19.宵越しの金も諍いも持たねえ
19.宵越しの金も諍いも持たねえ
シートに身を預けたあたしは、ぼんやりと車窓を流れる景色を眺めていた。
雲までも真っ赤に染めてゆく夕日が眩しい。
ああ、夏の夕暮れって意味もなく郷愁に駆られるのはどうしてなのかしら。
行ったこともない田舎の夏祭りや、やったこともない川遊びが懐かしいってどういうこと。
「しかし、何時ごろ、着くのかなー……」
カタンカタンと揺れるは八両仕立ての特急列車。
膝の上には荷物を詰めたメッセンジャーバッグ(親睦旅行の時に使ったアレだ)。
そう、あたしはあれから大急ぎで支度をして、電車に飛び乗ったのだった。
柳音寺、行ってやろうじゃねえか。
行って、直接謝って、誤解を解く!!
宵越しの金も諍いも持たねえ。
美弥緒さんの行動力なめんなよ。
とまあ、最初こそ盛り上がっていたのだが、時間が経つにつれ、やっちまった感に襲われだした。
到着時刻はどれだけ見積もっても、夜だ。
連絡もせず、いきなり夜中に現れるなど、迷惑至極。無礼千万の行為ではないか。
しかも、その時間てことは今夜はもう泊まらせてもらうしかないわけで。
あああああああああっ!!
明日の朝イチに出発すりゃよかった。
だったら昼ごろつけるし、日帰りも可能だったのに! あたしの馬鹿! 考えなし!
「あー……どうしよ……」
いっそ、帰るか。
いやでも、ここまで来ちゃったし、明日再戦するには資金の関係で厳しい。
残念ながら孝三の給料日前、つまりはお小遣い日前なのだ。
あー、やっぱバイトするしかないな。新聞配達でもするかな。体力には自信あるのだ。
でも、今から始めても意味がない。
うんうんと悩んでいる間に、電車は目指す駅へと到着した。
ここからローカル線に乗り換えなのだ。
おいでおいでというように口を開けた電車の前で仁王立ちをしてしばし考えたが、結局乗り込んだ。
もう、ここまで来たら行くしかないじゃないか。
そうこうして、ようやくついた駅は、無人だった。
薄闇に包まれた駅前は青々とした田んぼが広がっており、遠くに民家の灯りがぽつん。
どこからか、グアグアとカエルの鳴き声がするが、それ以外には音はない。
気持ちいいくらいの無音である。
息継ぎの荒い外灯の下で、あたしはしばし立ち尽くしていた。
コンビニ一つない田舎……。
ここからどうすれば……。
柳音寺まで、歩くしかないのか……。
「え、えーと。えーと。あ!」
きょろきょろと見渡せば、少し離れたところに、斜めに傾いたバス停の時刻表らしきものが見えた。
駆け寄って、確認。
うあー、一時間に一本てどういうことー。
いや、それでもバスがあるならいいではないか!
ケータイの時間と照らし合わせたら、20分後に一本来るらしかった。助かった!
路線図とケータイの地図を見比べて、それに乗れば柳音寺の近くまで行けることを確認して安堵のため息。
これなら8時にはつけそう、多分。
「あ。今のうちに琴音に連絡しとこう」
家には、琴音の家に泊まると言って出て来たのだ。
琴音に連絡して、口裏を合わせてもらわなくては。
数コールで、琴音ののんびりした声が聞こえた。
『もしもしい?』
「あ、琴音? あたし。あのさ、今日琴音の家に泊まるってことにしておいてくれない?」
『ん? いいけど……ミャオちゃんどこかに行くの?』
「行くと言うか、行ってる最中。イノリが田舎に行ったって言うから、ちょっと行って謝ってくる」
『えええええええええええ!? い、田舎ってドコ!?』
音が割れた。琴音の声は高いから響くんだ。
キーンとする耳をケータイから離して、続けた。
「K県の田舎。バスが一時間に一本だってさ、すげえよね、はは」
『遠いじゃない! だ、大丈夫なの? 最中ってことはまだついてないんでしょ?』
「うん。まあ、バスが来ればすぐっぽいけど」
『だ、だからって……。これから暗くなるし……』
「へーきへーき。人の気配もないような田舎だし。一応琴音からもらったスプレー持ってるし」
心配性な琴音はそれでも納得いかないらしかった。
大丈夫、平気のやり取りを何度も繰り返し、イノリの家に到着したら絶対連絡するからと言う約束をした頃には、バスが来てしまった。
20分の間同じようなやり取りをしていたらしい。
「あ、バス来た。じゃあ、切るね」
『き、気を付けてね!?』
「りょーかーい!」
山の方から現れたバスは、ロケーション的には某有名アニメの獣仕立てのそれでも違和感ないと思うのだが、残念普通のバスだった。
ふっかふっかのアレならさぞかし楽しい行道になっただろうに、と思いながら乗り込む。
意外にもといったら失礼だが、結構たくさんの人が乗っていた。
一時間に一本とかいうし、利用客が皆無だと思っていたのだ。
あー、逆に一本しかないから利用者が集中するのかしら。
どうでもいいことを考えながら、一人掛けの椅子にちょこんと座った。
ゆるゆると発信するバス。
ふと思って、前に座っていたおばあちゃんに声をかけた。
「すみません、柳音寺って、バス停から遠いですか?」
「ん? ありゃ、それなら△△行きの方に乗ったらよかったのに。お寺さんの真ん前に停まるんじゃけ」
「え! そ、そうなんですか?」
△△行? そんなんあったのか!?
