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17.キャプテン、座礁しそうです

17.キャプテン、座礁しそうです



「調子にのんなよ、ブサイク!!」


怒鳴り声と同時に、水をぶっかけられた。

座り込み、頬を押さえていたあたしは急なそれを避けることもできなくて、それどころか鼻で吸い込んでしまってゲホゲホとむせ返った。


「これ以上大澤くんに手を出すような真似したら、こんなもんじゃすまないから!」


ガンッ、と何かが放られる音。

すぐ近くに、バケツが投げ捨てられたのを視界の隅で確認した。

うえ。トイレ用ってラベルが見えたんですけど……。


むせたからではない、別の涙が溢れそうになる。

き、綺麗なんでしょうか、今あたしが纏っている液体は。


「あたしたちが見てるってコト、忘れんなよ!」


捨て台詞を残して、あたしをこんな場所まで連れてきた数人の女の子たちは走り去って行った。



――時は十数分前に遡る。

欠伸をかみ殺しながら登校したあたしは、校門のところで知らない女の子に声をかけられた。

イノリのことで大事な話があるので少し時間をくれないか、と言う彼女について校舎裏にある部室棟まで連れられてきた、のだったが。


そしたらびっくり、そこには数人の不機嫌そうな女の子たちがいて、その全員があたしを睨みつけていたのだ。

俗にいう呼び出しってやつだ! と気付いたものの、時既に遅く。

取り囲まれるように、彼女たちの中心に押しやられてしまった。


それからは、口々にブスだの、淫乱だの、妖怪だの、人として全てを否定されるような罵詈雑言を次々と投げつけられた。


怖い! 怖すぎ!

ここ最近、怒った女の子の集団が一番恐ろしい存在となってしまったあたしである。

なので思いっきり怯えてしまい、最初はおどおどとしか言葉を発することができなかったのだが、それでもどうにか彼女たちの意図を伺うと、要はイノリから手を引けということだった。


手を引けも何も、あたしは手を出した覚えはない。

出したと言えるとすれば、それは幼少期のイノリにだ。

とは言え、それを彼女たちに言える筈もなく。


(大きなイノリには)自分から何かした覚えはないのだけども、と遠慮がちに言うと、それは彼女たちの怒りを助長させてしまった。


『あんたみたいな女がただ単純に好かれるわけないじゃん!』

『自分がいい女だとでも思ってんの!? それってすんげー勘違いだから!』


……ええ、はい。その通りですね。

誉められるような素晴らしい美点なんて、どんだけ探してもないですよ。

でも、信じてもらえなくても、そう言うしかない。


だいたい、あたしだって不思議に思っていることなのだ。

どうしてイノリがあんなにあたしを大事にしてくれるのか、分からない。

自分に取り立てて優れたところがないことくらい、百も承知だしね。

できることなら、イノリにそこの辺りを詳しく訊いてもらいたいくらいだ。


なんて思っても、それを口にはできなかったけど。

やり方に間違いはあれど、この人たちはイノリが好きなだけなんだろうなあ、と思うと口にできるはずがない。

彼女たちだって、あたしが充分にデキた人間だったら、こんなことしなくて済んだんだろう。

反論もできなくなって俯いていると、新たな罵声の一つにぴくりと眉が動いた。


『どーせヤラせたんでしょ!? あんたみたいな女、股開くしかないもんね!』

『……。……いや、それは、ダメだろ』

『はぁ!? 何ぼそぼそ言ってんの? 聞こえないんですけどー』

『いや、今のはダメだろって言ったんだよ』


顔を上げて、発言主を探した。


『今、ヤラせたって言った人だれ?』


見渡すと、ショートヘアの女の子が一瞬たじろいだ。

こいつか、と思うと同時に、気が付いた。

昨日、イノリに告白していた子……?


盗み聞きのような真似をしたことを思い出し、申し訳なくなる。

できることなら謝りたいけど、でもあたしが聞いていたと知るのは、この子をいたずらに傷つけるだけだろう。


昨日は、ごめんなさい。心の中で頭を下げた。

が、だからといって今の発言は聞き逃せるものではない。

じ、と見据えると、彼女は動揺を振り払うように睨みつけてきた。


『なによ』

『ヤラせたってなんだ、それ』

『な、なに? 反応するってことはまじでそうなんだ。やだ、サイアクじゃ』

『最悪なのはあんたの頭ん中だろ。あんたは好きな男のことをヤリたいだけのサルとでも思ってんのか?』


ふつふつと怒りが沸く。

今のはあたしではなく、イノリに対する侮辱だ。


怒りの方向があたしに来るのなら十分理解できる。

が、イノリに向くのは何故だ。好きなんじゃないのか。


『今からイノリのところに行ってストリップして見せてやれよ。あんたの言う通りの盛ったサルだっつーんなら、ホイホイ寄ってくると思うけど?

ついでにヤラせてやりゃ、付き合えるんじゃねーの?』

『ひ、ひど……』

『酷いのはあんただろ。ヤラせてくれるから好き、ってついさっき言ったよな? ほら、とっとと行って、脱いでこいよ。でもって、ヤラせてやるから付き合えって言ってこいよ』


見る間に涙が滲んだかと思うと、その子はスカートを翻して走り去ってしまった。


『あ! 理恵!』


あ。逃げた。


『ちょっとあんた!』


理恵が駆けて行くのを呆然と見ていた別の子が、いきなりあたしをどついた。背の高い、がっちりした肩幅の子に不意打ちで突かれたせいで、よろりとよろめいた。そこに再び大きなこぶしが向かってくる。


うえ! グーでくるの!?

肩に鈍い衝撃を受け、バランスをくずしていたあたしはそのまま尻餅をついてしまった。


『フザけてんじゃねーよ、妖怪女』

『……フザけたこと言ったのはさっきの子じゃん』

『理恵はねえ、あんたなんかのせいでフラれたんだよ!?』

『は? フラれたら何言っても許されるっての? 違うだろ』


座り込んだまま、あたしを殴りつけた女の子を見上げた。


でかいな。腕、太いな。

このまままたグーで殴りつけられたら、ちょっとヤバいな。


とか思うのに、怒りがまだ持続しているせいか、がっちり睨み返してしまう。

ああ、短気な自分が嫌!

