3、やってきた人形
彩美はもともと風呂好きだったが、今日は特に念入りに、ボディーソープを大量に泡立てて体の隅々まで磨き、髪の毛は二度洗いしてコンディショナーで整え、熱めのお湯につかってたっぷり汗をかいた。
思い出しても気持ち悪い、あの女に、あの人形。
さっさと忘れちゃおう。
ちょっと頭の中まで軽くなったみたいにふわふわした気分で上がると台所の母親に「長い!」と叱られたが、無視して2階の自室に上がった。
頭をタオルでくるんでくしゃくしゃやって、ばさばさ髪を振って、ふう、と目を開いた時、それに気づいて、「ひいっ……」と息をのんだ。
横長のローチェストの上に、2匹のテディベアと並んで、
あのフランス人形が立っていた。
なんで?
と、信じられず、のぼせた頭の見せる幻影だと、しばらく見つめていたが、幻影は消えてくれなかった。
「嘘、なんで?」
自分の発した声に、目の前の光景が現実の物だと実感して、恐怖が腹の底からわき上がって来た。
それでも何か当たり前の理由があるはずだと、階下の母親に訊こうと思った。
「おかあ・・」
けれど、
フランス人形は、グリーンを金と黒の帯で縁取って、白のフリルをふんだんに盛り込んだドレスを着ていたが、
その白のフリルが茶色のまだらで汚れていた。血だろう。
この人形がどうやってここにやって来たのか、想像するとぞっとした。
下で母親が、
「なにい? なんか呼んだあ?」
と声を上げた。
「ううん、なんでもなーい」
彩美は答えると、とっさに、隠さなきゃ、と思い、タンスの引き出しを開け、何かないかと捜した。
奥からまず着ることがないだろうキャラクター柄のTシャツを引っ張り出し、立ち上がると、一瞬ビクッとしながら、人形をくるみ、押し入れの下段に、段ボールの隙間に押し込んだ。
ふと、血まみれの女が隠れたりしてないだろうか、とギョッとしたが、押し入れの上段は布団が詰まっているばかりで、
「はあーー……」
と、疲れたため息をついた。
明日、神社に持って行ってお祓いしてもらおう、と思った。
彩美は眠っていた。
周りでがやがやと、人の声がして、
うるさいなあ、と思った。
声は不明瞭だった。何を言っているのか分からない。
分からないのは、それはどうやら外国語のようで、
大勢の人間が遠巻きにして、何か怒って、口々にののしっているようだ。
ああ、うるさい夢だなあ、と彩美はのんきに思っていた。
出てくる夢が違うよ、誰か他の人の夢に行っちゃってよ、と迷惑に思っていた。
突然、
天地がひっくり返った。
ザブン、と、彩美は顔を水の中に突っ込まれた。
冷たい。
リアルな感触に彩美はパニックになって暴れた。しかし、
後ろから肩と首をがっちり押さえつけられて、水の中から顔を上げることを許されなかった。
水の中へ、頭まですっかり潜っている。
暴れて、ゴボゴボ、口から泡を吹き出して、耳にしっかりくぐもった水音を聞いていた。外からは相変わらずののしる大勢の外国語がわんわんと響いている。
息が限界で、彩美は死にものぐるいで首を振りたくった。鼻の奥にキーンと痛みを感じていたが、そんなことより、とにかく、死んでしまう!、と必死だった。
本当に……、死ぬ…………
水の圧力が消え、空中に戻った彩美は、馬のように喉を鳴らして空気を吸った。
引きつけを起こしたように激しく呼吸して、暗いながらそこが自分の部屋で、自分はベッドに寝ていることを確認して、けれど恐怖は去らなかった。
絶対的な安心感を感じている自分の部屋のベッドの中で、本気で死ぬ思いをしたのだ。
自分の汗以外、顔や髪が濡れていることはなかったが、あれがただの夢だったなんて、絶対に信じられなかった。
ゼエゼエハアハア、ようやく呼吸が落ち着いて来た。
なんであんな恐い、ひどい目に遭わなければならないのか?
原因として考えられるのは一つ。
足下の押し入れの方を見ようとした彩美は、それ以前に、かたわらで自分を見下ろしている人影にギョッとした。
フランス人形。
等身大のフランス人形が、ヨーロッパ貴族の令嬢を思わせる綺麗な顔に冷たい侮蔑の笑みを浮かべて、彩美を見下ろしていた。
フランス人形は日本語で言った。
「狭いところは大嫌い。今度やったら、殺すわよ」
意識が遠のいて、彩美は気を失った。
翌朝、彩美が目覚めると、
テディベアは茶色と白のペアがいたのだが、茶色の方が床に落ち、カーペットの上に中の白綿をまき散らかしていた。
タンスの上には、白いテディベアをペットのように従えて、フランス人形が立っていた。
床のテディベアは腹が引き裂かれていた。
特にかわいがっていたわけではなかったが、彩美はひどく悲しくなった。
顔を洗って居間に行くと、
「おい、彩美。たいへんだぞ」
と、父親が興奮した様子でテレビを示した。
この近所の、彩美も通った小学校のグラウンドで、女の死んでいるのが見つかったが、その女は昨日夕方、事故に遭って運ばれた先の病院から重体の身で姿を消して、捜索されていたのだそうだ。
「朝、5時頃、サイレンの音がすごかっただろう? 目、覚まさなかったのか?」
首を振って席に着く彩美に父親は呆れた。
あの女だ。と彩美は思って、死んでいてくれたことにほっとした。
「昨日は街の方でも事件があったんだぞ? 骨董屋の主が殺されて、警官が重体だってさ。金なんて貯め込んでたのかなあ? 恐いなあ。犯人、早く捕まればいいけどなあ」
大丈夫だよ、お父さん。と彩美は思った。
犯人の女は、もう死んでるから。と。