「駅の裏手にもう一個バス停があるんだけど、そっちにね、あったんだわ」
し、知らんかった……。もっと見ればよかった。不覚。
「じゃ、これはもしかして柳音寺には行かないんですか? 一応見たつもりだったんですけど」
「いやいや、裏手側の方にはいくから、ぐるっと回ればええよ。少し歩かなきゃならんけど、あんたみたいに若いお嬢さんなら、大丈夫じゃろ」
「あ、そうですか。よかったー、ありがとうございます」
こちらでも、たいした距離ではないらしい。
ほっとして、背もたれに身を預けた。
外はすっかり暗くなっており、景色を見ようとすればガラスに映り込む自分の顔がこちら
を見つめてくる。
うーむ。改めて見ても、相変わらずの地味顔ですね。
もう15年も付き合ってきたものなので、あたしからしてみたらそれなりに愛嬌のある顔立ちなのだが、世間一般的にはインパクトも何もないであろう。
こんな顔を忘れずにいてくれただなんて、イノリは偉いなあ。
一緒にいたのは僅かだったって言うのに。
ぼんやりしている間に、バス停についた。
民家の一つもない、山道のど真ん中。
そんな中にあるバス停で降りたのはあたし一人だった。
あるのはひょろりとした外灯と、ぼろぼろのバス停の看板。民家の気配は一切ない。
看板の横に小さな木の看板があって、御丁寧に『柳音寺→コッチ』とペンキで書かれていた。
あたしのように、バスを乗り間違える人間が他にもいるのだろうか。
「こっち、ね」
有難いことに、数メートルごとに外灯がある。
すっかり暗くなってしまった今、あたしの生命線のような光。
てけてけと歩き始めた。
前にも言ったかもしれないが、あたしは幽霊とかお化けとか、そういうものにすこぶる弱い。
ぶっちゃけ、怖い。
こんな人気のない山道に、なんか人非ざるものとか現れたらどうしよう!!
子どもの頃に見た、『心霊特集・山道で救いを求める女の霊!』的な話を思い出して、歩きながら身震いする。
どーかどーか、そういうものに出会いませんように!
死んだばあちゃん! まじでよろしく!
出てこなくってもいいから遠巻きに見守ってて!
イノリを捜索して山道を歩きまわった時は、怖いなんて考える余裕もなかったんだが、こんな風に一人きりだと、無性に怖い。
田舎の夜って街より密度が濃い気がするんだけど、どうだろう? 同意してくれる人いないかなあ。
と、がさがさという葉擦れの音と、ピキャー! という鳴き声がした。
「ひやあああ!?」
声が裏返った。びっくぅ、と体が震える。
それはどうやら羽ばたいた鳥だったらしい。腰を抜かしかけたあたしの頭上を、夜空に向かって何かが飛び立って行った。
「ちっ! びびらせんじゃ、ねえよ」
ばっくんばっくんと高鳴る心臓を押さえて、強気の発言をしてみる。
すげえ怖かった。ひー、怖い。
「し、しかし行かねばならんのだ! 進め、美弥緒!」
ほっぺたを叩いて、再び歩き始めた。
しばらく進むと、一本道だったその脇に、看板があった。
『柳音寺→コッチ』の看板。
が。この看板の矢印、メインの道ではなく、山の中を差しているのだ。
みれば、確かに獣道のような空間が奥に向かって伸びている。
「まじでここかよ、おい」
すげえ不安なんですけど。
本当にここなわけ?
おばあちゃん、そんなこと一切言ってなかったんですけども!
「ど、どうしよう」
自分が歩いてきた道、その先の方を見る。
定期的に外灯はあるけれど、民家の気配は未だない。
この先に進んでも、もしかしたら何もないかもしれない。
しかし看板を見れば、自信ありげに獣道を差している。
「うー……む。よし、お前を信用しようじゃないか。こっちなんだな!?」
確か、メッセンジャーバッグに懐中電灯を入れっぱなしだったはず。
奥底に転がっていたやつを引っ張り出そうとしてもぞもぞしていると、中身を盛大にぶちまけた。
「ぬあ! 最悪!」
拾い上げて適当にバッグに押し込む。
転がっていた懐中電灯のスイッチを入れ、その僅かな光を頼りに、獣道へ足を踏み入れた。
……失敗した。
看板が、ズレてたんだ。
そう思った時には、あたしは道から大きく逸れていた。
獣道は本当に頼りないもので、間違いなくこれだと思って進んでいたのに、振り返って見ればそこに道なんて存在していなかったのだ。
「か、神隠し!?」
違う。
どこからかは分からないが、進みやすそうな部分を歩き進んでいたら道を外れたんだろう。
「うーん、遭難、か……」
困った。
こんなことになるとは想定外だった。
「助け、といっても誰に連絡すりゃいいんだ」
琴音? いやいや、ただでさえ心配してるのに、連絡なんてできんよな。
じいちゃん? いやいや、琴音の家に行くって言って出てきてるしな。
「うー、ん」
腕を組んで悩んだものの、名案は出ない。
「イノリ、といっても、でてくれんだろうしなあ……」
ふう、とため息をついた時、ふと遭難した時のことを思い出した。
あの時は、結構近くに柳音寺があったんだよね。
もしかしたら、今回もまたそんな感じで、少し歩けばお寺が! 的なことになるかもしれない。
「よし、もう少し歩いてみるか」
ていうか、ここで一人で突っ立っているのも、非常に怖いんだ。
遠くからカサカサ音がするんだもん。
虫や鳥、小動物の類なら全然問題ないけど、異世界のモノとかだったら、死ねる。
景気づけに鳴沢さまのテーマを口遊みつつ、進むことにした。
お守りください、鳴沢さま!
「ふんふーん。ふんふっ、ふーん。ふーふーん……んぎゃぁ!!!」
目障りな蔦をえいやと払い、一歩踏み出した瞬間。
地面が消えた。
あたしの足は空を踏めるはずもなく、すべり落ちた。
「……い、って、え」
そこは、一メートルほどの、段差があったらしい。
気付かなかったあたしは何の準備もなく落ちてしまったのだ。
気付けば、地面に倒れ込んでいた。
「さい、あく……」
イノリの時といい、この山、こんなの多すぎ。危険なんですけど、マジで。
足から落ちたせいか、両足とお尻が痛い。
頭打たなくてよかった。
「よ、と。あ、いってぇぇぇぇぇ!!」
起き上がろうとして、絶叫した。
左足、ハンパなく痛いんですけど!!