でも、好きな相手なら貶めるようなこと言うなよ、と思うのは間違ってない。


『大澤くんに手をださないでって言ってんの、分かってる?』

『あんたこそわかってる? 「あたしは」出してないってさっき言ったじゃん。ちょっと前のことくらい覚えとけよ』


脳内が臨戦態勢に入ってしまったせいか、ぽんぽん言い返してしまう。

反抗的なあたしに、その場にいた子たちが気色ばむ。


『急に何なの、この態度!』

『サイアク! 性格曲がってんじゃない!?』

『はぁ!? 呼び出しなんてやってるあんたたちの方が最悪だろうがよ』

『だいたいさー、あんたが手を出してないっつーんなら、大澤くんのほうが出してるっていうわけ!?』

『あーそうですね! そういうことですね!』

『ブスが偉そうに言ってんじゃねえよ!』


ぱあん、と頬が鳴った。

グーではなく、パーでやられたのだと理解するまでに1秒くらいかかった。

痛い。ほっぺた熱い。なんでかわかんないけど目も痛い。けっこう激痛。

てか、高みから振り下ろしてくるなんて卑怯だろ。

じんじんとする痛みを堪えて、き、と睨みあげた。


『なに、その顔。あんたは謝る立場だろ。調子に乗ってすみませんってさ』

『理恵にも謝らせようよ。すっごい侮辱だよ、さっきの言葉』

『謝るのはあたしじゃねーし。さっきの子が、イノリの前に行って謝るべきだろ』

『妖怪女がいい加減にしろよ!? ああ?』


頬が再び鳴った。

ちくしょう、二発目きた。

おんなじところかよ。


さすがに頬を押えてしまうが、それでもここは譲れない。

負けられねえ、と再び口を開きかけたところで、バケツを抱えて駆け戻ってきた理恵の姿を認めた。


重そうなバケツ。

きらめく飛沫。

え。ちょ。それってもしかして。もしかして?


そして、ぶっかけられました。


「……ちっくしょ。びしょ濡れじゃん……」


すんすんと濡れたシャツの匂いを嗅ぐ。

臭くないけど綺麗な水だったんだろうか。

トイレって、トイレって書いてあったんですけど!


いや、もう今更知っても仕方ないか。

ていうか、知りたくない。


転がっていたカバンを拾って、野球部部室の前に置かれたぼろぼろのベンチに座った。

風雨にさらされた木製のそれは、座るとみしりと嫌な音を立てた。


え、大丈夫だよね、これ。

今これが壊れたらやりきれなさ倍増なんだけど。

しかし何かに体は預けたい。

えいや、と背もたれに寄りかかった。


「いって……」


ふう、とため息をついたら、口の中がぴりりと痛んだ。

舌で確認しようとすると、金臭い味が広がる。

ああ、切っちゃったのか……。


「痛いトコばっかだなー……」


肩とか、尻餅ついたお尻とか、あとじんじん痺れてる顔の左側。

満身創痍ってやつ?

いや、そこまでじゃない。


あー、でも心はけっこう痛いかも。

さすがのあたしもあそこまで悪し様に言われたら凹みますよ、はは。

はー……。


青空を眺めて、ぽかんと口を開けた。

雲ひとつない空の向こうに、小さく飛行機の姿が見えた。

どこからかアブラ蝉の鳴き声がしたかと思うと、じじじ、と飛んで行く羽音を最後に消えた。


ああ、静かだなー。


ぎゅんと上昇した感情のゆり戻しがきたのか、感情が鈍くなってしまったらしい。

身動きすることもなく、ぼんやりとしてしまっていた。


どれくらい経った頃だったのか、遠くで始業を知らせるチャイムが鳴った。

間延びした音に、ようやく自分を取り戻す。

いかんいかん、と首を振って、とりあえず時間割を思い出した。


えーと、今日の一時限目は、確か化学。

ひたすらノートに字を書くだけの退屈な授業だし、サボれてラッキー。

後で琴音にノート写させてもらお、なんてな。


「しかし、どうするかな……」


これからどうしよう。

びしょ濡れのまま教室には行けないし、かといってこのまま街中を通って帰るのも問題だ。


琴音に頼んで着替えを……って、体育もないのに着替えなんて持ってるわけないよな。

乾くまで待つ、というのもなー。

いつまでここにいればいいことやら。

こんな季節だとはいえ、風邪ひいたりするんじゃないだろうか。

やだな、夏風邪って長引くっていうし。


と、こちらへ向かってくる足音が聞こえたような気がした。

ベンチにどっかりと体を預けたまま、首だけ動かしてみる。


「あ、れ……? 穂積!?」


あたしに向かって走り寄ってきたのは、穂積だった。

なんでここに!?


「ど、どうしたの……?」


思わず立ち上がったあたしを、呼吸を荒くした穂積は何も言わずに見下してきた。その顔がだんだん険しくなっていく。


「え、えーと、穂積?」


今まで見たことのなかった穂積の怒りの形相に、おどおどと声をかける。

と、それまで無言だった穂積があたしを力任せに抱きすくめた。


「ちょ!? 穂積、離しなって!」


スカートの裾からはまだ雫が垂れているし、倒れこんだせいで全体的に薄汚れている。

こんなことしたら穂積まで汚れてしまうではないか。

ていうか、こういうの止めてぇ!!


意外に筋肉質な腕にがっちりと抱きすくめられ、胸元に顔を押し付けられる形になったあたしはバタバタと暴れながら叫んだ。


「は、離しなって。ほら、ちょっと、ねえ!」

「誰にこんなことされた!?」


穂積が発したとは思えないくらいの鋭い声音。

思わずびくりとなった。


「誰が美弥緒にこんなことした!?」

「あ、いや、えと」


がば、と体を離した穂積は、あたしの両肩を掴んで顔を覗き込んだ。

辛そうに眺め、左の頬にそっと触れた。

熱を持っているらしいそこに、冷たい指先が滑る。


「殴られたんだな? 目、大丈夫? こっち側、真っ赤じゃないか……」

「え、えと」


そんなに酷いの?

