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9.この世に未練はありません

9.この世に未練はありません



「ん……む……?」


目を開けると、布団の中にいた。

見慣れない部屋。どうやら和室であるらしく、見上げている天井には見事な木目が模様を描いている。

頭上にはカーテンの閉じられた窓があり、そこからははほんのりと明かりが差し込んできていた。


朝、かな。

あれ、あたしどうして布団で寝てるんだっけ。

えーと、えーと。

ぼんやりと記憶を手繰る。


ああ、そうだ。

深夜にようやく加賀父を見つけて、部屋に通されて。

そうか、多分そこで寝ちゃったんだ、あたし。

ということは、ここはじいさんの家だろうか。


体を起こして室内を見渡してみる。

6畳ほどの部屋に、布団が2組。

一方にはあたし、その横には寝姿もしどけない柚葉さんがいた。


タオルケットからはみ出ている魅惑的な体は、真っ黒いレースのブラにパンツだけを身に着けていた。

「うう、ん……」と寝返りを打ったかと思えば露わになる真っ白の谷間。ぷりぷりした太腿。


うーん。あたしが男だったら垂涎モノだね。

いい体を朝っぱらから拝ませてもらってすんません。

とりあえずご利益を願って拝んでおこう。


あ。イビキが聞こえる。

隣、かな?

音を立てないようにこっそりと布団をでて、隣室に続いているのだろう襖をそっと開けた。


……うわ。

こっちの寝姿は、きったねえな。


トランクス1枚しか身につけていない三津が、股を開いて高いびきをかいていた。

毛むくじゃらの足が放り出されている。


こちらには布団は3組だ。

右端に三津、左端の小さなこんもりはきっとイノリだろう。

真ん中の布団は、空。ここは加賀父の布団、かな。


「んっがああぁあぁぁぁ」


三津、うるさっ!

イノリが寝てるんだから、もう少し控えめにしろよ、もう。


ていうか、汚い三津の寝姿をこれ以上見たくない。

こちとら穢れのない女子高生なんだ。

見ただけで目がつぶれる、。


襖を閉めようとしたとき、下から物音がした。

じいさん、だろうか。耳をすませてみる。

いや、三津のイビキだけではなく、もう1人分のイビキが聞こえる。


ということは、起きているのはやはり加賀父か。

そうだ、加賀父なら話をしなくちゃ。


昨日は途中で寝てしまったから、加賀父と何も会話できていないのだ。

色々話すことがあるのに。

今だとイノリも寝てるし、ちょうどいいや。


すうすうと気持ちよさそうに寝息をたてている柚葉さんを起こさないように気をつけつつ、部屋を後にした。


どうやらあたしは2階に寝ていたようだ。

短い廊下を抜け、きしむ階段をゆっくりと降りる。

と、イビキが一際大きくなった。

多分、この部屋がじいさんの部屋だな。

階段横の部屋をちらりと見て、そっと離れた。


居間に向かうと、ふわりと味噌汁の匂いがした。


「あ、のう。おはようございま、す……」


おずおずと襖を開けると、縁側に腰掛けていた加賀父が振り返った。


「ああ、おはよう。ずいぶん早起きだな。よく眠れた?」


朝日を浴びて、にっこりと笑う。

ぬわあああぁぁぁぁぁ、朝イチで金吾様の笑顔を拝めるとは!

しかも有難い後光付き!

なに、なに、幸せすぎて怖い!


「疲れてたみたいだね。風呂、もう沸かしてあるから入るといいよ」

「あ、あの、あの、ありがとうござい……ま、す」


だめだ。あたし、この人に弱すぎる。

会話すらまともにできねえ。


ううん、だめよ、美弥緒。今は大事な話をしないといけないの。

金吾様ではなく、加賀父だと思って会話するのよ!


「美弥緒ちゃん? まだ眠たい?」


再びにこり。

ああああ、その笑顔、すでに毒物の域です!

痺れて呼吸困難に陥りそうです。


しかし、しかし惑わされたらだめなのだ!

ぶんぶんと首を横に振る。と、勢いをつけすぎたのか、襖にガコンと額をぶつけた。


「ぬは! っつ、ぅ……」

「だ、だいじょうぶ?」

「う、っす。全然平気です。むしろ好都合です」

「は?」


お陰で気持ちの切り替えができました。

ずきずき痛む額を押さえ、訝しげな加賀父にえへへ、と笑ってから、あたしは縁側まで近づいた。

少し離れたところにぺたんと座る。


「あの、ですね。あたし、相談があるんです。真剣なので、あの、最後まで聞いてもらえないでしょうか」

「ああ、9年後、だろ?」


さらりと言われて、思わずつんのめった。

えー、その問題を、あっさりとー?


