相縁奇縁
お久しぶりの短編です。
内容は珍しく恋愛モノです。
不思議な「愛」、をイメージして書いてみました。
「ね、なんで君は逃げないの?」
鮮やかな赤が、月の淡い光によって照らし出される。
どこか浮世離れしたような光景が、酷く美しく見えて、目を離すことができない。
鉄のような、金属が錆びた独特の臭いが満ちた教室で。
目の前が赤く染まり、色彩の区別がつかなくなる。
もし、私以外に生きている人がいれば、悲鳴を上げて逃げ出すような、そんな目を背けてしまいたくなる惨事が広がっている。
獲物を狩るような鋭い瞳に見つめられ、逃げることすら考えられない。
真っ直ぐにこちらを見つめる彼の両目に幸福感を覚える。
熱に浮かされた頭は思うように動いてくれなくて。
「だって、」
考える、ということを脳はすでに放棄していて。
ただ、思ったままに自分の言葉を紡ぐことしかできなくて。
ありきたりな、使い古された台詞だけど、こんな言葉でしか伝えられない。
子どもみたいに無邪気で、何の飾り気の無いものだけど。
こんな拙い言葉しか贈ることができないけれど、私の思いは貴方に届きますか?
「貴方が、好きだから」
私の一世一代の告白は、血溜りの中でした。
こんな状況の中でも、笑っている私はさぞ滑稽に写るだろう。
今、この教室内にあまりにも似合わない。
微かに彼の両目が見開かれる。
あぁ、やっと私を見てくれた。
+++++
私と彼が出会ったのは、高校一年の入学式でした。
まだ、少し冷たさの残る風が、優しく、桜の花びらを空へと誘っていた。
式の予定時刻より早めに着いたので、一足先にこれから過ごすのであろう教室へ向かった。
戸を開けて中に入ると、数人のクラスメイトが、もうすでに適当な席に座っている。
同じ中学から来たのか、三人の女子が集まり談笑していた。
そんな話し声をBGMにして、日当たりの良い窓際の席に着く。
何もすることが無いので、ぼんやりと窓の外を眺めてみる。
ちらほらと、一年生であるだろう人達が門を通って来るのが見える。
どこか、緊張した面持ちで。
友達と話している人、桜に見とれている人、眠たそうにしている人。
色々な人がいる。歩き方にもそれぞれ個性があって、案外見ていて飽きない。
少しずつ、教室内が騒がしくなってくる。
私は、この独特な雰囲気が苦手だったりする。
色んな情報が一気に脳へと詰め込まれる、知らない人の声が聞こえ続ける。
それがどうにも苦手で。いつもならヘッドフォンをつけて音楽を聴いて気を紛らわせているけれど、今日に限って家に忘れてきてしまった。
これも先生が来るまでの辛抱、そう思い目を瞑って机に頭を伏せた。
ほんの少しだけ、音が遠くなった気がする。
できることなら、耳を塞いでしまいたい。というのが本音なのだけれど。
早く、ホームルームが始まって欲しい。そう思っていた。
ガラリ、と戸が開く音がしたと思ったら、急に教室内が静まり返った。
音という音が、一瞬にしてなくなった。
先生が来た、というわけではないはずだ。一言くらい挨拶をしてから入ってくるだろうし。
それなのに、音が消えた。
かわりに、足音が近づいてくる。
ふと、目の前で足音が止まり、椅子を引く音がする。
また、音が消えた。
気になって伏せていた身体を起こす。
その人は目の前に座っていた。
濡れ羽色の美しい髪が、太陽からの光を受けて、キラキラと輝いている。
すっと伸びた背は、とても同年代のように思えないくらい大人びていて、なんだか目を離すことが出来なかった。
いや、目を離す、その行為すらが罪なように思えて。
彼が教室に入って来たことによって、空気ががらりと変わった。
