05:喧嘩と雨とガーディアン(後編)
「トールのばかっ! ピーちゃんのばかっ、ばかばかばかばかっ!!」
涙やら何やらでぐちゃぐちゃになった顔を何度も袖で拭いながら、ひまわりは無人の室内を進む。
そこはかつて図書館と呼ばれていた場所。
あちこちに亀裂の入った外壁の影響でかつて等間隔に並べられていた棚は折り重なるように崩れ去りそこから零れ落ちた書物は形を失い床に散乱している。その中を歩む少女はさながら紙の海を進む船のよう。
ドームに戻るわけにもいかず思いついた逃げ場所がここだ。一見すれば雑然とした廃墟ではあるが、何度も訪れた彼女にとっては勝手知ったる隠れ家である。
「きゃっ!」
普段とは違う荒々しい歩み方だったせいか紙に足を取られ、ひまわりは見事に転んで床にキスをする。
「けほっ、けほっ……うぅぅ……」
綿のように舞うボロボロの紙片に咳き込みながら少女は立ち上がり、地団駄を踏む。
「全部、トールのせいですっ!」
怒りのままにそう叫んで更に奥へ。
エントランスに比べて比較的無事な書架が残るエリアをさらに抜けたほぼ最奥に彼女の居場所はあった。
いくつか倒れているが整然と本棚が並ぶその部屋は、かつて書庫と呼ばれていたところだとひまわりは想像する。
ニンゲンさんたちの大切なものが今も残っている、そんな運命の悪戯に胸を膨らませたのはいつのことだったろうか。
なんだか飲み込まれてしまいそうで未だ奥まで辿り着けないそのフロアの入り口付近の棚の足下に少しくたびれたクッションが転がりその上には懐中電灯がぶら下がる。
ひまわりの作った『読書スペース』だ。
「はぁっ……」
明かりをつけて腰掛けると、溜息混じりに読みかけの本を手に取る。
少年が動物達に囚われた竜を救うために立ち上がる物語。
もちろん登場するのはかつてひまわりたちを襲った大トカゲとは違って、心優しい翼の生えたドラゴン。
彼を救う為に知恵を駆使して動物達をやり過ごす少年の冒険譚は、ひまわりにとって心躍るひと時の筈だった。
「……っ」
ぽつ、ぽつ、と古ぼけたページに水滴が零れ落ちる。
心なんて晴れる訳がなかった。
物語の少年と自分は違いすぎる。
――出来ない、と言われただけで。
――ポンコツのくせに、と言われただけで。
涙が止まらない役立たず……それが自分だ。
読み進めれば進めるほどそれは鮮明になり、ついにひまわりは本を投げ捨てる。
「やだ……もう、やだよぉ……」
こんな思いをするならば助けなければよかった。
そんな恐ろしい考えが浮かぶ自分が嫌でさらに涙はつのる。
トールの馬鹿。
ピーちゃんの馬鹿
でも、一番馬鹿なのは自分で……
と、膝を抱えて嗚咽を漏らす少女の頭で猫耳型のデバイスがチカチカと点滅する。
12:00:00
天気予報の時間だ。
「……ウェザーインフォメーションの時間です」
誰もいない空間に声が響く。
もう数えきれない程に繰り返した行為。
聞く者などいないのが当たり前の行為。
苦しいと思ったことなど一度もなかった。
むしろ大好きな時間だった。
それなのに……どうしてこんなにも悲しいのだろう。
どうしてこんなにも涙がとまらないのだろう。
「エストラーニャ……地方。ひっく……西、の風、1.2m。こうすいっ……確率90% ぐすっ、雨になるでしょう……あめにっ、なるでしょう……」
最後には言葉にすらつまって、予報の終わりと同時にひまわりは膝をついて泣き崩れる。
こんな時、どうすればいいのか。
そんなこと本も記憶も教えてくれない。
「グルルルルル……」
獣じみた唸り声が響いて、ひまわりははっ、と顔を上げる。
「うそ……」
いつからそこにいたのだろう、本棚の影からのそりと『ドラゴンさん』が姿を現したではないか。さらに恐ろしいことにそれは一匹だけではなく書架のあちこちから大トカゲが顔を出す。