腫物に触れるような扱いと、ショックを受けている様子の穂積を見て思う。


「ねえ。とりあえず、着替えさせてあげようよ、穂積くん」


穂積の向こう側から、女の子の声がした。

誰?


「あ、そうだね。ちょっと気が動転してしまって、ごめん」


穂積がはっと気付いて、背後を振り返った。

そこに立っていたのは、親睦旅行で知り合った葵ちゃんだった。


「葵ちゃん……?」


どうして彼女がここに?

ぎこちない笑みを浮かべた葵ちゃんはあたしの傍まで来て、手を取った。


「トイレでね、美弥緒ちゃんを呼び出したとか話してる子たちがいて。まさかと思って美弥緒ちゃんの教室に行ってみたの。そしたら来てないっていうでしょう? びっくりして、穂積くんと二人で校内を探してたの」


怖かったでしょう? と悲しそうに眉を下げる。

え。

葵ちゃんってば、たった一度会話しただけのあたしを、探し回ってくれたのか。


な、なんていい子なの!?

ささくれだった心が洗われていくようだ。

ああ、人って素晴らしい。


「あ、ありがとう!」


思わず手を握り返してしまった。


今、あたしは救われた気分です!

ていうか、救われた。もう救済された。

あたしのマザー・テレサや。ありがてえ。


ぺこぺこと頭を下げるあたしの体を見て、葵ちゃんは言った。


「あのね、私テニス部なんだけど、ちょうどこの上が部室なの。タオルも、練習着もあるし、そこで一旦着替えよう?」


あたしが背にしている部室棟の二階を指差す。

そっか、ここって運動部の部室棟だっけ。


「ここにいたら見回りの先生に見つかっちゃうかもしれないしさ。ほら、穂積くんも行こ?」


先生に見つかるというのはよろしくないな。

話が大きくなってしまいそうだ。


「じゃあ、あの、お言葉に甘えます」

「うん」


にこり、と柔らかな笑みを浮かべて、葵ちゃんはあたしの手を引いた。



クリ高の女子テニス部は腕はイマイチだが美女率が高い、というのは一部では有名な話である。

綺麗でなければ入部できない、なんて馬鹿な噂もあるくらいである。

実際、入学時の部活勧誘で見かけたテニス部のオネーサン方はみんな綺麗だった。

近寄ったらふんわりいい匂いがしたものである。


しかし、その部室は非常に汚かった。


お花とか飾ってそうなイメージだったのに。

絶対いい匂いがすると思ったのに。


干からびたバナナの皮とか食べかけのクリームパンとかめっちゃ放置してんじゃん!

なんか臭い! つーかとにかく臭い!

つーかなんでテニスラケットに並んで木刀が置いてあるの!?

どこで振るうの、これを!!


酷い! 何だか騙された気分!


夢が潰えた男子中学生のような心境になりながら、埃のたまった端っこでのそのそとピンク色のトレーニングウェアに着替えた。


「あの、ありがとうございました」

「いえいえ。あ、その辺りの椅子に座って?」


葵ちゃんは今、必死に室内を片付けている。


『今週の当番、誰なんだろう。もう、恥ずかしいなあ』と言っていたけど、この室内は一朝一夕で出来上がるものでもないと思うのだけれど。

いや、助けてくれたのにそんなせせこましい事を考えるのはよそう。

と、コンコンと遠慮がちにドアがノックされた。


「着替え、済んだ?」


外で待っている穂積だ。


「はーい! ええと、美弥緒ちゃん、いいわよね。どうぞ!」


幾分ましになった部室内を見渡して、葵ちゃんが言う。

次いで、穂積が入ってきた。


「どう? 少しは落ち着いた?」

「あ、うん。着替えられただけでもう十分」


へへ、と笑う。

タオルで泥も拭えたし、濡れた髪も拭けたし、本当に助かった。


「二人とも授業サボらせちゃってごめんね」


ぺこんと頭を下げる。


「そんなこと気にしないで。あ、ほら、ここ座って」


パイプ椅子を示されて、ちょこんと座った。

その真正面に、穂積が腰かけた。


「目、本当に大丈夫?」

「め?」


そういや、さっきもそんなこと言われたな。

目は何もされてないのに、と首を傾げた。


「美弥緒ちゃん、左目がすごいことになってるのよ? ほら」


手渡された鏡を覗き込んで絶句した。

し、白目が真っ赤じゃん……。

グロい! 何だかめちゃくちゃグロテスク!


あれだ。ほっぺた殴られたときに、指先で目を突かれたんだ、きっと。

おともだちを怪我させないように、爪は短く切りましょうって幼稚園の先生に習わんかったんかい。


「痛みはないの?」

「あ、いや、しぱしぱするというか、ちりちりするというか、変な感覚はあるけど……。でも我慢できる程度だし、視覚も問題ないみたい」


よくみれば、左頬が全体的に赤らんでいた。

色白なぶん、目立っている気がする。

ああ、これは確かに穂積が動揺してしまうかもしれん。

思っていたよりも酷い有様になっていた。


「誰にやられたの?」

「へ?」


鏡から顔を上げたら、厳しい顔つきの穂積と視線が合った。


「え、えーと知らない」

「知らない? じゃあ学年は?」

「わ、わかんない」


真剣な様子の穂積に、へらりと笑ってみせた。


実を言えば、カッターシャツの襟元の色があたしと同じだったから、全員同級生だということは分かっていた。

もっと言えば、理恵の友達なのだろうということも。

だけど何故か、それを言いたくない、と思った。


「そうか……。じゃあ、どうして呼び出しなんてされたのかは分かるよね?

