住むだけのお仕事です。
いつもありがとうございます。
会社が倒産した。
その日は、突然やってきて……私、有野礼香は、三十一才にして、唐突に職をなくした。
遠方に母はいるが、母は、私が十八才の時に再婚。義父との間は、良好ではあるものの、さすがに頼ることはできない。父は、五歳の時に死んでいる。残念なことに彼氏もいない。
ただ。幸い、貯蓄は少しある。あるが……そもそも、私は、一介の事務職員であり、キャリアを積んではきたものの、私程度の事務職スキルなど、世間に、はいて捨てるほどいる。
三十越えると、求人はグンと減る。
昔ほどではないにしろ、特に女性はパートのような仕事が多くなり、正規雇用しようという企業は少ないのだ。
私は、ちょっと古い貸しビルの二階の階段を昇った。
『音無研究所』という看板がある。
『研究補助員募集。要住み込み。各種保険整備。年齢不問。未経験者歓迎。』
ネットで見つけたその求人。
普段なら、アヤシサを感じて、応募なんかしないと思うが、昨日、私は酔っていた。
そりゃあ、そうだ。唐突に、仕事を失ったのだ。シラフでいられるわけがない。
酔った勢いでの応募ではあったものの、面接に行かないのは、さすがに失礼だし、それほど悪い条件とも思えない。事務所の扉は、閉じられていた。
他に来客はいないのか、しんとしている。私はドアホンを押した。
「はい。どちらさまですか」
透き通るような女性の声がした。
「お電話した有野礼香です」
緊張しながら私が名乗ると、ガチャリと鍵が開く音がした。
「どうぞお入りください」
声優さんのようなソプラノボイスだなあ、と思いながら。私が扉を開けると、目の前に、グラマラスな美女が立って微笑んでいた。年齢は二十五、六、といったところか。
「あ、よ、よろしくお願いします」
身長はモデルさんのように高い。髪は明るい茶色で、ロングヘア。目はパッチリとしている。
白いパンツスーツ姿が様になっていて、女性の私が見てもうっとりするくらいスタイルがいい。
彼女は私が緊張しているのがおかしいのか、くすっと笑って、目の前にある応接セットのソファに掛けるようにそういった。
「暑かったでしょう? 冷たい麦茶をどうぞ」
彼女は、優雅な仕草で私の前に氷の入った麦茶のグラスを置いた。
事務所の中は、空調が効いていて涼しい。研究所、と聞いていたが、この部屋は小さな事務机と、応接セットがあるだけで、何を研究しているのかはさっぱりわからない。
「少々、お待ちくださいね」
彼女はそう言って、奥の扉へ消えていった。
後姿も、非常に美しい。
――ミスコンとか、ぶっちぎり優勝しそう…。
美人は点描背負って現れるって本当だなあとしみじみ思う。
「お待たせいたしました」
扉が開いて、男が一人入ってきた。三十前半といったところか。若くはないが、美形だ。
何の研究をしているのかは知らないが、白衣を着ている。声は低めのバリトンだ。
「有野礼香です」
私は慌てて立ち上がり、頭を下げた。
「音無龍治です。よろしく」
男はそう言って、私に座るように告げ、目の前のテーブルに書類の束を差し出した。
「仕事は、あるアパートに住んでいただいて、気温変化と、騒音の調査をしていただく仕事です」
古そうなアパートの写真がそこにある。
「気温と騒音?」
調査はともかく、なぜ、住まなければならないのだろう?
「居住環境の状態調査も兼ねています。普通に、一週間ほど生活していただいて、ご感想をいただきたい」
「……意味がわからないのですが?」
「給料は日払い制です。もちろん、家賃、水道光熱費はこちら持ち。暑い季節ですから、エアコン設置も致しましょう」
音無氏はにこやかにそう言った。
「こちらの条件でご了承いただけるようでしたら、こちらにサインを」
書類に提示された日当は、破格である。私は目をむく。
「あの……、了承って、採用決定なのですか?」
正直、この条件なら応募者は他にもあるはずである。
「あなたは、試験に合格されましたから」
音無氏はニコリと笑う。
「試験?」
キョトンとした私を面白そうに、眺めて、音無氏は隣に立っていた秘書の肩をポンと叩いた。
「採用条件は、うちの秘書のアザミに、きちんと挨拶できることなんだ。いやあ、なかなか、いなくてねえ」
「はあ?」
どんな常識知らずが面接に来ていたのだろう?
「では、こちらに署名捺印を」
和やかに、しかし強引に、音無氏はそう言って。
私は、思わず、サインをしてしまったのであった。
三日後の昼下がり。
準備が整った、と、聞いて、アパートを行くことになった。
夏の青空が眩しい。汗が噴き出すような午後だ。
裏野ハイツというそのアパートは、築三十年というだけあって、新しいとは言い難いが、かといって、取り立てて悪いという感じもない。
駅からもそんなに遠くないし、住宅街だから、コンビニにも困らないという立地だ。
音無氏から、連絡を受け、一週間分の着替えを持って待ち合わせ場所に行く。
てっきりアザミさんがいると思ったら、音無氏が待っていて、びっくりした。
ビジネスとはいえ、美形に『やあ』と手を振られて、思わずドキリとする。
音無氏は、白いシャツにスラックスというスタイルで、このクソ暑いのに、どこかさわやかだ。
「部屋は203号室。簡単な家具はそろっている。大家には話してあるから」
特に近所に挨拶とかは不要だよ、と、彼はそう言った。
彼は自分の家に帰るかのような気楽さで、アパートの二階への階段へと私を誘う。
今日は、猛暑日なのか。日陰に入っても、いっこうに涼しくはない。
「おや、音無さん。こんにちは」
人のよさそうなお婆さんが後ろから、声をかけてきた。お婆さんは、和手ぬぐいを首からかけており、ニカッと笑った口には、金歯が光っていた。
「やあ、田室さん。しばらく、妹がこちらに泊まることになりましたので」
いもうと?