ていうか、この痛み、覚えがあるんだけど。
しかもつい最近。
「やっちゃった、なー……」
これは、同じ箇所を捻挫した。
「う、く。ん、……っ」
痛みに耐え、動かしてみる。
骨は折れてない。けど、激しく痛い。
くり、と足首を回してみるとひきゃ! と変な悲鳴が出る。
うむ、ヒビもない。すっごく痛いけど、でも大丈夫だ。
右足を見れば、ジーンズのひざ部分が破けてしまっていた。
そのすきまから、うっすらと血が滲んでいる。こちらは、擦り傷だけのようだ。
あーもう、なんで最近こんなに怪我続きな訳?
女子高生にしては生傷耐えなさすぎだろ、これ。
それに。
「じいちゃんに、怒られる……」
このジーンズ、じいちゃんに買ってもらったやつだったのだ。
こんなことしてしまったら、もう二度と買ってもらえんじゃないか。
「うう。酷すぎる……」
泣けてくる。しかし、今はそれは後回しにしなくてはいけない。
「どうしたもんかな……」
この足で山の中を歩き回るのは得策じゃない。
同じような箇所があれば、また落ちてしまう可能性もあるし。
「野宿、しかないか……」
ため息と共に呟く。朝になるのを待って、行動しよう。
とりあえず、ここから動かない方がいい。
自分が落ちてきた段差の部分に体を預けた。
赤土が剥きだしになったそこは、特に危険な物もない。
これならあたしの嫌いな蛇も来ないだろう。未確認性のモノに関しては、もう見ないフリをするしかねえ。
「えー、と」
メッセンジャーバッグを探って、ペットボトルを取り出した。
すっかり温くなったお茶を飲んで、一息。
それから、すこしだけ溶けたチュッパ●ャプスのチェリー味を口に含むと、その甘さに心が落ち着いた。
「あ! 琴音に電話しとかないと」
あれからずいぶん時間が立っているはずだ。
連絡しておかないと、琴音が心配しすぎて泣くかもしれん。
心配のあまり我が家に連絡、なんてことになったら大騒ぎになってしまう。
「えーと、ケータイケータ……、ない」
探し物は、何故かバッグの中になかった。
「え!? 嘘!?」
バッグの中身をひっくり返してみる。
しかし、どこにもあたしのケータイはなかった。
「な、なんで……? あ……。あああああーっ!?」
もしかして、あの時か!?
懐中電灯を探して、中身をぶちまけたあの時!
落としたのに気付かずに、置いてきちゃったんだろうか!?
「や、やばい……」
誰にも連絡できないじゃん……。
ケータイってこんなときこそ重要アイテムなのに。
「うあー、あたしって、すげえマヌケ」
どうすんだ、この状況。
とりあえずは、琴音が暴走してないのを祈るしかない。
「どーか! 暴走してませんように!!」
祈っても仕方ないが、そうでもしないと落ち着かない。
しばらく、夜空に向かって祈ってみた。
山の中で女の子一人で一体何をやってるんだろう、と我に返るまで、結構な時間、そうしていた。
時間が経つにつれ、動かしてもいないのに、左足首がずっきんずっきんと痛みを訴えるようになった。
い、痛い……。
「うー、情けない……」
余りに痛むので、眠って現実逃避というのもできない。
気休めに、ペットボトルを足に当てているものの、大した冷却効果も得られなかった。
「はあ……」
ため息をついて、夜空を見上げる。
親睦旅行の夜にイノリと一緒に眺めたのと同じような、綺麗な星空だった。
暗闇ばかりの地上を見ているより、よっぽど心穏やかになれそうで、あたしはぐいと顔を上に向けた。
本当だったら、数日後にはイノリとこの夜空を眺めていられたのだろうか。
綺麗だねーなんて言って、笑いあえていたのだろうか。
だったとしたら、すごく残念で、悲しい。
いや、でも。
『茅ヶ崎さん』とあたしを呼んだイノリの声が蘇る。
イノリはもう、あたしのことなんてどうでもよくなってしまったかもしれない。
元々、9年前にちょっと仲良くなっただけなのだ。
大きくなって、関わり合うにつれ、こんなはずじゃなかったと思ったかもしれないし、あれをきっかけに幻滅したということも十分考えられる。
取り柄のないあたしを9年間も覚えていてくれたというだけでも、すごいことなんだから。
嫌われる可能性なんていくらでもある。
イノリの周囲には、それでなくともたくさんの可愛い女の子がいるのだ。
あたしなんて、彼女たちの中じゃ埋もれきってしまう。
『イノリくんに想われてただなんて、おかしくない?』
昼間の葵ちゃんの言葉。
確かに、たったあれだけのことで想われていただけでも、おかしなことだったのかもしれない。
イノリもそれに、気が付いたかもしれない。
想うに値しない女だった、って。
「それは、寂しいなあ……」
ようやく自分の気持ちに気付いたと言うのに、遅すぎた。
「……っ! うあ、なんだこれ」
星空が滲んできたと思ったら、湧きあがった涙のせいだった。
頬に涙が伝っていて、びっくりする。
慌てて拭いた。
「び、びっくりした。あれか。こんなトコに一人だから、ちょっと不安定になってんのか!?」
そうだ、きっとそう。
あたしがこんなことで泣くわけがない。
こんな事態になったもんだから、不安になってんだ、うん。
「あー、もう」
どうしてだか、涙が止まらない。
ぐいぐい拭いても、それでも溢れるのだ。
こんなの、初めてでどうしていいか分かんない。
「えーい、この、止まれ! ストップ!」
「…………!」
「ん?」
何か、聞こえた気がした。
「気のせい? 幽霊、じゃない、よな?」
ちょ、ちょっとー。
泣いてたからってそんなもんになぐさめられたくないんですけどー!
お気持ちだけで充分ですー!
意味もなくバッグを抱きしめて、周囲を窺った。
「……! …………!!」
やっぱり、聞こえる。
人の声、だろうか?
「え、えー? なんで? なんでこんなところで人の声がすんの?」
怖い!
こんな時間帯の山中に人がいるなんて(あたしはいるわけだが)!
「……! ……だ!?」
声はこちらへ近づいてくるようだった。
どどどどどどどどどうしよう!?
助けてって言っていいのか?
いやでも、ゆ、幽霊だったら返事したらヤバいんじゃ!?
返事をしたら魂取られる的な怪談聞いたことあるし!
