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翌朝、バレンタイン当日、土曜日。
紅雄は少し早めに駅に着いていた。
ちなみに、部紙は少し遅れて月曜日に発行する予定だ。
「あれ? 紅雄先輩」
休日なので私服でポンチョを着たエリアが、紅雄に気がつき、近付いてきた。
部活動中ではないため、呼び方も違う。
彼女は片手に駅前の花屋のロゴの入ったビニール袋を持っており、その中には花が入っていた。
「奇遇ですね。どこか行くんですか?」
「ちょっと、待ち合わせをな。」
それをきいて、エリアがニヤリと口角をつり上げた。
「バレンタインだし、やっぱ彼女と?」
「そんなわけないだろ。
お前こそ彼氏と待ち合わせか?」
「違いますよ~」
その声も振る舞いも、普段と変わらず明るいものだ。
「……ちょっと行きたいとこがあるんですけど、場所がわからないので、知ってる人に案内してもらおうと思って、待ってるんです」
だが、どこかに違和感を感じた。
何となく、哀しそうな、それを隠そうとしているような、そんな気がした。
「あ、ベニ先輩」
そこへ、椎名が到着した。
この呼び方はペンネームの方ではなく本名の「紅雄」のベニなので、紅雄は何も指摘しない。
「椎名。お前も待ち合わせか?」
椎名は本名が嫌いで、本名で呼ばれると機嫌を損ねるために部活外でもこの呼び方だ。
「エリアとノギと。」
ノギは乃樹の名字である。乃樹を誤読してノギとしたわけではなくその逆で、本名のノギに違う字を当てて適当に読んだものを彼はペンネームとして使用している。
「1年勢ぞろいか。」
「先輩は?」
「ちょっとな。」
「彼女さんと待ち合わせッスかぁ~?」
じとー……。
「違うがなんだその目は」
「別に?」
椎名はそっぽを向いた。
「……副部長──」
そこにタイミング良く乃樹が到着。
見計らったかのように一定の時間を置いて3人は集まった。
乃樹は唖然といった風に目を見開いて固まっている。
どうかしたのかと紅雄が問おうとしたら、椎名がエリアの手を引いて乃樹の肩に腕を回し、向きを変えさせた。
「じゃ、オレたちはこれで。」
わざわざ訊かなければならないことではないため、紅雄もその言葉を無理矢理だそうとはしなかった。
「気をつけてけよ」
「何にッスかー」
椎名だけは明るく笑いながら、3人は休日の人波に飲まれていった。
* * *
1年生3人と別れてすぐ、駅で時計にしきりに目をやりながら待っていた紅雄を見つけ、蛙子は駆け寄った。
「待たせたよね」
「ん?今来たとこ。」
「それは常套句だね。」
「蛙子は時間ぴったしだな。」
駅のロータリー中央に立っている金メッキの時計の長針が、丁度12に重なったところだった。
「じゃ、いこっか。
切符買った?」
「まだ。まとめて買お」
「よろしく。」
2人は付かず離れず、バレンタインの浮かれた波に飲まれていった。
* * *
蛙子の先導で駅からでて歩いていると、道の反対側に墓地があるのが目に留まった。
名前を見てみると、そこは小学生の頃からの友人が眠っている墓地だ。
彼女は、どうして亡くなったのだったか……。
物思いに耽って足を止めていると、視界の端で紅い何かが揺れた。
顔を上げてもなにもない。
去っていった方をみると、紅いシュシュでポニーテールをしている幼い少女が、母親らしき女性に手を引かれて歩いていた。
「どうかしたの?」
「何でもない。」
目の前には蛙子がいた。
手を伸ばしかけて、引っ込める。
触れてはいけないような気がした。
手を伸ばしてしまったら、何かが壊れてしまいそうな気がした。
「本当に、何でもないんだ。
いこ。報告会始まっちまうぞ。」
今日行こうとしているのは、蛙子の知り合いたちが不定期で集まって開く報告会だった。
時々地方限定の雑誌に開催日時を乗せ、それを見て集まったメンバーで情報交換をする。
同窓会とも似たようなものだった。
時々アニメやマンガなどの同人誌や手製のグッズを頒布する目的の者もいるが、中には全く興味のない者もいる。
正式名称は、「だべって楽しい時間を過ごす会」だ。
蛙子はただ知り合いと会う目的で参加しており、アニメやマンガ等に関してはほとんど興味を持っていないメンバーの一人である。
紅雄は前回の開催時に蛙子につれて行かれてからの参加者である。