何か理由を言われただろ?」

「え、えーと」

「祈くんに手を出すな、じゃないかな?」


答えたのは、葵ちゃんだった。

驚いたあたしに、慌てたように続けた。


「あ、あの。実はね、話を聞いたってさっき言ったのは、トイレの個室に入ってるときに、外での話を盗み聞きしちゃっただけなんだ。

で、美弥緒ちゃんの他に、祈くんの名前もいっぱい出てたから、そうかなって思ったんだけど……。ほら、祈くんが美弥緒ちゃんのこと好きだっていうのは、最近じゃ有名な話でしょ?

あ、違ったのなら、ごめんなさい」

「ああ、いや、別に。まあ。そんなことも言われた、かも」


申し訳なさそうに頭を下げる葵ちゃんに、もごもごと答える。


「大澤のことを好きな子たち、ってことか……」


穂積がため息をついた。


「あいつ、美弥緒以外見えてないって感じだからな。それで反感を買っちゃったわけか」

「でも、こんなことしたって、祈くんが振り向いてくれるわけじゃないのにね」


考え込むように俯いた穂積に、葵ちゃんが言う。


「複数で囲んで罵って暴力振るって。しかもこんな怪我させてるんだよ?

それが祈くんに知られたらどうなるか、ってこと考えもしなかったのかな」

「あ、あの、葵ちゃん。もう」


もう言わなくていいから、そう言おうとしたのに。

葵ちゃんは続けた。


「しかも、美弥緒ちゃんがヤラせたから祈くんが好きって言ってるんだ、なんて酷いことまで言っちゃってたのよ」

「なにそれ」


穂積が顔をあげた。


「どういうこと、葵ちゃん」

「そう言ってたんだよ、彼女たち。こんなこと口にしたくないけど……股を開いたんでしょ? って」


躊躇うようにゆっくりと吐き出された言葉に穂積の顔が歪んだ。

下唇をぎゅ、と噛んだかと思うと、その顔を見られたくないという風に逸らした。


「あ、葵ちゃ……」


どうしてそんなことまで、と言いかけたあたしは、ふと気が付いて口を噤んだ。


なんで知ってるんだ?


あたしが言われたことを、どうしてそう正確に知ってるんだ、この子。

沸々と感情を高ぶらせている穂積をけしかけるように言葉を重ねる、綺麗な横顔を見た。

思い返せば、この子はあたしの姿を確認する前から、あたしが着替えなくちゃいけない状態だと知っていた。

穂積が動揺したほどに汚れていたのに、この子は驚く様子もなかった。


トイレで聞いたにしても、あの子たちはあたしにしたことを、言ったことを事細やかに語ってたのか?

そんなことありえないだろ。


考えられるのは、彼女は一部始終を見ていた、ってことじゃないか?


「あ、葵ちゃん?」

「なあに?」


ちょこんと小首を傾げて、にこりと笑い返される。

優しげなふんわりした笑みは、守ってあげたくなるくらいにかわいらしかった。


「……。あー、いや。なんでもないや。へへ、ごめん」


「もしかして、一部始終を見てた?」と聞きそうになっていたあたしは、我に返って言葉を飲み込んだ。


一部始終見てたからって、だからどうなんだって話じゃないか。

あんな集団の中に、たいした知り合いでもないあたしを庇いに入ってきてくれたら、なんて言えるわけがない。


この子は見ないフリをせずに手を差し伸べてくれた、それだけで十分じゃないか。


うあー、よかったー。

今ちょっと自分勝手なことを口にしそうになってた。

やばいやばい。人の善意を否定してしまうところだった。

ぎりぎりで人としての大切な何かを失わずにすんだぜ。GJ! 美弥緒!


無関係の子に何ふざけたこと言おうとしてんだって話だよな、あたし。

だいたい、あんな場に入ってきて、葵ちゃんに火の粉が飛んだら申し訳ないどころの問題ではない。

この綺麗な顔に傷でもつけてしまったらと思うと、冷や汗がでる。


不思議そうにあたしを見つめる葵ちゃんに、へらへらと笑ってみせた。


「……葵ちゃんが話を聞いたトイレって、どこ?」


呟くように訊いたのは、穂積だった。

葵ちゃんが、微かに瞳を見開いた。少しだけ、視線が彷徨う。


「ええと、東棟二階の、一番奥のトイレだよ」

「6組の前のやつか。一年の教室しかないから、他の学年が利用することは考えにくい。ということは、同学年だな」


言って、穂積は顔を上げた。


「美弥緒、顔をみたら誰だか分かるよね。休み時間になったら探しに行こう」

「や、やだ!」


思わず大きな声が出た。

そんなことしたら、下手したら話が大きくなってしまうじゃないか。

そういうのは、避けたい。

ぷるぷると首を振ると、穂積が困ったように眉を下げた。


「心配しなくていいよ。二度と美弥緒に手をださないように警告するだけだし、美弥緒に怖い思いはさせないからさ」

「い、いいって。あたしも言い返したりしたから悪いんだし!」

「言い返した? すごいね」


驚いたように言った穂積だったが、それでも首を横に振った。


「言い返したからって、そこまで酷く殴ったことを許すわけにはいかないね。オレに全部任せて。美弥緒を傷つけたりしないから」

「いや、でも、いいって、ホントに。あたしもキツい言い方したんだし」


頑なに「いい」と繰り返していると、穂積がふいにため息をついた。


「……あー、そっか。ごめん」

「は?」

「ごめん、オレが急ぎすぎてたんだな。頭に血がのぼっちゃってさ。こんなことされたんだ、怖くて当たり前だよな」


あたしがごねているのを、別の意味に捉えたのらしい。

穂積は身を乗り出して、あたしの左頬に触れた。

優しくなぞられて、はわわ、となる。


あ、あれ? なんか、空気一変した!?


「酷いことさせようとしてごめん。考えてみれば、向こうがこれ以上美弥緒に手を出さないように、オレが傍にいることにすればいいんだよね」

「は、いや、そういうことではなかったのですが……っ」

「これから、しばらく送り迎えする。校内でも一人にさせない。二度とこんな目に合わせないから」

「は、いや、そのそういうことは別に」


ハンターの目、キターーー!!

