1、人形を抱えた女
人形を抱えた女がいた。
古くからの繁華街のアーケード通りだ。
裏の夜の通りならともかく、昼日中、表を出歩くには艶やかすぎる真っ赤なワンピースを着て、それだけでも浮きまくっていたが、その奇矯な振る舞いが行き交う人々に大いに迷惑になっていた。
「お人形、譲ってあげるわよお? ほらあ、綺麗でしょう? 可愛らしいでしょう? ねえ、見て? 見てよ、ほらあ」
女は、30になるかどうかといった年頃で、元はなかなか美しい顔立ちをしていたと思われる。
「ほらあ、ほらあ」
と、痩せて不健康な色をした顔に精一杯媚びた笑みを浮かべて、ねちっこく、熱っぽい口調で、道行く……若い女性や女の子を狙って話しかけてくる。
痩せたこめかみに、臭うような脂汗をじっとり浮かべていた。
話しかけられた女性たちは、「けっこうです」と迷惑そうに避けて、さっさと離れて行った。
遠巻きにして、誰も近づかないと、女は髪を振り乱して辺りに、
「わたしはもう十分幸せなの! わたしはもういいの! 今度は、あなたが幸せになる番よ!」
と訳の分からないことを、崩れた笑みで、必死に訴えた。
女が胸に抱えているのは、たっぷりしたフリルのたくさんついたドレスを着た、フランス人形だった。
大きさは、60から70センチくらいありそうな、子どもが抱くには大きすぎるように思える物だった。
大きな帽子の下からブラウンの巻き毛がいっぱいに広がって、小さな顔は、この手の人形としてはお姉さんっぽく、グリーンの瞳の、上品な顔立ちをしていた。
小さな女の子が人形を見つけて指差した。
「ママあ、お人形くれるって。きれいなお姫さま」
声を聞いた女はニイッと歯を覗かせて振り向き、慌てた母親は
「駄目よ。行きましょ」
と女の子の手を引き、早足で逃げて行った。
「ねえ、誰かあ、もらってよおお。わたしはもう幸せなんだってばあ。今度は、あなたの番よおおー」
「なんだ、あれ」
学校帰りの女子高生のグループが、入って来たアーケードの先に、人形を抱えたおかしな赤いドレスの女を見つけた。
一人が頭にやった手を開いて、みんなケラケラと残酷な笑い声を上げた。
「彩美」
「え……」
一人、他の4人に合わせるように遠慮がちに笑っていた女子が、リーダー格の女子に呼ばれて笑顔を引きつらせた。
「あんたさあ、もらってやりなよ。あんたああいうの好きでしょ?」
「え、別に好きじゃない……よ……」
「いいからもらってやれよ。ボランティアだよ。かわいそうだろう?」
メンバーたちに嘲るようにプレッシャーをかけられ、それでも少女、彩美は、必死に人形を譲渡しようと声をかけている女を見て、ゾクリと背中を震わせ、
「やっぱり嫌……」
と断りかけたのだが、リーダーに「チッ」と舌打ちされ、こっちにもビクリと首をすくめた。
「なあ彩美。わたしたち、友だちだよなあ? これからも友だちでいたいよなあ? そこんとこ、どうよ?」
彩美は女に視線を戻し、
「分かった……」
と、嫌々うなずき、胃の痛そうな顔をして女に向かって歩いて行った。
「あの、」
声をかけ、振り向いた女の顔を見た瞬間、彩美は思い切り後悔して顔をうつむかせた。
「あは……」
女の息づかいが漏れるのを感じる。
「綺麗な子でしょう?」
彩美は女に抱かれた人形を、嫌だなあと目の下をひくつかせながら見た。
どこか遠くを見て、交わらない緑色の視線。軽く開いて微笑んだ丸く小さな唇。
彩美はいつしかじっと見つめている自分に気づいて、ブルッと震え上がった。
「欲しい? 欲しいわよねえ?」
視線を上げ、嬉しくてたまらないように笑った女の、黄色く濁って血走った目を見て、彩美はまた背筋に寒風の吹き抜けるような震えを感じた。
「欲しい?」
「…はい……」
本当は嫌だと思いながら、彩美はまたじっと人形を見ていて、自然に口が動いてしまった。
女はこくんとうなずいて、
「はい、どうぞ」
と、人形を彩美に差し出した。
受け取り、赤ちゃんを抱くみたいにおっかなびっくり胸に抱えると、ずっと抱いていた女のぬくもりが伝わって来て、気持ち悪かった。
気がつくと、女から人形を受け取った彩美まで、周りから汚い物でも見るような目で見られていて、胸がジクリと湿った。
「幸せになってね」
ハッと見ると、両腕が自由になった女は、喜色満面で後ずさるようにして、くるりと向こうを向くと、
「アハハハハハハハ、わたし、幸せよおお」
とすっかり解放された高い声を上げ、
「アハハハハハハハハ」
と笑い声を上げながら、両腕を振ってスキップして行った。
グループの4人がやって来て、
「なんだありゃ? マジでいかれてるぜ」
と呆れた。
女は解放された笑い声を上げて飛び跳ねて行く。
アハハ、アハハ、アハハハハ……
アーケードが切れて、前の道路を車がビュンビュン走っている。
スキップして行く女を顔をしかめて見守っていた人々は、あっ、と思ったが、次の瞬間、激しい急ブレーキの音が鳴り響き、それも手遅れ、スキップで道路に飛び出した女は、走って来た車にもろに激突され、腰を横に折り曲げて吹っ飛ばされた。
きゃっ、ひっ、と悲鳴が上がり、おそらく誰もが、これは即死だなと思った。
女がはねられるのをもろに目撃してしまった彩美は、ブルブルブルッ、と足下から面白いように震え上がり、胸に抱いた生暖かいフランス人形を、今すぐ放り捨てたい衝動を覚えた。