まるで、さっきまでの様子が嘘だったかのように。
こちらを窺うような視線がいくつも突き刺さる。
ひそひそと、小さな話し声が少しずつ戻ってくる。
あぁ、やっと静かになったと思ったのに……。
ただ近くに座っているというだけで私にも視線が投げられるなんて。
不躾な人達の好奇の目に晒されるというのは、良い気持ちはしない。
しょうがない、もう少しの辛抱だと思ってもう一度、机に顔を伏せた。
これが合図だったかのように教室は先ほどと同じく、ざわめき始めた。
私は少しでも音を耳に入れたくなくて、腕に顔を埋めた。
けれど、何も変わりはしなかった。
目を瞑った瞼の裏には、彼の後姿が鮮明に焼きついていて離れない。
日本人でもあまりいない艶のある美しい黒髪、日に照らされて出来た光の輪がそれをより、神秘的に見せていた。
ほんの数秒、もしかして一瞬のことだったのかもしれない。
だけど、忘れることなんて出来なくて。
しばらくしてから、私は彼に一目惚れしていたことに気づくことになる。
この時はただ、不思議な人だな。としか考えていなかった。
先生が教室に入って来るまで、私の頭の中はずっと彼のことを考え続けていた。
それはまるで麻薬のようでもあって、頭の奥の芯までが痺れるかのように存在し続けた。
何かに取り憑かれてしまったかのような錯覚に陥ってしまったのだろうか?
今まで気になっていた騒音さえも忘れていて。
彼の持つ何かに一瞬にして呑まれてしまった、と言えば正しいのだろうか?
無意識の内に彼のことを考えてしまう。
この、不思議で、どこか心地好い気持ちを初めて知ったのもこの時だった。
それからというもの、私の頭の半分以上が彼のことで埋め尽くされた。
どうすれば私のことを見てくれるのか。
彼に私という存在を認めて欲しくて。
そんなことばかりを考えて、私は週五日の登校日を心待ちにしていた。
長いようで短い、一学期が終わりを告げた。
結局、彼と話すことはほとんど無かった。
私は少しでも彼の目に留まるよう、まずは勉強をして、必ず学年順位の十番以内に入るようにした。
けれど、彼にはとどくことは無かった。
それもそのはずだ。彼は全てのテストで学年一位を取っているのだから。
これでは意味が無い。
せめて、彼より頭が良ければ、と思う。
でも、生徒会の仕事も平行して行わないといけない。
これから行事の司会もしなければならない、これでは忙しくて勉強に割く時間があまり取れない。
それでも、この私の行動に少しでも彼の目が留まるかもしれないと思うと、辞めるにやめることができなかった。
学校祭の時も実行委員長もしていた、もしかしたら、少しくらいは私の存在を覚えていてくれるだろうか?
あぁ、でも、同じクラスの佐々木さんが告白した時、名前も、顔すらも覚えられていなかったらしい。
こんな話を聞いてしまうと、話しかける勇気が出ない。
……夏休み中にでも、何かいい方法がないか考えておこう。
そんなことを思いつつ、学校への道を歩く。
いつもなら楽しくて仕方がないはずの学校も、休みの日では意味がない。
彼は部活にも委員会にも入っていないから会えないだろうし……。
「あーあ……」
思わず、ため息を吐いた。
どうして休みの日、なんてものがあるのだろう?毎日授業があればいいのに。
世の学生たちが聞いたら発狂してしまいそうな、そんなことを思う。
そうすれば、彼に会うことができるのに……。
自然と足取りが重くなる。
彼がいないのなら、別に学校に行こう。なんて思うことが出来ない。
元々、人が多い場所は苦手なのだから。
でも、彼はどうなのだろう?