「あ、そうだった。急がなくちゃ
アカも早く!」
駆け出そうとする蛙子に急かされ、紅雄も歩行を再開した。
* * *
報告会の最中、紅雄の脳裏には墓地の存在が張り付いたままだった。
集中できず、まともに会話も続かないため、始まってまもなくから入り口脇で休んでいた。
昼前になると、一部の者たちが帰り始める。
その流れに乗って蛙子も会場からでてきた。
「今日は、帰ろ。」
「もういいのか?」
「うん。」
2人は連れだって、会場を後にした。
* * *
「……アカ、この辺で足止めてたよね。なんかあったの?」
道の反対側に墓地のある場所にさしかかると、今度は蛙子が足を止めた。
「いや……」
何でもない。と言おうとして、蛙子の顔を見て、言葉を変えた。
「寄っていってもいいか?」
「いいよ。誰かがいるんだね。」
「ああ。」
紅雄は、記憶を頼りに広い墓地を進んだ。
すぐに、乃樹とすれ違う。
「!」
向こうも驚いているようで、彼は今朝会ったときと同じような反応をした。
「……副部長」
「ノギ、誰かの墓参りか?」
「……。」
乃樹は答えない。
だが、墓地にいる以上それ以外の可能性は限りなくゼロに近い。
そのまま横を通り抜けていこうとしたが、
「あ……ベニ先輩」
椎名の声で足を止めた。
「やっぱり、3人ともいるんだな。」
椎名の後ろには、空になったビニール袋を手に持ったエリアがいた。
「誰の墓参りなんだ?」
殆ど予想はついている。
だが、現実はまだ受け入れ難かった。
「……ミドリ先輩です」
そう、椎名が目をそらしながら言った。
紅雄は背後を振り返る。
そこにはもちろん、何もない。
左右を見ても、同じような冷たい石たちがきれいに並べられているだけだ。
ミドリとは、蛙子の名字。
ミドリと言えばカエルということで、一茶の句が好きでこのペンネームを使おうとしていた紅雄に頼み込んで譲ってもらった名だ。
仕方なく紅雄は本名から一字とって「紅」にした。
椎名に案内されて、墓の前に立った。
彼女の死が受け入れられず、一度も墓を訪れていない紅雄は、墓の正確な位置を知らなかった。
「緑家ノ墓」
墓の前には、綺麗な花が活けてある。
エリアが持っていたものだ。
今日、2月14日は、蛙子──本名、緑 緋詩の命日。
昨年のこの日、彼女は交通事故で突然この世を去った。
乃樹と椎名は中学で彼女と同じ部活だったこともあり、仲がよかったそうだ。エリアは引っ越してきた家が近く、彼女が中学3年生、蛙子が高校1年生時の短い間だけだったが、勉強を教えたり教えられたり、恋バナで盛り上がったりと親しくしていたらしい。
紅雄は小学校から高校までを共に過ごした。
ただ何となく共にいて、ただ何となく同じ高校を受験し、同じ部活に入った。
ただそれだけの、よくわからない関係だった。
墓前に立つと、何となく、涙があふれてきた。
今日、さっきまで何となく共にいた蛙子は、幻だったのだ。
手を伸ばしても触れられるはずなどない。
「……ベニ先輩」
椎名の遠慮がちな声が紅雄の鼓膜を揺らした。
「──紅雄先輩」
エリアの覇気のない声が、紅雄にふりかかる。
「……副部長。」
相変わらずな乃樹の呼び方も、どこか違う世界に来てしまったかのように感じられた。
昨日までの部活で、誰も蛙子の名を呼んでいなかった。
存在しないのだから当たり前だ。
それを気にもしなかった自分は、きっとどこかでその事に気付いていたんだ。
* * *
一年前のあの日、蛙子は急いでいた。
バレンタイン前日、早く帰って皆に配るチョコを作ろうと、張り切っていた。
だからいつもなら車通りの少ない信号のない交差点の横断歩道でも立ち止まるのに、あの日に限ってはそうしなかった。
だから、珍しく酔っぱらいの運転する車が交差点に入ってきたのに、反応できなかった。
通りかかった人に救急車を呼んでもらえ、すぐに病院に運ばれたが、打ち所が悪く、意識を取り戻すことはなかった。
その前日に渡された、バレンタイン号の原稿。
去年はその事故があったが、バレンタイン号は発行された。
蛙子から預かった原稿はちゃんと製本に間に合った。
今年のバレンタイン号にも、すでに亡くなっている蛙子の原稿が入っている。
蛙子にはいつでも短編のストックがあった。
それを、彼女の遺品として彼女の母が紅雄に渡したためだ。