12.やくそくだね
12.やくそくだね
「…………タイムアップ、かな」
ケータイを見て、小さく呟いた。
時刻は3時50分になろうとしていた。
あれからすぐに、下手に歩き回っても無駄かもしれない、と思って移動するのを止めた。
目指す方角も何もわからないのに歩き回るのは、やはり得策ではない。
頼りない光だけでは、どんな事故を起こすか分からない。
帰りたい一心での無謀な行為は、イノリを危険な目にあわせてしまうかもしれないのだ。
捜索が来るのを待ったほうが賢明だ。
偶然にもそこはひらけた草むらだったので、そこで救助を待つことに決めた。
イノリはあたしの膝を枕に、すうすうと心地よさそうな寝息をたてている。
その頬をそっと撫でて、ため息をついた。
もし時間通りにK駅のバス停についていたとしても、戻れたとは限らない。
無駄足になった可能性だってある。
そうだ。
それに、加賀父が言ってたじゃないか。
もし戻れなくても、必ず帰れるようにする、って。
くよくよするな、美弥緒。
きっと道はある。
うん、そうだ。
「ミャー……」
これ以上ため息をついてしまえば、気持ちが落ち込んでしまう。
ぐ、と唇を噛み締めたら、イノリが寝言をもらした。
「ねこの鳴き声、かな? それともあたしを呼ぼうとした?」
かわいらしい寝言に、思わず笑う。
それからもイノリはもごもごと口を動かしていたが、言葉はこぼれなかった。
まあ、この子が無事だったんだから、それだけでも十分、か。
あたしが見つけなかったら、この子はまだあそこで痛みと不安で泣いていたかもしれないんだ。
自分の足首をそっと撫でた。
「……まあ、あんたと一緒にいられる時間が増えたと思えば、いっか」
呟いて、夜空を見上げた。
と、遠くから声が聞こえた気がした。
「ん?」
「…………!! …………!!」
やっぱり声がする!
捜索隊!? いやもうなんでもいい!
とにかく声をあげて気付いてもらわなくちゃ!
「こっち! こっちーぃ!!」
気付いて! ここ! ここなんです!
できうる限り、大きな声を上げた。
あたしの声に目を覚ましたイノリも、誰かの声が聞こえると分かるや、身を絞るようにして大きな声を上げた。
「祈ー! 美弥緒ちゃーん!」
「みーちゃーん! 返事しろ! 祈ー!」
ちらちらと人工的な光が見えた。
「ここ! こっちです!」
あたしの小さな懐中電灯をぶんぶんと振りまわす。
「いたぞー! こっちだ!」
気付いた!
イノリと抱き合って、残りの体力全てを使って声を上げた。
「みーちゃん!! 祈!!」
いち早く駆けてきたのは三津だった。
肩で息をして、あたしたちを見て取るとぎゅうと抱きしめてきた。
汗の香りと湿り気がして、三津がずっと探してくれていたのだと思う。
「すんげえ心配したんだぞ! 二人とも平気か!?」
「はい、あたしは平気です。でもイノリが足を挫いてて」
「そうか。祈、足だしてみろ」
あたしが持っているものより大きな懐中電灯をイノリの足元に照らして確認する。
と、加賀父の声がした。
イノリの名を呼びながら駆けてくる。
「祈! 美弥緒ちゃん! よかった、君までいなくなったから心配したんだ」
あたしに走り寄ってきて屈む。
顔を覗きこんで、迷惑かけてすまなかった、と頭を下げた。
「そ、そんな。結局あたしも迷ってしまいましたし。逆にすみませんでしたっ」
「君はなにも悪くない。祈を見つけてそばにいてくれたんだから」
ありがとう、と再び頭を下げてから、加賀父は三津に足を診てもらっているイノリに体を向けた。
「祈」
「と、父さん、あの」
イノリが話す間もなく、加賀父は頬を叩いた。
ぱん、と乾いた音が辺りに響いた。
「どんな理由であれ、こんな形で我を通そうとするな。お前の行動でどれだけの人が寝ずに過ごしていると思うんだ」
