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渦巻迷宮  作者: 平 啓
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2.太腿渦巻き

 女は王子の前に進み出ると長いドレスの両端を摘み、濃い色の頭を深々と下げた。

「よくきた。おもてをあげなさい」

 王子が促すと顔を上げたが、やはり部屋の渦巻き模様に気圧されたのだろう、大きな緑の瞳を頻繁にしばたかせ、微笑みが一瞬凍りつく。しかし、すぐに気を取り直したか、揺れる視線もやがてぴたりと止まった。

 顔はまずまず――執事長はうなずいた。

 一応の造作だ――護衛長も異論はない。

 か、可愛い!――王子は喜びのあまり飛び上がりそうになるのを、ようよう爪先で留めた。

 執事長が口入れ屋からの女の紹介状を読み上げる。名前と住所、両親の名と生年月日、年齢――

「二十五歳で間違いないか」

「はい、その通りでございます」

 にっこりと質問に答えるその顔つきは、二十歳はたち前と言っても十分通るほどに若々しい。

「家格はそれなりのようだが、その年になるまで独り身とはどう言うわけか?」

 続いて質問した護衛長へ王子は渋い表情を向けたが、むろん相手は歯牙にもかけない。女が答えるには、母親が後妻で父親ともども後から生まれた妹、弟を依怙贔屓し、小間使い替わりに働かされていたそうだ。気づけば婚期も逃しかけ、最近では露骨に邪魔者扱いされて、ついに先日粗相を理由に追い出されたという。なんとか職を探そうと口入れ屋を覗いたところ、勧められたがあの花嫁募集の張り紙だった。

「それは気の毒に……」

 薄幸な身の上に、王子は声を詰まらせた。

「王太子妃とは畏れ多いと存じましたが、もう今夜の宿のあてもなく、せめて王子様のお情けにおすがりしたく参りました」

「いいとも、王宮内の部屋を使うといい」

「殿下っ」

 即座に返った安請け合いに側近の厳しい声が上がったが、今度は王子が無視を決め込む番だった。

「そこで、ええ、年齢のことやら、出自はよいのだが……」

 言いかけ、急にもじもじと身体を小さく揺する。

「その……その」

 えへんえへんと咳払い。

「あ……ええ。あの……アザのことでございますか」

 女が察して口にすると、王子は何度も大きく頷いた。

「み、みみ、見せてもらえるだろうか」

「殿下っ」

 渦巻き部屋に、諫言の鋭い声がハモって響く。しかし女は頷き、王子へ薄く微笑んだ。

「募集の条件でございますから、お見せするにやぶさかではありません。けれど、他の方にはちょっと……」

「それはもっともだ。お前達、呼ぶまで外へ出ていろ」

 王子の有無を言わせぬ命を受け、さすがの執事長と護衛長も頭を下げざるを得なかった。

 二人して扉の前に並び、心落ち着かずに待つことしばし。いきなり室内で大きな物音と女の悲鳴が上がった。

「殿下、いかが――」

 急いで中に入って目にしたのは、床にひっくり返っている王子と、慌ててスカートを下ろしている女の姿である。執事長が王子のもとへ膝を突き、護衛長が女の腕をとってその場から遠ざける。

「ああ、なんでもない。少し別の部屋で待っていてください」

 よろよろと上半身をあげた王子の鼻下から、つつーっと赤い筋が一本流れ、執事長はすかさずハンカチを当てた。

 女が部屋から下がった後、いつもの籐椅子に収まった王子は、周囲の渦巻きをぐるりと見回した。満面の笑みに、幸せそうな呟きが漏れる。

「やっと見つけた。ほんとうに渦巻きだ」


 それは、双子がまだ王子の遊び相手になる前のこと。島の南にある別邸へ行った折り、王子はそっと邸を抜け出した。海へ続く岩場を少し行くと、大きな岩が重なる間で数人の子ども達が遊んでいる。暑い夏の盛りでほとんどが下着姿なのを幸いに、王子は自分の仕立ての良い服を脱ぎ捨て彼らの元へ跳んでいった。