いつも教室の自分の席に座り、静かに本を読んでいる彼。
その後姿を見つめることができる休み時間が好きだ。
だって、正面や横から見つめては気づかれてしまうかもしれない。堂々と見ることも出来ないし。
けれど、後ろからなら気にしなくてもいい。
クラスの人達に怪しまれないように、彼に気づかれないように、私はその後姿を見つめ続けた。
後姿を見ていることしか出来なかった。というのが正しいのかもしれない。
だって、彼の瞳には私は写ってすらいなかったのだから。
誰も見ようとしない、ということがしっくりくる。
何かを見ているようだけれど、本当は何も見ていない。
それでも、一度だけ、彼の顔を正面から見たことがある。
朝早く、日直の仕事があった日。
彼は誰よりも早く、この教室にいた。珍しく本から目を外し、窓越しの空を眺めていた。
太陽の光に照らされた彼は、どこか神秘的で。
思わず、戸を開いたまま、その場に佇むことしか出来なかった。
彼の輪郭が朝日と同じ色に染まっていて、光との境界線がとても曖昧で。
私は夢でも見ているんじゃないかと、自分の目を疑った。
その光景は、一枚の絵画だ。
そう言われても信じてしまいそうなくらい、それはそれは美しいものだった。
ほんの数秒の出来事が、何時間という長い時間に感じられた。
あの幻想的でいて、儚さをも見せていた光景は一瞬の一時で。
神々しいとさえ感じた雰囲気は、いつの間にか消えていた。
こちら気づき、振り返った彼と目が合った。
「あ、……お、はよう」
震える声に気づかれたくなくて、必死に平静を取り繕う。
なんとか、噛まずに挨拶をすることができた。
「……おはよう」
人間味のない、どこか冷めた声が静かな教室に響いた。
そんな彼の瞳は、私のことを一切写していなかった。
真っ黒で、底が見えないほどの虚空が私のことを見つめていた。
気づけば、いつの間にか季節は冬になっていた。
結局、彼とはあれ以来話すこと、挨拶を交わすことすらまともにできていなかった。
いつになれば、私は彼に見てもらえるのだろうか?
考えたって、何もわからない。
彼は何にも興味を示さない。何も見ようとしていない。
どうして、気づいてくれないの?
私は、いつだって貴方しか見えていないのに。
こんなに感情が乱されるなんて思っていなかった。
今まで、何にも執着することがなかった。その反動なのだろうか?
私の育った家庭の両親の仲が悪かった。というわけでもない。いたって普通の環境で育った。
だからなのだろうか、何をすれば彼の興味を引くことが出来るのか、どうすれば近づくことが出来るのか。
そんなことばかりを考えて、生活をしていた。
放課後の静まり返った教室で一人。
彼がいつも座っている席をじっ、と見つめる。
何も変わらない。変わろうとすらしていない。
自分という存在、そのものを認められない私は普通を目指していた。
普通に憧れてすらいた。
でも、憧れるだけで変わることは出来なくて。
不思議な雰囲気を持つ彼に惹かれた。
十七時四十七分、私は一人、教室に残っている。
この日、同時刻頃にクラスメイトの女子二人が通り魔殺人に巻き込まれ死亡した。
下校途中、いつもと違う帰り道を通り帰っているところ、突然後ろから刺されたらしい。
偶然近くを通った住人が悲鳴に気づき、現場へ行ったところ、すでに二人は地面に倒れていたらしい。
救急車を呼んだが、搬送された病院で、手術の甲斐なく二人とも亡くなった。
私は、そのニュースを学校へ行く直前に知ることになった。
全ての歯車が噛み合い、逆に廻り始めるまで、あと少し。
あの通り魔事件から一週間がたった。
学校は今もピリピリと、緊張した空気に包まれている。
特に事件に巻き込まれた二人がいたクラス、つまり私が所属しているクラスは、どんよりと重たい空気が漂う。
クラスメイト達は酷く怯えているようにも、悲しんでいるようにも見える。
でもやっぱり、私は何とも思えない。
悲しい出来事があった。ということはわかるが、悲しい気持ちにも、怖いと思うことも出来ない。
まるで、テレビの番組でも見ているかのようで。
冷めた目で教室内を見渡す。
あんな風に感情を素直に出すことが出来ることが羨ましい。
愛想笑いくらいなら出来るのだけど。
あ、そういえば彼の笑った姿を見たことがない。
基本、本を読んでいることもあって顔を見ること自体少ない。
どうしてなんだろう?きっと、綺麗な笑顔なんだろうに……。
けれど、そんな彼は三日ほど前から学校に来ていない。
私の目の前の席は、大きな空間を残して、ぽっかりと空いている。
それは私の心のようでもあって。
ぼんやりと外を眺める。
空は今にも降り出してしまいそうな曇天で。空の青はその身を隠していた。
傘、今日持ってきていたかな?