「……! ……ミャオ! どこだ!?」
「ん?」
あれ?
今、あたしの名前が呼ばれた?
膝を抱えて身を竦ませていたあたしは、ふ、と顔を上げた。
「ミャオ! 返事しろ!! どこだ!?」
「イノリ!?」
びっくりした。
近づいてくる声は、間違いなくイノリのものだったのだ。
でも、どうして?
あたし、幻聴でも聞いているのだろうか?
「ミャオ!? いるのか!?」
「こ、こっち……。イ、イノリ?」
おずおずと声を上げて見れば、がさがさと草を踏み分ける音がする。
本当に、イノリなの?
「ミャオー!?」
頭上で、懐中電灯らしき光が動くのが見えた。
間違いない、イノリだ!
「こ、こっち。あの、そこ段差あるの!」
「ん? あ……っ!!」
がさりと現れてあたしを見下ろしたのは、イノリだった。
懐中電灯の光が、あたしの顔を照らして、まぶしさに顔を顰めた。
「ミャオ! 動くなよ!?」
言うなり、飛び下りてくるイノリ。
あたしの前にとすんと着地した。
「あ……、えと。なんで、ここ」
にいるってわかったんだ? そう聞こうとしたのに、言えなかった。
泣きそうに顔を歪めたイノリが、あたしを強く抱きしめたのだ。
息を切らした体に、力任せに抱きしめられる。
あたしをすっぽり包んだ腕の中は、汗の匂いがした。
「馬鹿か、あんたは!」
頭の上でイノリが叫び、びくりとした。
「何でこんなとこにいるんだよ! 考えなしに行動するんじゃねえよ!」
「あ、あの……」
くっついた体はぜいぜいと息を荒くしていて、そして微かに震えていた。
あたし背中に触れた手は服をぎゅうと強く握っている。
「馬鹿だ、大馬鹿! どれだけ心配したと思ってんだ!」
「は、はい……」
不機嫌そうだったり、苛立ったりしたところはよく見た。
けれど、こんなに激高して怒鳴るイノリを見るのは初めてだった。
イノリの言うとおり、馬鹿、だ。考えなしだった。
「ごめん、なさい」
素直に、謝罪の言葉を口にした。
どうしてここに来てくれたのか、分からない。
けれど、イノリがすごくすごく心配してくれていたのは、痛いほどに分かった。
「ほんとに、ごめん……」
「無事ならもういい。よかった」
心から安堵したような優しい声。
優しく頭を撫でられて、張っていた気がぷつんと切れる感覚があった。
止まっていた涙が、堰を切ったように再び溢れる。
頬を、涙の粒がころころと転がり落ちた。
声を殺して泣き出したあたしに、イノリが驚いたように体を離した。
顔を覗き込む。
「ど、どうした、ミャオ? 俺言い過ぎたか? ごめん」
首を横に振る。
「でも、泣いてる。ごめんな」
「あ」
「ん? なんだ、ミャオ」
「安心、しただけ」
イノリに見つけてもらえて、安心したんだ、嗚咽を堪えてそう言うと、イノリは再びあたしを抱きしめた。
「もう、大丈夫だから」
温かい手のひらが何度も、背中を往復する。
あたしを落ち着かせようとしてくれているみたいだ。
変なの。
こないだは、あたしがイノリにしてあげてたはずなのに。
少しこそばゆい。でも、嫌じゃない。
しばらくして、イノリがあたしを離して顔を覗き込んだ。
「もう、平気か?」
「ん」
いつの間にか、涙も止まっていた。
頷くと、ほっとしたように笑ったイノリはあたしの背の赤土の壁を見やった。
「ここから落ちたのか? 痛いとこあるか?」
「あ、え、と。左、足」
「こっち?」
イノリがあたしの足元に懐中電灯を向けた。
照らされた足首は、予想通り、腫れ上がっていた。
「折れてるのか?」
「いや、捻挫」
「あとは?」
「擦り傷、くらい」
「ここか。ああ、血が出てる。後は平気か?」
眉間に皺をよせながらあたしの体をチェックする。
「よし。足、くらいだな。ここにはあの看板みて、入ったのか」
「うん。おかしいな、とは思ったんだけど……」
「誰かの悪戯だろうが、危ねえな。撤去した方がいいかもな」
苦々しく言ったイノリは、ケータイを取り出した。
誰かにかけているらしい、小さくコール音がした。
「もしもし、オヤジ? ああ、ミャオ見つけた。やっぱ山ん中だった。うん……うん、そう、あのケータイが落ちてた山道の奥……、そう」
電話の相手は加賀父らしい。
もしかして、加賀父もあたしを探してくれてた、とかだろうか。
「織部のじいさんにも連絡しといて。で、ミャオ怪我してる。……うん、捻挫。うん、今から連れて帰る」
織部のじいさんまでも?