低く、怒りを滲ませた口調で加賀父は言った。
「三津も、柚葉ちゃんもずっとここいら周辺を探して回った。村の方でも織部先生や節ばあさん、他にもたくさんの人がお前を探してくれてるんだ」
「ご、ごめんなさ……い」
「美弥緒ちゃんだって、そうだ。お前は自分のワガママで、好きな女の子を危ない目にあわせたんだぞ」
懐中電灯の灯りに照らされた顔は、涙をぐっとこらえていた。
唇を強く噛んで、目に力を入れて、眉間にシワを刻んでいた。
「あの、加賀……」
「みーちゃん、ストップ」
口を開いたあたしを、三津が止めた。
黙ってろ、というように首を横に振る。
「ごめんなさい……、おれ、わがまま言った。ごめんなさい……」
ぐ、と体に力を入れるのがわかり、それからイノリは涙を零さずにぺこんと頭を下げた。
「もうこんなことしない。ぜったいにしないよ」
「祈……」
頭を上げないイノリを、加賀父が抱きしめた。
がしがしと頭を撫でる。
「無事でよかった。本当によかった。ごめんな。こんなことさせてごめんな」
「ううん、いいんだ。おれ、父さんたちの考えてること、わかるようになるよ。そういう大人になるよ」
イノリの言葉に加賀父が動きを止める。
「わかるようになるから。だからもうこんなことしないよ」
「……そっか。そっか……」
加賀父の肩に顔を埋めたイノリの肩が震えていた。
でも、泣き声をあげることはなかった。
「……おう、おう。見つかった、うん、みーちゃんも一緒。
……そう、みんなに伝えて。……うん、そうそう。じゃあよろしく」
柚葉さんにだろうか、ケータイで連絡を済ませて、三津が立ち上がった。
あたしに手を差し出す。
「ほら、帰ろうぜ、みーちゃん」
「うん。……っ!」
三津の手を掴んで立ち上がる。
少しよろけたあたしを、三津は見逃さなかった。
「みーちゃん、お座り」
「ちょ、イヌみたいな言い方しないでくださいます?」
「いいから、お座り」
強く言われて、しぶしぶ座った。
「ちょっとシツレイ」
「あ。女子高生の生足を。柚葉さんに言いつけますよ!」
「うるさい。あ、ほら」
「ぎ……っ!」
三津の手が無遠慮に左足首を掴んだ。
途端、激痛が走って顔をしかめた。
「ちょ、三津……、容赦ないすよ、それ」
「ごまかそうとするからだろーが。ほれ」
「ぎゃ! 放……せっ!
「三津、どうした?」
足首の痛みに悶絶するあたしに気付いたのか、加賀父が訊いた。
「みーちゃんも足首やっちまってますね。腫れてます」
「ミャオ!?」
加賀父に抱きついていたイノリが飛びついてきた。
「いつケガしたの!? おれをおんぶしてへいきだったの!?」
「あー、あはは、うん。まあ、平気だったよ」
イノリを見つけたとき、考えなしに飛び降りてしまったせいで足を捻ってしまったのだった。
大丈夫だと思ったんだけどなー。
意外に自分の体が重かったのだ。
かっこつけて飛び降りたくせに足を捻ったなんてかっこ悪くて言えないよね。
だから黙っていたかったのー。
へへ、と笑うと、イノリはあたしの足に視線を落とした。
「い、いたい、よね?」
「んあ? 平気だよ、これくらい」
「でも……」
「仕方ねーな。ほれ、乗れ」
三津があたしに背中を見せて屈んだ。
「背負ってやろう。この三津さまがな」
「うわ。偉そう」
「あ、三津、いいよ。美弥緒ちゃんは俺が背負うよ。お前は祈を頼む」
「ふびゃ!? そそそそそんな、メッソウもないです! 三津でいいです!」
「ちょっとみーちゃん! 三津でいいってどういうことだよ!」
「うっさい! 早く背負ってくださいお願いします! これでいい!?」
ぎゃあぎゃあ言いつつも、三津の背中に収まった。
イノリは加賀父の背中である。
