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15.魂を喰う妖怪

15.魂を喰う妖怪



俯いていた柚葉さんの体が小刻みに揺れている。

耳をすませば、くっくっと笑い声が聞こえた。


「あのー、柚葉さん? そろそろこっち側に帰ってきてくださいよ」

「ご、ごめ……、でも楽しすぎて、さあ」


楽しい、って。

こっちはすんごく真剣に悩んでるんですけどー。

これからの学校生活を左右するんじゃないかってくらいの問題なんですけどー。

はあ、とため息をついて、ベビーベッドですやすや眠る美花ちゃんの頬を撫でた。



――――親睦旅行から一週間が過ぎた日曜日。

あたしは柚葉さんと三津の住んでいるマンションに遊びに来ていた。


9年ぶりの(あたしにとっては一週間ぶりの)再会は、色々衝撃的だった。

なにしろ二人は結婚し、子どもまで生まれているのだ。

巨乳なうえ、美人で気立てのよい柚葉さんが三津と結婚してしまったなんて。

あまつさえ子どもまで成してしまったなんて。

別れた、なんて言われるよりはよほど嬉しいのだが、だからって三津なんかに! 三津なんかに! と思ってしまうのだ。

だって柚葉さんは三津にはもったいない。


だってだって、30代に突入した柚葉さんというのが、これまたすんげえ美女なんだもん。

艶やかさが増したというか、色気が増量したというか、とにかくエロい。

それに加え、美花ちゃん出産のせいなのか胸はこれでもかというくらいでかく、ともすれば破裂するんじゃないかというほどのものなのだ。

三津ってば柚葉さんを手に入れた時点で一生分の幸福を使ってしまったんじゃないだろうか。


とも思ったのだが、三津の底力、恐るべし。

あたしでも名前を知っている、地元では結構有名なイタリアン料理店のチーフコックという肩書きを手にいれていたのだ。


聞けば、三津は役者への道は早々に諦めてしまったのらしい。

まあ、ああいう煌びやかな世界では、成功する人間はほんの一握り、極々僅かだというしな。残念だと思うが、それも仕方のないことなのかもしれない。


で、三津は副業だったコックの仕事を、本業にしようと決めた。

元々料理が好きだったこともあり、それまで以上に仕事に身を入れ、イタリアに3年ほど留学までしたそうだ。

壁に掛けられた写真を見れば、金髪碧眼まつ毛フッサアァァ、ケツアゴのおっさんと肩を組んで笑顔で写っている。

イタリアでの、三津の師匠と呼べる人なのらしい。


なんだかすげえぞ、三津。

3年という長い期間を異国で頑張ったことも、遠距離恋愛だっただろうにこの柚葉さんを繋ぎとめたことも。

素直に誉めざるをえないよ!!

二人の間にどんなラヴストーリィ☆ があったのか、興味が尽きないよ!


そうなってくると、あのオサレっぽいヒゲも全然受け入れられる!

かっこいいってもてはやしてやんよ、三津!