どうしよう、まさか大きな話になっているんじゃないだろうか。
あたしの勝手な行動で、多くの人に迷惑をかけたんだ。
馬鹿だ、あたし。どうやって謝ったらいいんだろう。
「あ、あの。ごめん」
通話を終えたイノリに謝る。
「みんなに、迷惑かけたよね……?」
「そうでもない、オヤジとじいさんくらいかな。今9時前なんだけど、9時過ぎてもミャオが見つからなかったら、近所の人たちに頼んで捜索手伝ってもらうつもりだったから」
「そ、そっか……」
よかった。たくさんの人に手間を取らせてたとしたら、申し訳なさすぎる。
でも、加賀父と織部のじいさんには心配かけたんだ。きちんと謝らなくちゃ。
「あ、いや柘植がいた。今頃半泣きでケータイ握ってんじゃねえかな。ほら、かけてやれよ」
イノリが渡してきたのは、無くなったはずのあたしのケータイだった。
「あ! これ」
「例の立て看板の前で光ってたんだ。柘植が何度も電話してたみたいだから、それが幸いしたんだな」
「ありがとう。あれ? ねえ、どうしてあたしがここにいるってわかったんだ?」
聞けば、あたしからの連絡がないことに焦った琴音は、イノリに電話したらしい。
そして、あたしがイノリに会いに行くと言ってから連絡が途絶えたと泣きついたのだそうだ。
驚いたイノリは寺前のバス停であたしを待ったが、来ない。
織部のじいさん家かもしれないと連絡しても、来ていないと言う。
もしかしたら裏側のバス停じゃないかと思い、急いで向かったのだそうだ。
「でも、バス停まで行ったんだけど、姿がねえだろ。一本道なのにおかしいなと思って後戻ってたんだけど、道の端っこで点滅してるものに気が付いて、拾い上げたらケータイでさ、見たらあの待ち受けだろ」
「あ」
9年前のあれか。
「ミャオのケータイじゃん、と思って周囲を見てもいないし。もしかしたら変な奴に攫われちまったんじゃねーかとかすげえ焦った」
イノリは狼狽えたものの、山道に向かって矢印を向けている看板に気付いた。
もしかしてこっちに行ったのかもしれないと思い、そのまま中に入っていたんだそうだ。
「そ、か。そういうことか」
「おう。まあ、俺の勘もたいしたもんだろ。絶対見つけるって思ってたからな」
「あ、うん……」
へへ、とイノリは満足げに笑う。その言葉が胸を打ち、なぜだか真っ直ぐ見られなくて、ふいと顔を逸らした。
「お、と。それよりさ、早く柘植にかけてやれよ。でないとあいつ、今にでもこっちにやって来かねない」
「あ、うん」
琴音は、コール音もしなかったほど早く、電話を取った。
あたしの声を聴くと同時に、声を上げて泣く。
『じ、じんばいしたのおおお』
「ん、本当にごめん。でも、もう大丈夫だから」
琴音の横には、呼び出されたらしく、ケンくんがいた。
いざとなったらあたしの捜索に行って来いと言われたらしい。
なんてこった、ケンくんにまで迷惑をかけていたとは。
平身低頭で何度も謝罪すると、ケンくんは『よかったよかった』とのほほんと笑ってくれ、今度、山中で遭難した場合の対処法を教えてくれると言った。
今までは、そういうお誘いは遠慮していたのだが、半月ほどの間に二度も遭難しかけた身としては、本気で勉強しておいた方がいいのかもしんないと思い、ぜひとも、とお願いした。
まあ、こんな思いは二度と御免だけれども。
琴音には後でまたゆっくり連絡することを確約し、ケンくんにもお礼を言って電話を切った。
「よし。とりあえず、帰ってその足の手当てしようぜ。ほら」
イノリがあたしに背中を向けた。
「おぶされ。その足じゃ歩けねえだろ」
「あ。え、と」
「なんだ? まだ、恥ずかしいとか嫌だとか言うか?」
くすりと笑ってイノリが言う。
「うう、ん。あの、お願いします」
昔の名残のない、大きな背中にそっと体を預ける。
腕を回し、イノリの胸元辺りで手を組んだ。
「お。素直でいいな。よ、と」
あたしの重さなど厭う様子もなく、イノリはひょいと立ち上がった。
転がっていたバッグを拾い上げ、懐中電灯をあたしに渡した。
「これで照らしてくれな」
「うん。あの、道、分かるの?」
「ここら辺はもう庭。休みのたびに来てたから」
「そっか」
言葉通り、イノリはどの方向に行けばいいのか分かっているようだった。
迷いなく進んでいく。
イノリの足元を照らしていると、ふっと笑う声がした。
「なに、イノリ?」
「や、9年前と逆だなって思って」
「あ。うん……」
あの時は、あたしの背中にイノリがいた。
小さな体の重みはまだはっきりと覚えている。
けど、その立場ははっきりと逆転していた。
「あの時のミャオはすげえ大人に見えてて、背中もでかくってさ。早くミャオよりでかくならなきゃ、って思ったんだけど……こんなにちっちゃかったんだな」
「…………」
「こんなにほそっこい体で、俺を助けて守ってくれたんだよな」
「…………」
イノリの背中にくっついて、鼓動を感じながら、一番近いところで言葉を聞く。
どうしてだか泣きそうになって、ただ黙っていた。
「ありがとな、ミャオ」
「……たいしたことしてない、って何回も言ったじゃん」
「したんだって何回も言っただろ」
サクサクと力強い足取りでイノリは進む。
懐中電灯の光は歩みに合わせて揺れた。
「なのに、ごめんな」
「え?」
「柘植から、全部聞いたんだ。目の怪我のことも、何もかも」
あたしがイノリの元に向かっているという話を聞いた時、イノリはそれを信じず、「迷惑だ」と言い捨てたのだそうだ。
本当だって言うなら田中にでも連れ帰らせろよ、とも。
それを聞いた琴音は、もう隠すの嫌だ! と怒り、全てをぶちまけたのだそうだ。
『大澤くんに嫌な思いさせないように一人で抱え込んでたんだよ? ミャオちゃんに謝って!』
そう叱り飛ばされたらしい。
「ごめん、俺がミャオの話をちゃんと聞いてればよかったんだ」
「あ、いや、隠してたのはあたしだし。イノリが悪いわけじゃないよ」
慌てて言う。
隠したくってみんなに黙ってもらうようにしたのは、他でもないあたしなんだから。
「信じようとしなかった俺が悪いんだ。ミャオを疑った」
いや、あの写真を見れば、仕方ないと思う。
元々それが目的で撮られたんだし。
「でも、やっぱり言って欲しかった。俺のせいでミャオが痛い思いするのはもう嫌なんだ」
イノリが、ぽつんと言う。その声音に怒りや苛立ちはなくて、どこか寂しげだった。
「それにさ、何も知らないで責め立てるって、情けねえよ。事情知らずに文句並べ立てるなんてさ」
「ごめん……」
イノリの言ってることは、分かる。
あたしが同じ立場だったら、と考えたら、「言えよ!」と責めたと思う。
知らされなかったことを、悔しく思うはずだ。
あの時は、そんなことまで思い至らなかったけど。
「知らねーせいで、あんな顔させちまったしな」
「あんな顔?」
「今日の昼だよ。ミャオ、すげえ悲しそうな顔、しただろ」
そうだった、だろうか。
ショックは受けたけど、そんなにあからさまだった?