「よし、急ぐぞ、三津」
「うし。了解っす」
加賀父と三津が申し合わせたように早足で歩き出した。
いや、これはもう走る勢いだ。
「え? あ、あの、別に急ぐことはな……」
「K駅! 間に合わせるから!」
加賀父が叫ぶように言った。
「え!? 間に合わせるって、そんなの無理ですよね?」
「近道知ってるから大丈夫!」
「近道っていっても……時間を考えたら無理じゃないですか!?」
「無理じゃないさ! 絶対に君を帰すよ!」
「父さん! ど、どういうこと?」
会話の内容についていけてなかったらしいイノリが訊いた。
「美弥緒ちゃん、今日の朝までに帰らないといけなかったんだ。その時間に間に合うかどうか、ぎりぎりって話をしてる」
は、は、と息を荒くしながら加賀父が言った。
「え!? そ、それっておれを探してたから……?」
「そうだ。そのせいで美弥緒ちゃんは家に帰れなくなるかもしれない」
はっきりと言う加賀父にこちらが焦った。
「そ、そんな。あたしが迷ったからだし、イノリのせいなんかじゃないよ?」
「いや、イノリの責任だよ。美弥緒ちゃんは怪我してでもお前を探して傍にいてくれただろ?
そんな美弥緒ちゃんを、お前の都合で家に帰られなくしていいか? だめだろ? だから今こうして父さんたちは急いでるんだ」
「そんな……」
「こら、今はちゃんと足元照らせ、イノリ」
あたしとイノリは懐中電灯を持たされており、揺れる背中で必死に道行を照らしていた。
話にショックを受けたイノリは懐中電灯をぼんやり握っており、光があらぬ方向に飛んでいた。
「イノリ、気にしなくて大丈夫だよ!」
先を行く加賀父の背中に張り付くイノリに声をかけたが、返事はなかった。
もう、少しソフトに説明してくれたらいいのに、加賀父は。
しかし。
大丈夫ってことは、ホントに間に合うのだろうか?
でも4時はすでに過ぎている。
行きの道のりを思い出せば、不可能のように感じた。
「しっかり掴まってろよ、みーちゃん!」
あたしの中に湧いた不安をかき消すように、三津が叫んだ。
思いのほか、柳音寺のすぐ近くにいたようだ。
ざ。と木々の枝を払うと、建物の姿を捉えた。
どうやら寺の裏であるらしい。
見下ろす位置にある、特徴的な屋根をみて、ほっとする。
三津が連絡を入れていたお陰か、近づくと柚葉さんや織部のじいさんの姿を見つけられた。
「みーちゃん、祈くん! よかったぁ」
迎えてくれた柚葉さんのメイクは剥げ落ちており、ちょんぼり眉になっていた。
目元は真っ黒になっていて、頬には黒い涙の跡。
「すみません。イノリを見つけたのに、帰り道がわかんなくなっちゃって」
「無事だったからいいの! ああ、よかったぁぁぁ」
パンダのようになってしまった瞳に、ぶわ、と新しい涙が溢れた。
「ご、ごめんなさい」
イノリが申し訳なさそうに頭を下げた。
柚葉さんがぶんぶんと首を横に振る。
「もういいの! お父さんにもう怒られたんでしょう? だからもういいの!」
「先生。用意できてますか?」
おいおいと泣く柚葉さんの後ろにいた織部のじいさんに、加賀父が訊いた。
「お、おう。坂井の息子が張り切って支度しとったぞ。しかしお前、アレに乗ってどこ行くんだ」
「彼女、美弥緒ちゃんを連れていかないといけない場所があるんです」
「それは聞いたが、しかしこんなに疲れてるのに、時間の調整はできんのかい? できんのなら、そっちの坊主はワシが見ていよう。置いていくんだろ?」
「気遣いは嬉しいんですけど、祈も必要なので連れて行きます」
「む……」
そっか。
今朝の話だとイノリの存在も必要だって言ってたっけ。
しかし、怪我してる子を連れて行ってもいいものなんだろうか。
無理させたらいけないよな。
「三津、行くぞ」