今日は仕事で不在だというオサレヒゲに、尊敬の念を送っておいた。


そんなヒゲと美女は、半年前に結婚したのだそうだ。


『できちゃった結婚なのよー。それまでは二人とも仕事に熱中しててさー、だらだら同棲してたのよね』


なるほどー。


『どうせならみーちゃんに再会してから結婚しよっか、なんて言ってたのにさ、上手くいかないもんよねー』


けらけら笑う柚葉さんから、結婚写真を見せてもらった。

畏まって強張った顔の三津の横で、ふんわりしたドレスを身につけた柚葉さんが穏やかに笑っている、すごくいい写真だった。

すでにお腹が大きくなり始めていたので、写真撮影だけで式はあげなかったそうだ。


『そんなことよりさ、みーちゃんは9年ぶりの祈くんとの再会はどうだった? 感動的だった?』


柚葉さんの好奇心は、あたしとイノリに注がれているのらしい。

瞳がキラキラしている。


『いや、感動的かどうかは……。というか、展開がすごすぎてついていけなかったっていうか』

『なになに、展開って。なにがあったのよ?』

『はあ、実は……』


親睦旅行のグラウンドでの一件を、恥ずかしさを覚えつつ(あんなこと、平気で人様に話せるもんじゃない)語った。

多少、言えなかった部分もあるが、仕方ない。

口にできることと、できないことがあるのだ。


しかし、それでも柚葉さんには興味深い……いや面白い話だったようだ。

俯いて、真剣に耳を傾けてくれているかと思いきや、爆笑していた。


そして冒頭の、笑いの引かない柚葉さんに呆れるあたしに戻る、というわけだ。



「――いい加減、笑うのやめてくださいってば」

「あはは、ご、ごめん。だってなんていうかすごく、楽しいんだもん」

「楽しくないですよ!」


ぶう、と頬を膨らませると、柚葉さんは目尻に滲んだ涙を拭いながら呼吸を整えた。


「楽しいし、嬉しいのよ。やっと祈くんが報われるんだなーって思うとさ」

「え、報われるって?」

「9年間ずーっと想い続けてた子に、ようやく会えたわけじゃない」

「ちょ! そういう言い方は……っ」

「あら。だって本当のことだもの。祈くんは、あれからずっとみーちゃんが好きだったのよ?」


当たり前じゃない、と言い足した柚葉さんの言葉に赤面する。

うう、くそ。こんなのってダメだ。どうしていいのかわかんない。


「祈くんもそう言ったんでしょ?」

「う、いや、まあ、そうですけど……、でもあの、今いち受け入れられないというか」

「信じられないの? でも、本当よ。いつでも、口を開けばミャオミャオってうるさいくらいだったし」

「う……」


イノリ(小)なら微笑ましく思えるし、ありがとー! と言えるのだが、(大)となると途端に心が熱をもつのは何故だ。

うあ、どういう反応してたらいいんだ、この。

勝手に赤くなる頬をべちんと叩いた。


「そんなに想っていた子は、行方不明状態で連絡一つとれなかったでしょう?

祈くんにしてみれば、いつ会えるのかも分からなかったし。

しかもやっと会えたかと思えば『知らない』なんて言われたわけよね。

あ、聞いてるわよー。祈くんをすごい顔で睨んでたらしいじゃない?」

「んな!? なんでそんなこと知ってるんですか!」


思わずのけぞったあたしを見て、柚葉さんが悪戯っぽく笑った。


「祈くんが高校に入学した時から、ヒジリと色々詮索してたんだもーん」

「な!? 詮索ってなんですか!?」

「みーちゃんが本当にクリ高にいるのかとか、元気にしてるのかとか、知りたいことはいっぱいあるでしょ。アタシたちだって、早くみーちゃんに会いたいのを我慢してたんだし、ちょっと様子を探りたいな、ってー」


悪びれず、当然のことよ、と笑う。


「祈くんね、入学式の日なんか、すごかったのよー。


『ミャオそっくり、というか絶対本人だって思う子がいるんだけど、俺を知らないって言うんだ』


なんてしょんぼりしてたかと思えば、『訳わかんねー!!』なんて叫んでさ」


……そんなことがあったのか、と唖然とするあたしを尻目に、柚葉さんは続けた。


「あとちょっとの辛抱よ、って言ってあげたかったけど、それで未来が変わっちゃったら怖いじゃない? ヒジリと2人で悶々してたのよね。祈くんがすごく凹んでるのに、適当なことしか言えないんだもの。

でも一番困ったのは、『三津さんたちも、一回ミャオを見てくれよ!』なんて頼まれたことかな。

断りきれなくって、ヒジリと2人でコテコテに変装してクリ高までみーちゃんを見に行ったのよ」

「ぬあ!? 来たんですか!?」


いつ!? 当たり前だけど、知らんかったー!


「5月の連休明け、くらいだったかなあ。その頃ってもうお腹が大きかったから、こそこそ見るのに苦労したのよ。でも、陰からでもみーちゃんに会えて嬉しかったけどね」


なんと……。

気付かぬ間に2人に見られてたとは。

アホ面下げてたんじゃないだろうか。


「祈くんには、離れて見たからはっきりとわかんないって言ったのよ。あ、いやヒジリはみーちゃんのほうがもっとかわいかったから違う気がする、とか何とか言ってたのかな? まあ、どうにかごまかしたんだけど、納得してくれなくて。

