15、霊能師
週が明けて、水曜日の午前10時、霊能師、神樹光子留は、弟子の神枝みどりを伴って、西川家最寄りのバス停に降り立った。
西川家では博美の母と詩穂の母が神樹の到着を待っていた。
西川氏は会社に出勤している。博美も学校だ。鍵は博美から預かっている。
神樹光子留は56歳。大仏のように皮の厚いいかめしい顔をしている。袈裟を思わせる黒いコートの下には白い法衣を着込み、結袈裟を掛けている。この日に備えて山にこもって霊気を蓄えてきた。袖の中、左手に数珠を巻き、右手に密教仏の武器である金剛杵を持ち、戦闘への意欲は万全だ。
脇に控える神枝みどりは42歳。剃髪して痩せて、こちらも一見男性のように見える。彼女は普通に黒い袈裟姿をしている。神樹の下で修行して十余年。今や神樹の心強いパートナーだった。
「では、参りますよ」
バスが行ってしまうと、深く響く男性的な声で言って、神樹は歩き出した。
バス停から西川家は300メートルほど。表通りから奥まった、大きな家の並ぶ御屋敷通にあった。
路地を細かく曲がっていき、少し広い道路に出る。こざっぱりした神社があって、神樹はこの地の地主神に挨拶して、そこから2本先の路地を目指した。
いよいよ、西川家へ30メートルほどという入り口に立った時。
空は高い所に刷毛で掃いたような白雲があるだけで、真っ青な、快晴だった。
神樹は気合いを前面に押し出しながら一歩を踏み出した。
「ぐっ」
地面に着こうとした足が、中途半端な所でぶら下がった。
「先生。いかがなされました?」
師匠の異変に気づいて神枝が横から顔を覗いた。
神樹は下唇を噛み、鬼のような形相でうなっていた。
「先生」
「脚が……、つった……」
草履に脚絆の足が、ぷるぷると震えている。
拍子抜けするアクシデントだったが、当人の苦痛は激烈だった。
「悪霊め、わしに来てほしくないようじゃな」
神樹はオールバックの額に脂汗をにじませながら自分を鼓舞するように不敵に笑った。
なんとか地面に足を下ろしたが、筋肉がはがれ落ちようとする激痛が突き上げた。
「なんの」
神樹は両手をコートの袖から出すと、左手の数珠を胸の前に構え、金剛杵の右手を突き出した。
「行くぞ!」
「はっ」
辺りが急に陰った。日を隠すような雲もないのに、太陽が黒く影になった。
数珠が弾けとんだ。広い額に当たって血がにじんだ。
神樹はぐっと堪え、前進した。まるで大風を真っ正面から受けているように体が重かった。
「せ、先生……」
「後ろからついてまいれ」
神枝は耐え切れずに神樹の背に隠れて続いた。
神樹は風の壁を切るように金剛杵をぐっと突き出した。三つ爪の、三鈷杵という物だ。人の、行動・言葉・心を、仏のそれと一致させる為のアイテムだ。
「オン アバキャ ベイロシャノウ・・」
光明真言を唱えて悪しき霊波を除滅しようとした。
キリキリキリ……
黄金の三鈷杵の、左右、三つずつの爪が、徐々に伸び上がり、神樹に向かってきた。さしもの神樹も驚いた。
「おのれ、人形ごときに取り憑いた悪霊が、こざかしや、幻覚など操りおって」
神樹は光明真言の声を高めた。
6本の爪が、それを握る神樹の腕に食い込んできた。
「ぎゃっ・・」
痛みは幻ではなかった。爪の食い込んだ肌から、だらり、たらたら、と、血が滴った。
神樹は痛みを堪え、ひたすら真言を唱え続けた。
神よ、仏よ、悪しき霊を討ち滅ぼす力を我に……
爪は肉を突き抜け、骨に達した。
神樹は悲鳴を真言に換え、気絶へ逃げようとする己の意思を叱りつけた。それにしても、
この距離が、達せぬか…………
3軒先に、西川家の、フェンスに囲まれた庭木と、ベージュのレンガ仕立ての家が見えている。そのわずかの距離が、1キロにも、1000キロにも思える。
「オン アバキャ ベイロシャノウ・・」
神枝が印を結んだ手を前に、師匠の苦境を救うべく、自分が楯になろうと、決死の覚悟で前に出た。
「よせ、神枝・・」
しかし。
「ああっ・・」
一瞬で風向きが反転し、神枝は宙で回転すると、猛烈な引きにさらわれ、向こうへ5メートルも飛ぶと、再び反転した風に押し出され、猛烈な勢いで吹っ飛んできた。
「わっ」
「ぎゃっ」
神枝の体は神樹の三鈷杵の右手に当たり、神樹を飛び越えて後ろへ転げた。
神枝の体にぶつかられ、三鈷杵が手からこぼれ落ちた。
神樹は骨をひび割る激痛からは逃れることが出来たが、丸裸の右手は血まみれで、ズキズキ鈍痛が腕を悩ませた。
あちこちから黒い物が視界に入ってきた。
何かと見れば、通りの両側の家の塀に、屋根に、数十羽の大きなカラスが止まった。
カラスたちはくりっくりっと丸い目玉を光らせて神樹を見ている。
不穏な共同意識に神樹もしばし真言を唱えるのを忘れた。
はっと目を向けると、
西川家の2階の窓に、
西洋人の女が立っているのが見えた。女が笑っているのが神樹には分かった。
神樹はぞっとした。
「ぎゃあああ・・」
右手に激痛が走り、見る間に指が反り返ってきて、爪が割れて血が噴き出し、ボキボキッ、と骨が砕けた。
神樹は声にならない悲鳴を上げて泣いた。
なんなのだ、この化け物は?