「君と祈が寝たあと、三津たちから聞いたんだ。すごいな、美弥緒ちゃんは未来を知ってるんだな」

「あ、いや、まあ、そうなんですけど。って、そっちの話は後回しでいいんです」

「あと? まだ急ぐ内容がある?」

「はい。イノリのことです。加賀父、じゃないや。加賀さんがイノリを引き取ることはできないんですか?」


訊くと、加賀父は驚いたように目を見開いた。


「大澤さんがどんな人かは知りません。いい人なのかもしれません。でも、イノリはあなたこそがお父さんだと思っているから、1人で頑張って家を出たんです。あなたがイノリを引き取ることはできないんでしょうか?」


柚葉さんの言ったことも分かる。

でも、やっぱりお金よりも重要なことがあると思うのだ。


自分がでしゃばったことを言っていると分かってる。

加賀父にだって、事情があるからこそイノリと別れたのだろうし。

しかし、イノリの気持ちを思うと、言わずにはいられない。


「だめなんでしょうか。イノリがここまで必死になって来たこと、考えてもらえないでしょうか。イノリはあなたが自分のお父さんだと思ってるんです」


目の前の加賀父を見る。

と、膝の上にイノリのリュックサックがのっていた。

あたしの視線に気がついた加賀父が、思いついたようにリュックから何かを取り出した。


「美弥緒ちゃん、これ、見てみな?」


ほら、と手の平くらいの大きさのものを差し出された。

受け取ったそれは画用紙で、開いてみると用紙からはみ出るくらい大きく、人物画が描かれていた。

クレヨンで描かれた笑顔の人の上には、『おとうさんだいすき』と、拙い字で書いてあった。


ほのぼのとした絵に、笑みがわく。

一所懸命に描く姿が思い浮かんだ。


「イノリの描いた絵です、ね。よく描けてる」

「裏も見て」


ひっくり返すと、大人の字で『1年2組 大澤 祈』と記されており、しかし大澤という字はクレヨンで乱暴に消されていた。

代わりに、『かが』とでっかく書いてある。


「その似顔絵、俺、でいいのかなー」

「きっとそうでしょう」


ふう、と加賀父がため息をつき、それから視線を庭先にやった。

倣うように庭先を見る。よく手入れされているらしく、整った庭木。

朝顔がいくつも花を咲かせているのが見えた。


「俺さ、最低の男なんだよ。あいつの父親になんて、一番なっちゃいけないんだよね」


しばらくの沈黙の後、あっけらかんとした口調で言った。


「俺はさあ、親友だった男から、そいつの大事な女を奪ったんだ。しかも子どもごとさ。あのころの大澤は多忙を極めていて、家庭を顧みてなくて。

祈が高熱を出して苦しんでいても、さやかがそれを寝ずに看病していても、仕事があるからと手助けしなかった。それを俺は好機と思って、彼女を攫ったわけだ」


どうして、加賀父はあたしにそんな話をするんだろう。

軽口を叩いてるつもりだろうに、顔を歪めてちゃ元も子もない。

辛いのなら、あたしに聞かせなくてもいいのに。


「自分より何もかも優れた男から、一番大切なものを奪ってやりたい。

あいつを悔しがらせてみたい、ただそれだけだったんだけどね」

「え……?」

「美弥緒ちゃんにはさ、ライバルっていうような相手はいる?

俺にとって、大澤は間違いなくそれだった。でも、それは俺だけの勝手な敵対心だったけど。向こうの方が格段に上で、多分俺なんて競争相手にも思ってなかっただろうな。永遠に勝てない相手が幼馴染っていうのも、辛いもんなんだよ。あいつを尊敬する反面、僻んでいた自分がいて。そんな矮小な自分に嫌気が差す。そしてそんな思いを抱かせるあいつを恨む。

情けない男だよな」


くつくつ、と自嘲気味に笑って、加賀父は再び語り始めた。


「さやかはね、大澤にぴったりのよくできたいい女だった。ただ少しだけ、警戒心と猜疑心が足りなかった。大澤に勝ってみたい、それだけで自分を口説いていた男の裏心に気がつかなかったんだ。どんな人間でもね、心のタガが緩むときがあるんだ。それがたとえ僅かな隙間でも、見誤らなければ侵入できる。俺はさやかの心の隙間に、うまく入り込んだ。

俺が大澤に勝っているところといえば、女の扱いかもな。ほんの少し時間をかけたけれど、さやかの心を手に入れたからね」

「…………」

「あれは暑い夏の日だった。イノリはまだ1歳になったばかりだったかな。よたよたとしか歩けない子どもを抱えたさやかは、大澤の家を飛び出して俺の元へ来た。玄関のドアを開けて、彼女の姿を認めたとき、鳥肌が立ったよ。罪悪感なんかじゃなく、あいつの一番大切なものを掻っ攫ってやったっていう、達成感でね。だけど、醜い心が成した先に、幸せはないんだよね。

俺の汚い嫉妬心は、さやかの命を潰してしまった。

あんな汚い安アパートで、毎日働きずめで。結局体を壊してあっという間に彼女はいなくなった。

俺は祈から裕福な生活も、父親も、母親も奪ったんだ。そんな俺が父親になんて」

「……あの、そういうの、もういいです」


黙って聞いていたあたしだったが、我慢の限界。

はあ、とでっかいため息をついて、加賀父の言葉を遮った。


「あたし、別に懺悔が聞きたいわけじゃないんです。そういう裏事情的なもんを聞かされても、正直迷惑です」


懺悔室の偶像扱いされても困るんだよね。

静かにウンウンって聞いてらんないっつーの。


「どんな事情があるのか知らないし、あなたがどんなことをしたのかなんて聞きたくないんです。イノリはとてもいい子で、きちんと両親に愛されているのが充分伝わりました。そのイノリが父親と慕うのなら、加賀さんは過去はどうあれいいお父さんだったんじゃないんですか。