そしたらさ、祈くんは今度は一心さんを呼ぼうとしたのね」

「え!? 加賀父まで来てたんですか!?」

「ううん、あの人は、寺が忙しいからって言って逃げたんだけどね」


あー。要領よさそうだもんね、あの方。

うんうん、と頷いた。


「だからさ、祈くんが待ち望んでたみーちゃんに会えたことって、傍で見ていたアタシたちにとってはすごく嬉しいことなのよ。

あんなに待ったんだもの。

それに、気持ちまで伝えられたって言うなら、尚のこと嬉しい。ようやく報われたね! って言ってあげたいわ」


しんみりと言い、柚葉さんはすっかり湯気の消えたお茶を飲んだ。


「はー、なるほど……。って! いい話にまとめないでください!」


ついうっかり流されそうになってしまった。

一緒になって、ほんのり温かいハーブティーを啜っていたあたしは、慌ててカップを置いた。


「あら。別にいい話にしようなんて思ってないわよ? 本当のことだもの」

「ほ、本当のことって……」

「で、みーちゃんはもう返事したの?」

「は?」


どもるあたしにお構いなしに、唐突に話題を変えられた。

すずい、と柚葉さんが身を乗り出してくる。


「は? じゃなくて。祈くんに返事したの? って訊いてるの。『付き合います』、とか『あたしも好き』とかさー」

「ひゃうあぁ!?」


声が裏返った。

なんてこと言うのだ、この人は。


「い、言うわけないじゃないですか! そんなこと!」

「えー、なんで? 告白されたら返事をしなくちゃでしょ」


柚葉さんは不満げに唇を尖らせた。


「祈くんのこと、嫌いなわけじゃないんでしょう? じゃあ、OKすればいいじゃない。子どもの頃から知ってる仲なんだしさー」

「ちょ。子どもの頃『から』じゃないですって。子どもの頃『を』ごく狭い期間知ってるだけです」

「みーちゃん、こまかーい」

「細かくないですよ! あたしからして見たら、数日一緒にいた男の子が、瞬きする間に自分より大きくなっちゃってるんですよ?

そんな子から急に恋愛対象として見ろと言われても、びっくりするばかりですよ」

「急、急かあ。うーん、そうかあ」


必死のあたしの言葉に、ふむ、と柚葉さんが考えこんだ。

顎に手を添え、じっとテーブルの一点を見つめている。

かと思えば、ぱっと顔を上げた。


「確かに、みーちゃんからしてみたら急な話、なのかもしんない。

アタシたちには9年の歳月があるけど、みーちゃんにはついこの間、数日前の話なんだもんね。急展開すぎ、てことかあ」

「そう! そうなんですよ。だからですね、混乱するばかりで整理がつかないんです!」


納得してもらえたことが嬉しくて、思わず柚葉さんの手を握った。


小学生のイノリはよく知っているが、高校生のイノリについてはほとんど知らないし、その二つの点の間に関していえば、全く知らない。

その結果、あたしの中では小学生イノリのイメージが強すぎるのだ。


小さくてかわいくて、でも少しマセてて、甘えん坊だけど紳士の男の子、それがあたしのイノリだ。

子犬のように懐き慕ってくれた、あたしにとって思い入れの強い大切な子、と言ってもいい。


それが、あたしよりも断然大きくて、しかも手が早くて仏頂面で空気を読まない男に、まさに瞬間的に成長したというのは、どうにも受け容れ難いのだ。


頭で理解はしているつもりではいる。

イノリ大・小の間にきちんとイコールは入っているし、二人は成長を遂げただけの同一人物だということは、承知している。

でも、感情がそれに追いついていかない。


「そんなことじゃあ、まだ祈くんの告白すらも、受け入れられる状態じゃないわよねえ」

「今のあたしは、イノリと言われたら真っ先に頭に思い描くのは、ちっちゃいイノリなんです。弟みたいな、まだかわいい子どもなんです。それなのに、男女の好き、とか言われても返事も何も……」

「むむう……、そう、かあ。そういう問題があったのかあ」


考えが足らなかったわ、と柚葉さんは腕を組んでため息をついた。


「まずは、みーちゃんの中で二人の祈くんを完全に同一化しないといけないわけね。でも、どうしたらいいんだろう。

あ。時間が解決するのかな。ちび祈くんと過ごした時間よりも多く一緒にいる、とか」

「あ、いやそんな、別に無理にどうこうしなくてもいい、かな、とか」


あたしの言葉なんて聞いていない柚葉さんは、一人で確信したように深く頷いた。


「うん、そうよ。とにかく、でか祈くんをこれまで以上に印象付けるわけ。

手始めに、でか祈くんと接点を増やすことよね。学校はもう夏休みに入ってるんだっけ?」

「え? ああ、はい。でもまあ、今月いっぱいは学校に行かなくちゃいけないんですけどね。夏季講習があるんで」


クリ高の夏休みは、8月1日から始まると言っていい。

一応終業式は終えたものの、7月は夏季講習という名目で授業があるのだ。

普段と違って午前中に三限のみというカリキュラムなのだが、非常にめんどくさい。

せっかくの夏休みを短くしちゃうなんて酷い話ですよねー、と明日からのことを思い出してげんなりしたあたしに反し、柚葉さんは嬉しそうに手を叩いた。


「あら、それは好都合じゃない。じゃあさ、せっかく同じクラスなんだし、学校生活で仲良くなっちゃえばいいんじゃないの? 一緒にご飯食べるとか、色々やりようはあるでしょ」