「言い訳するみたいだけど、言いすぎたって思ったんだぞ。でも、お前の後ろに田中が立ってるの見たら、もうどうしようもなくてさ」
「あ! あの、そのこと」
「お、そろそろ道に出るぞ」
口を開こうとする前に、イノリの声に阻まれた。
「ほら、前見て見ろよ。ミャオ」
「あ、うん」
懐中電灯で照らせば、木々の向こうが開けた先に、アスファルトが現れた。
こんな目に合う羽目になった原因の看板が姿を見せた、かと思えばイノリが足でがっこんと蹴とばした。
獣道を差していた矢印が本来の方向に戻される。
「よし。とりあえずはこれでいいだろ」
「うん」
些か乱暴だが、あたしのような迷い子が現れてもいかんしな。
「もうすぐ寺だから。もう少し我慢してくれな」
あたしを背負い直したイノリが言った。
「重たいよね? ごめん」
「いや? これくらい、なんてことねーよ」
「でも」
「ホントに平気だって。ミャオ一人くらい背負えなきゃ、でかくなった意味がねえ」
ふ、とイノリが笑った。
その言葉に、ドキリとした。
イノリはまだ、あたしを待っていてくれた気持ちを、持っている、だろうか。
だとしたら、すごく、嬉しい。
そうであってくれますように。
「あ、のさ」
「ん?」
「ええと、その」
「なんだよ」
何も通らない、静かな道をイノリは歩く。
その背中に顔を寄せて、あたしは一度深呼吸した。
言わなくては。
「あの、さ。穂積とは、何でもないから」
イノリの足が、ぴたりと止まった。
「元々、穂積にも呼び出しのことは言うつもりなかったんだ。たまたまバレてしまっただけで。助けてとか言って頼ったわけじゃない。穂積が好意で傍に付いてくれてて、それを無碍にできなかったっていうか、断りきれなかったっていう言うか。いや、何度も断ったんだけど」
必死に言葉を重ねた。
ここまで来たのは、この為なのだ。
自分の口からはっきり言っておかなければならない。
うやむやで済ませたくなんかない。
イノリは動きを止めたまま、何も言わない。
それでも続けた。
「言い訳くさいか。くさいよな。
でも、事実なんだ。あの写真は目を痛がってるあたしを病院に連れて行ってくれたところとか、危険だからって通学に付き添ってたところとかで、何にもなかったんだよ。ホントに何にもないか」
「何で、そんなこと言うわけ?」
あたしの言葉を遮るように、イノリが言った。
その声音からは、感情がいまいち掴めなかった。
もしかして、怒らせただろうか。
わざわざ言い訳がましいことを言うほうが、怪しかった?
でも、この部分ははきちんとしておきたかったし。
「何で、てそりゃ、勘違いされたままは嫌、だし……」
もごもごと言うと、今度は「何で?」と簡潔に訊かれた。
「何で、ってだから嫌だから、さ」
「だから、何で、嫌だと思ったんだ、って訊いてるんだけど」
「へ? いや、嫌われたくないからだよ。もちろん」
そこから? と首を傾げれば、イノリが言った。
「俺に、嫌われたくない?」
「当たり前だろ。だからここまで誤解を解きに来たんだ」
何言ってんだ。
当然すぎる問いに少し憤ってそう言い足せば、イノリがあたしをそっと降ろした。
道路の端に座らされる。
「ん? どうした、やっぱり重たくなったか?」
「なあ、ミャオ」
イノリがあたしの前に片膝をついて座った。
じ、と顔を見つめてくる。
暗闇になれた目には、イノリの顔はよく見えた。
その顔に浮かんだ表情に、どくんと心臓が跳ねた。
「な、なに、イノリ」
「嫌われたくなくて、ここまで来たんだ? こんな時間に」
「う、うん」
「あんな山の中に入ったのも、俺に会って誤解を解くためだった?」
「ま、まあ。あの先にいるんならって思った、し……」
言いながら、だんだん恥ずかしくなる。
自分の無鉄砲ぶりを再確認させないでくださいって!
馬鹿だってことはもう分かってますから!
えーい、笑いたきゃ笑えよ。
しかし、イノリは笑ったり馬鹿にしたりしなかった。
どころか、真剣な顔をあたしに向けていた。
「な、なんだよ、イノリ。責めるんなら責めてくれていいぞ。でも、これでも必死だったんだ。いや、こんな風に迷惑かけちゃったのは、馬鹿なんだけどさ……」
その部分は、本当に本当に、何度だって謝らなくちゃいけないところだけれど。
ところがイノリは責めるどころか、あたしをぎゅうと抱きしめてきた。
イノリの肩口に顔が押し付けられる。
「んな!? イ、イノリ!? どうしたんだ!」
「それってさ、俺のこと、好きってこと?」
耳元で、問われた。
「ふ、ふへぇ!?」
そ、そんなダイレクトに訊くか、普通!?
もっとこう、ソフトに訊けよ!
答え辛いじゃん!
「え、ええと、その」
「好きでもなきゃそんな無謀な真似しねーと、俺は思う。どうなんだ?」
「ああああああの、だな、その」
ひー!
ど、どうしたらいいんだ。
こんなの急展開すぎだろ!
ていうか、今のあたしって、回答求められてる?
回答ってことは、あれか!? そうです好きですって言えって?
そんなこと言ったら顔面爆発しそうなんですけど!
でででででも、違うなんて言いたくないし、
だからってハイソウデスなんてぇぇぇぇぇ!!
「返事しないなら、そういう風に受け取るけど」
混乱したあたしを抱きしめたままのイノリが言った。
「へ? へええええええぇえあぁぁっ?」
「叫ぶな。耳痛ぇ。だから、勝手にそういう風に受け取っていいのかって聞いてるんだ。返事できないなら、頷け。俺のこと好きだってことで、いいのか?」
う、頷けばいいんだな!? それで伝わるんだな!?
了解したあたしは、せめてはっきりと伝わるようにぶんぶんと頷いた。
だってだって、言えねえよ。好きですなんてそんな言葉、本人目の前にしてどのツラ下げて言えってんだ。
こちとら慎ましやかな日本人なんだっつの。
愛情表現ってのは『月が綺麗ですね』が最上級なんだよ!