だいたい、金吾さまの顔して湿っぽい話をしないでくれませんか」


無性にいらいらした。

金吾様の口からこんな女々しい愚痴を聞きたくない。

気風のよさが売りの江戸っ子は、こんなことでしょぼくれたりしないのだ。


男なら、女を盗ったときは腹をくくって愛情をかけて面倒をみる。

子どもがいれば、尚のこと愛情を注いで育てる。

これが男のスジってもんだ。

加賀父はそれができていた。

もうそれでいいじゃないか。


だから、素敵な金吾様像を私生活暴露で壊すんじゃねえ。


むう、と唇を引き結んで加賀父を睨んだ。

唖然とした様子であたしを見返していた加賀父だったが、ぷ、と噴出した。

あはは、と声をあげて笑う。


「はは、美弥緒ちゃんって、気持ちのいい性格してるなー」

「あ、れ? 失礼な言い方したのに、怒らないんですか」


不快な思いをさせてしまったのに。

正しいことを言ったつもりではあるが、目上の人に対して失礼な物言いをしてしまったと思う。

言い方なりを考えないのは、あたしの悪い癖である。

驚いたあたしに、加賀父は首を横に振ってみせた。


「怒ったりしないさ。祈のことを真剣に考えてくれてる子を、怒る理由がない。君にいきなり愚痴をこぼそうと俺が悪いんだしな。それに」


ひょいと肩を竦めて、にやりと笑った。


「金吾のことを言われたら、返す言葉がねえや。鳴沢様にも呆れられちまわあな」


はああぁぁぁああ!

その言い回しはまさしく金吾様!?

胸に刃を突き立てられたかのような衝撃が走った。

今ここでそれは卑怯! いや美味しいけども!


真っ赤になって、酸欠の金魚の如く口をぱくぱくさせるあたしを見て、金吾様が慌てふためいた。


「うわ! 三津に聞いてたけど、ホントに好きなんだな。ごめん、調子にのった」

「い、いえ……むしろまんぞくでふ……」


心臓ばくばくする。

不整脈? 心臓発作? どっちにしろ、死ねる。

ああ、この世に未練を残すことなく成仏できます。

いや、しないけど。


「……朝っぱらから若い女の子を口説くなんて、おまえも相変わらずだな」


くすくすと忍びやかな笑い声がして、見れば庭先に男の人が入ってきたところだった。

さらりと流れる黒髪に、銀縁の眼鏡。

背はすらりと高く、首元を緩めたカッターシャツに、手にはグレーのスーツの上着をかけている。


その人の、眼鏡の奥の綺麗な面差しに連想したのは、大澤の顔だった。

すごく似てる……。


「大澤……、来たのか」


驚いたような加賀父の呟きに、やはりと思う。

イノリの本当の父ちゃんだ。


「おまえの家に行ったら、節ばあにこっちだって言われてね。昨日も思ったが、あのばあさん、だいぶ耳が遠くなったな」

「ああ。でも相変わらず口やかましいけどな」

「だろうね。たまには帰ってこいって説教された。祈はどうしてる?」

「疲れたんだろ。ぐっすり寝てる」

「そうか」


大澤父は、サクサクと玉砂利を踏んでこちらに近寄ってきた。

間近にみた顔はやはり大澤似で、そりゃもうかっこよろしいことこの上ない。

つーか、アダルティな要素が加味されて、大澤を優に上回るイケメンぶりである。

ネクタイを緩めた姿がこれまた大人の魅力爆発。

朝っぱらからこんなにフェロモン出してていいんですか、弁護士が。


あー。大澤の母ちゃんってすんげえいい女だったんだろうなー。


大澤父と加賀父を見比べる。

だってこの2人が取り合ったわけでしょ。

多分、希少種レベルの美女だな。

うあー。どんな人なのか見てみたかったなー。想像するだけでわくわくするわ。


「で、こちらの女の子は、まさかとは思うがおまえの新しい彼女かな?」


は。

いかんいかん。妄想に飲まれかけてた。

大澤父の言葉に、現実に戻った。


「いやいや、この子は俺の彼女じゃないよ」


加賀父が首を振って、「祈の彼女だってさ」と言った。

へ? と間の抜けた声を出す大澤父。


「彼女? 祈の?」

「そう。手を出すなって注意くらったから、おまえも気をつけときな」

「ちょ、あの、あれはですね」


あれは違うんですー。

つーか、その話をここで持ち出さないでー。


「ふむ……、祈は早熟だね。おまえが育てたせいじゃないかな、一心」


いやいや、そういう問題じゃないでしょう。

しみじみと呟く大澤父に脱力した。


「いや、おまえのDNAじゃないか? 俺はその場を見逃したんだけど、ツバつけたとか言って不意打ちにキスしたらしいぞ」


げっふぉーっ!? 