「え。学校生活、ですかあ……」


短く答えたあたしの心の裏を、柚葉さんは見逃さなかった。

キラリ、と瞳が光ったかと思えば、ぎゅうと手首を掴み返された。


「学校で何かあるのかしら?」

「ふ、ふへ?」

「学校生活って単語で、あからさまに『うへえ』って顔したでしょ。嫌気がさすような何かがあるのよね?」

「う、うあ」


さすが、三津の嘘を見破ってきただけのことはある、と言うべきか。

些細な変化を見て取るとは。


さあ、言ってごらんなさい? と優しーく微笑む柚葉さんに顔がひきつる。

あー、やっぱこの人すげえや。


ちょっぴり三津の心境が分かったわ。敵わねえ。


「悩み事かなあ? 会話の流れからして、間違いなく祈くん絡みよね。ほら、言いなさいよー。ね?」

「あー……、うー……」


あんまり話したくなかったのになあ。

できればバレないように、と思っていたのに、あっさり気付かれるなんて、あたしも未熟だよなー。

しかし、こんなこっぱずかしい話、どこからすればいいんだ。

切り出しの言葉が出てこず、あうあうと唸った。


何しろ、こんな悩みをこのあたしが抱えることになるとは思ってもみなかったし、今でも自分が渦中の人間だと信じられないくらいなのだ。

タイムスリップだってありえない話だろうけど、あたしにとっては今の状況はタイムスリップ以上にありえない展開。


もしかしたら、柚葉さんに『やだ、みーちゃんてば妄想癖アリ?』と思われてしまうかもしれん。

それくらい、信じがたい話なのだ。


しかしまあ、柚葉さんにはあたしが言わなくとも、いずれイノリの口からバレるだろうしな。

話の信憑性については、イノリに確認してもらうことにしよう。


「ちょっと? みーちゃんってば、どうしたのよう」

「あ、いや、その、別に」


あーもういいや。

言っちゃえ。


「実はあたし、男の魂を喰らう妖怪だったらしいです」

「へ?」

「男二人の魂喰って、虜にしちゃった妖怪らしいっす」


柚葉さんの笑顔が固まった。



――入道雲がむくむくと膨らみ、蝉が高らかに声をあげだした夏の朝。

日差しは既に強く、今日も一日照りつけるような暑さなのだろうと思わせる。

夏季講習というただでさえ面倒な登校なのに、それ以上の憂鬱を抱えたあたしは、重たい足取りで教室に足を踏み入れた。


「……おはよー」

「おはよう、ミャオちゃん!」


今までならばそこかしこから挨拶が返ってきていたというのに、笑顔で答えてくれたのは琴音一人。


ああ、いつまでこんな毎日が続くんだろーなー……。

心の中でため息をつきつつ、琴音の後ろの自分の席に向かった。


「あ。おはよ、神楽」

「…………」


神楽に目があったので、笑いかけてみた。

しかし無言で視線を逸らされた。


えー……、めちゃくちゃ露骨なんですけどー。

ショックを受けながら席につく。

教室に入ってからのこの短い間、女子は皆遠巻きに視線を寄越し、男子はにやにやと意味ありげに笑っていた。


この居心地の悪さ、慣れねぇ……。


カバンを机に放り出し、突っ伏した。

その頭を琴音が優しく撫でてくれた。


「ミャオちゃん、朝から元気ないねえ」

「あるわけないっつーの。毎日毎日、針のムシロに長時間正座状態だよ? 学校来るのがキツイよ」

「でも学校来てるのは偉いよぉ、ミャオちゃん。頑張ってるよ!」

「へへ、ありがと……。でも休みたいっなんつったら、テニスラケットでケツぶたれるからさ、それだけの理由なんだよね」

「え……! な、なんでテニスラケット?」

「幸子が近所のおばちゃんたちとテニススクールに通いだした。ハマってるみたいで、暇さえあればラケット握ってんだ」


学校に行きたくない、とごねなかったわけではない。

もうすでに尻を叩かれた後なのだ。

しかも一回やられるだけならまだしも、家を出るまで叩き続けたからね、あの人。

娘にやることじゃないよね。


「おばさん、エネルギッシュだねえ」

「そんな言葉で片付けていいのか?」


家も地獄、学校も地獄なんですよ、はは。