しかし、兎にも角にも、必死の想いは伝わったらしい。
抱きしめていたイノリの腕に、ぎゅうと新たな力が籠もった。
「……嘘じゃねえ、よな?」
「嘘じゃない! 嘘じゃなくて、ホントに!!」
イノリが好きだ。口では言えねえけど。
小っちゃいのも、でっかいのも、全部ひっくるめて、大好きだ。
――果たして、イノリが声を絞り出すように言った。
「すげえ……、俺、死にそう」
「な!? なんでだよ! そんなに嫌か!?」
「馬鹿、嫌な訳ねえだろ。嬉しすぎて死にそう」
あたしを軽々抱えてしまう、筋肉を纏った腕に、掻き抱かれる。
存在を確認するかのように動いた腕が止まると、切なげな声。
「ようやく、手に入れた……」
「イノ、リ……」
あたしの気持ちは、受け入れられたって、こと?
そう、だよね? そういうことでいいんだよね?
だってイノリは今嬉しいって……。
無意識に、手が動いていた。
もそもそと移動して、ためらいがちに抱きしめ返した。
大きな体は、きゅ、と力を込めるとびっくりするくらい跳ねた。
「うあ! な、なんだよイノリ! やっぱダメだった!?」
「い、いや、そんなの不意打ちでされると……」
うわずったイノリの声が一瞬途切れたかと思うと、耳輪に触れるくらいの距離で再び続きが囁かれた。
「理性が崩壊する」
「ふ、ふわぁぁぁっ!?」
なんつーエロめいた声で囁きやがるんだ! しかも吐息がふわって、ふわって!
ぞくりとしたものを感じて叫ぶ。
「び、びっくりするだろ! 何言ってんだ!」
体を離そうとすれば、逃げられないようにがっちりと止められた。
「何言ってるも何も、本当だから仕方ねえだろ」
「いいいいいいや、仕方なくねえし! つ、つか離せ!」
「ヤダ。もう堂々とこういうことしていいってことだろ?」
ふいとイノリの体が離れたかと思えば、顔を覗き込まれた。
何年たっても変わらない整った顔があたしを見つめたかと思えば、ゆっくりと近づいてくる。
大きな瞳がそっと閉じられ、半開きの艶やかな唇があたしの唇に……
「ち、違うと思うぅぅぅぅぅ!」
それは早すぎ! 心の準備もなくそんなことしたら心臓発作で死んでしまうからぁぁ!
唇の接触を回避しようとした、その時だった。
「うん、違うねえ」
ふいに、のほほんとした声が混じった。
へ? 誰?
「こんな場所で嫌がる女の子に何してるのかなー、祈」
カッ! と光が照らされる。
眩しさに目を細めて見た、その光の発生源を持っていたのは、他でもない加賀父だった。
「ひ、ひゃぁぁぁあああぁあぁぁ!」
な、なんということ!
こんなシーンを見られた!?
さっきまでの恥ずかしさとは別の恥ずかしさで死ねる。
ていうか死にたい。今回はもう穴掘って埋められたいくらいに死にたい。
死なせてつかあさい。
このまま死なせてつかあさい。
情けない声を上げたあたしとは違い、イノリは不機嫌そうに唸った。
「タイミング見てただろ、オヤジ……」
「いやー、どこで声かけたらいいのかわかんなくてさー。ここかな、と思ったんだけど、違った?」
「全っ然違うだろ」
むっすうう、と顔を顰めたイノリは、あたしから離れ、どさりと座り込んだ。
加賀父を見上げる。
「いつからいたんだよ」
「えー? 言うと恥ずかしくない? 二人とも」
「言わないでくださいぃぃ!!」
もうそういうの知りたくない。
世の中には知らないでいた方が幸せなことがいっぱいあるんだ。
叫んだあたしに、加賀父があははと笑った。
「心配だったから見に来たんだけど、美弥緒ちゃんが元気そうでよかった。看板の向きが間違ってたんだって? ごめんね、明日全部確認しておくよ」
「い、いえ。あ! ていうか! 御迷惑かけてすみませんっ。しかもこんな夜更けに」
ぺこぺこと頭を下げると、いいよそんなの、と柔らかく返された。
「ウチは一向に構わないよ。美弥緒ちゃんなら大歓迎。でも、年頃の娘さんなんだから、あんまり無茶しないでほしいな。連絡くれたら駅まで迎えに行ったのに」
「そんな、滅相もないです」
あたしの勝手で来たのだ、加賀父を使うだなんてそんなことできるはずがない。ぶんぶんと首を振る。
「とにかく帰ろう。えーと怪我してるんだよね? 俺が抱っこしようか?」
にこ、と加賀父が笑みを湛えて仰ったが、抱っこなんてそんな恐れ多いことをして頂く訳にはいかぬ。
滅相もありません! 這ってでも移動しますと言おうとしたら、イノリの声に阻まれた。
「断る。俺が連れて帰る」
言うなり、あたしに背中を向ける。「来い」と短く言われたところを見ると、背中に乗れということか。
「え、えーと」
「早くしろ」
「は、はい」
せかされて背中に乗った。
イノリが立ち上がると、加賀父とばちりと視線が合った。
あのー、にやにや笑いひっこめてもらえませんかー。
めっちゃ親馬鹿的な顔になってますけどー。
「くくっ、い、行こうか」
息子の成長でも感じたんだろうか。歓喜の笑みって感じ。
こっそり(というか堂々?)と笑う加賀父は先を行くあたしたちの後をついてきた。
「……っくしょ……クソオヤジが……っ」
イノリが苛立った呟きを漏らす。
うーむ、怒ってますね。
さっきよりもぐんと足取りが乱暴になってます。
ゆ、揺れるー。
手にした懐中電灯が前後左右に移動した。
「祈、もっと丁寧に運んでやらないと傷に触るぞー」
「わかってる!!!」
あーもう加賀父め。
からかうなよもう。
だがしかし、あんなのを見られてしまった以上、あたしも恥ずかしくって何も言えない。
あの光を当てられた瞬間は、もう回想すらしたくない。
つーか、何で後ろ歩くのさー。前行ってよ、前。
あー、まだ笑ってるし、もう。
居た堪れない笑い声を背に、こそっとため息。