思わず噴き出した。どうしてそれを!

いや、チクったのは間違いなく三津だ。

あいつ絶対に殺ってやる。安眠できるのも今のうちだからな。


「手も早いのか。いやはや、参ったね」


くすくすと柔和な笑いをこぼす大澤父。

それでいいんかい。2人とも息子の教育考え直せ。


つーか。

ふと、穏やかに笑いあう2人の顔を見つめた。

さっきの加賀父の話の内容からすると、2人の仲はぐちゃぐちゃに荒れててもおかしくないように思うんだけど。

でも、とても親しげに見えるんですが。

旧知の仲といった雰囲気を醸しているんですが。


はて、これはどういうことなのかしら?


不思議そうに見ていたあたしに気付いたのだろうか。

加賀父がふ、と瞳を細めて笑った。


「男はさ、大切な女からの頼まれ事はぜひとも叶えてやりたいもんなんだよ。それがたとえ難しいことでも」


はあ、と気の抜けた相槌を返す。


「母親が抜ける代わりに、父親2人が頑張ってって言われたんだ。いやだ、なんて言えるはずないだろう?」


ああ。

こくんと頷いた。そういうことか。

とは言え、大人の恋愛模様っていまいちよく理解できん。

好きな女のお願い一つで、恋敵と仲良く会話できるものなのだろうか。

大澤父にしてみれば、他の男の元に逃げた女の願いなわけでしょ。

納得できるものなのかね。


いや、それを可能にするほどの素敵美女だったということだろうか。

興味が湧くなー、イノリ母。

会ってみたかった。


「なんだ、この子にはそんな話もするんだね」

「まあね。祈をここまで連れてきてくれた、功労者でもあるしね」

「功労者、何て言い方でいいんでしょうか? 余計なことだったんじゃ……」


おずおずと訊く。

大澤父にしてみれば、昨日は不安な1日だったに違いない。

それを考えたら、あたしは叱られて当然なのだ。


しかし、大澤父は首を横に振った。


「余計ではないよ。きみのお陰で祈は無事に辿りついたんだろう。

遅かれ早かれ、祈は俺のところを飛び出してこいつの元に行こうとしたはずだ。そのときに事故に、など考えたら、恐ろしくてならないよ」

「そう言ってくれると有難い、ですけど」


でもすみません、と頭を下げた。


「なんだ。祈が出てくのが分かってて、手をこまねいてたのか、おまえは。

その頭脳は意外に役立たずなんだな」


加賀父の軽口めいた言葉に、大澤父が顔をしかめた。


「ふん、仕方ないだろう。こっちは誰かのお陰で子どもとまともに暮らした経験がない。どう扱えばいいのかわからないんだ」

「それはすいませんね。しかし、おまえの持ってる本に書いてないのか。子どもとの接し方、とかさ」

「ほう? おまえは本で学んだのか。何て作家の本だ、出してみろ」


ううん、この2人、確かに友人だったんだろうな。

ぽんぽんと会話が弾んでいる。


「で? おまえは祈を早々に迎えに来たのか?」


加賀父の言葉には、とする。

大澤父がここに来たということは、このままイノリを連れ帰ってしまうのだろうか。


「あ、あの! きちんとイノリと話したんですか!?」


つい、加賀父の服の袖をつかんで訊いた。


「イノリが納得するように、話したんですか? あの子の、加賀父と一緒にいたいっていう気持ちは、どうなるんですか!?」

「ああ。まだ話してないなー」


へへ、と笑う加賀父。

呆れた、と大澤父が呟いた。


「祈と話を済ませてないのか、おまえは」

「だって祈がさー、俺と話す間もなく寝ちゃったんだもんよ。だから起きてからかな、って思ってた」

「こっちに着いたのは遅い時間だったようだしな。まあ、別にいい。俺は祈を迎えにきたわけじゃない」

「え。そうなのか?」

「たまには実家に顔を出そうと思っただけだ。もう帰る」

「ふうん?」


加賀父を見ていた大澤父が、あたしに向き直った。

じ、と見つめられて、もじもじしてしまう。


そういう目で見ないでー。美形大人の視線に免疫なんてないんです、あたし。


「名前を聞いてなかったね。教えてもらっても?」

「あ。茅ヶ崎美弥緒です」

「美弥緒さんか。祈のために、ありがとう」


深く頭を下げられた。


「い、いえ、そんなの」

「息子がお世話になりました。本当は色々話をしたいんだが、仕事を残してきているもので。いつか機会を設けて会いましょう」

「は、はひ……」


にこ、と笑顔を向けられて、心臓が撥ねあがった。

ひー。ときめくじゃないかー。


「じゃあ、その機会は9年後だな」


くっく、と加賀父が笑い、大澤父が眉根を寄せた。