うつ伏せていると、ガラリと戸が開く音がした。

同時に教室内の空気が変わる。


ああ、『来た』のか。


一体どちらか、なんて顔を上げて確認する気はない。

どうせ、嫌が応でも分かることだし。

ほら、やっぱりね。


「おはよう、美弥緒。琴ちゃん」


爽やかな声がした。


「お、おはよう、穂積くん」

「朝から暑いねー、琴ちゃん。あれ、美弥緒、どうかしたの? 気分悪いとか?」

「ホント、暑いねー、あはは。ミャオちゃんは、えーと、その」


言葉を選びつつ口ごもっている琴音には悪いと思うが、会話を聞き流す。

丸投げしてごめんよ、許してくれよ、と心の中で謝っていると、頭にぽすんと琴音のものではない大きな手の平が乗った。


「美弥緒? 顔、見せてくれないの? ね?」

「…………あー、見せるほどのものでもないんで」

「そんなことないよ。オレにとっては特別な人の顔だよ?」


ざわり、と教室内の空気が揺れた。


ああああああああああ、もう。

注目されていることが分かってるのに、どうしてそういうこと言うかな、この人は!

わざとか。わざとなのか。

そういうことなら、絶対に顔あげねえよ!?


「美弥緒? ね、顔上げてよ。具合が悪いのかと心配になる」


ふ、と近づく気配。耳元に吐息を感じた。


「みーやお?」


囁くような、甘い声。鼓膜が揺れて、ぞくぞくする。


ああああああああああ、もう。

そういうこと、すんなや。


顔上げます。上げますから。

敗北感を覚えながらしぶしぶ穂積に顔を向けた。


「具合悪くないってば。元気。すごく元気です」

「よかった。おはよう、美弥緒」


にっこりと綺麗な笑みを向けられて、ため息。


「おはようございます、穂積サン」

「ん? 機嫌悪いのかな?」


機嫌はそりゃもう、ここ数日ずぅっと悪いですとも。

その理由くらい、気付いてるよな?


「べ・つ・に。とりあえず、頭の手、どかしてくれない?」


むう、と穂積を見上げると、くすりと笑われた。


「うーん、どうしようかな。美弥緒の髪、柔らかくって好きなんだよね」

「ああもう。そういうコト言わなくていいって」


と、再び戸が開く音。

視線をやれば、奴が気だるそうに入ってくるところだった。

欠伸をしながら流した視線とばちりと目が合う。


「おはよ、ミャ……」


上がりかけた口角が、ぎゅ、と引き結ばれた。

あたしの隣に立つ穂積をぎろりと睨む。


「おはよう、大澤」

「…………」


爽やかな挨拶をかました穂積に応えず、イノリはずかずかとあたしに近寄ってきた。

無言のまま傍まで来たイノリは、あたしの頭に乗った穂積の手をぱしんと払った。

乾いた音に、教室内のざわめきが一気に静まった。


「痛いな。なに、大澤」

「こいつに手を出すなって言ったよな、俺」

「手を出すな、って言われても。オレはただ朝の挨拶をしてただけだけど?」

「へえ? オマエって挨拶するのにいちいち体に触んのかよ」

「そうだね。美弥緒にだけ、だけどね」

「……へえ?」


至近距離にいる二人の間の空気が凍結した。

ひしひしと不穏なものを感じる。


いや、二人だけじゃない。教室全体の空気が固まってる。

誰もが息を殺して様子を見ている。

幾つもの視線が二人に、いや、あたしにも注がれているのを感じながら、頭を抱えた。


あああああああああ、もう。

まただよ。今日もこれだよ。

どうしてこうなった。

どうしてこうなったんだ。



***



諍いのど真ん中に身を置く羽目になった、その一番最初はタイムスリップした日の翌日だった。

足の悪いあたしの荷物を持つのは自分だ、と二人が対立したのだ。


『俺が持つから、いい』

『いいよ。先に美弥緒から受け取ったのはオレだし』

『あ、あの、あたし自分で持つから! 元はと言えばあたしの荷物なんだし、持ってもらわなくっていいってば。

おい、聞けよ二人とも!』


目の前で右に左に揺れる荷物。

割って入ろうとしても、二人は一向に口論を止めてくれなかった。

えーい、早よ返せ!


