11:雷神の右腕(前編)
まさかあの『オモチャ』が壊れるなんて。
雪の降りしきる闇夜の中トールを案内しながらハウスキーパーは己の失態を後悔していた。
例えスリープ状態であってもひまわりの体調を常に監視し続ける、それは守護騎士である以前に家庭用補助機械としての基本機能だ。
急激な脈拍及び血圧の増加を探知し、きっちり180秒――我が事ながらもどかしいほどに遅い――かけて復帰した時には彼女が屋外に出た事を示す警告が回路を駆け巡っていた。
何があったのかは浮遊駆動を駆る青年からあらかた聞いた。
『オモチャ』が壊れた事もその正体を彼に知られる事も、予定外ではあるが大きな問題ではない。いずれトールがひまわりの核心に触れるであろう事も、想定の範囲内だ。トールならば、ここから連れ出そうなんて言い出す彼ならば、きっとうまくやってくれるだろうし知ってもらわねば困る……そう考えていた。
しかし、彼女が自ら最高機密に触れるとは想定外だ。
いつかの水遊びの時のようにフラッシュバックが起こる事は幾度かあったが、だがそれは体調不良だと誤魔化せる程度に曖昧なものばかりだった。やはりあの『オモチャ』が壊れてしまっては流石に辻褄が合わなくなってしまったか。
兎に角、雪の中に防寒着なしで飛び出しただけでも大問題だ。現状、危険水域には達していないが着実に『体温』は低下している。加えて精神的に不安定な状態となれば状況は極めて悪い。
「言ってやるべきだったんだ、俺は……」
絞り出すような声が頭上から聞こえて、案内表示はそのままにトールを見上げる。
「急に、天候案内用人型自律機械だってわかってますよね? だなんて聞かれて、もしかして人間なのかもしれないって想像して、混乱して……最低の答えを言っちまったんだ。『お前がそう言ったんだ』って」
懺悔か自嘲か、彼は一瞬だけハウスキーパーを見下ろして苦笑する。
「天候案内用人型自律機械だろうが、人間だろうが、どうだってよかったはずなのに。あいつが求めてたのは、そんな答えじゃなかったはずなのに。あいつは、あいつだって、言ってやるべきだったんだ……」
前に喧嘩したときと全然進歩しちゃいねぇ、そう呟きながらトールはピーちゃんが示した通り図書館の前に浮遊駆動を停止させる。
「お前じゃなくてひまわりに言ってやらなきゃ意味がないってとこも、変わってねぇから笑っちまうよな」
肩をすくめてみせるトールに、
「Pi!」
構いはしない、と応じてみせる小さな機体は妙に頼もしくて、
「なかなかの案内だった。こんな俺にまだついてきてくれるなら、航空管制積んでお前に任せたいもんだ」
苦笑交じりに呟くと、べちっ、と万能手腕に尻を叩かれる。気弱なことを言うなということらしい。
「ああ、そうだった。さっさとあいつを落ち着かせて、あったかい部屋で休もう。ここは寒くてしかたねぇ」
そう言って、トールは崩れかけた図書館の中へと足を進めるのだった。
ずっと続いている頭痛が止まらない。雪でぐっしょりと濡れた服が容赦なく体温を奪っていく。止まらない震えは身体の異常のせいなのか、それとも自身の正体があやふやになっていることへの怯えなのか。
「はぁっ……はぁっ……」
泣き出したくなるほどに重い身体を引きずってひまわりが辿り着いたのは図書館の最奥、かつて書庫であったであろうその場所に彼女の領域はある。かつてドラゴンさんとの大立ち回りで滅茶苦茶になってしまったが、トールが綺麗に修理してくれた『読書スペース』。
