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渦巻迷宮  作者: 平 啓
3/3

3.渦巻迷宮

 渦巻き紋の入った真紅の帆が風をはらみ、内湾を出たヨットは帰路とは逆の方向へ進路を取った。船尾では片足で舵を操る女が、後ろ手にくくった王子へ刃をぴたりと付け、側近達へ展帆指示を次々と出す。その手慣れた様子は、もちろん薄幸の子女のはずがない。

「殿下、ご感想は」

 うんざりしながら索を操る護衛長が、剣呑な眼差しを王子に向けた。

「たいした命の恩人ですね」

「うーん、おかしいなあ」

 傾げかけた首に短剣がギラリと光り、王子は身を堅くして上目遣いに女を見上げた。

「だって、助けてもらった場所と時期は誰にも言ってなかったのに」

 女の緑の目が細まり、軽笑の息が鼻から漏れる。

「王子サマの公式記録は、全部この頭に入ってますからね。盗み聞いた内容から、すぐに分かるってものです」

 へえ、それはすごいと、心底感心して目をしばたかせた王子へ、女は可愛らしく微笑みかけた。

「あなたとの毎日は楽しゅうございましたわ、殿下。思い出もいただきましたし、一生忘れません」

「お、思い出えええ」

「殿下、あなたって人はっ」

「知らん、知らん。私は清廉潔白――」

 双子が揃って眉を逆立て食ってかかり、弁明しようとした王子の頭上で音がした。からから、からころ。

「国に帰っても大事にいたします」

 女がスカートの陰から出したのは、紐で繋いだ家宝の履き物だ。

 側近二人の顔がこわばり、ふと視線を渡した女の笑みが深まる。

「お別れの時が近づいてきたようね」

 進路の先に船影が現れた。帆は無地で旗も掲げず、国籍を示すものはどこにもないが、王子達には見覚えのある船型だ。

「大島国……」

 順風を受けたヨットは、まっすぐそちらへ向かっていく。

 と、急に陽が陰った。

 いきなり大空に大音響が鳴り渡り、凄まじい強風が吹き下ろしてきた。穏やかだった海面はたちまち波頭を高くあげ、泡立つ飛沫を立ててヨットの甲板を洗い出す。

「殿下っ」

 傾いた床を縛られた王子が転がり、舷側から飛び出しかかるのを、執事長がやっとのことで掴まえた。自分達の身体を綱で索具に縛り付け、王子の後ろ手を結ぶ紐を切りにかかるが、大揺れに揺れている中ではナイフの刃先も定まらない。

「ちょっと我慢してください」

「痛、痛い、いたたがばがばぼぼばば」

 海水を口いっぱい受けた王子の悲鳴の上に、帆が引き裂かれる甲高い音が重なる。それと同時に船の揺れもいくらか小さくなったが、立てないことには変わりはく、王子はやっと自由になった手で索具をつかんで身体を支えた。のべつくまなく襲いかかる波濤の合間に船上を見渡すと、船尾で女と護衛長が絡まりもがいている。どうやら格闘していたようだが、この状況下ではどちらも自由に動けず、むしろ身体を船に固定して海中落下を防ぐしかない。舳先では、目覚めた船乗りの舷側にへばりつく影が見えて、王子の心はいくらか軽くなった。

 正面に波の壁が立ち上がる。船はこれまでになく大きく傾いで、みしみしと不吉な音を立てた。崩れ落ちる海水を真上から受け、転覆の危険に肝を冷やしたが、どうやら最後の山場だったようだ。これを境に、甲板がかぶる波の高さが次第に低くなり、身を翻弄する揺れも収まっていく。

 ようやく足を踏ん張れるようになった途端、船尾の争いが再開された。女の腰に下がる履き物を奪うべく、細い護衛長が相手を組み伏せようとしている。しかし女は両手の短剣を振り回して、相手を近づけさせない。すでにスカートを引き剥がし、丸見えになった太股には、流れた渦巻きが消えかかっていた。

 素早く身体の綱を解いた執事長が、甲板を滑りながら片割れの加勢に向かう。

「おとなしくしろ。もう乗り継ぐ船はないぞ」

 隙無く刃を向ける女は、はっと見開いた目を波立つ灰色の海に走らせた。さきほど目当てにした船影はどこにも見えず、ただ荒ぶる波頭が限りなく続く。

「こういうことになるから、昼までに帰ろうと言ったんだよ」

 執事長の後ろから王子の呑気な声がかかると、女の柳眉がいっそう角度を増した。

「昨日は晴れだと言ったわ」

「ああ、うーん。午前は晴れたから、あながち外れてはないだろう」

 雲の渦巻く空を一巡り見渡した後、王子は困ったように微笑んだ。

「履き物を返してくれないかな。それでも一応家宝だから」

 女が奥歯を強く噛みしめ、顎を引く。と、口の両端を不敵に上げ、やにわ一歩を踏み出し、正面の相手に向かって剣を鋭く薙払った。護衛長が下がった拍子に足を滑らせ、背後の執事長、王子ともども将棋倒しとなる。その隙に女は腰から履き物をはずして、腕を大きく後ろへ引いた。

 あっという間に履物は海へ放たれる。

「おのれっ」

「待て、行くな。まだ危ないっ」

 身を起こした護衛長が履き物を追って舷側に駆け寄るのへ、四つん這いの王子が滑りざま伸ばした手でズボンの裾を掴んだ。すかさず剣を向ける女の手首を執事長が止め、護衛長は必死の形相で王子を睨む。