『一体どうなってるの? ねえ、ミャオちゃん!』

『あー、いや、なんだろうね、コレ』


横にいた琴音が、驚いたように目を見張っている。


『二人とも意地でも譲らないって感じだよ。

……ねえ、昨日の夜、何かあった?』


腕を引いて聞いてくる顔は、好奇心で満ちていた。


『えー、と。まあ、あったというか、あったんだけども』


もぐもぐと言うと、殊更強く腕を引かれた。


『何!? 何があったのよう!? 教えて、ミャオちゃん!!』


前夜のイノリとのことは、琴音にはまだ話せていなかった。

タイムスリップのことは置いておくとしても、告白されてしまったことは言っておかなくてはいけないだろう。


あとでゆっくり説明するつもりだったんだけど、と思いながら、琴音の耳元で小さく言った。


『あー、と。端的に言えばイノ、大澤に告白された、ような……』

『大澤くんから告られたぁ…………っ!!??』


叫びそうになった琴音の口を慌てて塞いだ。

のだったが、少し遅く。


それは騒ぎを興味津々に見ていた人たちにまで聞こえてしまっていた。


『ちょっと、どういうこと!? 大澤くんが化け猫に告ったってことっ?』

『嘘でしょ!? だって、だって、ええええええぇぇぇ!?』


爆発でも起こしたかのような騒ぎになった。

どうやら近くにいたらしい神楽や悠美があたしの肩を掴み、


『ウソだよね!? 夢の話ですって言いな、化け猫!』

『本当に大澤くんからなの!? 猫娘が大澤くんに告白したんじゃなくて!?』


殺されるんではないかと錯覚するほどの迫力でがっしがっしと揺らしてくる。

名前も知らない、他のクラスの女の子が琴音にくってかかっているのがちらりと見えた。


スズメバチの巣を叩き落したとしても、ここまでの騒動にはならないんじゃないだろうか。

そういえば蜂って食べられるって聞くけど、美味しい蜂ランキング! なんてあるのかなー。

蜂歴数十年。自他共に認める蜂通の猿股一郎(72)は、長野産のクロスズメバチをイチオシしてます☆ オススメ料理法は勿論素揚げです☆ 柚塩でどうぞ♪ とか。


かっくんかっくんと揺らされながら、余りの事態悪化に現実逃避した。

しかしそれも些細な抵抗だったようで、あっさりと現実に引き戻された。

穂積と言い争いの最中だったはずのイノリが、当然と言わんばかりの口調で、


『お前らうるせーんだよ。俺はあいつのこと好きだけど、それが何だよ』


と言い放ちやがったのだ。挙句、


『それに、田中。言っとくけど、あいつは俺のだ』


などと付け足した。


ぎゃー! と周囲は盛り上がり、悠美と神楽は信じられないというように顔を見合わせた。

肩をがっちりと掴んでいた手が、するりと離れて落ちる。

捕まっていた琴音が、どうにか逃げ出してあたしの腕にしがみ付いた。


そんな中、穂積は落ち着いた様子でその言葉を聞いていた。

動揺する様子もなく、そういうこと言うのなら、ともったいぶった口調で言う。


『そういうこと言うのなら、オレも美弥緒のことが好きだけど?

だいたい、美弥緒と大澤は付き合ってるわけでもないのに、勝手な独占欲はどうかと思うけどな』

『……やっぱりな。そうだと思った』


ち、と舌打ちして、吐き捨てるようにイノリが言った。


野次馬の騒ぎは留まるところを知らない。

これだけ燃料が投下されたとなると、仕方のないことなのか。

どんどん発展していく状況についていけず、ただ呆然としていた。


『ミャ、ミャオちゃぁん、ごめんなさぁい……』


震えた小さな声がかかり、声の主の琴音が今にも泣き出しそうな顔であたしを見ていた。

瞳にはもう涙が溜まっており、瞬きでもしたらぽろりとこぼれてしまうだろう。


『ご、ごめんね? びっくりして、つい声がおっきくなっちゃって……』

『い、いや、琴音のせいじゃないよ……。

多分きっと、近いうちにこうなってたような気がするし……』


場所や流れは違えど、いつかこういう騒ぎになってしまっただろう、と思う。

穂積は別にしても、イノリの周囲への無関心ぶりと奔放な行動は、前日に充分分かってたしね。


琴音のせいじゃないよと重ねて言ってから、心の中ででっかいため息をついた。


しかし、どうしたらいいんだ、これ。

あたしの人生において、こんな問題と深く関わった経験はない。

観客になることはあれど、主要人物になることなど一度たりともなかった。

そんなもんだから、混乱するばかり、動揺するばかりで全くのお手上げ状態。

お願いだから、事態の収拾方法を誰か教えてよー。


『化け猫ぉ!! あんた大澤くんたちの魂とか喰っちゃったんじゃないのぉ?』

『……へ?』


頭をかかえていると、どこからか意味不明な言葉が飛んできた。


『そうかもー! 妖怪ってお尻から魂の玉を抜いて操るって言うし!

