金縛り
いつもありがとうございます。
前半、R15です。
――しかし、コンビニの漫画は、偏っているなあ。
ゲロ甘レディスコミックを買い、私はとぼとぼと家路を急ぐ。
――明日、本屋に行ってこよう。
さすがに、週刊誌の漫画は連載が多くて、ヒマつぶしに唐突に読むのには向いていない。
とはいえ、女性用エロ漫画がメインである、ゲロ甘レディスコミックをこんな夜更けにコンビニに買いに来るって、どれだけ寂しい女に見えたのだろう。私はため息をつく。
しかし。実際、彼氏いない歴=年齢だし、もはや『仕事が面白くて』という理由も奪われた私は、誰から見ても寂しい女なのだから、言い訳のしようもない。
今日は熱帯夜なのだろう。夜だというのに、少しも涼しくない。
空を見上げたが、曇りがちの都会の空は、ぽつりと孤独に星が瞬くのみ。
街灯は明るく、住宅から洩れる灯りで、前が見えないほどの闇ではない。
車通りの多い大通りから一本入ると、裏野ハイツが見えてきた。
一階は、全部の部屋に灯りがついていて、二階は、私の部屋とちょうど反対にある201号室だけついていた。
――お隣さんは、まだ、お仕事なのかしら。
自分もついこの前まで、けっこう残業していたのだ、と思い、ちょっとむなしくなる。
まあ、会社が倒産、なんて、そうそうあるものではない。もちろん、稀有というほどでもないが。
電灯のそばに出来る蚊柱をよけながら、私はアパートの駐輪場の前を通る。
――あれ?
急に、背筋がヒヤリとした。
なにか、冷たいものが私の身体を通り抜けたような気がした。
辺りを見まわすが、なにもない。
――え?
103号室の前に、男の子がまた、立っている。扉は既に締まっていた。
窓から明かりが洩れている。風呂場と思われる位置から、水音がしているから、部屋にひとがいるのは間違いない。
『ママ』
男の子の唇がそう動いた。
「どうしたの?」
私は、男の子に近寄りながら声をかける。
『ママに会いたい。ぼくを見つけて』
男の子の唇が無音の言葉を紡ぎ、扉の中に『溶けて』いった。
――え?
私は目をこする。
目の前には、103号室の扉がある。
男の子はどこにもいない。
――疲れているのかしら?
背筋の震えを私は無視した。会社がつぶれたショックで、幻覚が見えるようになったのかもしれない。
私は、ガクガクふるえる足で、二階への階段を昇る。
目の前にいた『男の子』が扉に『溶ける』なんて、あり得ない。見間違いに違いない。
震える手で、ドアの鍵を開けて、私は部屋へと入った。
部屋の明かりのスイッチを慌てて入れる。
パッとついた灯りは、出て行く前と何の変化もない部屋を照らし出した。
私は、大きく深呼吸をする。
――落ち着け、私。
二十才までに幽霊を見ない人間は、霊感がない。そんな話を思い出す。
その理論で行けば、私には霊感などあるはずがない。
私は、這いずるように台所へ行き、水を飲んだ。
カラカラの喉を水が潤していくと、いくぶん心が落ち着いてくる。
――11時か。
壁に掛けられた時計に目をやる。
そもそも、オバケというのは、丑三つ時と決まっていたはずだ。こんな時間に出てくるなんて、サービス残業もいいところだ。
ああ、残業じゃなくて、早朝? 早出勤務か。
おバカなツッコミを自分に入れているうちに、ようやく身体の震えが止まってきた。
買ってきた漫画をベッドの上に放り投げ、私は、もう一度シャワーを浴びることにした。
服に手をかけると、壁際からコトリ、と音がした。
――お隣さん、帰ってきたのね。
なんとなく、そう思いながら、浴室に入り、ボディソープを泡立てた。
――そういや、怪奇ものって、女の入浴シーン定番だよなー。
シャワーの水が、血の色になったりとか。バスタオル一枚で、悲鳴を上げると、ヒーローが助けに来るとか。
――ま、それはお色気担当女子に任せよう。
もはや、自分が何を考えているのかよくわからないが、私はシャワーのコックをひねった。
ザーッ
ぬるめのお湯が当たり前のように噴き出して、そのことにホッとする。
私は、汗を洗い流し、浴室を出た。
パジャマに着替え、ベッドに腰かけた。
私は音無氏から渡された桐箱を手に取る。
特に、鍵などかかるはずもない、蓋がかぶさっているだけのはずのその箱は、相変わらず、ピクリとも動かない。
――なんだろう、コレ。
開かない箱としばらく格闘したものの、結局、開けられなくて、私は諦めて箱を枕元にそのまま置いた。
時計を見ると、11時50分。まだ、若干、測定までに時間がある。
私は、ベッドに仰向けに寝転がって、漫画に手を伸ばした。
ザワザワ
不意に。肌がざわつくような、嫌な音がした。
キーンと、耳鳴りが始まる。
ガタン、と、大きな音がした。