ダメなんだ、これ。めちゃくちゃ苦手なんだ。

こんなの死んでも慣れる気がしない。

つーか、どこでスイッチ切り替えてんだ、穂積。

そのスイッチ叩き壊させろ。


「い、いいから。そういうのいらない。平気だから、あたし」

「ダメ。オレもこれだけは譲らないよ。あんな状態の美弥緒、もう見たくないからね」

「いや、だからそ」


すう、と移動した指先が、あたしの唇に触れた。

ぎにゃ!?

きゅ、と押えるように唇の上で静止する指先。


「もう、嫌とかいらないとか言わないんなら、この指離してあげるけど?」


し、心臓が……。

もう不整脈で死ぬ、多分。

穂積に殺される。


「穂積くん? 私がいなくなってから、口説いてくれるかなあ?」


あたしのマザー・テレサが救いの手を差し伸べてくれた。

後光が、後光が射しとります!


「忘れてるみたいだけど、しっかりここにいるのよ?」

「ああ、ごめんね? でも、美弥緒が聞き分けのないこというもんだからさ」

「そうねえ。私も、穂積くんの意見には、賛成ね」


マザー・テレサは深く頷いた。


「一緒にいてもらいなよ、美弥緒ちゃん。穂積くんなら、きっと助けてくれるよ? 他の女の子たちの反感を受けずに、上手くやってくれると思う」

「う……う、う……」


指があるので、唇が動かせない。

いらないんだってば。何もしなくていい。

穂積のボディガードなんてのも、いらない。


そんなことしたら、イノリに気付かれてしまうじゃないか。

何かあったのかって思われちゃうじゃないか。

うーうーと唸るあたしに、葵ちゃんは続けた。


「あと、祈くんと距離をとったほうがいいんじゃないかなあ?」

「……う……?」

「美弥緒ちゃんが祈くんと離れたら、あの子たちも満足すると思うの。だからね、距離を置いたらどうかしら?」


イノリと距離を置く……?

あたしが?


「美弥緒ちゃんは祈くんのこと、好きじゃないんでしょう? あんなにアピられてるんだもん、好きだったらとっくに付き合ってるよね。好きじゃない相手のために痛い思いするって、嫌じゃない。だから、離れちゃえばいいのよ」

「…………」


葵ちゃんの笑顔が何故だか遠くに感じる。


好きじゃない?

じゃあ。あたしは、イノリを、どう思ってるんだ?


小さなイノリと大きなイノリの顔が交錯する。

どちらも、屈託のない笑顔をあたしに向けていた。

その顔が、見る間に滲んで、あたしはぱちぱちと瞬きをした。

なんか目が熱い。


「……う」

「はっきり断るのも手だと思うよ? 好きじゃないから、って」

「…………うう」

「美弥緒? どうかした?」


穂積の指が離れたと同時に、叫んだ。


「うああああ! 目が、目があぁぁぁぁぁぁぁ!!」


激痛到来。

急に左目を襲ってきた痛みに、あたしは某大作アニメ映画の悪役よろしく、転がった。



***


ピンポン、と軽やかに玄関のチャイムが鳴った。


「朝から客とは珍しいの」


あたしより先に食事を終えたじいちゃんが、よっこらしょと立ち上がって玄関に向かった。

「誰ですかいのー」という間延びした声を聞きながら、味噌汁を一口。

うーん、なめこと豆腐って最強の組み合わせだな。

あ、さといもの煮っ転がしがあるじゃん。これ、好きー。

って、箸が空振りする! さといもが幻のように掴めぬ!


「てい! とお! あ、挟めた!」

「ネコー! 迎えじゃぁぁぁ! 学校行って来んかぁぁぁぁぁ!!」


さといもをようやく摘み上げたと思ったら、年寄りとは思えないスピードで戻ってきたじいちゃんが、手刀で箸を叩き落とした。汁椀の中に転がり落ちていくさといも。


ああああああ! さといも!! ってか痛い!!