変な力で二人をたぶらかしてるんじゃないのぉ?』

『ちょ。お尻って玉ってヤバくない!? エロー!』


こんな事態を楽しむ性格の人たちがいるらしい。

にゃはは! と愉快そうに笑う声がした。


あたしだって、彼女たちと同じ立場ならば、はやし立てたかもしれない。

いや、修羅場だーなんて言って、きゃっきゃとはしゃいでいたに違いない。

断言しよう。

だから文句なんて言えない。

のだが、でもでも。

これだけは言いたい。言わせてください。


それ、河童だし! 尻子玉って、河童の話だし!

猫全く関係ないし!

つーか男の尻なぞから玉を抜いたとかそういう方向は止めて下さい本当にお願いします。この通りです(脳内土下座)。


『……でもぉ、確かにあの二人が茅ヶ崎さんをー、ってちょっと信じらんない』


どこからか、誰かが言葉をぽつんと落とした。

それはさざ波のように広がっていった。


『そう、だよねー……。あんなに奪い合う意味がわかんないっていうか』

『だね。すごく綺麗、とかじゃないし……』

『ぶっちゃけ地味だろ。正直どこがいいんだよって感じだよな』

『同感。そこまで固執するなんて、趣味疑うわ』


うあ。そ、それは自分でも心からそう思うんですが、でもやっぱり人に言われるとちょっと凹むというか、何というか。

つーか、なんだかもうすんません。すんません。

ひー、この場から全力疾走で消え失せたい!!

居た堪れねえ、と琴音の肩口に顔を隠そうとした、その時。


『うるせえっ!!』

『黙っててくれるかな』


ざわめきを一蹴する、怒声が響いた。


『他人がとやかく言うことじゃねーんだよ!』

『自分が理解できないからって否定してもらいたくないね』


途端、静まり返った。

誰もが口を噤み、視線を伏せた。

しばし、沈黙。


『う、わぁ……。ミャオちゃん、すごく想われてるんだ……』


果たして、周囲の人たちと同じように言葉を失っていたあたしのすぐ近くで、琴音がぽつんと呟いた。


『な!? こ、琴音ってば何て……!』


何てことを、と言おうとしたその時、こちらを見る強い視線に気付いてしまった。

かち合ってしまった目線の先にいた二人が、口を開く。


『俺は! オマエが好きだ』

『本気だから』


『う……、あ……』


沸騰した血液が、全身を真っ赤に染めていく気がした。

過剰運転し始めた心臓のせいなのか、胸元からこみ上げてきた何かのせいなのか、酷く息苦しい。

こちらを見ている二人の顔が、潤んで見えた。


な、なななななななななななな、何を公衆の面前で言っているのだ。

恥とかそういう言葉を知らんのか、この馬鹿者どもは。

つーか、あれか。あたしを殺す気か。

心臓発作で殺っちまう気なのか。


『ミャオ』

『美弥緒』


『は、はひ……』


間抜けにも声が甲高く裏返ったのに、二人は笑わない。

笑っていいから、この空気をどうにかしろよ。

もう心も体も持ちこたえられそうにない。限界なんですってば。


『俺……』

『オレ……』


二人が、ほぼ同時になにか言いかけた。


『いーい加減、落ち着かんかぁぁぁぁぁぁぁぁぁああっ!!!!』


竜巻の如く割り込んで来た大音量の咆哮は、森じいだった。


『好きだの何だの、色気づくのは後からにしとけぇぇぇぇい!!』


拡声器片手に怒鳴り散らす姿に、生徒の視線が一斉集中した。


『今は点呼及び待機の時間だろうが! 大人しく整列するように!

班長はすぐさま点呼、報告のことっ。できない班は後で反省文を提出させるからな!』


その言葉に、異様だった空気が一気に変化した。


『反省文なんてヤダ!! ちょっと、班に戻ろ!』

『2C班!! 集合して!』


て、天の助け、ですか……?