「トール……」
ズキン、と頭が、胸が、痛む。湧き上がる感情を頭を振って払いのけると、少女は整えられた自らの領域を乱暴に漁り始める。
天候案内用人型自律機械の設計図。
ここにはそれが眠っている。
どこにしまったのかなんてすっかり忘れてしまったけれど、それがあればきっとトールはわかってくれるし、おかしくなってしまった自分を綺麗さっぱり修理してくれる。ひまわりはそれだけを信じて本棚や調度をひっかきまわして設計図を探す。
「どこっ? どこにあるの?」
棚から投げ捨てられる、本、本、本。それらはすべてひまわりのお気に入りだ。例えば、竜を助ける少年の物語、あるいは知恵と勇気でもって仲間と共に魔王に立ち向かう魔法使いの物語、ライオンに導かれて不思議な世界にやってきた子供たちが冒険をする物語……けれど、今は設計図の前に立ちふさがる邪魔者でしかない。
「あっ!」
棚の殆どを空にしてしまったところで、引き抜いた小人の冒険譚と辞書の隙間からはらりと一枚の『紙切れ』が抜け落ちる。本の海の中では異質な、少しばかり分厚い紙が彼女の探していた設計図だ。
「よかった……これで……」
目的のものを見つけると、途端に緊張が解けて全身の不調が蘇る。けれど、まだトールにこれを見せなければ解決しないのだと自分に鞭打ちその紙片を確認する。
天候案内用人型自律機械・WA120型の設計図を。
「え……?」
ひまわりはその内容を見て凍りつく。
それは確かに、設計図だった。けれど、それは素人には理解し得ない難解なそれではなく、画用紙にクレヨンで描かれた子供の落書きにしか見えない代物だった。
例えばあの猫耳型デバイス、あるいは今少女が身につけている衣服。そのディティールを何百倍も雑にした落書きが紙面を踊るばかり。
「なに……これ……?」
そんな筈はないと一度見た設計図のあるべき姿を思い出そうとするが、割れんばかりに頭が痛みを訴えてくる。
――これ? うん、好きなの。『ウェザー・インフォメーションの時間です。晴れになるでしょう。晴れになるでしょう』 えへへ、似てるかな?
脳裏をよぎるのは誰かの声と、大きくて温かい手の平に撫でられる感触。けれど我が身を襲うのは酷い痛みと、冷たく凍える全身の震えだ。
「寒い……」
ひまわりは震える身体を抱きしめて膝をつく。これではいけないと身を捩っても立ち上がるどころかバランスを崩して倒れこんでしまう始末。気力のみで動いた果てに辿り着いた失望は少女を容赦なく追い詰める。
「あっ……」
下腹の辺りに違和感を覚えて少女は声をあげる。これだけ冷えてしまえば生理現象が襲ってきても不思議ではない。まずい、と思うが歯がカチカチと鳴るばかりで動くこともままならない。もしも動くことができたとして、こんな廃墟のどこにトイレがあるというのか。
あれ? そもそも私ってトイレはどうしていたんだろう?
思い返せど答えは出ない。経口型である以上それはセットであるはずなのにその『設定』が思い出せない。
――『設定』って、何のこと?
おかしい。自分は間違いなく天候案内用人型自律機械だと信じているのに、思い浮かぶのはそれを否定するものばかり。
機械の身体のくせに食事や排泄、睡眠や休養が必要なのは何故なのか?
身体が冷えた程度でここまで動けなくなってしまうのは何故なのか?
自己診断や自己保守なんて言葉、トールに問われるまで知りもしなかったのは何故なのか?