「うっす。柚葉、お前救急箱用意してこい。こいつら足挫いてるんだ」
「わかった!」
柚葉さんは身を翻して走っていった。
歩き出した加賀父の背中に声をかけた。
「あ、あの、イノリは怪我してます。だからあの、無理に連れて行ったら……」
「自分の行動のせいで君の人生に大きな空洞をあけた、なんてことになったら、この子は絶対に後悔する。だから、無理をさせるのは仕方ないことなんだ」
「で、でも……」
「わかるよな、祈? 美弥緒ちゃんを悲しませたくないなら、少し我慢しろ」
「……うん」
声音を和らげた加賀父の問いに、イノリがこっくりと頷いた。
「おれのせいでミャオが泣くのはいやだ。がまんくらいする」
「よし、偉い。というわけで、連れていきます」
「そうか。おい、坊主。と志津子似の嬢ちゃん」
助かってよかったの、と笑う織部のじいさんに見送られて、寺の表へと回った。
と、聞きなれない重低音が辺りに響いていた。
「美弥緒ちゃん、アレに乗って!」
「アレって…………、え?」
指差された先、外灯の下に真っ黒い車があった。
車高の低い、地面を這うような幅広のそれは、酷く大きなエンジン音をたてている。
ええと? なんだ、あの車。
「渋いよなー……。オレ、好きだったんだ。デ・トマソ・パンテーラ」
見たことのない形の車を見ていると、三津がうっとりしたように呟いた。
「は? でとまと?」
なんだって? 初耳の単語なんですけど。
「デ・トマソ・パンテーラ。イタリア車なんだけど、エンジンはアメリカのごついの積んでるんだ。高校のころ雑誌で見てさ、憧れてたんだよなー。まさか風間さんがこれのオーナーだとは思わなかったよなー」
「ああ、こっちに置いてたからな。なかなか帰ってこれないから、近所の奴に手入れを頼みっぱなしだったし」
車体の名前だということと、加賀父の所有物だということは把握した。
しかし名前はいまいち覚えられない。
トマトパスタ? まあそんな感じだよな。
つか、加賀父って、こんな車に乗るの?
ひゃー、意外すぎ。
「あ、一心さん! 用意できてるっす」
聞いたことのない声がして、三津の肩越しに見たらば、外灯の光の向こうから黒髪ドレッドヘアの男が現れた。
黒の上下のジャージに、健康サンダル。
耳にはたくさんのピアス。
タバコを挟んでいる手の甲には、黒々とした龍のタトゥがコンニチワ。
うひゃ。怖そうなオニーサンだ。
孝三たちとはジャンル違いというか。
「サンキュ。悪いな、お前たちにも色々迷惑かけた」
「いいっすよ、そんなの! 一心さんの頼みならオレたちはすぐ動きますんで!」
いかつい見た目とは裏腹に、オニーサンはニコニコと愛想よく笑った。
「この礼は必ずするから。みんなにもそう伝えてくれよ」
「その言葉だけで嬉しいっす。あ、でも飲み会くらい顔出してくださいよ。みんな一心さんの武勇伝聞くの、好きなんす」
ほうほう、武勇伝とな。
昔はやんちゃしたんだよなー、とかそういうやつだろうか。
あたしも聞いてみたいー。
「ほら、みーちゃん、乗れ」
車の真横で、三津に下ろされた。
地面に足をつくと、ずきりと痛む。
ぬう、少し酷使してしまったか。
「祈も乗れ。時間がない」
あたしの横で、イノリが同じように下ろされていた。
ほれほれ、と追い立てられるように後部座席に追いやられるイノリ。
「みーちゃんは助手席な。足、伸ばしてな」
「は、はい」
妙にフィットするシートに身を埋め、三津を見上げた。
灯りに照らされた三津が、少しだけ寂しそうに笑った。
「これから、風間さんが連れてってくれる。オレの車じゃついていけないから、ここでお別れだな」
「え!?」
「風間さんなら、絶対に間に合わせてくれるさ。そんな心配そうな顔すんなって」
「ち、ちが」
心配とかそんなんじゃなくて!