「意味がわからんな」

「9年後に分かるさ。ね、美弥緒ちゃん?」

「え? えーと、まあハイ」


曖昧に答えるあたしに首を傾げたものの、大澤父は腕時計で時間を確認すると、挨拶もそこそこに帰ってしまった。

しかし一旦姿を消したものの、すぐに戻ってきて、


「まともに話してないのなら、今晩も泊めてやれ。少しくらい、時間が必要だろう」


と言った。


「いいのか、それで」

「その代わり、祈を納得させてから帰してくれ。また冒険されたらかなわん」

「ほう? 俺にイヤなこと押し付けるね」

「できないのなら、頼まん」


そう言って、今度こそ帰ってしまった。

足音が遠ざかるのを聞きながら、加賀父が小さく笑った。


「不器用だよなあ、あいつ」

「え?」

「祈のことが気になって、わざわざ来たんだよ。仕事があるのにさ」

「ああ、そういうこと、ですか」


大澤父は祈の様子を知るためだけに、ここまでやってきたのか。


今はまだ早朝と呼べる時間。

あの街からここまで来るには、一体何時に出発したのだろう。


「せっかく来たのに俺に嫌味言われるだけでさー。来た甲斐がないよね」

「…………」


イノリのことを思い車を走らせたのだろう大澤父のことを思うと、胸が熱くなった。

ああ、こういうのに本当に弱いな、あたしは。

少し潤んでしまった瞳を、ぱちぱちと瞬きしてごまかした。


「美弥緒ちゃんは、いい子だね」

「は?」


ふいに言われ、おまけにぽん、と頭に手を載せられて、思考が止まった。


「いい子だ。祈は女を見る目は確かだな」


よしよし、と撫でられる。


……あの、これってあたしの死へのフラグでしょうか。

金吾様にこんなことをされてしまっては、反動ですんごい不幸が降り注いでくるに違いない。

ああ、きっとあたし死んでしまう。

一生分の運が瞬く間に費やされていくのが体感できる。

うう、しかし我が人生、一片の悔いなし。


「9年後も、祈に彼女として紹介してもらえると嬉しいんだけどな」

「……ハァ?」


なんだって?

現実に引き戻された。


「あのですねー。9年後は残念ながらそんなことにはならないと思います」

「なんで?」


こんな機会はもう二度とないかもしれん。

一生に一度の、金吾様の温かい手の平を有難く享受しつつ、断言した。


「なんで? って。同じクラスには様々な美人さんがいるんですよ。よりどりみどり。あたしなんか視界にも入んないですよ」

「なんで?」

「いや、だってほら、あたしって特徴ないし、地味ですし。取り立てていいところないですし」

「なんで?」

「だから、人を惹きつけるものがないんですってば、あたしは」

「ええー? なんで?」


うーん、金吾様ってば理解力ないのかね。

あたしの説明を首を傾げながら聞いている様子にため息がでそうになる。

自分を貶めるようなこと言いたくはないが、しかし事実ではあるしな。


だいたい、一般的な男子が美女と地味女を選べと言われたら、どちらをとるかわかりそうなもんじゃないか。


「美弥緒ちゃん、自分をわかってないなあ」

「は?」

「美弥緒ちゃんは魅力的だと思うよ。祈の彼女じゃなければ、俺がもう少し若ければ、口説きたいくらい、なんてな」

「は…………」


機能停止。

あれ。あたし、すでに天国に召されちゃった?

金吾様に口説きたいとかそんな滅相もない恐れ多いことを言われるなんて、現世ではありえない。

アリエナイ、アリエナーイ。


「美弥緒ちゃん? どうしたの?」


ああ、これってあたしの願望なの?

金吾様にこんなに顔を寄せられて……。


いやでもあたしの心は鳴沢様にあったはず。

やだ、もしかしてあたしって尻軽女だったの!?


無意識にぎゅうう、と両手を握り締めていた。

と、ぐしゃりと何かを潰した。

ぐしゃり? とみれば、それはイノリの描いた絵。


「ぎゃ! ヤバい! シワになっちゃった!」


慌てて広げてシワを伸ばす。

幸いどこも破れておらずにほっとする。


「そうだ。そろそろ、美弥緒ちゃんの話をしてもいい?」

「へ? あたしの話?」


ぐいぐいと紙のシワを伸ばしていると、加賀父が言った。

はて、と一瞬考えて、思い出す。


「あ、はい! そうだ、あたしの帰る方法! 分かりますか!?」


イノリのことで頭いっぱいで、すっかり頭の隅っこに追いやってた。

そろそろ本気で帰る方法を考えなくては。


「うーん。どうかなー。とりあえず、きみの口から説明してもらってもかまわない?」

「はい!」


説明くらい、何度でも致します!

