【血と鉄の蛇】フルーレティーの仕事
陽が落ち、昼間と夜の境界線を示す暗い青と赤い色とが混在する空の下。
濃くなった影の中から闇が溢れ出るように、黒い人影が姿を現した。
路地に姿を見せたのは、黒い服に身を包んだ壮年の男である。
「こちらへ、お嬢」
男がそう言うと、建物の陰から小柄な女が音も無く歩いてきた。
その女の周りには三人の黒服の男達が女を囲むように立っている。
《血と鉄の蛇》の頭であるフルーレティーと、その警護をするヤクシャ達である。
五人は迷いのない足取りで路地を進んでいき、一つの建物の前で足を止めた。
表通りではなく裏の路地であるため、その建物も、装飾も何も無い木製のドアと格子のある窓があるだけとなっている。
表通りに面したその建物の反対側の部分は、品の良い作りの商店の表玄関である。
その建物の前で、フルーレティーは溜め息を一つ吐いた。
「全く…面倒なことになったわ」
フルーレティーが誰にともなくそう呟くと、ヤクシャが悔しそうに頷いた。
「ハウレス様が作り上げた《血と鉄の蛇》が、まさか一人の男に実権を握られるとは…我々の力が及ばず、本当に申し訳ない限りで…」
「父のことは良いわ。それに、組織自体はまだあるもの。これからどうなるかは分からないけど…」
そんな会話をして、フルーレティーはまた深く息を吐くと、建物の扉に拳の甲の部分を当てた。
簡素とも言える装飾の無いシンプルな木製の扉を三度ノックをして、フルーレティーは一歩後ろに下がる。
フルーレティーがノックして十秒ほど、木製の扉は内側から開かれた。
暗闇にオレンジ色の線を引くように屋内の灯りが路地に漏れ、扉の向こうからは小柄な少年の姿が現れた。
少年は背に灯を受けてフルーレティーの方に顔を向けているため、顔の造形まではハッキリと見ることが出来ない。
「フルーレティーよ。アエシュマさんはいらっしゃるかしら?」
フルーレティーが少年にそう告げると、少年はそっと頷いて口を開いた。
「少々お待ちください」
フルーレティーにそう言うと、少年は一度中に入って扉を閉める。
それを怪訝な目つきで眺め、ヤクシャが首を捻った。
「…また違う少年でしたな。ここには何人の奴隷の少年が働いているのか」
ヤクシャの呟きに、フルーレティーが何も答えずに曖昧に頷いていると、再度、扉は中から開かれた。
次に現れたのは先ほどの少年と、同じく小柄な、されど明らかに年齢のいった男の二人であった。
「やあ、ようこそ。どうぞ中へお入りください」
男がそう言って先に奥へと下がっていくと、少年が扉の前でフルーレティー達を招き入れるように立った。
フルーレティー達は静かに建物の中に入り、全員が屋内へ移動したのを確認した少年は、外の景色を確認するように眺めてから扉を閉めた。
室内は天井と壁にランプをつけており、かなり明るくなっている。
建物の中は、外から見た通りの石造りの壁ではなく、壁や天井、床に暗い色合いの木の板が敷き詰められており、棚がいくつも立ち並んでいた。
規則正しく並んだ棚には様々な道具や、何かの材料らしき鉱物や布、毛皮、牙に骨などが置かれている。
それらを横目に見ながら、フルーレティーは男に向き直った。
男は短い黒髪、黒目の凡庸な見た目の中年だった。年齢は四十から五十の間ほどに見え、特に痩せても肥えてもおらず、特徴の無い外見である。
傍目にも質の良さそうな緑色のシャツに白いズボン、暗い茶色のコートを羽織っているが、男の見た目からは少し浮いて見えるほどに地味な男だった。
男は微笑を浮かべ、フルーレティーを見やる。
「今日はどのようなご用件でしょう?」
男がそう尋ねると、フルーレティーもふんわりと微笑んで男を見た。
「いつも我々に協力してもらい、感謝しているわ。アエシェマさん。今回も少し手を貸してほしいのだけれど」
フルーレティーがそう言って困ったように眉根を寄せると、アエシェマは笑いながら頷いた。
「ええ、ええ。まずはどうぞ、仰ってみてください。私に出来ることならば力になりましょう」
アエシェマがそう言って人の良さそうな笑みを浮かべると、ヤクシャの眉間に深い皺が刻まれた。
逆にフルーレティーは嬉しそうに首肯した。
「そう、それは助かるわ。実は、今度倉庫街に食堂…いいえ、レストランを作ろうかと思っていてね。色々と必要な物や、その周辺の関係者に挨拶した方が良いかな、と」