ここでお別れなの!?
「お。柚葉が来た」
「みーちゃん! これ!」
走りこんできた柚葉さんが、抱えていた箱をぐいと押し付けた。
「湿布が入ってるから! あとこれも!」
冷えたペットボトルのお茶と、アルミホイルに包まれた、ほんわり温かいもの。
「お茶と、おにぎり! お腹すいたでしょ? 車の中で食べて!」
「あ、ありがとうございます……」
あったかいおにぎりは、柚葉さんが作ったものなんだろうか。
「みーちゃん。気をつけてね!」
「行くぞ!」
柚葉さんの手を握ろうと手を伸ばしたら、加賀父が乗り込んで、すばやくシートベルトをつけた。
「美弥緒ちゃん、出るよ。ドア閉めて」
「あ、あの! お礼とかまだ……」
まだ柚葉さんたちにきちんと挨拶ができてない!
出会ってからずっと、優しくしてくれた人たちなのに!
あたしの言葉を疑わずに信じてここまで連れてきてくれた人たちに、お礼くらい……!
「それは、次に会ったときでいいよ。アタシたち、待ってるからさ! 何年後でも!」
「柚葉さ……」
柚葉さんが目元をごしごしとこすりながら言った。
声は涙で濡れている。
「気をつけて! またな、みーちゃん!」
「あ、あの」
言う間もなく、三津がドアを閉めた。
すぐさま発進するトマトパスタ。
エンジンの音にかき消されるような気がしたけど、それでも窓を開けてお礼を叫んだ。
聞こえたかな?
聞こえたよね?
待ってて!
9年後、必ず会いに行くから。
そして必ず、今日のお礼を、感謝を伝えるから!
涙が、車窓の向こうに流れていった。
――ぐずぐずと泣いて、別れの感傷に浸る余裕は、なかった。
あの、これって、ジェットコースターですか……?
あれからすぐに、急カーブの多い峠道に突入した。
加賀父の言うところの近道というやつなのだろう。
それはいいのだが、トマトパスタ(黒いくせに)はそこをすんげえスピードで疾走していた。
G。
Gをぎゅんぎゅん感じるんですけど。
キュキュキュキュキュ、なんて聞きなれない音がしょっちゅう鼓膜を揺らすんですけど。
しかも車高が低いせいか、地面すれすれを走ってる感覚なんですけど。
あの、大丈夫なんでしょうか、これ……。
「と、父さん……、おれ、ちょっとこわ……」
「男はこれくらいで怖がったりしないよな!?」
「こわ……コワクナイデス」
おい、カタコトになってんぞ、イノリ。
しかしかくいうあたしはというと、引きつった笑みを浮かべたまま、一言も話す余裕がないのであった。
言葉を発することができるだけ、イノリはあたしより上だね!
ハンドル握ると別人、なんて冗談のような話を聞いたことがあるけど、こういう人のことを言うんだ、そうなんだ。
前を見ることに恐怖を覚えていたあたしは、ついさっきまで柚葉さんから受け取った救急箱を抱きしめ、その木目柄ばかりを見つめていた。
しかし勇気をだして隣にいる加賀父を窺って見たら、
なんとうっすら笑っていた。
こここここここここここここ、怖いよう。
怖すぎるよう。
こんなの金吾様じゃないよう。
ぐじぐじうだうだとするのはもっての外だが、スピード狂というのも嫌だよう。
……ん。いや、待てよ?
『スピード狂×江戸時代(時代劇)=馬』?
それって暴れん坊●軍じゃねーか!
金吾様は鳴沢シリーズのお方なんだから、そういうのは将軍サンバに任せておいてくれよ!
だいたい火消しは馬に乗んねーしな!
ってぇ!?
またもやアレだ。
キュキュキュキュキュ! ってやつ!