三津たちにしたように、思い出せることは全て攫って、なるべく丁寧に話をした。

加賀父は、ふむ、とかほうほう、とか時折相槌をいれつつ、聞いてくれた。


「で、今に至るというわけなんです、が」


話し終わって、どうでしょう? と加賀父を窺った。

ふうむ、と腕組みをした加賀父は、少し考えたのち、


「戻れるんじゃないかな」


とあっさり答えた。


「マママママママ、マジですか!?」

「マジ、です。戻れるよ、きっと」


よかったー。

本当によかったー。

ほっと胸を撫で下ろす。


こうして何事もなくこちらの時代で朝を迎えてしまったし、もしかしたら戻れないんじゃないか、とか考えないわけでもなかったのだ。

朝起きたら自分のベッドの上で、あら、あれは夢だったのかしら、とかそういう期待もしてたのに、見事裏切られちゃったしね。


「美弥緒ちゃんの周りの空気ってさ、この世界のものじゃないんだよ。最初見たときに違和感を覚えたんだけど、多分、9年後の世界の空気なんだろうね」

「はあ、空気、ですか」


自分の体を見下ろす。

何の変哲もない体だけどな。

深呼吸してみても、別段変わったところはない。


にしても、三津の言う通り、この人って本当に色々見える人なんだなあ。

すごいなー。あたしと眼球の造りが違ってるんだろうか。

いや、やっぱり特別な力ってやつ?


心霊体験談とか、スピリチュアル系な話は不確かすぎて恐怖を感じていたけど、あたしが体感できないだけで、実際にあるものなんだなー。

まあ、幽霊なんていうものには、一生関わりあいたくないですけども。

あれだけは、ダメだ。

尊敬の眼差しで見つめるあたしに、加賀父は説明を続けてくれた。


「空間が歪んでるって言ったほうが分かりやすいのかな。とにかく、まだきみは元の時代と繋がってるんだ。条件さえ合えば帰れるよ」


最後の力強い言葉に安心する。

もしかしたらあたしが知らないだけで、こんな事態に陥った人が他にもいるのかなー。

いるんだろうなー。

加賀父のこのあっさりとした様子だと、数人は知っていそうじゃないか。

ああ、あたしが無知なだけで、世の中って色んなことがあるんだなー。


「まあ、俺もこんな話初耳だから、断言はできないんだけどねー」


あはは、と楽観的な笑い声に、上昇中だった気分が突き落とされた。


「でもまあ、条件を揃えればどうにかなると思うけどね」

「じょ、条件ですか?」


与えられる言葉はまたもやイカロスの羽かもしんない、と怯えたあたしに、加賀父は人差し指を立ててみせた。


「俺が思うに、1つは祈」


イノリかー。

あたしもそれは分かる。どちらの時代でも、イノリが傍にいたもんね。

キーパーソンってやつね。


「2つめは、時間」

「時間、ですか?」

「そう。日にちのズレが気になるんだ。

美弥緒ちゃんがいたのは2012年の7月12日、だったんだよね。

それが、2003年の7月10日にタイムスリップした。

年度は置いておいたとして、日にちのみを見たら2日、逆行してる。

時間も、タイムスリップしても一緒だったんだよね」


うんうん、と頷いた。

ケータイの時刻を変えずに済んだもんね。


「こちらの時代に来た、正確な時間は分からない?」

「はい。でも7時45分前後じゃないかと思います。イノリとぶつかって少し会話をして、その後にケータイを見たら51、2分だったから」

「なるほどね。推測の域を出ないんだけど、明日、7月14日の7時45分前後が怪しいと思う」

「ほうほう」


具体的な内容になって、つい身を乗り出してしまう。


「3つめは、場所。きみとイノリが出会った場所」

「K駅前通りのバス停、ですか」

「うん。この3つを揃えたらいいと思うんだ」


なるほど。

イノリ、日にち、場所、ね。


「ということは……明日の7時45分前後、K駅前通りのバス停に、イノリと一緒にいれば」

「戻れるんじゃないかなー、もしかしたら」


気負ったあたしに対し、のほほんとした返事。

すんまっせーん。もう少し期待できそうな言い方に変えてもらえませんかー。

眉尻を下げたあたしを見て、加賀父がくすくす笑う。


「そんな顔しない。大丈夫だよ、きっと。それに、もしそれで戻れなかったとしても、俺が必ず帰してあげるから」

「ありがと、ございます……」


この人ならきっと大丈夫だろう。

確信めいたものを感じて、ぺこんと頭を下げた。


「しかしなー。9年後の祈はかっこよくなってるのかー」


楽しそうに加賀父が言った。


「さっきの大澤父によく似てますよ。クラスの女の子の視線独り占め! って感じでした」

「あー、オヤジそっくりだな。あいつもそうだったよ。何してもきゃーきゃー言われんだよな」

「加賀父もでしょう?」

「俺? それがさー、何故だかイカツイお兄ちゃんたちに人気が高くてさー。女の子が怖がって近寄ってくれなかった」


残念そうに言う加賀父だが、確実にモテていたことは言わなくとも分かる。


「イカツイお兄ちゃんって、ヤンキーみたいなものですか?」

「そんな感じ。あいつらのお陰で中学時代はよく織部先生に殴られた」

「え? じゃああの人、中学校の先生なんですか?」

「そうだよ。ついでに言うと、今骨折で入院してる俺のオヤジの友達」


はー。そういうことかー。

あの酔っ払いが先生ねえ。


「一心……、味噌汁作ってくれー、味噌汁……」


ガタンと襖の開く音がして、話の人物が顔を出した。

二日酔いなのだろうか、頭に手をあてて、生気のない顔をしている。


「もう作ってますよ。ネギたっぷりのやつ」

「すまんなー。昨日は少し飲みすぎた……」

「俺が止めても飲むんだから。今日は休肝日にしたほうがいいですよ」

「おー……。しかし、変な夢をみ、」


加賀父が立ち上がって台所へ向かう。

のそのそと部屋に入ってきたじいさんが、縁側に残されたあたしに視線を寄越した。


途端、その目が大きく開かれる。

ぬわ! ヤバい!


