11、キリ
3時間目の授業の最中、教頭が教室へ詩穂を呼びに来た。
教務室への道すがら、父が会社で倒れて、救急車で病院へ搬送されたことを聞かされた。家の者……同居している母の叔父が迎えに来るから、いっしょに病院に向かってほしいということだった。母も既に病院に向かっているということで、母は自分で文房具店を持って経営していた。
父は心臓の発作で倒れたらしい。これまでそのような徴候は全くなく、突然のことに詩穂はひどく心配した。
教務室で迎えの到着するのを待っていると、しばらくして電話があった。大叔父からだった。差し出された電話を詩穂が取ると。
『詩穂さん。申し訳ない。途中で、人身事故を起こしてしまった』
「なんですって!?」
詩穂は驚いた。日頃から慎重な運転をする大叔父が、よりにもよって人身事故を起こすなど、やはりよほど焦っていたのだろう。
「どんな事故なの? 相手の方の状態は?」
『車道へはみ出して来た自転車の方に接触して、転倒させてしまったんです。お年を召した方で、意識が戻らないで……、ああ、今救急車が来ました。……詩穂さん。申し訳ありませんがわたしはお迎えに行けそうもありません。学校でタクシーを呼んでもらってください。では……』
大叔父の涙まじりの声に胸を痛めながら電話を終えると、詩穂は教頭に事の次第を教えた。
「それはまた大変ですね。分かりました。学校で利用するタクシー会社に手配しましょう」
「あ、教頭。それでしたら」
授業が空きで教務室にいた男性体育教師が呼びかけた。
「わたしが送ってきましょう。また何かあったらたいへんですから。県立総合病院ですね? 今の時間なら30分で往復出来ます」
「そうですね」
教頭は考えた。まさかとは思うが、遠山詩穂の家は資産家だ。バタバタした状況で、誘拐なんてされたら事だ。
「分かりました。大羽先生、お願いします。急がなくていいですから、しっかり親御さんにお届けしてください」
「分かりました。じゃあ、遠山。行こう」
大羽隆宏教諭は男子担当だったが詩穂のクラスの体育も受け持っていた。体育館で一緒の授業を受けることもあって、一応面識もあり、詩穂は安心した。
「はい。お願いします」
「うん」
二人は教頭と、他の空きの教師数名に見送られ、教務室を出て行った。
1時間ほど後、詩穂の母親から電話があった。
娘はまだ学校を出ていないのだろうか?という問い合わせの電話だった。
教頭は仰天した。とっくに学校の教師が送っていったことを説明し、娘さんと連絡は取れないのかと訊ねた。母親から娘のスマートフォンには通じないということだった。あちらで電源を切っているらしい。
教頭は至急大羽教諭の携帯電話の番号を調べ、電話した。彼の携帯も電源が切れているようで通じなかった。
教頭は卒倒しそうに真っ青になった。何かの間違いだろうと自分に言い聞かせたが……
「……警察に、通報しましょう……」
と、苦しい声で母親に提案した。
通報を受けた警察が二人の行方を捜したが、なかなか見つからなかった。
博美が遠山家の不幸を知ったのはその日の夜のことだった。誘拐の疑いのある詩穂のことは警察から関係者に口止めされていたのだが、常にライバルの動向を探っている博美の父は情報を仕入れていて、帰宅すると、妻には内緒に、博美にだけこっそり教えた。
「まあ」
と博美は目と口を丸くして驚いた。
「お気の毒に」
「そうだねえ、遠山君も詩穂ちゃんもかわいそうに」
そう神妙に言いながら、父の目は笑っていた。
「仕事に影響がないといいけどねえ」
そう言いながら、そうなれ、と願っているのが目にありありと浮かんでいた。
博美は父からマリードールのお世話を言いつかっている。
帽子をぬがせて、巻きを崩さないように気をつけてお人形用のくしで髪をとかしながら、話しかけた。
「ねえ、マリーさん。詩穂さんはどこに行っちゃったのかしら?