体に思い切り遠心力がかかる。
ああ、このシートの形状って、こういう力から体を保護するためなのね。
体感して納得だわ。
って、そんなん今はどうでもいい。
「美弥緒ちゃん、絶対間に合うから、信じてろ。な!?」
「は、はひ……」
金吾さまを髣髴とさせる、力強いお言葉。
普段の柔らかな口調も好みだったけど、やっぱり金吾さまはこうでないと。
って、この盛り上がりって、もしかしてあたしの人生の終幕なんじゃないの?
映画だとたぶん今は終盤だよな?
B級映画だと、このまま崖にダイブ、なんてオチがあるような。
鳴沢様の腕の中という夢は破れたが、金吾さまの手で、というのならそれでも…………。
って! いや! やっぱいや!
こんな死に方、時代劇にあるわけねーし!
つーか、まだ死ねないし!?
「ミャオ……、ごめん、ね……」
想像が止まらず、イヤンイヤン、と首を振っていると、後ろから小さな声がした。
「へ、へ?」
どうにか顔を後ろに向けた。
ちょこんと座ったイノリが申し訳なさそうに視線を落としていた。
「おれが逃げるようなまねしなかったら、ミャオがけがすることなかったし、それに、帰る時間におくれなくてすんだんだろ?」
ごめんなさい、と頭を下げた。
「い、いいよ、そんなの。怪我したのは自分のせいだし、イノリが気にすることじゃない」
「でも、さあ」
「いいって。今こうして父ちゃんが送ってくれてるんだし、あたしの足は何日かしたら治るんだし、問題ないよ」
「でも……」
車は依然、爆走中。
それに怯えているあたしなのだが、イノリにはその引きつった表情が別の意味に感じているのらしい。
ますますしゅんと肩を落とした。
笑って安心させてやりたいのはやまやまだが、できない。
だってホラ、今もまた遠心力がぁぁぁぁぁぁぁ。
「えーと、えーと……、あ、そうだ。ほら、森の中でも約束したじゃん? あたしが困ったときは助けてってやつ。イノリに貸し2つ目ってことで、どう?」
「かし、ふたつめ?」
どうにか、少年の罪悪感を拭えそうな案を思いついた。
「そうそう。イノリはこれから先、あたしが困ってたら、2回助けるの」
「……うん、わかった。それでいい」
「よし。じゃあ約束な。あ、でもあたしは悪徳商人だから、すんげえ高い利子つけるかもしんないぞ。いいか?」
あ。こうして会話に集中していたほうがいいかも。
イノリをからかうと、ちょこんと首を傾げられた。
「りしってなに?」
「おおう、そこからかい。借りたお礼として、もっとお返ししろってことだよ。今回のことで言うとだな、2回助けたくらいじゃ許さないぞー、もっとお返ししろーって意味。んぎゃ!」
「あ、美弥緒ちゃん、ごめん」
「うう、いえ、平気っす」
後ろを向いたままイノリをからかうことばかり考えていたら、ピンカーブに当たったらしい。
強い力でどん、と押された感じで、加賀父の肩にこめかみが激突してしまった。
うう、痛い。
悪徳商人はすでに金吾様に成敗されました。
「なんだ、そんなの。いいよ。いっぱい『りし』つけといてよ」
「いてて……。お、本当にいいのかい? ぐへへ、ありがとよ」
「なんだか悪い笑い方になってるよ、ミャオ……」
「うるさい。あ、そうだ。これ、足に張っておきな」
救急箱から湿布をとりだして、イノリに渡した。
「ホントは貼ってやりたいんだけど、ごめん。自分でできる?」
「ん。でもミャオも貼りなよ。ミャオも痛いでしょ」
「はは、了解。あ、こっちはお茶とおにぎり。食べな?」
「ありがとう」
揺れる車内で、んしょんしょ、と湿布を張る。
うへー。ひやっこい。でも気持ちいーかも。
腫れたところが熱をもっててうずいてたからなー。
「だいぶ明るくなってきたなー、ほら、朝日」
巧みなハンドル捌きをみせる加賀父が窓の向こうを指差した。
「あ、ほんとだ……」
峰の間から、太陽が顔を覗かせていた。
9年前の世界で2回目の朝だ。
木々を照らし、ゆっくり上る太陽。
普段日の出なんてみないから、少し珍しさを感じてしまう。
雲もないし、今日もびっくりするくらい暑い一日になるんだろう。
しかし、爽やかな気分には到底なれなかった。
逆に、深く落ち込んでいった。
あの太陽が沈むころ、あたしはどこにいるんだろう。
ちゃんと、9年後にいて、9年後の日の入りを見られるのだろうか。
やっぱり帰れなくて、ここで帰る方法を模索しているんじゃないだろうか。
思い至ると足が竦んだ。
車載時計の表示は、5時32分。
2時間後、あたしはK駅前のバス停にいる?