完全に相手の力を見誤った。相手の力があまりに巨大すぎて、まるで見えていなかったのだ。
悪霊なんていう生易しい物ではない、これは、魔物だ。
なんなのだ? こんな物がこの世に存在していいのか?
なんなのだ、いったい、あれは?
「ああああああ・・」
神樹は地に膝をついた。反り返った手首が、ゴキリ、と折れた。ポンプに押されたように三鈷杵の傷から血が噴き出した。
カラスたちがざわめき出した。獲物の弱ったのを見て取って、襲いかかるタイミングを待ち構えている。
神樹は完全な敗北を悟った。逃げねば、と思ったが。
「わっ・・」
右腕が上に引っ張られ、勢いよくアスファルトに叩き付けられた。
「ぎゃああああああっ・・・・」
手の形が判別できないほど、濃い血が飛び散った。
ミシ、ミシ…、更に巨大な鉄でも置かれたみたいに圧力が加わってきた。
神樹は目玉を飛び出さんばかりに開き、よだれを垂らして苦しがった。
マリーは、自分と同じ力を持つ者に容赦がなかった。力を理解する者のリアクションが楽しくて仕方ないように、遊んでいた。
「せ、先生!」
後ろに転がっていた神枝が目を覚まし、惨状に驚愕した。
「神枝、逃げろおお……」
神樹は血のつばを飛ばして叫んだ。
「わしでは、どうにも出来ん。逃げろ、逃げるのじゃあ!……」
「先生も」
「わしは……」
さっ、と日食が明けたように辺りが明るくなった。同時に。
クワアーッ、カアーッ。
集まってきていた数十羽のカラスが、飛び上がると、いっせいに神樹めがけて襲いかかった。
「ぎゃああああ・ああああ・ぎゃああああああああっ」
バサバサ羽を鳴らしてうごめくカラスたちの下から鮮血がほとばしり、ザアーッと雨になってアスファルトを濡らし、辺りに濃厚な臭いを立ちこめさせた。
「あわ、あわわ……」
神枝はすっかり腰が抜けて地面に尻を引きずりながら後退した。
人の形をしたカラスの群れが地面に伸び、もがき、ガツガツと肉を食いちぎるくちばしの音が響き、平らになった。
「うひゃああ」
カラスたちの間に血まみれの骸骨が覗き、神枝は跳ね上がると、へっぴり腰に駆け出した。
先生がやられた。これまで数多くの悪霊どもを調伏してきた偉大な先生が、虫けらのごとくもてあそばれ、殺されてしまった。
恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい、
誰か、助けてくれ!・・
神枝は神社めがけて駆けた。いっときここで保護してもらおうと思った。
はたと足が止まった。神社と道路の境に側溝のコンクリートのふたが並んでいる。そこをまたごうと思うのだが、立ち止まってしまって、どうしても進めなかった。
何故だ?と社を見た。
神のくせに、悪と闘う者を見捨てるのか?
そんなに、あの人形が怖いか?
アスファルトを蹴る固い爪の音が近づいてきた。見ると、毛のふさふさした、茶色い斑の洋犬が走って来る。赤い紐を後ろに跳ねさせて、飼い犬が逃げ出したようだ。それほど大きくなく、愛らしい姿の犬だったが、一心不乱にこちらに駆けて来る様子に、まさか、と恐ろしい予想をした。
予想はそのまま実現した。
犬は獣のうなり声を発して神枝に躍りかかった。
神枝は悲鳴を上げてひっくり返り、必死に犬の口を押さえる手は瞬く間に血まみれになり、暴れ回る前足に引っ掻かれて衣ははだけ、顔や首の肌が裂けた。
必死に振りほどき、いったんは逃れたものの、後ろから飛びかかられて、ガリッ、と剃った頭にかぶりつかれた。
悲鳴がほとばしった。
犬を背負ったままひいひい言ってよろよろ歩き、
「誰か、誰か、」
と血のしたたってくる必死の形相で助けを求めた。人っ子一人いない静かな住宅地は、まるきり白昼の悪夢だった。
首に噛み付かれた。
鋭い牙がぐうっとめり込んできて、図太い痛みが広がり、カアッと頭が燃え上がった。
がっくり膝をつき、後は犬のなすがままになった。
犬はすっかり野生の血に目覚めてしまったらしい。
黒いぼろ切れのように地面を引きずり回され、新たに加えられる痛みは遠い別の世界の出来事のように思った。
せめてもの情けか……
神枝は自分の死に様を傍観しながら常世へ旅立っていった。