「し、ししししししし志津子ぉ!?」


叫んで、またもや腰を抜かしたじいさん。

あわあわとあたしに指を向ける様子は、昨日と全く一緒。酒、抜けてねーな。


「先生、またですか? 奥さんのはずないでしょう」


湯気の立ち上る木椀を持って戻ってきた加賀父が、呆れたように言った。


「よく見てください。彼女は奥さんとは全く違う別人です」


テーブルに味噌汁を置き、警戒心むき出し状態のあたしと、怯えたじいさんの間に入る。


「ほら、この子はまだ15歳なんですよ。奥さんはこんなに若くなかったでしょう?」

「し、しかし志津子の10代の頃そっくりじゃし……」

「奥さんが10代に戻ったのだとしたら、先生のところに来るはずないでしょう。若くなったんだったら、じいさんの相手なんかせずに年相応の相手を探しに行ってます」

「んな!? まじか! 若いほうがええか!」

「当たり前でしょう。酔っ払いのおいぼれじじいよりも肌にハリのある若い男に決まってるじゃないですか」


加賀父、言葉は丁寧だけど、言ってることはけっこう酷くね?


「いや! 志津子はわしのことを愛しておる!」

「あはは。いつもいつも酔っ払って奥さん困らせてたくせによく言いますね。浮気もしたでしょ、ほら、俺が3年のときの保険医の」

「ぬああああああああ! 一心! 志津子の前でなにをそんな」

「知らないままでいたってことはないんじゃないですかねー。先生は嘘つくの下手だし。あの保険医、名前を何ていいましたっけ。ええと坂も……」

「ちちちちち違う! あれは浮気じゃなくてだな」


じいさん、うろたえすぎー。

しかし、ちらちらとあたしの様子を窺うのは止めてくれないか。

あたしは志津子じゃねえし。

あんたの浮気なんかこれっぽっちも興味ねえし。


「とにかく、彼女は美弥緒ちゃんという全くの別人です。ね?」

「え? ああ、はい。志津子って名前でもないですし」


はっきりそう告げると、じいさんは作努衣の胸元に手を突っ込み、何かを探し始めた。

見つからないみたいだったが、探しものに気付いた加賀父が、テレビの上に置かれたものを取って、手渡した。


ああ、メガネか。

黒縁のメガネをかけたじいさんは、改めてあたしを見た。

少し充血した瞳でまじまじと見てくるので、真正面から受け止めてやった。

おらおら、勘違いだと痛感するがよいわ。


「似とるんだがのー……」


やっぱ似てるのか……。

少し脱力。志津子さんとやらは、きっと地味顔だったんだろーねー。


「いやでも、確かに雰囲気が違うかいの。志津子は控えめな女じゃったし」


あー、そうですか。

ガンガン見つめ返して悪かったですね。


「そうか。志津子がわしを迎えにきたのかと思ったんじゃけど、違うのか。こりゃあ、1人で逝けということかの」


ん?