先生の声とノートをとるペンの音が、静かな教室に響く。
いつもなら、真剣に授業に取り組んでいるはずなのに、全くやる気が起きない。
それでも、授業についていけなくなるのは嫌なのでノートだけは写しておく。
聞こえてくるはずの音が、耳に届かない。
そっと、視線を下げる。
ポツ、ポツと。雨が窓を叩きだす。
空の耐え切れなかった涙は、雨となり地面を濡らした。
授業が終わるまで、あと五分と少し。
降り出した雨は、次第に勢いをなくしていく。
涙に濡れた地面は黒くて。どうしてか、彼の瞳を思わせる。
底がないと思えてしまうその色は、彼の色に似ていて。
溜まってしまっていた委員会の仕事を片付けつつ、そんなことを思う。
あの事件があったからなのか、放課後に残っている生徒はあまりいない。
それに、十八時には完全下校となっているので、仕事は溜まる一方だ。
現に、私以外の役員はすでに全員が帰宅している。
時刻は十七時四十分。
辺りはすでに闇に包まれだしている。
どこか、どんよりとした空気が漂っている。
そろそろ帰らなくては先生に怒られてしまう。
荷物を片付ける。
一人きりの室内に音が大きく響く。
「あれ……?手帳がない?」
いつも使っている手帳が見つからない。
「んー……、教室に忘れてきたのかな?」
探しても、ある気配がない。諦めて出した荷物を鞄の中に仕舞う。
重たくなった鞄を肩にかけて、生徒会室を出る。
時計の針は、十七時四十四分。
あと、少し。
秒針が進む。
一定の間隔をあけて。
踏み出す。
足は止まらない。
刃が食い込む。
声が。
肌が。
骨が。
脳が。
悲鳴が。
四肢を絶つ音が。
零れ落ちる水音が。
響く。
何が? それが。
(あまりの恐怖に顔が歪む)
落ちた? あれが。
(刃物から滴る赤)
消えた? これが。
(人だった者が、物に変わった)
悲鳴が消えた。
(喉まで出かかった音は、そのまま消えた)
終わる。 それだけ?
始まる。 本当に?
ぽたり、と赤が落ちる。波紋が足下に広がる。
錆びた独特の臭いが辺りに満ちた。
わらう。哂う。嗤う。
満たされたから。満ちてしまったから。わらう。
小さな波紋が、大きな波紋に変わる。満ちた。
例えようのない感情が、ぐるぐると渦巻く。
けれど、どこか心地好さもある。
恍惚とした表情で「それ」を見つめる。
雲に隠れていた月が、顔を出す。
どこか神秘的にさえ見える光が教室内を照らしだす。
酷く残酷な光景のはずなのに、目を離すことが出来ない。
現実ではありえないような、残酷で不思議な光景。
体温を失った「それ」は、とても「人」だったものには見えなかった。
静寂が辺りを包む。
何者の介入をも許さない。厳粛な雰囲気が漂う。
聞こえるのは、自分の心臓の音だけ。だった。
ガラリ、小さな音をたてて戸が開く。
空気が一瞬にして冷める。
何かが変わった。
心地好い、微温湯に蕩っていたような感覚から覚める。
限界まで満たされていたのに、それが幻かのように消えてしまった。
口元に浮かんでいたはずの笑みも、全てが消えた。
そして、
全てが噛み合った。
感情のよめない瞳が、立ち尽くす彼女を見つめた。
ゆっくりと、口が開く。
「ね、なんで君は逃げないの?」