「え?」
急に、何かに押さえつけられたように、身体が動かなくなった。
ピシピシピシッ
部屋の窓ガラスが振動を始め、天井がミシミシと音を立てる。
「な」
声が出ない。
固定された視野の片隅に、先ほど悪戦苦闘した桐箱が、見えた。
淡い、燐光を放っている。
『異常を感じたらこの箱を開けること。それから、俺に連絡を』
音無氏の言葉が蘇る。
でも。
身体が動かない。動かそうとすると、息が止まるくらい苦しい。
――金縛りだ。
唐突に、頭にその言葉がよぎる。
――金縛りは、身体が疲れていて、脳が覚醒しているとおこるのよね。
冷静に、そんなことを考える。
こうこうとついた明かりの中で、何かがふよふよと漂っている。
興奮した獣のような息づかいを耳元で感じた。
――幻覚、幻聴もあるって聞いたわ。
息が苦しい。
窓は音を立てつづけ、部屋全体が地震のように揺れているように感じる。
私の身体は押さえつけられたまま。そして、まるで身体の上を何かが這いまわっているようなおぞましい感触。
これは本当に、幻覚なのだろうか。私の背中は、べったりと冷たい汗を流し始め、毛穴という毛穴が開いているような気がする。
怖い。
金縛りは、『科学的な現象』だから。怖がる必要はない……そう、必死で自分に言い聞かせる。
――寝ればいいの。起きていようとするから、怖いのよ。
私は、目を閉じようと試みる。ギュッと力を入れると、まるでタオルをかけられたかのように視界が暗くなり……そして、次の瞬間、見たこともない男の顔が間近にあった。
会ったこともない男だ。三十代後半だろうか。痩せこけて、白い肌。整っているといえなくもない顔立ち。
男は、色欲に満ちた目で私を見て、私の瞼を舌で舐め上げる。
幻覚にしては生々しいその感触に私は震えあがった。
閉じようとしても、瞼は閉じない。振動しつづける天井がずっと音を立てつづけている。
生暖かい男の息が、はあはあと首筋にかかる。男の手が、私の胸をなであげた。
怖くて……そして、気持ちが悪い。
頬に自分の涙が伝わっていくのがわかった。
「イヤッ!」
声にならぬ叫びを上げ、動かない身体に思いっきり力を入れる。死にもの狂いで暴れたつもりだったのに、身体はほとんど動かなかったが、奇跡的に桐箱にほんの少しだけ肩が触れた。
カタッ。
桐箱が音を立てた。
かすかに開いたその箱から、淡い光が部屋全体に広がっていく。
男がすうっと光の中に溶けていった。
身体から圧迫感がなくなり、部屋全体の揺れが嘘のように消えた。
……それと同時に、私の意識は遠のいていった。
窓から夏の日差しが差し込む。
時計を見ると7時を過ぎていた。
見慣れない部屋であることをほんの少しだけいぶかしんで、私は目を覚ました。
肩に固い感触を感じて、見れば、ぴたりと蓋の閉じられた桐箱がある。
――夢?
昨日の恐怖を思い出し、私は、腕で自分を抱きしめようとして……
――嘘。
パジャマの上着のボタンが全て外れている。
――どういうこと?
私は、窓と玄関の鍵を確かめる。
少なくとも、誰かが出入りしたような跡はなく、完全な密室状態であった。
完全密室の状態で、金縛りにあって、男にレイプされそうだった……なんて。
そんなこと、誰かに話したら、きっと『はやく彼氏作りなさいよ』とか言われて笑われそうだ。
私は桐箱をギュッと抱きしめた。
――音無氏と話をしよう。
よく考えたら、私は仕事の内容は聞いたけれど、音無氏の『妹』だなんて大ウソついて部屋に泊まる理由を聞いていない。
私は、首を振り、身支度をととのえ、音無氏に電話を掛けた。
八時。
ノックの音がした。
「音無です」
その低いバリトンボイスに弾かれたように、私は扉を開いた。
「有野さん、大丈夫?」
玄関から家に入るなり、彼はそう言って、私の頬に触れた。その指先の温もりに、私は、安堵する。
「身体が冷たい。正直、ここまでとは思わなかった。すまなかった」
音無氏は眉を寄せながら、そう言った。そっと肩に手をまわし、私の身体を温めるように引き寄せる。
「あの……」
近すぎる距離に戸惑いながら、何から話そうかと私は、口ごもる。
「それは……役に立たなかったな」
音無氏は、私の抱いている桐箱を指さした。
「ごめん。その箱が、開けられない、ということを想定していなかった」
音無氏はふうぅと息を吐く。
「だから、龍治さまはダメなのよ」
ふわっと、突然、アザミさんの声がしたかと思ったら、どこから入ったのか、彼女はベッドのそばを何やら調べている。
「え?」
明らかに、玄関の戸は開いていない。
「アザミさん?」
びっくりした私に、アザミさんも驚いたように私を見た。
「アチャ、油断した。見えました?」
見えましたって?