ひまわりがもう少しだけ冷静であれば歩いた覚えのない場所に紙の轍が生まれていることに気づけていたかもしれない。だが、悲嘆にくれて図書館にやってきた彼女には住処を求めてこの場所に彼らがやってきた痕跡など見つけられる筈もなかったのだ。
「っ……」
出口はまだ塞がれていない、と反射的に立ち上がるとその巨躯からは想像もつかない速度でトカゲ達が取り囲む。
腰の光線銃を取り出そうとするが、射貫くような眼光に震えてうまくいかない。
死んだふり。
混乱した頭がその対処法を思い出す。
あの時はトールがいたから、庇ってくれたから、耐えられた。
今もし同じことをしたとして、果たして耐えられるだろうか。震えずにいられるだろうか。
「やだ、やだよぉ……」
絶体絶命。
ひまわりがそう諦めた瞬間のことだった。
「ひまわりっ!!」
ドラゴンさんの向こうから、聞き覚えのある声が飛び込んできた。
ハウスキーパーのナビと嗚咽混じり天気予報を頼りに追いかけてきてみれば、緊急事態じゃねぇか。
己の招いた事態がまさかここまで悪化するとは思いもしなかったトールは反射的に声を上げる。
「ひまわりっ!!」
一斉に大トカゲがこちらを睨み、トールは慌てて光線銃を引き抜いた。
迂闊だった。
静かに射撃すればよかったものを思わず声を荒げてしまった。これではまとめて襲い掛かられた時に対処しきれない。
だが、後悔は先送りだ。
「今更死んだふりもねぇよな……なぁ、ピーちゃん。あいつ、運べるか?」
震える少女に大丈夫だと目配せし、傍らのハウスキーパーに問いかける。重量差を考えれば難題ではあるが、投影画面に6.4km/hの表示。軽く走る程度の速度では逃げ切ることは出来ないが、庇うには十分だとトールは判断する。
「俺が撃ったら回収、できればこっちへ。無理なら……ひまわりを最優先で保護。いけるか?」
「Pi!!」
頼もしい返事を聞いて、トールはニヤリと笑う。
「流石、ひまわりの騎士様だ」
言うなり、ひまわりを射線に重ねぬように銃の引き金を引く。
放たれるのは触れたものを即座に高温に誘う熱光線。今まさに少女を襲わんとしていたドラゴンに命中すると、体液が沸騰し水蒸気爆発と共に弾け飛ぶ。
航行服が丈夫になるに伴って殺傷力を増してきた武器だ、生身で喰らえば一溜まりもない。
まずは一匹。
気を抜かずに胸を撫で下ろすトールだったが、そこで誤算が生じる。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
爆裂四散したトカゲの肉片がひまわりに降り注いだのだ。機械とはいえプログラムは年端の行かぬ少女のそれだ、血肉を浴びて平静でいられる筈がない。
「Pi!!」
恐慌状態に陥った少女にハウスキーパーが駆け寄り腕を伸ばすが、元より重量差に問題を抱えての行為だ暴れられては持ち上げることすら叶わない。
このままではトカゲ達の方に飛び出してしまいかねない、そう判断したトールはトカゲの死骸を飛び越えひまわりを背に守る形でトカゲと対峙する。
「こいつみたいに黒こげになりたくなけりゃ、さっさと出て行きやがれ!!」
言葉など通じないのは百も承知。
これは危機に瀕した状況に震えそうになる己を鼓舞するものだ。
「早く! 早くどっかいっちまえよ!」
二度、三度とトカゲ達の足下に熱光線を放つ。それは、威嚇ではなく狙ったものであったが暴れるひまわりをハウスキーパーと抑えながらの射撃では正確さに欠けてしまう。
「いいから早く当たれっつのっ!!!」
自棄になって放った数発のうち一つがトカゲに命中して四散すると、残った二匹が漸くこちらを脅威と認識したようで憎々しげにこちらを睨みながら後退していく。
姿が消え、足音が遠のくのを確認して漸くトールは大きく息を吐く。
「大丈夫か、ひまわり」
共にひまわりを守ってくれたハウスキーパーを軽く撫でて激励しつつ、ぐったりと書架にもたれる少女に問いかける。