なにより無事に戻れる?
『帰れるのか』、ということが、今更になって心に重くのしかかってきた。
加賀父の言葉以外、元に帰れるという保障はどこにもない。
こうしてバス停に向かっても、7時45分をこの時代で過ごしてしまうかもしれないのだ。
「美弥緒ちゃん、少し眠りなさい」
「え!?」
無意識にぎゅうと握り締めていた手がふわりと包み込まれた。
「一晩寝てないんだ。疲れてるだろう? 疲れは心を侵食してしまうから、休みな」
「い、いいいいいや、その、あの」
ぎゃー!
金吾様に手を! 手を!
「心配しなくてもいい。君は必ず、俺が帰すから」
「で、でも……」
「絶対、だから」
ぎゅ、と力が込められた。
横顔を窺えば、ちらりと視線だけ寄越し、にこりと笑われた。
「それとも、ここに残る? 俺、一生面倒みるけど?」
ぎゃー!!!!!!!!!!
これ完全に死亡フラグ!
あたしの一生はここで終了します!
終了! お疲れ様でした!
「あ、あの、あのですね!」
「なに?」
「そんなこと言われたら、寝るというより気絶しそうなんですけど! つか、寿命をまっとうしそうなんですけど!」
叫ぶように言った。
ぶ、と吹いて、それから大爆笑する加賀父を、涙の滲んだ目でむうと睨む。
「そういうの、すんごく弱いので止めてください。あたしがここで死んだら困るでしょう?」
「あはは、ご、ごめん、それは困るかも、うん」
「さっきのは完全に昇天するかと思ったんですよ!? 止めてください!」
昇天! と再び爆笑の渦に巻き込まれる加賀父。
くそう、金吾様でなかったらこんな弱気にはならないのに。
「い、いや、でも結構本気だよ? 君みたいな魅力的な子なら、一生面倒みさせてほしいね」
「ちょ! だから、そういうからかいはだめです! 死にますよ、心臓発作的な感じで」
「わかった、言いません言いません。でも、魅力的というのは本当だよ?
自分を差し置いて、他人のために色々できる子なんて、そうはいないよ。祈のためにたくさんのことをしてくれただろ?」
「いや、魅力的ではないですってば。
あたしはただイノリに付いていけば、自分の為になると思ったから一緒にいたまでですよ。一緒にいたら元の時代に帰れると思ったから……あ、ヤベ」
後ろのイノリの存在を忘れてた!