私は、音無氏の言葉の意味がわからず、顔を見上げるが、音無氏はニヤリと口の端をあげた。
どうやら、破格の日当には、やはり裏があるようだ。
「おや。妹さんかね? あまり似てないねえ」
お婆さんが不審そうに私の顔を覗きこむ。
そりゃあそうだ。全然似ていない。音無氏はマレに見る美形なのに、私はどこにでも転がっている平凡顔だ。
同じ遺伝子で生まれたとしたら、詐欺以外の何物でもない。
「よろしくお願いいたします」
訳がわからないまま、私はとりあえず頭を下げた。
「こっちだよ」
音無氏の後を追って、私は203号室の扉をくぐる。空調が効いていた。
とても涼しい。
「こんにちは、礼香さん」
部屋の中にアザミさんがいた。
どうやらわざわざ、先に来てエアコンをかけてくれていたらしい。
「冷蔵庫は今、何も入っていないけど、簡単な調理道具はあるから。料理するなら、使ってね」
アザミさんが流し台の下の扉を開くと、お鍋とまな板、包丁が入っていた。小さな食器棚に、最低限の食器と、電子レンジが置かれている。あえていうなら、炊飯器がなかったが、生活に支障はなさそうだった。
バス、トイレもある。しかも、ベッドも置かれていて、小さな執務机に、パソコンが置かれていた。
「テレビは、ないけどね」
音無氏が申し訳なさそうにそう言った。
「一日に午前9時と午後9時。それから0時に室温とベランダの外気温……それから、精密騒音計の測定。これらは、一応、自動で行うことにはなっているのだが、君自身も記録してくれ」
「はい」
私は、首を傾げた。
「室温ってことは、その測定時間の時はエアコン等は切ったほうがいいのですか?」
「いや、それは別にいい」
音無氏はそう言って、引き出しの中から大きな桐箱を取り出し、私に渡した。
「明らかに、異常を感じたらこの箱を開けること。それから、俺に連絡を」
「なんですか? この箱?」
桐箱のふたはぴたりと閉じていて、開きそうもない。
「開ける必要がないといいのだけれど」
アザミさんが、ボソリとそう呟いた。
「え?」
私は二人を見上げたが、はっきりとした答えは得られなかった。
夕刻、二人は帰り、私は夕飯を買うためにコンビニへと出かけた。
黄昏時になっても、アスファルトはまだ焼けたままだ。
――アイス買えばよかった。
ほんの五分くらい歩いただけなのに、汗が噴き出している。
――あら。
日が暮れたというのに 103号室の扉のそばに小さな男の子がひとり、じっと立っていた。
「こんばんは」
私が声をかけると、男の子はびっくりしたように私を見た。
「どうしたの?」
男の子は困ったように首を傾げた。親に怒られたのかもしれないなあと思う。
「もう遅いから、お家に入ったら? お母さん、心配するよ?」
男の子がウン、と頷いた。
「こんばんは」
声に振り返ると、五十才くらいの男性が私の横を通り過ぎ、101号室へと向かっていく。
「こんばんは」
挨拶を返して、私は、もう一度男の子の方を見たが、男の子は既にいなかった。
――いつ、扉を開けたのかしら?
子供にしては、随分と静かに開け閉めをする子だなあと、感心しながら、私は階段を昇る。
202の新聞受けに、新聞が入っているのを見えた。
――あのおばあちゃんが201だってことは、202は、勤め人さんかな?
私は、鍵を開けながら、ふとそんなことを考えた。
コンビニ弁当を食べ、ひと風呂浴びる。
空調のきいた部屋で、清潔なベッドに寝そべりながら、時計の針を眺めた。
一人でいることは慣れているが、静かすぎるなあと思う。
駅から近いとはいえ、一本奥まったところにあるせいか、車の通りも少なく、当然、人通りも少ない。
精密騒音計って言っていたけど、隣りの家の生活音すら聞こえてこない。
9時の測定をするために、私はベランダへ出た。相変わらず、外は暑い。
お隣さんのベランダは、暗いままで、灯りは落ちていない。
――しかし、ヒマだ。
測定は0時にも行わなければならない。
テレビはない。本も持って来なかった。ネットサーフィンもいい加減、疲れた。
――もう一回、コンビニ行って、漫画でも買ってこよう。
どちらかといえば、早寝の私にとって、0時という時間は、起きていなくてはいけないと思うと、そこそこ緊張する時間である。
夜九時を回っていたが、コンビニまでの道は明るかったし、三十路を過ぎたあたりから、ナンパされることもなくなった私は、夜道に臆することもなく、出かけることにした。
私が階段を降りると、半開きの103号室の前に、小さな男の子が立っていた。
男の子は、私に気が付くと、扉の影へと入っていった。
――あんな小さい子が、まだ起きているのかな? それにしてもエアコン、つけていないのね……。
アパートの一階で、玄関網戸状態って、随分と治安が良いのね、と私は思いながら、コンビニへと向かったのだった。