「離してください、大事な宝です」

「もういい、あんなのは――ぷぷ」

 王子の顔面を思い切り踏み込む足の裏。気づけば手にする衣服に中身はなく、舷側向こうに水柱が上がった。すぐ海面に現れた黒髪は見当よく履き物の近くに浮かんだが、未だに残る高い三角波が行く手を阻み、なかなか前へ進めない。

「おい、戻れ。戻るんだ」

 声を枯らして王子が叫ぶも、青黒い波間に見え隠れする頭は振り返りもしない。と、その脇の海面が急に大きく膨れ上がり、突き上がった頂から一気に海水が落ちてきた。たちまち飲み込まれるその姿。

「護衛長っ」

 王子は思わず船縁に足をかけ、海へ身体を踊らせた。

 海中に没した瞬間、しまったと思う。足がった。痛さに心中悲鳴を上げ、どうにか口先だけを海面に出したが、絶え絶えの息がやっとで、胸の空気が急速に失われていく。すぐに身体が沈み込んだ。懸命の腕掻きも効を奏さず、胸の痛みがきつくなり、ついには最後の大きな泡が口からぼこりと出る。

 遠のく意識。薄暮に似た光の向こうから、黒い影が近づいてきた。


 激しく咳き込んで王子は目を覚ました。心配そうに覗いていた同じ四つの黒い瞳が、ほっと緩む。

「助けに行って足を攣らせるとは、まことに殿下らしい」

 王子の背をさすりながら、安心した執事長が嫌みを口にし、その後を継いだ護衛長も、恨みがましく眉を寄せた。

「もう少しで履き物が拾えたのに……」

「ああ、助けてくれてありがとう」

 しょんぼり肩を縮込ませた王子は、上目遣いに護衛長を見上げた。

「ごめんよ。あの履き物はまた作るから、気にしなくていいんだ」

「作るって」

 同じ大きさに目を見開いた双子へ、王子の頷きが返る。

「うん、とある国の専門職人に頼めば、すぐ作ってくれる」

 他の種類ではだめだが、あの履き物であれば何でもよいと、王子は言った。大事なのは、履き物を蹴り飛ばすときの脚の微妙な回転、履き物が飛ぶ様子や地に落ちた動きをどう読み解くかで、渦巻きに連なる王族は、感覚的に分かるのだとも。

「でもあの履き物の力だ思わせておけば、王族自身は狙われないって」

 執事長と護衛長は顔を見合わせ大きく溜息をつくと、これ以上ない厳しい顔で王子に詰め寄った。

「だったら、もっと御身を大切に」

 はい、とくるくる渦巻く金髪の頭が、申し訳なさそうに下げられた。

 帰港に向けて、裂けた帆の修繕が始まった。一方女は側近達が王子を救出している間に、救命具を付けて逃げてしまっている。波も収まってきたので、どこぞの小島には行き着けるだろう。

 船尾に腰を下ろした王子は、ぼんやり頬杖をついて作業を見守った。この数日の楽しかった時間と、太股渦巻きが幻に終わったことが、とても残念でならない。あの命の恩人に巡り会えるのはいつなのかと、恋慕の思いは無意識に渦巻きを探す。

「おい、ズボンをはけ」

 執事長が片割れに声をかけた。飛び込む際、王子に掴まれ脱ぎ捨てたので、小麦色の生足が船上を行き来していたのだ。こちらに近づくその動きに、王子の目が留まる。護衛長はすぐ側で身を屈めると、丸まったズボンを拾い上げて顔をしかめた。くるりと向ける背。

「だめだ、股が裂けている」

 片割れにズボンを掲げて見せたので、上衣の長めな裾が上がった。

 眼前に丸出しの太股――そして渦巻き。

 王子は息を止めた。

「仕方ない、私のをやろう。仮にもお前は女だしな」

 船尾に歩み寄る執事長が、脱いだ自分のズボンを差し出してくる。それが手渡される直前、王子は護衛長に向かって声を張り上げた。

「ちょっと待った。お前は子どもの頃、小さい男の子を救った覚えはないのか」

 黒髪を絡ませる首が二三度傾げられ、ひょいっと肩が上がって、こともなげな答え。

「ありますが、多すぎて誰が誰やらの記憶はありません」

 しかし、と王子は思う。その中の一人が自分だという可能性は充分にある。王子の心は一気に高揚した。まさか、こんな近くに――

「私達は年がら年中、海で遊んでいましたからね」

 執事長が歯をみせて笑い、子どもの頃からの長い髪を結び直した。

 帆の繕いが済みました、と舳先の船乗り達から声がかかり、作業へ戻る二つの背。それを、希望にあふれた王子の輝く瞳が追っていく。忘れられない彼女の渦はズボンに隠れたが、未だ消えずにはっきり見えるほどだ。

 そう、消えずにはっきり――王子は「あれ」と目をしばたかせた。

 渦が見える。はっきり見える。ズボンをはいていない太股――筋肉の引き締まった執事長の太股。

 遊び相手は同じ顔の少年少女。

――え

 王子の頭の中で天井扇の回転が始まった。ゆっくり回る青と白の渦巻き。

 中心へ吸い込まれているのは、どちらだろう。

 青か白か、白か青か。

 王子には分からない。


(おわり)


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