フルーレティーがそう言って言葉を切ると、アエシェマは不思議そうに首を傾げた。
「おや、レストラン? あの倉庫街にですか? では、私の名義で借りている倉庫を改装する、と?」
アエシェマがそう尋ねると、フルーレティーは首を左右に軽く振って口を開いた。
「いいえ。場所は合っているけど、倉庫は改装しないわよ」
フルーレティーがそう告げると、アエシェマは怪訝な表情を浮かべて聞き返す。
「…場所は合っているのに、改装はしない? はてさて、それはどういう…」
アエシェマが困ったように笑いながらそう呟くと、フルーレティーは澄ました顔で顎を上げた。
「地下に作るのよ。レストランを」
「…………地下?」
フルーレティーの一言に、アエシェマはたっぷりの時間を掛け、ようやくそれだけ口にすることが出来た。
穏やかな顔をしてフルーレティーを見てはいるが、その全く動かない瞳には、明らかに様々な事を考えていて何も答えられないと書いていた。
その表情を見て不敵に笑い、フルーレティーは口を開く。
「倉庫はそのままになるように作るから安心して。後、このことは出来るだけ内密にしといてね」
フルーレティーがそう言うと、アエシェマは目を細めてフルーレティーの目を見つめた。
「なるほど。そういった商売も始めるのですね。ところで…そのレストランというのは、倉庫街に作る店が一号店、ですか?」
アエシェマがそう尋ねると、フルーレティーは少し時間を置き、渋々といった表情を顔に貼り付けて口を開く。
「……いいえ、二号店を作る予定なのよ」
フルーレティーがそう答えた瞬間、アエシェマの眉が片方上がり、口元がそっと緩んだ。
「そうですか……二号店! 素晴らしい話ではないですか! そういう話ならば、地下に作るために必要な資材や工具だけでなく、人も出しますよ。継続的に格安で食料品や飲み物も……いえ、稀少な調味料も揃えてみせましょう!」
アエシェマが嬉しそうにそう言って両手を広げると、フルーレティーは慌てて首を振った。
「そこまでは頼れないわ。それに、人なら私達はそれなりに人数がいるから問題無いし。必要なものはこちらから連絡するから、それを揃えてくれるだけで十分よ」
フルーレティーがそう言うと、アエシェマは目を細めて頷いた。
「そうですか。いや、折角だから是非お手伝いしたいと思っていたのですがね…ところで、一号店の方は手は足りていますか?」
「大丈夫。そちらも問題無いわ」
二人は表面上はとても楽しそうな様子でそんなやり取りをしていた。
それを眺め、ヤクシャが人知れずため息を吐いたのだった。
「お疲れ様です、お嬢」
路地の裏を歩きながら、ヤクシャがそう労いの言葉をかけた。
「疲れたわ…まあ、これであの倉庫街に店が出来ても大丈夫ね。王国へはアエシェマが根回ししてくれるわ」
フルーレティーが疲労感の滲む表情でそう答えると、ヤクシャが深く頷く。
「そうですな。それにしても、やけに乗り気でしたが」
ヤクシャが不思議そうにそう呟くと、フルーレティーは眉を上げてヤクシャを見た。
「知らなかったの? 今、一部で有名になりつつある地下食堂ってのがあるのよ。私はまだ行けてないけど、凄い店らしいわよ」
フルーレティーがそう言うと、ヤクシャは目を瞬かせて口を開く。
「なんと……もうあの男の言う店を特定していたのですか。私はてっきり、貴族街に昔からあるキメイリエス家の地下ホールのことかと思っておりました」
「いや、歳ですな」などと言って笑うヤクシャに、フルーレティーが思わず足を止めて顔を上げた。
「……貴族街の地下ホール? でも、あの男は貴族の下にはいないって……あ、でも食堂の用心棒って意味なら……」
ヤクシャの台詞を聞いて初めて思い出したかのようなフルーレティーの態度に、ヤクシャが眉根を寄せて再度口を開く。
「……他にも、貧民街の違法食堂に、大商人の経営する地下食堂もありますが……」
ヤクシャがそう言うと、フルーレティーは目を丸くした。
そして、乾いた笑い声を上げて視線をヤクシャから外す。
「……商人の経営ならアエシェマには言わないし、貧民街の食堂ならあんな化け物みたいな用心棒は雇えないわ。だから、貴族絡みか謎の食堂の二択ね。大丈夫よ。アエシェマがどう勘違いしようとも、倉庫街に店が出来るだけだもの。うん、大丈夫」
まるで自分に言い聞かせるようにそんな独り言を言いながら歩くフルーレティーを見て、ヤクシャは苦笑しつつ後に続いた。




