ドーナツの穴でいっぱい
駅前には、いつも客で混み合う人気のドーナツショップがあった。
相崎奈々子は、このドーナツ屋のチョコクリームドーナツが大好きだった。
そして時々、大学の帰り道、このドーナツ屋で寄り道をした。コーヒーとドーナツのセットを頼み、1時間ほど文庫本を読むのが、奈々子の楽しみの一つだった。
そんな奈々子が、ある日のある事件を境に、ドーナツが嫌いになってしまった。
いや。
厳密に言えば、ドーナツが嫌いになった訳じゃない。
『食べること』そのものが、嫌いになってしまったのだった。
朝食の塩ジャケも、豆腐も納豆も。トーストもクロワッサンも、カルボナーラのスパゲティも、照り焼きハンバーガーもポテトもサラダも何もかも。
これまで奈々子の大好物だった、エビとマッシュルームのピザやコンビニで買うプリンでさえ、食べるのはおろか、見ることさえも嫌で嫌でしょうがなくなってしまった。
私はいったいどうなっちゃったんだろう?
奈々子は悩んだ。
ものを食べずには生きていけないハズの人間が、食べることを嫌いになるなんて、そんなことがあるのだろうか?
奈々子は、自分が信じられなくなっていた。
今日も奈々子は学校で、持ってきた弁当の大半を残してしまった。そして放課後になると、奈々子のお腹は空きすぎて、痛み出してきた。
それでも、食べたいという気は起きなかった。お腹はすいているのに、全く食べたくないのだ。
仕方がないので、コンビニで栄養ドリンクを一本買った。
飲むには飲んだが、ただ飲んでいるだけといった感じで、やっぱり味を感じることが出来なかった。
奈々子は、悩んだ。
私はどうしてこんなことになっちゃったんだろう?
どうして食べ物をおいしいと感じなくなってしまったんだろう?
学校を出た奈々子は家に帰るため、駅に向かって歩き出した。
そして電車に乗って10分。奈々子の家がある駅についた。駅の改札を出ると、そこにはあの、奈々子の好きなドーナツ屋があった。 奈々子は、なにげなくドーナツ屋を覗いた。その日のドーナツ屋は、客が少なく、閑散としていた。
店は広い窓から、店内を見渡せる造りだった。明るい店内を覗くと、ドーナツ屋の店員は、ヒマそうに天井を眺めていた。奈々子は目を逸らし、そのドーナツ屋を通り過ぎようとした。
その時だった。
窓際のテーブルに座る一人の男の子が、奈々子の目に入った。奈々子と同じくらいの年頃の男の子は、背が高く、痩せていて、そのせいかテーブルに向かうとひどい猫背になった。
その猫背の彼がむしゃむしゃと食べるドーナツは、・・・なんだかとてもおいしそうに見えた。男の子は、本当においしそうにドーナツを食べるのだった。
それを見ているうちに、奈々子もドーナツが食べたくなってきた。
もしかすると、あの男の子のように、ドーナツがおいしく感じられるかもしれない。
奈々子は、ドーナツを試すことに決めた。
以前好きだった、チョコクリームドーナツがいいわ。もしかしたら、「おいしい」という気持ちが戻ってくるかもしれない。
奈々子は、自動ドアを踏み越えて、ドーナツ屋のカウンターへと近づいていった。そしてガラスケースの中にあった、チョコクリームドーナツを指さし、店員に、
「これを一つ下さい」
と言った。
ドーナツとコーヒーのセットを注文した奈々子は、すいている店内で適当な席を探し、椅子に座った。そしてカバンを隣の席に置き、一息ついた。
奈々子は、落ち着いたところで、ドーナツに手を伸ばした。
その味は……。
奈々子は思い出していた。
ああ、これは、私の好きだった味。
表面は油で揚げてサックリ。中は程良くしっとり。チョコクリームがとろけるように舌にからんで、絶妙な甘さが口の中に溶けていく感じ……。
奈々子は、考えた。
今、私は、これをおいしいと感じているんだろうか?