胸を、いやメタボ腹を張って生徒を鎮圧していく森じいの姿に、思わず感涙した。

あんた、あたしのヒーローだよ、まじで。

最強のムードブレイカーだよ!

と、森じいが琴音と抱き合ったままのあたしに視線を寄越した。


『茅ヶ崎ぃ! あとでゆっくりどっちがいいか選んでやれぇぇぇぇい!』


余計な付け足しも相変わらずかい!

ブレねえな、おい!


『大澤たちもなあ、喧嘩するくらい大事な女なら、こんなに大勢の前で恥ずかしい思いさせんじゃねーぞ! まだまだガキだなあーっ』


がははは、という豪快な笑いに、二人がはっとしたように眉を顰めた。

バツが悪そうにあたしを見て、肩で大きくため息をつく。


『わりぃ、ミャオ』

『考え不足だった』


一応森じいのお陰で、騒動は終了した。

しかしそれは始まりの一件に過ぎず、それから二人はことある毎に小さな諍いを繰り返すようになったのだった。



ただでさえ頭の痛い問題だが、それに加えで新たな問題も起きた。


あたしは多数の女の子の敵になってしまったのだ。

二人のことを好きな女の子は想像以上に多く、彼女たちはあたしがイノリと穂積を二股かけていると考えたようだ。

茅ヶ崎美弥緒は二人の気持ちを自分勝手に踏みにじっている、と。


同じクラスの子は勿論、他のクラスの知らない女の子にまで睨み付けられたりするようになったし、

廊下を歩いていたらあからさまに指を指されて、意味ありげに囁かれるようになった。


中には本気であたしを化け猫だと思っている人もいるらしく(妖力か何かで心を操っているんだって。尻子玉説も生きてるらしい)、靴箱のなかに荒塩が盛られていたり、教科書に謎の御札がべったり貼り付けられていることもあった。

ぎゃあああ、なんて叫んで消失するとでも思われたのだろうか。


その中でもショックだったのが、悠美と神楽が離れていってしまったことだ。

二人とも、イノリか穂積(どちらかは分からない)が好きだったのだそうだ。


『どっちもキープしちゃうような人だったなんて、幻滅』


はっきりとそう告げられた。



***


「ミャ、ミャオちゃぁん。な、なんだか一触即発、みたいな……?」



うっかり意識を過去に飛ばしてしまっていた。


琴音の怯えた声音で我に返る。

片手であたしの制服の裾を引っ張りながら、琴音は二人をおずおずと指差した。


そうだったそうだった、と見れば、なるほど剣呑な雰囲気で睨みあっている。

いつもよりも二人の間の雰囲気が張り詰めているような気がするのは、気のせい?

いや、緊張感が高まっている、と思うのはやっぱり勘違いではないように思う。


「あー……、と。なんだ、その、もう止めなって。朝っぱらから何でそんなに血気盛んなんだよ。席つけよ」


頭上で睨みあっている二人に、言葉を選びつつ声をかけた。

旅行から既に10日以上過ぎたが、未だに対応が分からずにいるあたしなのだった。

と、憮然としたイノリと、眉間にシワを刻んだ穂積が同時にあたしを見下ろす。


うえ、これは結構迫力ありますね……。

相乗効果ってやつ? 違うか。

と、すぐに表情を崩したのは穂積だった。


「血気盛んだなんて、美弥緒はたまに年寄りくさいことを言うよね」


刺々しい瞳の光は瞬く間に消えうせ、穏やかにそう言ったあとにため息を一つついた。


「美弥緒に嫌われたくないし、大人しく席につくことにします。うるさくしてごめんね、琴ちゃん」


引きつった顔の琴音に小さく頭を下げて、穂積は自分の席へと去っていった。


「年寄り臭いってなんだ、それ。まあいいや。イノリも自分の席に行けよ」

「……ああ」

「あ! ちょっと待って」


不機嫌な様子で離れて行くイノリを呼び止めた。

くるりと振り返った顔は憮然としている。


「何だ?」

「あのな」


言いながら周囲を窺う。穂積が去ったことで、みんなの視線も離れたようだ。

これなら大丈夫だよな。


「放課後、少し時間ある?」


小声で訊くと、イノリは驚いたように目を見開き、次いでこくこくと頷いた。


「ある」

「じゃあさ、ちょっとでいいから付き合ってくれない?」

「わかった」


イノリの纏っていた空気が一気に変わる。

あからさまに機嫌を良くし、「じゃああとで」と笑みを湛えて言った。



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