俯いて、しょんぼりと肩を落としたじいさん。

どういう流れよ? ときょとんとしていたら、加賀父が傍にきて小声で教えてくれた。


「先生はさ、自分が余命いくばくもないって勘違いしてるんだ」


ああ、耳元で囁いてもらえるとわ。

なんという至福でしょう。

耳福耳福。


「肝臓を少し悪くしたんだけど、それを末期の肝臓ガンだと思い込んでしまってるんだ。お陰で昨日から大荒れの酒浸りってわけ」


おっと。妄想上の天国に行ってしまってた。

ふむふむ。なるほどー。

自分の命があと僅かだと思って、凹んでるわけね。


「実際はガンではないんですよね?」

「うん。アルコール性脂肪肝。これもよくはないけど、今すぐ命を左右するほどのことじゃない。なのに勝手にガンだガンだと騒いでさ、困ったもんだよ」


目の前のじいさんは、背を丸めて小さくなっている。


「嫌だのう。まだ孫の顔も見てないというのに……」


ぽつんと呟く様に、加賀父がどうしようもない、という風に首を振った。

昨日からこのじいさんの思い込みに手を焼いているらしい。


「あのう」


おずおずとじいさんに声をかけた。


「何かね、志津子風のお嬢さん」


志津子風って。どんな呼び方だ、おい。

まあいい。


「ガンじゃないですよ、あなたは」

「ふん、一心と同じ嘘をついてからに。自分の体のことくらい分かるわい。

わしは多分、今年いっぱいも生きれんじゃろ」


自分の体のこと、全然分かってねーじゃん。


「またそれか……」


力なく笑うじいさんに、加賀父がため息をこぼした。

その疲れが滲んだ蠱惑的な横顔から、じいさんに視線を移した。


ふむ。


「あのう、断言しますけど、9年後の7月までは絶対に元気でいられますよ」

「は?」


あたしの言葉に、じいさんが顔を上げた。

加賀父の顔が、は、とする。


「9年後も元気でいられますよ。これは絶対。あたし、知ってますもん」


大澤は、『織部のじいさんが会いたがってる』って言ってた。

ということは、じいさんは健在だってことだもんね。


「なにをそんな」

「いや、本当ですよ。先生」


加賀父が強く言った。


「この子は未来から……いやえーと、未来が見えるんですよ」

「は?」


うあー。そりゃないわ。

多分じいさんにタイムスリップのことを言っても、信じてもらえないだろうからそう言ったんだろうけど、

そっちも充分怪しいって。

案の定、じいさんはへっと鼻で笑った。


「未来って急に言われてもなあ。試しになんか先の話でもしてもらわんとのう」


ですよねー。


「未来の話、ですか……」


加賀父が困ったように頭を掻きながらあたしを見る。

いきなり先の話をしろ、なんて言われても、これ! って言えないですけども……。

偽造紙幣と思われるだけかもしれないが、野口英世の千円札でも持ってきましょうか。


「あ」

「あ?」


加賀父がにこりと笑った。

はて、名案でも浮かんだんだろうか。


「先生、名奉行鳴沢右衛門之介シリーズ、お好きでしたね?」

「お? おう、愛読書だが、それがどうした」


なんと。

このじいさんも護衛隊とな。

ああ、鳴沢様ってやっぱり素敵。

お姿はなくとも、あたしを救ってくださるのね。


「美弥緒ちゃん。今、原作は『花筏はないかだ』が最新作なんだけど、その後の出版作のタイトルは?」


はい、超得意な問題です。つーか、簡単すぎらあ。


「『筒井筒の恋』に『氷点』、『春日の誓約』です。まだありますけど、全部言いましょうか」

「ふん、そんなの適当に言ってても答えはわからねえ」


じいさんがつん、と顔を背けた。


「それもそうか……。うーん、何がいいかなあ」

「えーと、えーと。あ、そうだ!

今2003年の7月ですよね。今年の秋、ええと確か9月、だったかな? 三代目鳴沢様役の東谷さんが事故にあって入院します」

「え、ほんと?」


加賀父が驚いた。


「東谷さんってバイクでツーリングがご趣味なんですよね。それで、どこか場所は忘れたんですけど、バイクで転倒事故を起こして入院するんです。足だか肋骨だかを折って、今年1年は活動できなかったはず。鳴沢シリーズも中止せざるを得なくて、撮影終了分まで放映したあとは、約1年間休止してたんです」


代役という話がなかったわけではないが、東谷さんの鳴沢様をいたくお気に召していた原作者の深作栄蔵さんが、それを頑として認めなかったのだ。


「バイクだと? ふん、そんな話聞いたことがない」

「いや、先生。彼女の言うことは正しいかもしれませんよ。東谷さんは確かにバイクが趣味なんだ。金吾役でご一緒したときにそんな話をされていて、意外だなと思ったから間違いない」


事故後はメディアでバイク好きを公言し、今では有名な話なのだが、このときはまだ誰も知らないはずなのだ。


「本当の話か。一心」

「はい。俺も、美弥緒ちゃんが言うまで忘れていたことですが。東谷さんがバイクを、なんて知ってるファンはいないと思いますよ。先生だって、知らなかったでしょう?」

「う……む」


じいさんが考え込むように俯いた。

しかしすぐにあたしに戸惑った視線を寄越す。


「ほんと、かの?」

「本当ですよ。9年後も死ねないくらい元気です」


断言する。

じいさんは何かを言いかけ、口を噤みを何度も繰り返し、しかし最後に大きなため息を一つついた。


「不思議なこともあるもんだの。志津子によう似た娘に、命があると教えてもらえるなどの」

「信じてくれました?」


じいさんは無精ひげの生えた顎をつるりと撫で、ようやく笑顔をみせた。


「あんたさんが志津子に似てなかったら、わからんかったがの。信じるとしよう。いや、命が長いなどと嬉しいことを言われたら、ぜひとも信じたいしの」

「結局は女性のいうことを聞くんだから。俺が丸一日話しても納得してくれなかったくせに」


少し不服そうに加賀父が言い、しかしあたしの耳元に口を寄せると


「ありがとう。お陰で助かったよ」


と蕩けそうな優しいお言葉をくれた。


「とにかく味噌汁を飲もうかの。冷めてはもったいない」


打って変わって明るい顔つきになったじいさんは、木椀に手を伸ばした。

美味しそうにずず、と啜って、一息。

それから器の中身を全て飲み干して、そういえば、と思い出したように言った。


「あんたさんは一体どうしてここにいるんかいの」


気付くの遅っ!

加賀父が苦笑しながら、昨夜の顛末を語って聞かせた。

あたしがじいさんの腹にこぶしをぶち込んだのは、上手くごまかしてくれた。

本当にすんません。




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