奈々子は、もう一度ドーナツをかじった。
そして、再び味をかみしめた。
「おいしい」と感じるには、まだ時間が要るような気がした。
だけど、「おいしそうだ」と感じた気持ちには、驚いていた。奈々子はこのことに対し、それは心の第一歩だなと思った。
奈々子は食べかけのドーナツを見て考えた。
さて、これからどうしよう?
せっかく、この店のこの席に座ったのだ。このまますぐに店を出ることはないだろう。
奈々子は、カバンから一冊の文庫本を取り出した。
いつも通り、本を読もう。
奈々子はドーナツ屋で、本を読み始めた。しばらく読み続け、そしてきりのいいところまで読んで、栞を挟んだ。
今日は、ここまでにしよう。
そして明日、気が向いたらまたここへ来てみよう、と思った。
もしかしたら、明日は何かが変わるかもしれない……。
奈々子は立ち上がった。
そして、ドーナツ屋を後にした。
次の日の大学の帰り道。奈々子は再び駅前のドーナツ屋の前で立ち止まった。
店の広い窓から店内を眺めると、昨日と同じ場所に、あの男の子がいた。
ひょろりと背が高い彼は、昨日と同じように、猫背になってドーナツを食べていた。むしゃむしゃと食べるその顔は、なんともいえず幸せそうだった。
奈々子はしばらくその男の子を見ていた。
ああ、おいしそうなドーナツ。なぜ彼が食べると、あんなにドーナツがおいしそうに見えるのかなぁ。
男の子に釣られるように、奈々子は店内に入っていった。そしてドーナツ売り場のカウンターに近づくと、ガラスケースの中に入ったドーナツを観察しはじめた。
いくつもの種類が並ぶ、ガラスケースの中。生クリーム入りのドーナツ、シュガーパウダーのかかったドーナツ、潰したピーナッツの粉がかかったドーナツ……いろんなドーナツが奈々子の目に飛び込んできた。
だが奈々子は条件反射的に、昨日と同じ、チョコレートクリームのドーナツを指さしていた。
「これを下さい」
店員は、奈々子の指さしたドーナツを取り出し、皿に乗せた。奈々子は昨日と同じように、コーヒーを一緒に頼んだ。
いつものように、いつもの席で、ドーナツを食べる。
そしていつもと同じドーナツの味は……。
「おいしい」とは、言えなかった。
奈々子は、不思議に思った。
「おいしい」と感じないのに、私はどうしてドーナツを食べるんだろう?
ドーナツは、また、昨日と同じようにほとんど皿の上に残ってしまった。だが、まだ、家には帰りたくなかった。
奈々子は昨日と同じように、カバンから本を取りだした。
その本は、昨日と同じ本だった。
今読んでいるこの本は、3人の女の子の青春ものだった。アパートで同居している3人の女の子が、それぞれ自分の夢を叶えていこうとする物語。そして、奈々子が今読んでいるのは、3人の女の子たちが、意見の食い違いをおこしてケンカになっているシーンだった。
奈々子はしばらくその本を読みふけっていたが、途中でコーヒーがなくなったことに気がついた。
奈々子は、本を閉じた。
今日は、ここまでにしよう。
そして、ほとんど手をつけていないドーナツの乗った皿と、コーヒーカップを手に、席を立った。返却口に皿を返す奈々子を見て、店員の一人が奇妙な顔をした。
奈々子は、決まり悪そうにに目を逸らした。
そしてちらりと、男の子の座っていた席の方を見た。
だが、男の子の姿はなかった。
奈々子は思った。
きっと、もうとっくの昔にドーナツを食べて、出ていってしまったのね。
奈々子は、そう思いながら、店を出た。
次の日。
学校の帰り道。
いつものドーナツ屋の前に、奈々子はいた。
さすがに3日連続でドーナツを食べようという気にはなれなかった。
だが店の前で窓から店内を覗くと、昨日と同じ位置に、またあの背の高い、ひょろりとした男の子がドーナツを食べていることに気がついた。
ああ、またあの子だわ。
奈々子は即座にそう思った。
そしてその男の子がドーナツを食べているのを見ているうちに、またドーナツを試してみたくなってきた。
男の子の、猫背になってドーナツをむしゃむしゃと食べる姿は、奈々子の『何か』に訴えかけるのだ。
奈々子の足は、男の子に釣られるように、ドーナツ屋へと向かっていった。そして、奈々子はいつの間にか、ドーナツの並ぶガラスケースの前にいた。
しかし。
店内に入り、ドーナツの並ぶさまを見ながら、奈々子は後悔しはじめた。
ああ、私は今、ドーナツを食べたいわけじゃない。店の中に入って、いったいどうしようっていうんだろう?
