5、人形争奪戦
西川氏は開いたばかりの銀行に行くとさっそく200万円下ろした。カードしか持っていなかったので支店長を呼び、事情……適当な作り話を話し、特別に1回の引き下ろし制限を外してもらった。
そのままいったんは会社に向かおうとしたが、どうしても気になって、島田彩美の家に向かった。
西川氏は地元では名の通った大手総合商社の基幹事業の事業部長という要職に就いていた。そんな彼が急に今日は休むと言うので、電話を受けた秘書は困惑して、今日の予定はどうするのか、一々細かく訊いてきた。西川氏は、とにかく今日は全部キャンセルしろ、こっちでチェックして必要な指示はする、と言って電話を切った。
氏は、テレビの刑事ドラマよろしく、島田家が見える路地の奥に車を止めて、じっと見張っていた。幸い奥の道路にはアパートが並んで、前に駐車場があり、一時停車を装っていてもそれほど目立たなかった。
島田家はみな新しめの一戸建てが並んでいる中の一軒で、カーポートと、ちょっとした庭があった。今、カーポートは空で、父親が出勤に車を使っているのだろう。
西川氏は車中、スマホで今日のスケジュールを確認して、あれこれとやらなければならないことを思い出したが、気がそわそわしてしまって、けっきょく全部放棄してスマホをしまってしまった。
このままさっさと家を訪問して、母親に札束を示した上で事情を話し、人形を手に入れてしまいたいと喉から手が出るほど思ったが、やはりややこしいことになり話のこじれるのを恐れて諦めた。
11時前になって、島田家から一人の婦人が出てきた。彩美の母親だ。ぶら下げているバッグから見て、近所のスーパーにでも買い物に行くらしい。
夫人はこちらに歩いてきた。西川氏の車は大型のセダンだったが、身を潜めてやり過ごすには西川氏の体は大きすぎて、またスマホを取り出して何か調べ物をしている風を装ってやり過ごした。
夫人が行ってしまってから5分ほどして、反対の方から水色の作業服を着た男がやってきた。
男は島田家の玄関に向かい、呼び鈴を押すと、3秒ほどして、ドアに向かって言った。
「関東ガスサービスです。湯沸かし器の点検に参りました。調べさせていただきます」
男はカーポートを通り、向こうの側面へ入っていった。裏に設置してある湯沸かし器を見に行くのだろう。が。
フロントガラスからじっと見ている西川氏の顔は、眉が丸く盛り上がっていき、目の外にくっきりリング状にしわを刻んでいき、目玉をぎらつかせ、見る見る険悪な表情になっていった。全体の肌が紅潮し、額には憤怒の青筋がのたうちながら浮き上がり、ついには鬼のような恐ろしい形相になった。
西川氏は車を降りると、トランクを開け、練習用に積んである3本のゴルフクラブの中からアイアンを取り出すと、竹刀のように持って、鬼の形相のまま島田家向かって大股で歩き出した。
男は空き巣だった。
持参の道具で裏口ドアをピッキングすると、中に侵入し、5分ほどで裏口に戻ってきた。
そっと開いたドアの隙間から外をうかがい、さも当たり前のように出てくると、閉めようとしたドアの陰にいた人影に驚いた。
西川氏はフルスイングで男の顎を叩き上げた。日頃の練習の成果が発揮された、改心の当たりだった。
スコーンと後ろにのけぞった男の目にはシルバーの星がいっぱいに飛び交ったことだろう。
男は四角いバッグを肩にかけていたが、その口が開いて何か丸い布包みが飛び出していた。
それを見た西川氏は、憤怒の形相で今度は上から渾身の力を込めてアイアンを男の頭に叩き込んだ。
男は今度はガクンと顎を首にめり込ませ、バネのように跳ね返った。顔を隠す為に被っていた服とお揃いの水色のキャップが、見る間に真っ赤に濡れた。
男はドスンと尻餅をついた。
西川氏は男のバッグから丸く長い包みを取り出し、中を改めると、一瞬狂気に似た喜びを表したが、また憤怒の形相に戻って男を睨んだ。
シャフトを折らないように前の方に持ち替え、ビシッ、ビシッ、と男の顔を左右から殴りつけた。
男は殴られるままに揺れて、西川氏の空振りに合わせて地面に横たわった。
「こそ泥め。警察への通報は勘弁してやる。さっさと失せろ!」
憤怒のまま言い渡し、西川氏は包みを大事そうに抱えて、表へ出て行った。
車に戻ると、改めてちょっとだけ中を確認し、歓喜に目を輝かせると、辺りを見回し、慎重に車を発進させた。
放課後。
博美と彩美は連れ立って、校門から少し先の、広くなった道路端に止めた西川氏の車へ向かった。
「やあお帰りなさい。一日ご苦労様」
西川氏は落ち着いた、穏やかな笑顔で二人を迎え、二人が後部座席でシートベルトを締めると、下校の生徒たちに気をつけて車を発進させた。