うーん……、詩穂さんなんていなくなっちゃえばいいのに、って思ったけど、ひどい目に遭ってないかしら? ちょっとかわいそう。
ええ? 本当よお、本当にかわいそうって思っているわよお。
まあ、これを機会に人への思いやりを持つようになればいいわよ。ね?
……マリーさんが詩穂さんを連れて行かせたんじゃあ……ないわよね?……」
詩穂と共に消えた大羽隆宏教諭は、28歳の独身。
これまで学校で問題になるようなことはなく、顧問のバレーボール部の指導も熱心に行っていて、明るい人柄で生徒たちにも慕われていた。
学校側は二人がなんらかの事故か事件に巻き込まれたのだと固く信じていたが、手がかりを求めて大羽教諭のマンションの部屋を調べた警察は、パソコンに学校の女子生徒たちの盗み撮りしたと思われる画像を多数発見し、その中には遠山詩穂の画像も相当数あった。
警察は大羽を遠山詩穂誘拐の容疑者として本格的に捜査を開始した。
翌日は土曜日で、星蘭高校は授業はなかったが、教務室には朝から校長、教頭、学年主任、詩穂のクラスの担任、そして警察の捜査員らがつめていた。
8時過ぎ、大羽から電話があった。こちらからの呼びかけには答えず、熱に浮かされたような口調で次のようなことを言った。
『オレは使命を果たした……遠山の純潔を証明してやらなければならなかったんだ……でなければ、あの女に……あの女に……大丈夫、安心してくださいとご両親に伝えてください、遠山は、お嬢さんは、間違いなく純潔だったと……どうぞ最後まで頑張った彼女を褒めてあげてくださいと……オレは使命を果たした……使命を果たしたんだ…………』
一方的にしゃべると大葉は電話を切ってしまった。
大羽が電話をかけてきたエリアが特定され、警察は捜索隊を集中して向かわせた。
そこは山地の田舎だった。
南北を結ぶ道路を、長距離輸送の大型トラックが走って来ると、それを狙っていたように横の薮から裸の男が飛び出した。運転手が驚いてブレーキを踏む間もなく、男は激突し、フロントガラスに血が飛び散った。
男は大羽だった。
警察に通報した運転手は、男が最初から血まみれだったと興奮した口調でまくしたてた。
近くの山の中に合宿用の施設があり、大羽が引率するバレーボール部が利用したことがあった。
果たして、遠山詩穂はその体育館で死体で発見された。
惨い死に様だった。
全裸の詩穂は、全身が真っ赤に染まり、全身至る所に、恐らくはかたわらに転がる大工道具の錐で突き刺された跡があった。
周りにはろうそくが円形に置かれ、自殺したと思われる大羽の奇行からして、なんらかの宗教的強迫観念からの凶行と推測された。
事件は最悪の形で終わりを迎えた。
遠山家の悲劇はまだ続いた。
遠山氏の心臓の緊急手術は成功し、翌日目を覚ました。
医師からは心臓に負担をかけるようなことはしないように言われたが、夫人の精神も限界だった。
姿のない娘と叔父のことを訊かれた夫人は、激しい嗚咽と共に真実を暴露してしまった。
遠山氏の目がまなじりが裂けんばかりに大きく開き、心電図モニターが異常を報せる電子音を発した。
医者が処置に当たったが、遠山氏の興奮は抑えられず、遠山氏は血を吐き出しながら呪詛を叫んだ。
「おのれ・・・・西川ああ・・・・」
遠山氏は意識を失い、懸命の処置もむなしく、そのまま亡くなってしまった。
会社では遠山部長の不幸は西川部長がかけた呪いのせいじゃないか?などという噂も囁かれたが、表立って言う者はいなかった。遠山部長の後がまを巡って、遠山部長の社長派と西川部長の専務派が熱心な推薦運動を開始しており、どうやら専務派西川部長の部下が就任する勢いが濃厚だった。
派閥抗争に西川氏の存在感が増し、次の副社長候補、社長候補を取りざたされるようになった。
『これで本物のマリードールであるのが証明された。絶対にあの人形を手放しはしないぞ』
西川氏は心の中で黒く笑うのだった。