「行って来い! このう、色づいてからにー!」


訳のわからないまま通学用のバッグを押し付けられ、追われるように家から放り出された。

バン! と目の前で叩きつけるように閉められたドアを、呆然と見つめた。

さといも、一口も食べられなかった……。


「ごめんね? まだ食事中だった?」


「さといも……さといも……」と繰り返していたあたしの顔を覗き込んだのは、穂積だった。


「おはよう、美弥緒」

「オハヨウゴザイマス、穂積サン」


朝から爽やかに笑う穂積に、ため息をついて答えた。


「ていうか、迎えに来なくていいって言ったじゃん」

「絶対来るって言ったでしょ? 美弥緒の安全のために」

「昨日のことなら大丈夫だってば」

「何をもって大丈夫なんて言うの? それに、」


ふ、と柔和な笑みを浮かべた穂積は、あたしの左目を塞いでいる眼帯に触れた。


「片目が見えないと距離感なくなって危険なんだよ」

「なんだ、こんなの。出かける前に外すつもりだったからいいんだよ」

「ダメだよ。眼科医の許可が下りるまではこうしてなきゃ」


外そうとした手をやんわりと止められた。


「美弥緒に何かあったら困る」

「ぬ、ぬわ……」


きゅ、と握る手に力を込めて、穂積は例の瞳であたしを見つめた。

あ、朝っぱらからそういうの、本当に勘弁してください。


「ひゅーひゅー。ネコ! お前家の前でラブシーンか、このう!」

「っ!? じいちゃん、家に引っ込めコラ!」


ドアの隙間から、つるっぱげヤクザみたいなじいちゃんが顔を覗かせていた。にまにまと笑う愛嬌のない顔を、ギロリと睨みつけてやった。


「つーかひゅーひゅーって古いんだよ! 何時代だよ!」

「わし、昭和の男じゃもん。しかしネコ、面食いだのう。あ、君、ネコ泣かしたらいかんよ? わし、怒るよ?」

「はい、大事にします」

「じゃもん、じゃねえ! つーか穂積、会話しなくていいから!」


ここにいたらじいちゃんが止まらん。

穂積の手を掴んで、じいちゃんの視線を背にしながら家を離れた。


「もう、いいかな……?」


だいぶ離れたところで振り返ってみる。

よし。

穂積の手を離して、謝った。


「ごめんなー。男が迎えに来た、ってじいちゃん興奮しちゃったんだと思う」

「面白いおじいちゃんでいいね。ていうか、手、離しちゃうの?」


言って、穂積はあたしの手をきゅ、と握った。


「せっかくだし、繋いでおこうよ。美弥緒がこけたりしたら大変だし」

「ふあ!? い、いや、いいです! 遠慮します!」


慌てて手を離した。


「大丈夫だから! もうすんげえ気を付けて歩くから!」

「えー、残念」


ちぇ、と笑って、穂積は「とりあえず学校いこっか」と言った。


あれから。

急にずっきんずっきんと痛みだした左目は、涙はぼろぼろ溢れるわ、目も開けていられないわという状態になった為、学校近くの眼科に駆け込んだ。

診察の結果、眼球に傷がついていることがわかった。

まあ、視力低下などの問題はないと言われたので安心なのだけど、数回通院することになってしまった。


こないだまでは捻挫で通院してたというのに。

病院となかなか縁の切れない生活が続くあたしであった。


で、目の保護の為に眼帯をつけることになったのだが、これが非常に不便。

片目だけというのは遠近感が狂うのだと初めて知った。

家の階段を踏み外しそうになるし、さといも摘まめないし、ストレスが溜まって仕方がない。


悪い海賊(あれ? 海賊って元々悪いんだっけ?)のキャプテンがテンプレ的に眼帯しているのを見かけるが、こんなに遠近感ちゃめちゃになってしまうのに、大丈夫なのだろうか。

進めー! なんて船員に指示出した先にはでっかい岩山とかあってさー。

キャプテン、座礁しそうです! みたいな。

船襲う前に自滅、とかありえるんじゃないの。


いや、そんなことはいい。

とにかく、こんなもん、捨て去ってしまいてえのだ。

見えにくいったらありゃしないのだ。


がしかし、そうも言っていられない。

さっき、穂積には外すつもりだったと言ったが、実際のところは外せそうにない。あたしの左目は依然、真っ赤に染まっているのだった。

こんなグロいもんひけらかして、街中歩けないっすよ。

人様にお見せできるような状態じゃないっすもん。


「ああ、そうだ。穂積、わかってるよね?」


並んで歩きながら、横の穂積を見上げた。


「はいはい。昨日のことは、秘密でしょ? その目は、物もらいってことにするんだよね?」

「そう。イノリにも言わないでね?」

「それは絶対大丈夫。あいつが噛んでくると、確実に問題が大きくなるからね。それは、嫌なんだろ?」


昨日のことは、内密の話にしてもらった。

事を大きくしたくない、とあたしが頑固に言ったからだ。


「それなら、美弥緒もわかってるよね?」

「へ?」

「美弥緒の意思を尊重したいから黙ることにするけど、その代わりにオレが傍についておく。そういう約束だったよね?」

「あ、う」

「送り迎え、止めるつもりないから。納得しておいてね」


はっきりそう言われて、むう、と押し黙った。

いらないんだけどなあ、それ。

しかし、穂積の申し出を断るのなら、あたしを呼び出した子たちを探し出して責任をとってもらう(どうとってもらうのかと聞いたらば、どす黒い笑みを返された。それ以上訊けなかったあたしはチキンです)と言われたので、どうにも断れないのだ。

どうしたら穂積を断れるのかなあ、とちらりと様子を窺った、その時だった。

ぱたぱたぱた、と背後から足音が聞こえた。


「ミャーオーちゃぁぁぁぁんっ!!」

「ぐあ!?」


タックルをかましてきたのは、琴音だった。


「心配してお家に行ったら、おじいちゃんが男と出て行ったって言うからびっくりして追いかけてきたの! 今度は誰に呼び出されたの!? って、あれ、穂積くん?」

「こ、琴音さん……、びっくりしたんですけど……」


顔面から地面に倒れこむかと思った。

やだもう、怖い。

これ以上ヤバい顔になったらどうすんの。


「またいつ呼び出されるかわからないだろ? それにこんな目だし、迎えに行ったんだよ」

「そっかぁ。よかったあ」


ほう、と安堵のため息をついた琴音だったが、あたしの顔を見た途端、くしゃりと顔を歪めた。


「ふえええ、眼帯が何だか痛々しいよう。痛む? 痛む?」

「や、大丈夫。今はごろごろする程度だから」

「ホントぉ? それにしても、昨日連絡貰ったときは心臓止まるかと思ったよぉ」


琴音から、急な休みを訝るメールが何通も入っていたのに気付いたのは、眼科での診察を終えてからのことだった。

すっかり心が疲労しきっていたあたしは、家に帰って落ち着いてから、琴音に連絡を取った。


あたしと一緒にいることの多い琴音には、ちゃんと話しておかなくてはならない。

いつ、巻き込まれるとも分からんからね。

まあ、琴音に被害が及ぶようなことになれば、さすがのあたしも怒りますけど!

琴音に傷一つつけさせるつもりはないが、心の準備くらいはしておいてもらいたい。


話を聞いた琴音は電話口でしくしく泣き出してしまったが、それは全てあたしを思ってくれての涙だった。


『ミャオじゃん! あだし、ぜっだいにミャオじゃんまぼる(守る)がらぁ!! その子だちゆるさないがらぁぁ!』


号泣し、鼻の詰まった声でそう言ってくれた。

その友情だけで満足です。

非力で運動音痴の琴音がそこまで言ってくれるだけでもう、こっちが泣きそうでした。


「で! これがいると思って用意しましたーっ!!」


そんな琴音がカバンの中からドラ●もんの如く取り出したのは、手のひらサイズの真っ赤な筒だった。黄色い字で、DANGER! と書かれているのが見えた。

えーと、危険、ということですか? 物騒ですね。


「な、なにコレ?」

「ミャオちゃんと電話し終わった後にね、ケンくんとお店まわって買ってきた! 催涙スプレーだよ!」


ケンくんとは、琴音が中一の頃から付き合っている彼氏である。

一個上の、現在高校二年生。

将来の夢は自衛官。特技は匍匐前進と野営。趣味は、サバゲー。

母親は自衛官で、自営業の父親はケンくんとおんなじ趣味の持ち主で、ゲームと称しては森の中を徘徊している。

つまり、彼はミリタリーオタクのサラブレッドなのだった。

そんなケンくんと共にまわってきたお店で、何を買ってきたの?