随分と怖い思いをさせてしまった、と反省しながら血に濡れた頬を拭ってやろうと手を伸ばす。
ぱちん。
右手に痛みがじわりと走るまで、払いのけられたと気づくことができなかった。
「……って」
「ひまわり?」
「出て行ってください!!」
広大に書庫に、悲痛な叫びが響き渡る。
「もう沢山なんです! トールが来てから変なことばかり……ドラゴンさんは襲ってくるし、役立たずって言われるし、ここだって……めちゃくちゃになってしまって。もう、嫌なんです……」
顔を覆って号泣する少女に言われて、トールは漸くこの図書館が酷い状態になっていることに気づく。
奥の方こそ無事だがこの一帯の本棚は光線銃のせいでボロボロに焼け焦げ、トカゲの肉片のせいか異臭も酷い。足下で焼け焦げているのは恐らくひまわりが持ち込んだのであろう、クッションだ。
図書館で本を読むのが好きだ、そうひまわりが言っていたのをトールは思い出す。
きっとここは彼女のお気に入りの場所で、それを助けるためとはいえ荒らしてしまった。もっと言えば、そもそも自分がこなければあのトカゲ達もここを住処にしようとはしなかっただろう。
ひまわりの言う通りだ。
『礼と仕返しはなるべく早めに』――この星に流れ着いたトールにとって、毎日が恩だ。それに対して感謝は忘れなかったが、命を救われたことも含めて彼女に何かを返せたかといえば、答えはNOだ。
ほらみろ、ぐずぐずしているから結局仇になっちまった。
「悪かった……迷惑ばかりかけちまってるな。わかったよ。もう、お前には会わないようにする」
例えば彼女の言葉が――希望的観測だが――先程のトールと同じく昂る感情のままの心ない言葉だとしても、今のひまわりを落ち着かせる材料が彼の中には存在しない。
いずれにせよ、彼女から離れるべきなのだろう。
「ただ、ピーちゃんだけは許してやってくれ。そいつは、俺の言うことを聞いていただけだし……それに、ずっと一緒だった相棒だろ?」
まさかそんな言葉が飛び出すとは思いもしなかったのだろう。ハウスキーパーは驚いたように電子音を上げて、ひまわりとトールを見比べる。
『何迷ってるんだ、頼んだぞ』と目配せするとピーちゃんはおずおずと腕を伸ばして、ひまわりのスカートの裾を引く。
「Pi?」
泣き続けるひまわりからの返事はない。だが、払いのけようともしないのだから受け入れたととっていいだろう。そう判断するとトールは踵を返し、
「本当に、ごめんな……ひまわり」
それだけ告げて、その場を立ち去る。
螺子止めぐらいさせてやればよかったじゃないか。
やらかしたのは全部自分のくせに、当たり散らすなんて最低だ。
大トカゲを警戒しながら歩くトールの脳裏にちらつくのはそんな後悔。
さらには泣き濡れるひまわりの姿がこびりついて離れない。
船を墜としただけでは飽き足らず、ひまわりの平穏さえ壊してしまうなど……もはや修理屋なんて名乗れやしない。
陰鬱な思いで図書館の外に出て大きく溜息。
すると、頬にぽつり、と冷たい感覚を覚えて空を見上げる。
「雨……か」
嗚咽混じりの天気予報を思い出す。
『雨になるでしょう』
「予報通り、ってか」
それはまるで彼女の涙とリンクしている心地さえして尚更胸が締め付けられる。
何がポンコツだ……馬鹿は、俺の方だろ。
「夜、か」
追い出された以上戻る場所は船しかなく、雨に降られたとなれば作業もままならない。防水布と木材で足場を作っておいたお陰で、天蓋の割れた操縦席でも居住スペースとしては十分だった。
人間、暇を飽かせば寝るくらいしか思いつかない。トカゲとの大立ち回りの疲れもあって、気がつけば生き残ったマットを床に敷いて眠りに落ちていた。
ぐぅ、と腹が鳴る。
いつもならば『ご飯にしましょうか、トール』とひまわりが笑ってくれるのに、とそこまで考えてかぶりを振る。
