言いながら、自らもガラス工芸をやっている未来は、色々な土地で、色々な人と交流を持ちながら、共に生きることができない。
それは、うつろいゆく世界の住人でありながらその世界の傍観者でもあるということ。
だからこそ、共に過ごした一瞬を写真に撮って持ち歩いているのです。
動いたガラス=年を取った大切な人を再認識するために。
その覚悟でいるからこそ、彼女は、遠くを見つめる目をして「いずれ、私もそれを見る」と言うのでしょう。
彼女は、“かつての恋人の孫”を演じている間にその死を看取ることになる“未来”を知っているからこそ、その役柄に「未来」という名前を付けたのではないでしょうか。
そして遂に、かつての恋人の死に立ち会うためにベネツィアに行く日がやってきました。
もうすぐ90ともなれば、先は短い。
そして、それに際してどれみを誘ったのは、永遠とも言える長い時間を生きる自分の傍にいてほしい友人としてどれみを認めたということ。
つまり、どれみはこのとき“何の取り柄もない女の子”ではなく、“永遠に傍にいてほしい友人”として評価されたのです。
未来はこのエピソードの中で、どれみのことをずっと「どれみちゃん」と呼んでいます。
でも、一緒に来るよう誘った時だけ「どれみ、あたしと一緒に来る?」と呼び捨てにしています。
これは、未来がどれみを対等な友人として評価したからだと思うのです。
未来がそれほど真摯にどれみを欲したということが、このエピソードのキモなのだと。
もう1つ、未来が魔法を使わないことも重要です。
便利な魔法を使えるから魔女になりたいのではない。
共に生きたい相手と一緒にいるには、魔女にならなければならないから、魔女になるのです。
ものを作るときに魔法を使わず、心を籠めて手作りすることの重要さを感じ続けてきたどれみにとって、魔法のような手さばきでものを作っていく未来の存在は、憧憬を抱くにふさわしい。
自分の力でグラスを作り上げた=何かを成し遂げたどれみは、未来から一緒に来るよう求められたことで、“未来と共に生きるために魔女になる”という新たな意味を得たのです。
魔女であることが必要な生き方を選ぶなら、当然魔女にならなければならない。
この回では、「魔女」とは、“どんなことでも簡単にできてしまう魔法使い”ではなく、“恐ろしく長い寿命を持つ人間”という意味で使われています。
未来が魔法を使わないと断言していること、未来の名前がいかにも魔女らしいものではなく日本人的であること、この回では誰1人魔法を使わないこと、これらは、全て魔女を“便利な魔法使い”ではなく、“孤独なまでに長生きする人間”という孤高の存在として描くための演出なのです。
そして、その孤高の存在=未来が、対等の友人としてどれみを求めたということ、どれみがそれに応えようとしたことが、このエピソードのもう1つのテーマだと思います。
恐らく未来自身も孤独感に苛まれたことがあり、傍に誰かにいてほしいという想いがずっとあって。
そして、未来は、“魔女になったどれみ”にも、やがてそういう時期が来ることを知っている。
「だって、あなたもこれから魔女になるなら…」の続きは、「年を取らなくなるんだから、1か所に長くいたら変に思われちゃうわよ」という意味の言葉がくるはず。
見ようによっては、孤独な者同士、傷を舐め合うような部分もあるかもしれません。
でも、未来は、どれみがガラスに対して見せた情熱を買っているからこそ、パートナーとしてどれみを選んだはずで、それは単なる寂しい者同士の馴れ合いではなく、同じ高みを志す者同士の連帯感という部分も持っているはず。
鷹羽は、どれみが直ちに未来と共にベネツィアに行くとは思いません。
悲しみのイバラのこと、ハナの試験のことなどがあるから、それらを放り出して今すぐ飛び出しては行けないでしょう。
けれど、未来に先に行ってもらって、“未来を追いかける”ことは可能です。
イバラを消し、ハナやマジョリカを魔女に戻し、自分も魔女になった後で、未来と共に魔女として生き、ガラス工芸を続ける…そんな生き方をどれみが選ぶことは、1つの人生として素晴らしいものだと鷹羽は思っています。
結局、未来はどれみの前から姿を消しました。
恋人の死を看取った後で迎えに来るつもりだったのかもしれないし、いつかふとどれみがどうなっているかを見に立ち寄るつもりだったのかもしれない。
先にも述べたとおり、この話は非常に完成度が高いけれど、予定された最終回と違う結末が求められる以上、1年間放送されるテレビシリーズの中の1エピソードとしては、ちょっと雰囲気の違う異色作としてしか存在できないのです。
ただ、この回以後、どれみ自身がテーマの中心に置かれる話が最終回しかないことを考えると、このエピソードは、
仲間達が人間として生きることを選ぶ中、ただ1人魔女として人間界で生きることを選んだどれみ
を描いた「もうひとつの最終回」と呼ぶべきものではないかと思えてなりません。