「これね、すごいんだよ! 一噴きするだけでヒグマを撃退できるんだって!」

「え、えーと? 琴音さん、これをどうしろと?」

「だからー、今度呼び出されたら、これを噴きつけちゃえばいいんだよ!

目が開けられなくなるっていうから、その隙に逃げるの。

あ、でも自分が風上にいることをきちんと確認してから使うように、ってケンくんが言ってた。巻き添えくらっちゃうからね? って」

「えー、と」


どこから突っ込めばいいでしょうか。

催涙スプレーって名前は知ってるし、痴漢や暴漢対策に使うという話も聞いたことがある。でも、撃退対象がヒグマってどういうこと……?

人様に使っても大丈夫な代物なの……?


ケンくんに指導を受けてきたのか、詳しく取扱いの説明をしてくれる琴音のかわいらしい顔を見つめた。


「使い方、分かった? でね、ケンくんがね、あたしのも買ってくれたんだよぉ」


説明を終えた琴音は、二本目も取り出し、見せてくれた。

コンパクトながらぶっそうな機能を持ったモンに、かわいらしいストラップがつけられていた。DANGER! の横でぷらぷら揺れる、クマの●―さん。

シュールだけど、それでいいのか。


「これを肌身離さず持っててね、ミャオちゃん!」

「あ、ありがとう」

「あ、室内とかでは使用禁止だって。巻き添えどころの話じゃないからね!」

「りょ、りょうかい」


多分、ヒグマに襲われない限り使うことはないと思います。

がしかし、琴音とケンくんの好意。

ありがたく受け取らずしてどうする!


頂いたスプレーは、カバンの奥底に沈めました。


「それにしても、穂積くんが迎えに行ってたんだね。びっくりしたなあ」


凶器をカバンにしまいながら、琴音が言った。


「オレができることやろうと思ってさ。できるだけ傍にいようかな、と」

「そっか。でも、安心して。校内では、あたしがミャオちゃんから離れないようにするから。がっちり、守るよ!」


むん、と胸を逸らす琴音に、穂積がにこにこと笑った。


「ああ、琴ちゃんがいるなら安心だね。男のオレだと、どうしても一緒にいられないこともあるし」

「うん、任せて!」

「あー、いや。大丈夫だから、ホントに」


別に命を狙われてる訳じゃないんだし。

それに、いざとなればどうとでもできる。

自分ひとり守ることくらい、できないあたしではないのだ。

護身術程度の心得はありますとも。

しかし、琴音たちを安心させるには、些か弱い発言であったらしい。


「大丈夫じゃないからそんな怪我したんでしょお!?」

「そうだよ。集団心理って怖いからね。いつ過激になるとも限らない」


本当に、大丈夫なんだけどなあ。

しかし、それを証明する手立てなどない。

二人にギロリと睨まれたあたしは、大人しく口を閉じたのだった。



**



何事もなく数日が過ぎた。

穂積や琴音が気を配ってくれているからか、女の子たちからのお呼び出しもなく、なんとイノリと穂積の諍いもない(そもそもは、繰り返される衝突が原因で反感を買ったのではないか、という結論に至ったからだ)。


本当に、驚くほどに平和な日々である。


つーか、穂積。喧嘩せずにいられるんだったら、早くそうしてくれよ、と思わなくもない。あの頭を抱えた日々はなんだったんだ、もう。

しかしまあ、結果を重視するあたしとしては、ただ偏にありがたいことである。


「やっと、夏休みだねえ」

「おお、ほんとだなー」


森じいの帰りのHR待ち。

いつもの如く待たされているのだが、今日は許せる気分。


貴重な夏休みを大幅に潰した夏期講習も、今日でお終いなのだ。

明日からは寝坊できるし、鳴沢様見放題だし、幸せすぎる!

つーか、一か月は心労ともおさらばだぜ!


「ミャオちゃん、嬉しそうだねぇ」

「当たり前じゃん。毎日憂鬱だったからな。でもそれも今日までだぞ」


いい事は続くもので、帰りに眼科に寄れば、うざったい眼帯も外せる。

つまり、何のしがらみもないまま、夏休みに突入できるのだ。


それに加え。

今朝、イノリから、夏休み中に織部のじいさんの家に遊びに行かないか、と誘われたのだ。


『じいさん、楽しみにしてるし、どうだ? 加賀のオヤジが家まで迎えに行くって言ってるけど』


加賀父とのドライブ!!

しかもお迎え付き!!

断る理由などあるはずがない。


それに、加賀父とはあの旅行の朝以来会っていない。

一度ゆっくり会って、きちんとお礼を言いたかったのだ。

もちろん、織部のじいさんにも会いたいし。


考える間もなく、即答で頷いた。


『行く。行きます。行かいでか!』


身を乗り出すようにして答えたあたしを見て、イノリは愉快そうにくすくすと笑った。


『じゃあオヤジの都合聞いてから、連絡する』

『おうよ!!』


織部のじいさん、9年前と全く同じ姿のあたしを見たらすんげえ驚くだろうなー。今度こそ幽霊扱いされちゃうかもな。

いや、やっぱり志津子扱いされちゃうんだろうか。


あ! 泊まれるのかなあ。あの檜風呂、もう一回入りたいんだけどなあ。

イノリに聞いてみよう。泊まっていいんだったら花火したい、花火!