実に勝手な想像だ。
そうだ、雨がやんだとあれば月見酒と洒落込もうじゃないか。
そう決めて、トールは生き残った食料から適当な食事と二級麦酒を手に足場によじ登る。
「こりゃ見事なもんだな」
昼間の雨はなんだったのか、そう文句も付けたくなる程の満天の星、その中で輝く衛星は綺麗に円を描いていた。それを眺めながら、酒をあおるとトールは苦虫を噛み締めたような顔で酒瓶を見つめる。
「やっぱまずいな……」
ヴィント・エールは冷えていてこそだ。電源すら復旧していないのだからしかたがないと腹を括っていたが、まずいものはまずい。
冷えてもいない、喧噪もないし、尻を揉める給仕もいない……あるのは見事な月ばかり。
この星で最初に飲む酒は修理完了の祝杯にするつもりだったのだが、やはりそれを破ったのでケチがついたようだ。
「あーあ、どーっすっかなぁ……」
無理矢理に酒瓶を煽りながらトールは天を仰ぐ。
このまま修理を続けることは不可能だ。資材不足をドームの中央管制に頼っていたのだから。浮遊駆動で走り回って何か使える資材を見つけ出すという手もあるが、いずれは燃料が尽きて手詰まりになる。
いっそのこと、この星で暮らそうか? そんな考えさえ浮かんでくる。
「そもそも、ここで暮らしてどーすんだよ。一生このままだぞ」
食料を求めて彷徨って、食って、寝て、また飯探し。そんなのはただ生きているだけだ、ご免被る。
「……あれ?」
ふと悲しい事実に気づいてトールは頭を抱える。
故障した船を求めて宇宙を股にかけ、仕事して、食って、寝て、また飛び回る……これまでと何が違うのか。
「一体俺、何の為に生きてんだ?」
人類が直面し続けて未だに答えのでない問いにぶちあたり、トールは慌てて酒を煽る。
冗談じゃない、俺は哲学がしたいんじゃない。
ごろんと足場に寝転がり、大きく息を吐く。
「あー、何やってんだかねぇ」
酒を流し込みながらトールは苦笑する。
自業自得男が一人、にっちもさっちもいかなくなって酒に逃げている、実に情けないことだ。
ふと、耳に聞き慣れた駆動音が飛び込んでくる。
浮遊駆動だ。
実はこの星にはひまわり以外のアンドロイドや人間が生きていて……というオチでなければ、彼女が運転しているということになる。
「……」
トールはゆっくりと起き上がり、足場を降りる。ホバーのヘッドライトの眩しさに顔を顰めながら目を凝らすとやはり運転手はひまわりで、その後部にはハウスキーパーの姿もある。
あちらもこちらの姿を捉えたようで、ブレーキもそこそこに飛び降りるようにしてこちらに抱きついてくる。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!」
どれだけ慌てていたのだろう、息を荒げてひまわりがまくしたてる。
「いやいや、なんでお前が謝ってるんだよ」
突然の謝罪にトールは戸惑いながらそう返すと、少女は顔を上げてふるふると首を振る。相変わらず目元は泣き腫らしたままで、つい先程まで泣いていたであろうことが見てとれる。
「違わないだろ? 俺が酷いことを言ったのも、図書館を滅茶苦茶にしたのも事実で……全部俺が悪い」
そう言ってもなおも少女は首を振る。何か言いたいのだろうが息が乱れて声にならないようだ。とにかく落ち着けとトールが宥めているうちに、いつの間にやら傍らにハウスキーパーが立っていた。
「Pi」
無機質な身体からは感情など読み取れやしないがどこか得意げな雰囲気。『待たせたな』とでも言いたいのだろうか、とトールは首を傾げる。
「ピーちゃんが教えてくれました。私、そんな風に思ってもらってるなんて知らなくて……あんな酷いこと……」
胸元にしがみつくひまわりの言葉にトールはなおも首を傾げる。
一体、ハウスキーパーが何を伝えたのだろうか。そもそもあいつは『Pi』としか言えないぞ?