 そこは大岩の狭い間を、寄せ波、引き波のタイミングが合う度に小さな渦が発生する場所だった。初めて近くで見る渦の動きに王子は感動を覚えたが、更に驚いたことには、その渦中へ子ども達が我先にと飛び込んでいく。大概は流れの縁からすぐ浮き上がって戻ってくるが、中には渦をくぐり抜け、向かいの岩場まで泳ぎ着く者がいた。海から上がったその顔は、よく見ると華奢な少女で、成功者を称える声を受けて誇らしげだ。

 すごいと思った。うらやましいと思った。なので王子も飛込んだ。

 飛込んだ途端、これはしまったと思った。海中へ引き込む流れの強さに、必死の手掻き足掻きも効果はなく、口から空気ばかりが漏れていく。次第に意識が遠のく内に、黒い影が近づいてくるのが見えた。

 気づくと激しい息が耳元で響いていた。ふと開けた目の横で、先の少女が座り込み、長い髪のかかる肩を大きく上下させている。投げ出された脚の太股には渦巻きのアザ。そして、こちらを振り向き「もう大丈夫だよ」との優しい言葉と微笑みが投げかけられた。

 この光景は深く王子の心に刻み込まれ、渦巻きに込められた命の恩人への感謝は、次第に恋慕へと変わっていったのである。


 すぐに王宮内に部屋を与えられた女は、しばらく王子のお相手役を勤めることになった。色彩の乏しかった王子の近辺が急に華やかになり、怠惰な空気までが溌剌として、渦巻き部屋の印象を変えていく。女の笑い声と王子の楽しげな話し声がたびたび廊下からも聞こえ、二人の連れだって歩く姿が王宮の至る所で見られるようになった。

「お二人はテラスで、お茶を召し上がるそうだ」

 茶器のワゴンを押す執事長へ、護衛長が不機嫌な声をかけた。

「まったく殿下ときたら、日毎に鼻の下が伸びてきてないか」

「長年の想い人が見つかったと喜んでいるのだから仕方ない」

 二人して同じ歩調で進みつつ、執事長は苦笑した。

「しかしあの部屋の渦巻きが、恋心の現れとは意外だったな」

「何が恋心だ。変な場所の変なモノを後生大事に思い続けていたとは、ますますもって情けない」

 大きくため息をついた護衛長は、ふと真剣な眼差しを片割れに向けた。

「あの女、本当に殿下を助けたのか」

「ああ、先だって殿下が尋ねてみたら、確かに記憶にあるそうだ。場所や時期も合っていたらしい」

 彼らが行き着いたテラスでは、王子と女が何やら足元を見下ろしながら談笑している。ワゴンと共に近づいた側近達は、女の履いているモノに気づいて、一瞬言葉を失った。

「結構歩きにくいのですね」

 王子の手に引かれて女が歩くと、からころと音がする。

「待てっ」

 彼らが叫ぶより早く、女が思いきり片足を振り上げた。すぽーんと抜けた履き物が青空の真中でゆっくり止まり、そのまま落ちてくるのを口を開けて見上げる一同。しかし思うより近く、いや眼前に迫るを気づくに遅く、木製の履き物は王子の顔面で鈍い音を立てて石畳の上に転がった。

「殿下っ」

 再度同時に叫んで駆け寄った側近達は、よろよろ足をふらつかせる王子を両側から支えた。女は口元に手を当て、身を震わせている。

「まあ、私、どうしましょう」

「ああ、らいじょうぷ、らんともらいから」

 目元に涙を滲ませながら、王子はふがふがと笑顔向け、石畳に落ちた履き物を見下ろした。

「表が出れ晴れらね。ろこの天気を願っらのかい」

「あ、明日の海峡のお天気を」

 そろそろ近づいた女は、護衛長の取る王子の左腕に手をかけ、奪うように引き寄せた。

「ヨットを出して遊ぶお約束でしたから」

 

 翌朝、王室専用の船着き場に、王子のヨットが浮かんでいた。真っ白な船体に金色のマスト、真紅の帆には王家の紋章である渦巻きが白く染め抜かれている。王子と女が桟橋に着く頃には、すっかり出航準備も整い、船乗りの服を着た執事長と護衛長が二人を出迎えた。彼らの勤めは王宮のみならず、船上では船乗りとして発揮されるのだ。