その時だった。
あの、背の高い、ひょろりとした男の子が、ふいに席を立ち、こちらへ向かってやって来た。その彼が、奈々子を見て、声をかけて来たのだ。
「ねえ、君。昨日もドーナツを食べていたね」
奈々子はギクッとした。
まさか、「あなたを見てドーナツを食べてみようと思ったの」なんてことを言うわけにもいかず、奈々子は思わずこんなことを口にした。
「あなたもドーナツが好きなの? 私も昨日あなたをここで見かけたわ」
すると男の子は言った。
「じゃあ、せっかくドーナツ屋で出会ったんだ。ドーナツを食べて、ドーナツの話でもしよう。今日は僕がドーナツをおごるよ」
奈々子は、しばらくどうしようか迷っていたが、店が混み始めたため、店の入り口で立ち話をしているのも何かと思い、男の子の申し出を受けることにした。
……今日はドーナツはやめようと思っていたのにな。
奈々子は、ガラスケースを覗きながら思った。そして、様々な種類のドーナツを見た。
男の子が隣で、奈々子の注文を待っていた。
奈々子は言った。
「そうね。じゃあ……」
目についたドーナツは、シュガーパウダーのかかった、生クリーム入りのドーナツだった。
「今日はこれにしようかな」
男の子が、奈々子の言葉をうけて言った。
「じゃあ、僕が注文してくるよ。君は席に座って待っていて」
奈々子は、いつも男の子が座っていた、窓際の2人席にやって来た。そして、その席に座った。
しばらくして、男の子がドーナツとコーヒーを運んで来た。2人は並んで、ドーナツを食べ始めた。
「ドーナツが好きなの?」
男の子が聞いてきた。奈々子は返答に困って、こう言った。
「……私ね、今、ドーナツがあまり好きじゃないかもしれないの」
「えっ?」
奈々子が言っている意味を理解出来ず、男の子は奈々子に聞き返した。
「ドーナツが嫌いなのに、どうしてドーナツを食べているの?」
奈々子は、男の子にこれまでのことを話すかどうか、ためらった。そして奈々子は男の子に名前を尋ねることにした。
「その前に、あなたの名前を教えてよ」
男の子は言った。
「僕? 僕は楠川 春樹」
名前を聞いて、ちょっと安心した奈々子は、春樹にこれまでのことを話すことにした。
「私が嫌いになったのは、ドーナツだけじゃないの。……食べ物がみんな、おいしいと感じられなくなってしまったの」
「どうして?」春樹は聞いた。
「多分、……失恋したせいだと思う」
そうなのだ。
奈々子は、つい最近、つきあっていた彼に「ごめん」と言われ、別れてしまったのだ。
理由は、奈々子の友達だった。奈々子の友達が、奈々子の彼を好きになって、そして奈々子の知らない間に、2人は付き合いはじめたのだった。
ちょうどその頃、奈々子はダイエットをしていた。しかしダイエットはうまくいかず、食べたいものがあると、奈々子はついつい食べてしまっていた。
そして、当然のことながら、奈々子は太ってしまった。
体重計を見て、悩んでいたある日、……彼が別れようと言ってきた。
奈々子は自分がふられてしまったのが、自分が太ってしまったせいだと……そう思った。
その瞬間、まるで魔法がかかってしまったように、奈々子はものが食べられなくなってしまった。
何を食べてもおいしいと感じず、何を見ても食べたいと感じない。それまで好きなものはガマンできずに食べていた奈々子だったが、彼に振られて以来、ものが食べたくなくなるなんて皮肉だなと奈々子は思った。