キョトン、とした私の横で、音無氏が頭を抱えた。
「……呼ぶまで、来るな、と言ったのに」
「だってぇ。龍治さまがどさくさにまぎれて、礼香さんに変なことしたら取り返しがつかないでしょ」
アザミはそういって笑った。
「そう言う問題じゃない。話がややこしくなるだろうが」
音無氏がブツブツと呟く。
「あの、それはともかく……アザミさん、どこから来たの?」
私の問いに、グラマラス美女は、くすりと笑う。
「そこから」
彼女はそういって、閉じられた窓を指さす。
ベランダから侵入って、忍者?
「あ、えっと。つまりだな」
音無氏は言いにくそうに口を開いた。
「彼女は、人間じゃない。俺の、式神だ」
「しきがみ?」
言われた意味がわからず、私は思わず復唱しながら首を傾げる。
「私、窓の通り抜けができるの」
やって見せますね、と、ご丁寧にアザミは、鍵のかかった窓を開けずに、ベランダに出て、私に手を振った。
私は。
音無氏に支えられたまま、そのまま意識を手放したのだった。
「霊的磁場?」
気が付くと、私はベッドに寝かされていた。
時計は八時をすこし過ぎただけであり、それ程長い間、気を失っていたわけではないようだ。
目が覚めると、音無氏はこの仕事の真意について語り始めた。
どうやら、この裏野ハイツ近隣というのは、有名な心霊スポットなのらしい。音無氏はその心霊スポットのオオモトを捜して封じるという依頼を受けて調査をしているそうだ。
なんでも、この平和そうな町で、ひっそりと原因の分からない事件がいくつも起きているらしい。
「気温と騒音を測るのはどういう意味で?」
私の質問に、音無氏は首を振った。
「霊が活動すると、気温が下がり、場合によってはラップ音という現象が起こる。現に、この部屋の自動測定の数値を見ると、0時に、急激な気温変化が起きていて、ラップ音も観測されている」
私が怪異にあったのは、11時50分ごろ。何分金縛りにあっていたのか、自分ではわからないが、ちょうどその辺りなのは間違いない。
「……自動で測れるのなら、私はいらないのでは?」
「いや、誰もいないと、霊の活動は見られなかった。俺も一か月ほどここに暮らしてみたが……俺では、全く霊が活動しなくてね」
音無氏はそう言って、首を振った。「磁場があるのは間違いないのだが」と添えた。
なんでも、活動がないと、場所の特定が困難であるし、霊そのものを取り除くことも不可能なのだそうだ。
「龍治さまの霊波って、攻撃的で幽霊に嫌われるのよ」
アザミが横から口を出す。
「はあ」
「逆に、礼香さんは、本当に綺麗な優しい霊波だから、魑魅魍魎に好かれるわ」
私は目が点になる。もはや、何語で話しているのか理解できない気分だ。
「……ただ、色情魔まで、いたのは、龍治さまの誤算だったわ」
「本当に、悪かった」
音無氏は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「有野さんを害そうとする霊が現れるとは考えていなかった。少なくとも、その……箱が開けられないくらいに切迫する状況を想定できなくて」
「あの……要するに、私が選ばれたのは、幽霊に私が好かれるから?」
おそるおそる発した問いを、音無氏は無言で肯定する。私は、背中に冷や汗が流れた。
「えっと。この仕事、降りちゃってもいいかなーなんて?」
三十一年間生きてきて。幽霊さんとは縁のない人生だったのだ。もはや、このまま縁がないままでいたい。
「無理だ」
音無氏は、厳しい顔で首を振った。
「少なくとも、昨晩、君を襲った色情魔は、君について回る。それに……どうやら、それ以外にも、君の霊波には、霊と接触したサインがたくさん見える」
「冗談、ですよね?」
震える私の肩をポンとアザミさんが叩いた。
「ごめんね。礼香さん。礼香さんは、もはや……龍治さまの助手としてうちの研究補助員になるしかないのよ」
急展開についていけなくて。私は音無氏の端正な顔を見上げる。
「安全が確保できるまで……必ず守るから」
「……詐欺だ」
私は思わず、呟いたのだった。