「おい、ピーちゃん。どういうことだ?」
このままでは埒が明かない。ハウスキーパーに問いかけると、彼はPi、と一鳴きして、
「『別に役に立ってなんてくれなくてよくて……それこそそこにいてくれるだけで役に立ってて……下手に怪我されたりする方が心配っていうか……』」
「おい、馬鹿、やめろ! やめろっての!!」
発声部から飛び出す自分の声に一気に頬が熱くなり、トールは慌てて静止する。
「てめぇ、録音してやがったな? え、何? お前、全部再生したわけ? マジ?」
今すぐ穴を掘って埋まってしまいたい衝動に駆られる。ハウスキーパーに話したことはもちろん本音だが、甘えていただの、傍にいてくれればいいだの、そんなことを知られては恥ずかしくてたまらない。
この野郎、解体してやろうか。
「トール……」
くい、と服を引いてひまわりがこちらを見上げてくる。その瞳には、昼間のような怒りはなくて、代わりに申し訳なさで満ち満ちている。やはり、全部聞かれたらしい。
「参ったな……」
少女の肩に両手を乗せて、はぁっ、と溜息をつく。腹を括るしかないようだ。
「なぁ、ひまわり。ピーちゃんが言ったことは嘘だ」
「え?」
「Pi!?」
二人が驚きの声を上げて、トールは苦笑しながらまぁ最後まで聞いてくれと続ける。
「俺があいつに言ったことは、確かに本当だ。正真正銘、俺の気持ち。でもな、ひまわり。お前には言ってない。お前には伝えてない。伝えようともしなかったし、伝わりもしなかった。だったらな、そんな言葉は嘘みたいなもんじゃないか」
「でも……」
「だからな?」
言葉を遮り、トールはじっとひまわりを見つめる。
「ちゃんと言う。修理そのものを手伝わせなかったのは、ひまわりが心配だったからだ。お前って作業向きの身体じゃないだろ? 怪我でもされたらさ、申し訳なくてな。それに飯も用意してくれて、天気予報だって……ひまわりにはひまわりに出来ることがあって、それで十分で……それがなくたってな、傍にいてくれるだけで嬉しい。俺さ、こんなだけどよ……どうやら寂しがり屋らしいわ、かっこ悪ぃ。それでな? そういうこといちいち説明するの恥ずかしくてさ、言えないもんだから……お前に酷いこと言っちまった。本当に、ごめん」
伝えることを面倒くさがったせいでえらく遠回りをしてしまった、とトールは苦笑する。
そんなトールをじっと見つめていたひまわりは真剣な表情をくしゃりと崩して、
「トールは、優しいですね。そして、すごく真面目な人です」
泣き笑いのような表情だったがそこには涙がなくて、自分の不器用な言葉がちゃんと届いたのだとトールは胸を撫で下ろす。
「悪いのは、私なんです。心配されていることに気づけなくて、ピーちゃんと張り合って……助けてもらったのにお礼も言わずに、本が滅茶苦茶になったことが悲しくて……自分のことばっかりなんです。トールに呆れられて当然のポンコツなんです。だから、私の方こそごめんなさい」
わかってくれるのはうれしいが、そう卑下されるのも居心地が悪い。
「お前は悪くないっての。起こったことは全部俺のせいなんだし」
「私が我儘を言わなければトールはあんなこと言いませんでした」
俺が悪い、私が悪いの押し問答。互いに一歩も譲らぬそれは次第に語気の荒いものになっていく。
「だから、俺が悪いの! すんませんでしたっ!」
「いいえ私ですっ! ごめんなさい!」
睨み合うその様は、仲直りをしているのやら、仲違いをしているのやら。
「Pi!!」
と、二人の間にハウスキーパーが割って入る。