「友達と彼とは今、どうしているの?」
春樹が聞いた。奈々子が答えた。
「うまくやっていると思う。彼とは会わなくなったけど、その友達から、彼のことは聞いているから」
「えっ? 何で?」
春樹はまた意外そうな顔をした。
「彼を奪った友達なのに、まだ友達でいるなんて」
「私、2人のことを憎む気になれないの」
奈々子は言った。
「友達はね、『こんなことになってしまったけれど、奈々子とはずっと友達でいたい』と言うの。私もその友達……ユカリのことを嫌いになれなくて、それで今でも友達なの」
春樹は言った。
「『ずっと友達でいたい』なんて、都合が良すぎるよ。僕ならそんな友達とは付き合うのはやめるな」
春樹の一言を聞いて、奈々子は寂しげにうつむいた。
「でも私、友達があまりいないの。ユカリはいつも私のことを大事にしてくれたし、……それに……」
奈々子はカバンのふたをあけ、今読んでいる本の中から、一枚の栞を取り出した。
その栞は革の栞で、手作りの品だった。革には花の絵が細工されており、下の方に、こんな言葉が書かれていた。
『お互い、幸せになろうね』
それをどうして、奈々子が春樹に見せるのか、春樹にはよく分からなかった。
「何を言いたいのかよく分からないよ。だってその友達は、1人で幸せになったんじゃないか」
奈々子は答えた。
「ユカリはね、お母さんが2年前に亡くなって、今はお父さんと2人暮らしなの。私も、お父さんがいないの。2人が出会った時に、お互いの家族のことを知って、それでユカリがこの手作りの栞を作ってくれたの」
春樹は黙ってしまった。
奈々子は言葉を続けた。
「こんなことになってしまったけれど、私、ユカリの幸せを願ってる。ちょっとくやしかったけれどね。友達でいたいと言われた時、それでもいいやと本気で思えたの」
春樹はしばらく黙って聞いていたが、思い出したようにこう言った。
「じゃあ、僕もいい話があるよ」
そして春樹は、自分のカバンを開けてごそごそと探っていた。そして何かを取り出した。
春樹が取り出したのは、100円ライターだった。奈々子は聞いた。
「タバコを吸っているの?」
「吸ってないから、意味があるんだよ」
春樹が笑った。
「これはね、僕が高校の頃に付き合っていた彼女から貰ったものなんだ」
春樹は、ボッとライターの火をつけた。そしてすぐさまそれを消し、ライターの話をはじめた。
「これは、彼女が別れよう、といった時に僕にくれたものなんだ。『100円ライターの火がつかなくなった頃、きっと私のことを忘れるわ』彼女はそう言って、このライターをくれたんだ」
「イヤな彼女ね」
奈々子は率直に感想を言った。
「自分から振っておいて、そんな言い訳、私なら聞きたくないわ」
「でもね、その彼女がどうして僕と別れようと言ったと思う?」
奈々子は首を振った。
「そんなこと、分からないわ」
春樹は、続けて話しはじめた。
それは、受験勉強をしている最中のことだった。高校3年になり、2人は大学へ行くために受験勉強をはじめた。そしてそのうち、勉強が忙しくなり、すれ違いが多くなった。 彼女は理数系。春樹は文系だった。あるとき春樹は推薦で大学の進学が決まった。彼女は、春樹に「おめでとう」と言い、そして別れよう、と付け加えるように言ったのだった。
春樹は、予感していた。
これから進学をして、そしてその後は?