表通りに出て、信号待ちしている時に彩美は訊いた。
「あの……、本当に、その、そんな大金を払ってまで、その人形が欲しいんですか?」
時間を置いて冷静になってみれば、信じられないような話で、やっぱり何かの間違いじゃないのかと恐くなってしまった。
「そうだよ。大丈夫、約束通りちゃんとお金は用意してきたからね」
西川氏は優しい声で安心させるように言い、彩美も、
「はあ……」
と、今さら引っ込みもつかず、うなずくしかなかった。
西川氏は近所のコンビニの駐車場に車を止め、
「ここで待ってるから持って来てくれるかな?」
と彩美を送り出し、自分は娘と一緒に店に入った。
彩美は家に帰ると、「お帰り。今日は早いわね?」と言う母に「すぐまた出るから」と言って2階の自室に上がった。
人形がどんな顔をしているかこわごわドアを開けると、タンスの上にあるはずの人形がなかった。
「あれ?」
拍子抜けしたように声を出し、倒れて落ちたのかと床や辺りを捜してみたが、どこにも見つからなかった。
彩美は階段の上から母に訊いた。
「ねえ、お母さん。学校行ってる間にわたしの部屋入ったあ?」
「入ってないわよ。あんた、怒るでしょう?」
部屋に戻ってもう一度捜したが、やっぱり人形は見つからなかった。
彩美は狐につままれたような気分になった。
コンビニに戻ると、親子は車にもたれてソフトクリームを食べていた。
「やあ、お帰りなさい」
満面の笑顔で迎える西川氏に彩美はひどく胃の痛い思いがした。西川氏も彩美が手ぶらなのを見て笑顔を曇らせた。
「人形は? どうしたんですか?」
「それがその……」
彩美は大きな西川氏に怒られるのが恐くて、うつむきながら答えた。
「ないんです……。あの、もしかしたら、最初からなかったのかも……。えーと、夢を見ていたのかも…………」
言いながら彩美は、ああ、本当に悪夢だよ、と思った。
「ない? 夢?」
西川氏は困惑し、あからさまにがっかりした顔になった。
「そうか……、ないのか……。ああ、やっぱりあの人形が手に入るなんて、夢だったのかもしれないなあ…………」
「ごめんなさい。期待させちゃって……」
「ああ、いやいや」
びくびくしている彩美に西川氏は気落ちしながらも優しく笑いかけた。
「まさに幻の人形だな。わたしもちょっと有頂天になり過ぎてしまったようだ。こちらこそ悪かったね。ああ、どうぞ、飲んで」
西川氏は博美を促し、彩美用に買っておいたイチゴオレのカップを渡させた。
「それからね、こっちもお土産」
他にも座席からいくつもスイーツの入った袋を取り上げ、寄越した。さらに、
「すまなかったねえ、気を使わせちゃって」
と、財布を取り出し、1万円札を2枚、差し出した。
「お詫びの印です。受け取ってください」
「そんな、受け取れません」
びっくりして断ったが、
「そう言わずに。わたしの気が収まりませんから」
「もらっちゃいなよお。今度二人でカラオケ行こうよお」
博美にも笑顔で勧められ、
「ああ、そうしなさい。彩美ちゃん、これからも娘と仲良くしてやってください」
と押し切られて、受け取らされてしまった。
「ありがとうございます」
100分の1になってしまったが、高1には十分なお小遣いで、思わず嬉しさが顔に出てしまうと同時に、ニコニコ見つめてくる博美とその父親に、縁を切れそうにないなあ、と、うざったい思いもした。
「ただいまあ」
「おや、またまた早いのね?」
たまたま玄関にいた母に
「お裾分け」
とスイーツの袋を渡した。さすがに全部食べたら豚になりそうだ。
部屋に上がると、窓を全開にして空気を入れ替えた。
さっき来た時にも感じたのだが、やっぱり誰かが入ったように思えた。ほんの微妙な違和感で、特に何がどうなっているわけでもないけれど。
入ってきた誰かは、人形を一目見るなり、それだけ持って出て行ったようだ。
博美のお父さんだろうか?…………
考えてみれば人形が無くなった理由を「夢を見ていたみたい」と言って、すんなり受け入れられるなんて変だ。
博美のお父さんはお金持ちらしいから、自分じゃなくても、誰か人を使って盗み出させたのかもしれない。
お母さんが無事でよかったなあ……、と、ぞっとした。
ニコニコしていても、やっぱりあの大きなお父さんは恐い、と思った。実の父親とはいえ、博美は恐くないんだろうか?
彩美は恐い。恐くてしょうがない。
人形をあらかじめ手に入れたのは、お金が惜しかったんじゃなくて、とにかく確実に手に入れる為だろう、と思った。
とにかく、
勝手に持って行ったんだからね、
わたしのせいじゃないからね?
もう、金輪際、絶対、戻ってこないでね?
と、彩美は切に願った。