「Pi!! PiPi!!」
『何の為に顔を突き合わせてるかわかっているのか』
そう言わんばかりに二人を腕で指差してロボットは糾弾する。
それを見た二人は顔を見合わせて、ぷっ、と吹き出す。
「また喧嘩になっちまってるな」
「はい、わけがわかりません」
ハウスキーパーに叱られるまで気づけないだなんて、どれだけ不器用なのか。そう思うと可笑しくて、二人は声を上げて笑う。
それを見たピーちゃんは一鳴きすると、探照灯を点けて、カタカタと多輪駆動を鳴らしながら周囲を巡回し始める。
見張りをしておくからあとはご自由に、というつもりなのだろう。
「ピーちゃんも、本当に優しいです」
「ああ、痒い所に手が届きすぎて人間あがったりだ」
トールが肩を竦めてみせると、ひまわりは口元に手を当ててクスクスと笑う。
折角時間をくれたのだから、と足場に登って並んで腰をかけて星を見上げることにする。
「何の本だったか忘れましたけど、こんな星空に比べたら人間の悩みなんてちっぽけなもんだ、って書いてありました」
空を見つめながら呟くひまわりは足を揺らしてどこか楽しげだ。
「ほう、そいつはきっと悩んだことねぇんだな」
何かに比べて小さいからといって当人が大きいと思えばそれは重荷だ。そんな比較級で解決してくれるなら、トールは酒に逃げたりなどしていなかった。
こつん、とひまわりの頭が肩に触れる。風が吹いて、銀の髪が鼻をくすぐると、トールは抱き寄せるようにして頭を撫でてやる。
「私も、嘘だなって、わかりました」
心地良さそうに笑い、少女は更に続ける。
「喧嘩、初めてでした。だからどうすればいいかわからなくて……ずっと泣いてました。星なんて見ても涙止まらなくて」
撫でる手を強くすると、今は違いますからね? とひまわりが笑う。けれどその時のひまわりは悲しかったんだ、手を止める理由にはならない。
「本には書いてなかったか、仲直りの仕方」
「書いてありましたよ、喧嘩も仲直りも、そのままさよならってお話も。でも、同じ話はなかったです」
「そりゃそうだ」
「はい。だから、わかりませんでした。きっと、トールも」
そうでしょう? と見上げてくるひまわりの瞳にどう答えればいいのやら。いや、答えは決まっている、ただ少しばかり恥ずかしいだけで。
「明日使える万能仲直りの方法なんてあったら、真っ先にそうしてるっての」
あれだけ反省したくせに、出て来るのはそんな捻くれた言葉。顔を反らして己の不甲斐なさに項垂れると、ひまわりはクスクスと楽しそうに笑う。
「わかりました。トールはきっと、照れ屋さんなん……わふっ」
くしゃりと乱暴に髪を撫で付けると、ひまわりは悲鳴を上げて首を竦める。
「わかってるなら言うなよ、頼むから」
頬が熱くなるのを感じながら告げると少女はますます可笑しくてたまらない。
「はい。もう喧嘩はまっぴらですから」
再び空を見上げてひまわりは、
「今までは、ピーちゃんがいたから寂しいって思わずに済んだんだと思います。でも、トールが来て、沢山お話しして……楽しかったです。だから、トールがいなくなったら、やっぱり寂しくて。誰かがいればそれでいいんじゃなくて、きっと、トールだから、ピーちゃんだから、嬉しくて、寂しくて……あれ?」
つっ、と一筋大きな瞳から零れ落ちて、ひまわりは慌てて頬を拭う。
「おかしいな、どうして……ひゃっ」
ぐい、と強引に抱き寄せられてひまわりは再び悲鳴を上げる。
「もういい。大体わかるし、大体同じだ。お前は喋り過ぎ。俺は言わなさすぎ……二人あわせて丁度いいのかもな」