 王子に手を貸してもらった女が船尾の椅子に収まり、もやい綱が解かれてヨットは桟橋を離れた。側近二人と雇いの船乗り二人とがオールを漕いで、港の中程へ突き進む。空は青く澄み渡り、帆にはちょうど良い風も吹いていて、絶好の帆走日和である。

「ほんと、見事に晴れましたのね。さすがは王家の家宝ですわ」

 手作りの昼食の入ったバスケットを抱きしめながら、女が感嘆の声を上げた。

「しかし殿下。先日の月予報では、今頃は時折突風が吹くとの事でしたが」

 オールを握る執事長が怪訝な顔を向けたので、王子は舵を取りながら、空をぐるりと見回した。

「昼までは安定しているから大丈夫。渦潮を見て帰ってくればちょうどいいさ」

 王宮の窓から見下ろす海峡の渦潮を、近くで見たいと女が呟いたゆえのヨット行である。港を出て帆走に移り、舵を執事長に任せた王子は、いそいそと女の横に腰を下ろした。船縁に沿って飛ぶ海鳥へパンのかけらを投げかけ、二人して歓声を上げる。それを見やりながら、執事長と護衛長は互いに肩をすくめた。

「殿下はすっかり骨抜きにされたな」

「抜くほどの骨もなかったから、簡単このうえない」

 昨日あれから私室に戻り、女にせがまれ家宝を見せてしまった軽率さを二人が諫めた。すると返ってきたのは、いずれ王太子妃になるのだから構わないじゃないかとの気楽な答え。それより、あの履き物がとても素敵と言われ、嬉しくてたまらないと王子は破顔した。喜びのあまり秘式の内容まで口を滑らせ、自分もできるかしらとの女の言葉には一も二もなく頷いて、先の直撃を受けるに至ったのである。

 港から島を半周して臨んだ海峡には、すでに始まった潮の流れの縁に大小様々な渦が現れている。念のため皮袋の救命具をつけた女の腰へ、王子はしっかり腕を回すと、舵と帆桁を操る側近達に合図した。

 ヨットの舳先がぐるりと周って海峡へ向かう。潮流に乗るや、波切り音と渦の轟音が潮風を震わせ、船はぐんと速度を増した。両舷の先では大きく渦巻く海面が、激しい白飛沫をあげている。女の嬌声と王子の大声が上がる中、執事長と護衛長は互いに視線で連絡を取り合い、流れの中心の航路を保ち続けた。

「殿下。そろそろお昼にいたしません」

 海峡を抜けて波が穏やかな内湾に入るとヨットは錨を降ろし、女が昼食用のバスケットを引き寄せた。給仕に進み出た執事長へ、軽く手を上げ首を振る。

「ここは私がしますから、皆様もこれでごゆっくりお休みください」

 そう言って差し出した酒壷を、船乗り達は大喜びで受け取り、舳先に座って酒盛りを始めた。しかし側近二人が断ると、小さく眉を上げた女は顔をついっと反らし、王子の杯へいそいそと酌をした。ロールパン、ロールサンドウィッチ、野菜ロール、生ハムロールなど目にも好物料理が並んで、舌鼓をうった王子がほめそやす。

 執事長は、すっかりやに下がった顔から空へ視線を移した。青空は広がっているが、水平線に近いところから怪しげな雲が湧いている。王子の昼食はこのまま続けるにしても、そろそろ帰路についた方が良さそうだ、と思った矢先――

「おい、どうした」

 マスト近くにいた護衛長が声を上げて舳先へ向かう。甲板に打ち伏す船乗り達の姿が索具越しに見え、執事長も舵を離れて急いで後を追った。ぐったりとなった身体を起こして頬を叩くも、反応がない。息はしているようだがと訝しんで、床にこぼれた杯の液体に目が止まる。

 はっとした双子は顔を見合わせ、同時に船尾を振り返った。

「さあ、錨を上げて、私の言うとおりに進んでちょうだい」

 王子の喉元へ、女が短剣を突きつけていた。


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