ダッテワタシハニンゲンダカラ。
――わからない、何もわからないよ。
ぐるぐると思考は回る。そんな彼女に周囲の気配に気づけということは土台無理な話ではあった。
最初は横殴りの衝撃だった。
床に押さえ込まれる感覚とむせ返るほどの生臭さ。現実に引き戻された瞳が捉えたのは堅牢な鱗に覆われた巨大な体躯。
「ドラゴン……さん……?」
以前追い出したはずの大トカゲの姿がそこにあった。
寒さに耐えかねて舞い戻ったのか、それとも餌を求めての行動なのか、いずれにせよ少女にとって今この瞬間が危機的状況であることは間違いない。
逃げないと。
身を捩って逃れようとすれど、太い足に押さえつけられた身体は思うように動いてくれない。
「あ……」
スローモーションのようにその顎門が開かれて、吸い込まれるように肩口へと伸びてゆく。
それが何を意味するのか――理解するより先に身体が反応していた。
「あああああああああああああああっ!!!」
喉が裂けるかと思えるほどの絶叫が館内に響き渡る。
それは暴力的な熱だった。噛み付かれた先から全身を焼くような、そんな痛み。ひまわりは目を白黒させながら苦痛を逃さんとばかりに足をばたつかせる。しかし肉に食い込む牙は深まるばかりで痛みが和らぐことなどない。
「あ、う……あぁぁ……」
耐えかねた下腹から黄金色が零れ落ちる。下着はおろかスカートさえも汚して広がるそれに、少女は恥じ入る余裕どころかその事実さえ認識できない。
全身を駆け巡る痛み、そして脳裏を支配する恐怖が大トカゲに捕食される哀れな餌に残されたすべて。
「や、め……うあ、あ、あ、あ……」
ひまわりは気づく。
もしもこの身体が機械なら、きっとドラゴンさんは即座に餌ではないと食べるのを諦めてくれるはずだと。
ひまわりは思い知る。
だのに、こうして身体を食いちぎろうとしているのは紛れもなく自分が人間である証拠なのだ、と。
ひまわりは絶望する。
今更理解できたところでこの先にあるのは死以外残されていないということに。
「ひまわりっ!」
だから突如聞こえたその声が現実のものなのかどうか判断することなどできなくて、少女は深い闇の底へと意識を投げ出すのだった。
少女に覆いかぶさる大トカゲを蹴り上げながらトールは己への怒りを抑えることができなかった。
だってそうだろう?
ひまわりにきちんと答えを返せていれば、いやそれ以前に自分がこの星に不時着などしなければ、このような状況になることはおろか大トカゲとひまわりの生活圏がかち合うことはなかっただろう。
体調が危険域に達したとのハウスキーパーの警告を受けて駆けつけてみれば『読書スペース』で肩口を食われている少女の姿。さらにタチの悪いことにご馳走だといわんばかりに10を超える数の大トカゲが取り囲んでいたのだ。
身の危険など二の次で身体が動いていた。
道を作るべく取り囲む群れに光線銃を放ち、たじろいだ所を駆け抜けてひまわりに噛み付く大トカゲに蹴りを入れてすかさず撃ち殺す。同時に走り込んだハウスキーパーが少女を抱えあげるのを確認すると、即座に銃を放ち群れの輪から抜け出す。
「Pi」
大トカゲたちがこちらを睨みつけるのを警戒しつつピーちゃんが示す投影画面に目を通す。そこにあるのはひまわりの体調が表示されている。体温低下、失血……そして毒。
「ああ、そういえばあいつらの牙には毒があるんだったか……解毒薬はあるのか?」
ハウスキーパーの回答は否。
まぁそうだろう、と聞く前から答えは予想できていた。ならば、答えはひとつだ。
「ピーちゃん、俺がここを引き受ける。だからお前はひまわりを連れて俺の船まで走れ」
墜落の火災で生き残った荷物の中に救急箱がある。その中には万が一の為にと用意しておいた自己治癒装置も含まれている、あれさえあればきっと毒だろうがなんだろうがたちどころに癒してくれるはずだ。
この星に落ちた際の傷に安易に使わずにいた自分を褒めてやりたいくらいだ。
「B03コンテナにある救急箱の中に自己治癒装置がある。注射器型の奴だ。そいつをひまわりに……いいな? わかったら行け」
そう告げて出口を指差すとひまわりが最優先のはずのハウスキーパーが逡巡する。
「Pi」
それはまるで、それではトールの身が心配だと言わんばかりだ。
「すぐに追いつく。それに、迷ってる暇はあんまりねぇぞ」
視線を大トカゲたちに移すと仲間を殺された恨みからか、それとも餌を奪われた怒りからかこちらに襲いかからんとじりじりと間合いを詰めているではないか。
「……Pi」
観念したのか、ハウスキーパーはひまわりの腰にぶら下がるホルスターからもう一丁の銃を引き抜きトールに投げてよこす。
「サンキュ。なぁに心配するな、すぐに追いつく。それよりひまわりを頼んだ」
そう告げると、ハウスキーパーは回路を明滅させて出口へ向けて駆けてゆく。それを追おうとする大トカゲたちに熱波一閃、トールは銃を構えて立ちふさがる。
「この先は行かせねぇ。てめぇらはひまわりを食おうとしたんだ……覚悟しやがれ」
そう呟いて、トールは彼らを睨みつけるのだった。