一度親しくなってしまえば失うことは辛くなる。それに代わりなどありはしない。それだけのことだ。
そして出会えば必ず別れが訪れる。
例えばこの船の修理が終わったら……その時どんな思いに囚われるのか、きっとひまわりは気づいてしまったのだろう。
「温かいですね、トールは」
黎明期のアンドロイドならいざ知らずお前だって『体温』があるじゃないか、そんな無粋なことを口にするほどトールも朴念仁ではない。黙って頭を撫でてやりながら空を見上げる。
作業は進まない。けれどそう遠くない日のうちにトールはあの星の海に帰る。正直に言えば、その先の未来なんて想像できない。自分一人の食い扶持すら見えやしない。
だが、とトールは思う。
それでも、心の奥底でそうしろと何かが叫ぶのだ。
「なぁ、ひまわり。お前さえよけりゃ、俺と一緒に……ここからでていくか? もちろんピーちゃんも」
同情した訳ではない。絆されたとも少し違う。
きっとこの感情の殆どは自分勝手な寂しさから生まれているのだろう。
けれど、彼女がそう求めてくれるなら……
たっぷり星を見つめて、返事がないことに不安を覚えて視線を胸元に向ける。
「ひまわり?」
抱き締める腕を緩めて顔を覗き込むと、そこには小さく息を立てるあどけない寝顔があった。
「おいおい……」
苦笑して顔を上げる。
相変わらず星は瞬いていて、静かに二人を見下ろし続けている。
「ほんと、人間みたいな奴だな」
そう呟いて、疲れて眠るだなんて機能を付けた設計者の遊び心に呆れと感謝を抱いて、トールは胸元の温もりを感じながら目を閉じるのだった。
360度を捉えるカメラが異常なしを告げるのを確認しながら、ハウスキーパーは荒野を進む。
油断なく周囲を捉えながら、並行処理でもってファイルを展開する。
FILE:PR2019021
多重にロックと複製を施した永久保存ファイル、その中でも最新のものだ。それはごく短い映像で、ロボットはそれを投影画面に映すでもなく、回路内で再生する。
『いいねぇ、ピーちゃん。お前スジがいい』
『つーか、お前……ものっすごい旧式のくせに出来良過ぎ。なんで船の修理普通に手伝えるんだよ、俺だってつい甘えちまうっつの』
『まぁ、なんだ……俺が言うのも変けどさ、お前はよくやってるよ。ありがとな』
それは人間から向けられた、労いの言葉の数々。
油断なく大トカゲの出現を警戒しながら、ハウスキーパーは何度も何度もそれを再生する。
ロボットの最大の存在理由は、人間の役に立つことだ。それは姿形や機構が原始的になればなるほど強く現れる。自律機構を備えた汎用機械などはその権化と言っていい。
彼にとって労いの言葉は無上の喜び。
最高の活力。
何よりも嬉しかったのは、
『流石、ひまわりの騎士様だ』
この言葉。
やっと褒めてもらえた。
やっと役に立っていると言ってもらえた。
日々の家事でひまわりが褒めてくれることはあったが、最高機密であり最優先事項である彼女の守護を褒めてもらえる筈もない。
それを、労ってくれた。
嬉しくて、嬉しくて、小躍りしたくなる。
宇宙船の周辺を巡回し、元の位置に戻ると二人の姿は足場の上にあり揃って寝息を立てていた。
安全圏であるドームに連れ戻すべき。
回路の半数がそう声をあげるが、ハウスキーパーはそれを却下する。
敵影はなく、天候も視界も良好……問題ない。
この喜びに免じて邪魔立てはしないでおこう。いざとなればこの身に代えて守り抜くだけのこと。
何せ僕はひまわりの騎士なのだから。