2人には、その後のことまで考えることが出来なかったのだ。
そして彼女は春樹に100円ライターを渡した。彼女は言った。「100円ライターの火がつかなくなった頃に、あなたは私のことを忘れるわ」
春樹は言った。
「僕も、彼女がヘンなことを言い出すから、驚いて聞いたんだ。100円ライターなんて、タバコも吸わないのに、使わないよってね」 すると、彼女は言った。
「多分、あなたはこのライターを使わないと思うの。それが私の答えだわ」
彼女の言葉は、一種の謎掛けだった。
彼女のことを忘れる為に、火をつけ続けなければ、ライターのオイルはなくならない。逆に彼女のことを本当に忘れてしまったら、ライターそのものの存在すら、忘れてしまうだろう。彼女の答え、それは結局どんなものだったのかは分からない。だが、今でも春樹はこのライターを見るたびに、彼女が本当に言いたかったことを考えるのだ。
「その話には、続きがあるの?」
奈々子が聞いた。
「あるよ。僕らは結局、別々の大学へ進学することになってしまった」
「それで?」
「彼女はね、北海道の大学へ行ってしまったんだ。……遠距離恋愛するほど、お互い好きだったわけじゃなかったってことなのかもしれないな」
春樹は言った。
「違う大学へ行けば、人間関係も何もかも変わってしまう。恋人よりも、友達といた方が楽しい時もあるし、勉強が楽しい時期もある。今が一番楽しいってことは、多分お互い今が一番幸せってことなんだと思うよ」
奈々子はもう一度、春樹に聞いた。
「彼女からは連絡があったの?」
春樹は首を横に振った。
「僕らは多分、フェイドアウトしたんだ。ライターはその時の、いい思い出だ」
「でも、なぜあなたが、私にライターの話をしたのか、よく分からないわ」
奈々子が聞いた。
すると、春樹は言った。
「思い出の品には、それぞれ物語を秘めているってことを言いたかったんだ。そして、過ぎたことをきれいな思い出にすることで、明日をもっといい日にしようとする……そんなところに、僕と君の共通点があるような気がしたってことさ」
春樹は言った。
「もう1個ドーナツをおごるよ」
奈々子は笑ってしまった。
「いらないわ。まだ残っているもの」
奈々子は、食べかけのドーナツをかじった。
ドーナツはとてもおいしく感じられた。
ああ、魔法が解けたみたい。奈々子はそう思った。だが、奈々子は最後に食べたドーナツがおいしかったことは、春樹には言わないでおこうと思った。
そして……。
「じゃあ、私はそろそろ帰るわ」
と言って、奈々子は立ち上がった。
「待って」
春樹が呼び止めた。奈々子は言った。
「もう、ドーナツのおかわりはいらないわ」
「もう一つ、いい話があるんだ」
春樹がそう言うので、奈々子はもう一度席に座った。
「どんな話なの?」
「ドーナツの穴は、なんで空いているか知ってる?」と春樹。
「知らないわ」と奈々子。
「もしかして、ドーナツの穴の分だけ、材料費を浮かそうとしているとか」
「違うよ」春樹は言った。
「このドーナツの穴はね、とても必要な穴なんだ」
春樹は話をはじめた。
それはある、船乗りの話だった。
昔アメリカに、ハンソン・グレゴリーといてう船乗りがいたのだという。そして、ハンソンの母親は、いつも息子のおやつにフライド・ケーキをつくっていた。しかし、母親のつくるフライド・ケーキは、いつも真ん中だけが生焼けだった。怒ったハンソンは、最初から真ん中がなければいいんだ! とばかりにフライド・ケーキの真ん中に、フォークで穴を開けてしまったのだ。
「それが、ドーナツの穴のはじまりなんだ」
奈々子は感心して言った。
「じゃあ、ドーナツの穴は、本当に必要な穴だったのね」
春樹はつけ加えて言った。
「空虚に見える何もない部分にも、大事なものが隠されているっていう教訓さ」
奈々子が席を立った。
「いい話をありがとう。もう帰らなきゃ。ドーナツ、おいしかったわ」
春樹がうなずいた。
「きっと、今日のこういう一日にも、意味があるんだと思うよ」
奈々子は春樹と別れ、ドーナツショップを後にした。振り返ると、春樹が手を振っていた。奈々子も、手を振り替えした。そして奈々子は、軽やかに家に向かって歩き出した。