とりあえず、大人しく運ばれてしまおうと、イノリの肩に頭を乗せたあたしであった。
***
懐かしの柳音寺は、その佇まいを何一つ変えていなかった。
あの時も暗闇の中だったっけな、とイノリの背から本殿を眺めた。
で、あたしを出迎えてくれたのは、つるっぱげになった織部のじいさんだった。
「ぎゃああああぁぁぁぁ! 志津子!」
玄関先で腰を抜かし、わなわなと震える指であたしを指した。
「またかよ。違うって、美弥緒です」
イノリの背中で、にや、と笑って見せて、言い足した。
「ね? 9年後も元気だったっしょ?」
「な、な、ななななな、なんであんた、そんな若いんじゃ……。もしや、化け猫!?」
「イノリと同じこと言ってる」
あはは、と笑うあたしを、イノリが上り框に降ろしてくれた。
「先生、彼女は正真正銘の人間の女の子ですよ。あの時は未来から来てたんです」
「未来……。いやまさか。でも、志津子じゃし……」
加賀父が説明してくれるが、じいさんは腰を抜かしたままである。
まあ、そうだよなー。
信じらんないよなー。
よく分かる。
その間に、イノリはさっさかとあたしの左の靴と靴下を脱がせてしまった。
「うわ! じ、自分でするし!」
「いいから! うわ、酷えな」
見れば、この間よりちょっとマシかも? だけどどす黒い足首がコンニチワしていた。
な、治ったばっかだったのに……。
夏休みは明日からなのに……、何、この足。
呆然としたあたしを、足先に屈んだイノリが見上げた。
「処置したいけど、先風呂入ったほうがいいかな。平気か?」
「へ? ……うえ、汚っ! う、うん、お願いします」
見下ろせば随分薄汚れていた。
足も、綺麗に洗ってから処置したほうがいいだろう。
じいさんと話していた加賀父が言った。
「イノリ、案内してやりなさい。その間に湿布とか用意しておくから。美弥緒ちゃん、後でゆっくり話そうね」
「おう。ほら、来い」
「す、すみません。ではまた」
まだ動揺している様子のじいさんにへらりと笑いかけて、イノリの肩を借りて奥へと向かった。
歩くたびに、廊下が少し軋む。
お寺の住居部分と言うのは、ごく普通の日本家屋であった。
年季は入っているものの、別段変わったところはない。
まあ、そりゃそうだよな。
廊下にずらーーっと仏像が並んでるわけ、ないよな。
妙な思い込みをしていた自分に気付き、こそっと笑う。
そんなんだったら、実家にいるみたいに短パンTシャツでうろうろできないよなー。
トイレトイレー、なんて廊下を走るのもできなさそうだ。
不届きなことを考えていると、廊下の突き当たり、引き戸の前でイノリが止まった。
御丁寧に、『湯殿』と表記されている。
おお、なんかかっこいい。
「じゃ、ごゆっくり」
「はい、使わせてもらいます。あ」
見れば、イノリの着ていたシャツにも泥がついていた。
あたしを背負っていたせいで、汚れが移ってしまったのだろう。
「ごめん、汚れちゃったな。先、使う?」
「構わない。いいから使えよ」
にこ、とイノリが穏やかに笑って、あたしの頬にかかる髪を耳の後ろに流した。
つう、と指先が肌を通った。
「ゆっくり入ってこい、着替えは後でもってくるから」
「う……、うん。ありがと……」
な、なんでそんなに優しくすんの!?
どんな顔していいのかわかんないんだけど!
ていうか前置きなく触るのやめてぇ!
狼狽えるあたしには気付かなかったのか、イノリは戻って行った。
「と、とりあえず、お風呂使おう、うん」
なんだか、顔が熱い。
急にあんな風に触られたからだ、うん。
「よし、はいるぞー。んぎゃ!」
気持ちを切り替えようと勢いよく足を踏み出した、のだったが、それは左足だった。
思いっきり体重をかけて踏み込んでしまい、悶絶。
あたしって、ホント馬鹿……。
お風呂は、使い勝手の良さそうなシステムバスだった。
あの引き戸を見る限り、織部のじいさん家のような純和風だろうと思ってたが、そうきたかー。
さすが加賀父、思い通りに行かない男だぜ。
妙な満足感を得ながら体を洗い(足の怪我がピリピリ傷んでちょっと泣けた)、湯船につかった。
大きめなそれは足をのばしても余裕で、気持ちいい。
足を温めるとずきずき痛むので、長湯はできそうにないけれど。
「あー……、人心地……」
ため息をつくと、脱衣所の方でカタリと音がした。
「ミャオ?」
「ひゃ、ひゃい!?」
見れば、脱衣所へ続くドアの擦りガラスに人影があった。
「ここ、着替えおいとくな。小せえの探したけど、俺のだからでかいかも」
「い、いえ! ありがとーございます!!」
ひいいいいいいいい!
ち、近すぎじゃないのかこれ!
イノリが入ってくることなどまずないだろうが、それでも体を深く沈めた。
「あのさ」
「は、はい!?」
「あとで、ゆっくり話せる?」
「へ、へ?」
「話したいんだけど」
思えば、さっき加賀父の登場で話がうやむやというか打ち切りになっちゃったもんな。
短く承諾の返事をすると、イノリは「じゃああとで」と言って出て行った。
「ふ、ふうううう……」
なんか、緊張したと言うか、どきどきした。
好きとか気付いてしまったせいか、無駄に意識してしまう。
イノリを意識、か。
うーむ、しばらく小学生のころに戻ってくれないかなー。
あのちっさくて可愛いイノリなら、抱っこしてモフモフして撫で撫でぐりぐりできるのに。
好きとか言われても、今ならあたしもよー、うふふー、とか応え……応えられるのか?
いや、イノリ(小)なら、言う。言える。
だが、あたしの前にいるのはでかイノリなわけだ。
「うー……む」
鼻の上までお湯に浸かり、唸る。
くぷくぷ、と水泡が音を立てて消えた。