夏休み気分がぐんと上昇してきて、胸が弾む。

ぐふふ、と笑った時だった。

ばん、と扉が叩きつけられるように開いた。

お、森じいってば今日は気合入ってんな、と視線をやれば、イノリだった。


ん? どうしたんだ。

顔が酷く強張っているが。

何かあったのかな、と思っていると、イノリはつかつかとあたしの方へ近づいてきた、


「ミャオ」

「どした?」


酷く低い声音に違和感を覚えたが、とりあえず聞く。

イノリはあたしの机にばさりと紙の束を投げ出した。


「なんだ、これ?」


一枚手に取って見る。

写真? 何の、って……。


「え……」

「どうして田中とこういうことしてんだよ」


目を疑った。

写っていたのは、あたしと穂積が抱き合っている場面だった。

ど、どういうこと、とよく見てみれば、あたしはピンク色のウェアを着ていた。場所はといえば、眼科の駐輪場付近。


これって、目が痛くなって眼科に駆け込んだときのやつだ。

上手く歩けなくて、段差に躓いたあたしを穂積が支えてくれたときだ。

でも、どうして写真なんか撮られてんだ?


別の写真をとる。

次は、通学路で穂積と並んで歩いているもの。

あたしが穂積の手を引いている場面もあった。


「なんだ、これ……」


どうしてこんなものが?

誰が撮ったんだよ。


「こっちが聞きてえんだよ。ミャオ、田中となんでこんなことしてんだ」

「それよりどうしたんだ、こんな写真」

「どうでもいいだろ。いいから説明しろよ!」


苛立ったイノリの声は大きくて、騒がしかった周囲がしんとなった。


「い、いや、これはそんな変なことじゃないんだ」

「はあ? これが変じゃねえっつーの?」


イノリが指差したのは、ぱっと見には抱き合っているように見えなくもない写真。


「いや、ちゃんと理由があって」

「理由ってなんだよ。納得できるように言えよ」

「いや、だから」


ぐう、と唇を噛む。

どう言えば、あたしが呼び出された内容に触れずにすむ?

イノリには、知られたくないのに。


言いためらったあたしに、イノリはますます声を荒げた。


「田中と付き合ってるってことでいいんだな? 間違いじゃないんだな!?」

「や、それは違うっ!」

「どう違うんだよ!?」


「――オレが美弥緒と付き合ってるとして、大澤がキレるのは間違いじゃないの?」


いつの間に近くに来ていたのか、穂積が口を挟んだ。

その発言に唖然とする。

どうして今そんな火に油的なことを言うんだ!?


「はあ? なに言ってんだ、田中」

「大澤と美弥緒が付き合ってるというのなら話は変わるけど、違うよね?

そういうことで美弥緒を責めるのは、筋違いだと思うよ。君はただ単に、昔美弥緒に会ったことがあるだけだろ?

それだけの関係で、何を責める権利があるのさ」

「は!? 何も知らねえくせに言ってんなよ?」

「昔のことは知らないけど、君に美弥緒を独占できる権利は何一つないことくらい、知ってるさ」


穂積はあたしの机に広がった写真を一枚手に取った。

それを見て、ふうん、と呟く。


「言っておくけど、これは君が思ってるような内容じゃない。このことで美弥緒を責めるのは、大きな間違いだよ」

「はあ!?」

「穂積!」


慌てて穂積を止めた。

もしかして、ここで言うつもりなのでは、と思ったのだ。


「止めて」

「ああ、ごめん。そうだったね」


ひょいと肩を竦めた穂積に、イノリが舌打ちした。

ぎろ、とあたしを睨む。


「なんだ。やっぱり田中と何かあるんじゃねーか」

「あ、いやそういうことじゃなくて」


弁解しようにも、どう言えばいいのか分からない。

おろおろしたあたしに、イノリがふ、と息を吐いた。


「分かった。もういい。そういうことなんだな。それならそうと、言えよ。馬鹿みてえじゃん、俺」


今まで聞いたことのない、冷え冷えした声だった。


「や、違っ」

「違わねえだろ。田中は、さっきから否定してねえ」

「イノリ、違う!」

「ほーい、今学期最後のHRだぞー、とな。席つけえい」


間延びした森じいの声が、会話を止めた。

ぷいとあたしから視線を逸らして、イノリは離れていった。


HRが終わると同時に、イノリは教室を出て行こうとした。


「イノリ!!」


慌てて追いかけて、服の裾を掴む。

誤解を解かなくては。

しかし、イノリは冷たい一瞥をあたしに寄越した。


「離せよ。田中のとこ行けば」


乱暴に手を振りほどかれる。


「違うんだってば!」

「もういいって。もう、どうでもいい」

「どうでも、って……」


突き放されて、呆然とする。

イノリにこんなにも拒否されることなど、なかった。

あたし、嫌われてしまったんだ……。


「じゃあな、茅ヶ崎さん」


他人行儀な名を言い捨てて、イノリは行ってしまった。


「行っちゃったねー」


のんびりとした穂積の声に振り返る。

あたしを見下ろした穂積は、小さく笑った。


「……そんな顔、しないでよ。オレは君を庇いたかっただけなんだ」

「え……、あ、あの。そうだ、あの写真……」

「びっくりしたよね。やりすぎてる子がいるねー」


ふう、と息を吐いて、穂積はあたしに教室に入るように促した。


「とりあえず、こっちで話そう。琴ちゃんも待ってる」

「あ、う、うん……」


視線を戻す。廊下に、もうイノリの姿はなかった。

胸がちくりと痛む。

喉に熱い塊がこみあげてくる。

イノリ……。


「ミャオちゃん? ほら、写真のこと、話そ」


動こうとしないあたしを訝しく思ったのか、近づいてきた琴音にくい、と服の袖を引かれた。


「あ、ああ、ごめん。ちょっとぼんやりしてたみたい」


曖昧に琴音に笑い返すと、心配そうに顔を歪められた。

そんなに、情けない顔をしているのだろうか。


「3人でさ、誰がどんな目的であんなもの渡したのか、考えよ?」


そうだ。そこは明らかにしなくては。

じゃないと、イノリに説明もなにもできない。

胸の中のもやもやを振り払うように、頭をぷるぷるっと振った。


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