次の日の放課後。大学の授業も終わり、奈々子は家に帰る途中だった。そしていつもの、駅前にあるドーナツショップで立ち止まっていた。
今日は……どうしようかな。
奈々子は、ドーナツ屋の店の中を覗いた。
だが、春樹の姿はなかった。
「どうしたんだろう?」奈々子はそう思い、ドーナツショップの中へと入っていった。
そして店内をくまなく探したが、やはり春樹の姿はない。
結局店の中に入ってしまった奈々子は、何となく店の外に出ることも出来なくなり、一人でドーナツを食べることにした。
いつもいると思っていた春樹がいない。
いると思ってやって来たのに、その姿がないとなると、なんだか寂しい気持ちになった。
奈々子はガラスケースの前でドーナツを注文し、コーヒーを頼んだ。そしていつものように、空いている席を探して座り、ドーナツを食べ始めた。奈々子はいつも通り、読みかけの本を広げた。
物語は3人の女の子がアパートで同居をし、それぞれが夢に向かってがんばっていく話だった。3人は一時期ケンカをしていたが、仲直りをして、また、いつもの生活をはじめるようになった。
だが、その後小説の主人公は、1人だけ夢に挫折しかけた。そこに1人の青年があらわれ、主人公は恋に落ちた。青年は主人公を励まし、助けてくれようと手をさしのべた。そして夢をあきらめかけていた主人公は、再び夢に再チャレンジをする……というところで、コーヒーはなくなり、そしてドーナツも食べ終わってしまった。
毎日読んでいる本は、毎日少しずつ物語が進展していく。ふと気がつくと、主人公たちは自分の道に突き進み、ハッピーエンドへとがんばってすすんでいく。奈々子は、自分が毎日同じことの繰り返しをしているようでいて、そうではなかったのかもしれない、と気がつき、顔がほころんだ。毎日同じドーナツショップにいて、そして、毎日少しずつ変わっていく。
ああ、私も小説の主人公と同じなんだ、と、奈々子は思った。
本を閉じ、カバンの中に本をしまい、そしてテーブルの上を片づけていた奈々子はふと、窓の外で音がしたのに気がついた。
トントン。
ガラス窓が叩かれたのだ。
振り返り、窓の方を見ると、そこには春樹が立っていた。
「やあ」春樹が窓の外で手を振った。
奈々子はあわてて荷物を片づけ、ドーナツショップの外に出た。そんな奈々子に、春樹が笑いかけてきた。
奈々子は言った。
「今日はいないから、もう来ないかと思ったわ」
すると春樹は言った。
「違うドーナツを探しに行ってたんだ」
「違うドーナツ?」
奈々子が不思議に思って、春樹の顔をのぞきこむと、春樹は紙袋を一つ取り出し、奈々子の手の上に載せた。
「ハイ、これをあげるよ」
「開けてもいい?」奈々子が聞いた。
「どうぞ」と春樹。
奈々子が袋を開けると、その中に丸いドーナツのようなものが入っていた。
「なにこれ?」
奈々子が目を丸くした。すると春樹は、
「ドーナツの穴の部分だよ。これで奈々子の心の穴も埋まるといいね」と言った。
奈々子は袋の中をのぞき込んだ。
「本当にドーナツの穴の部分なの?」
「ウソだよ」
春樹が笑った。
「本当は、沖縄のドーナツなんだ。サーターアンダギーっていうんだよ」
奈々子も思わず笑ってしまった。
「本当にドーナツの穴の部分を売っていたのかと思ったわ」
春樹は、袋の中に手を突っ込み、その一つを取り出した。
「サーターアンダギーはね、中国では『開口笑』って言うんだよ。お坊さんが大きな口を開けて笑っているように見えるからだって。奈々子にもこれを食べて、笑って欲しいなと思ったんだ」
春樹はそう言うと、サーターアンダギーを一つ、自分の口に放り込んだ。そして食べ終わると、くるりと背を向けた。
「じゃあね」
奈々子は春樹を呼び止めた。
「また会える?」
「ああ、きっと明日はいつもの席で、ドーナツを食べていると思うよ。ヒマだったら声をかけてよ」春樹は言った。
「ドーナツの穴がいっぱい埋まったわ。ありがとう」奈々子は言った。
春樹は笑ってこたえた。
「明日は、穴のあるドーナツを食べよう」