慌てて振り返れば、イノリはおにぎりを片手にすうすうと眠っていた。
口の端にご飯粒をくっつけている。
「あ。イノリ、寝てますよ」
車は相変わらず乱暴な走行なのだが、いやー、子どもってすごい。
どんなとこでも寝れるのね。
って、そんなあたしはこの運転にも随分馴染んできたようですが。
「寝てるのかな、とは思った。俺が美弥緒ちゃんを口説いてるのに文句言わないからさ」
「な!? そんなことで判断しないでください! つか、口説くとか言うのは禁止で!」
「あ、昇天されたら困るから下手なこと言うのは止めとこう。で、話の続きだけど、そういう風に言っても、君は打算的に動いたんじゃないことくらいわかるよ。それなら祈があれほどなつくわけがないんだから」
「は、あ……」
「誰が裏心なく接してくれるか、優しくしてくれるか、子どもはそういうのを本能的に察知するから。
祈を見ていれば、君がどんなにいい子なのかなんて、簡単にわかる」
「いや、誉めすぎですよ、そんなの。あたしはいい子とかそんな大層なモンじゃないですし」
「ふむ……。美弥緒ちゃんはさー、変なところが弱気だよね。自分に自信を持っていないというか、諦めてるというか」
「は……。そう、ですか?」
「うん。自分の良さを少しは知ったほうがいいよ」
「…………」
加賀父の言っていることは、素直に嬉しい。
こんな人に誉められて、いやなはずがない。
だけど。
「……でも、ですねー。あたしって、すんごくモテないんですよ?」
ああ、言いたくなかったのに。
でも、なぜかぽろりと言葉を吐き出してしまっていた。
「あたし、全然モテなくて。いや、手当たり次第にキャーキャー言われたいとか、ちやほやされたいとかいうレベルのことじゃないですよ?
好きな男の子に、ずっと女として見てもらえなかったんです」
「ふむ」
口が勝手にぺらぺらと動く。
「古武術とかやってたせいか下手な男子より腕は立つし、性格はがさつだし、言葉使いも女の子みたいにかわいくできないし。女に見えねー、なんてしょっちゅう言われてたんです。
だから、中学卒業するときに思い切って告白したときも、『男に言われてるみてえ』なんて笑われちゃって」
へへ、と笑った。
すっかり消化できていたはずの思い出なのに、少し涙が滲む。
感傷的になってる自分が情けない。
女らしくなろうとしなかった自分が悪いのだ。
自分らしさを、なんて言ってたくせに、否定されたらショックを受けるなんて。
って、うわ、ホントに情けないや。
つーかこんなこと、加賀父に言ってどうすんだ。
急に恥ずかしくなって、慌てて早口でまくし立てた。
「まあ、今ではちょっと凹むくらいの思い出になってるんですけど。
でもそのせいなのか少しひねくれちゃってて、素直に『そうなんだぁ』って受け入れられないんですよ。はい、そういうわけで話はおしまいです」
「ふむ」
早々に話を切り上げた。
うひー、恥ずかしい愚痴を零してしまった!
こんな情けない思い出話をどうして金吾さまに吐き出してしまうのだ、馬鹿か!
やっちまった、と真っ赤になったあたしの頭に、ぽすんと手の平がのった。
「は、はひ?」
中学生日記、とも言えないような、ただすっぱいだけの話をしたあたしに苦笑してるかな?
いや、『あちゃー』なんて呆れられてたらどうしよう。
もう恥ずかしすぎて消滅したい。
「それは、その男の子がまだガキだったんだなあ。多分、後ろで寝てる坊主のほうがいい男だぞ、美弥緒ちゃん」
「へ?」
「女の子の価値を見極められないばかりか、せっかくの告白をそんな馬鹿げたセリフで〆た奴より、祈のほうが断然いい男だ。そう思わないか?」
「は、あ」
ふ、と後ろで寝ている少年を振り返った。
ちっちゃい紳士のイノリ。
あたしを女扱いしてくれているイノリ。
好きだよって言ってくれるイノリ。
「……確かに、そうかもしれないです、ね」
納得して、頷いた。
「だろ? そういう思い出は適当なところに放っておいて、美弥緒ちゃんの価値を認められる男を見つけて、そいつの言葉を信じることが、大事だよ。
それに、経験不足の中坊より、俺の言葉の方が信憑性が高いと思わないか」
自信たっぷりに言う加賀父に、思わず笑いが零れた。
「へへ、すんごい自信ですね。でも確かに、加賀父を信じたくなりますね」
「だろ? 信じてなよ」
大人の余裕、経験豊富、とかいう単語が頭に浮かんだ。
加賀父はあたしの些細な、でも結構固いコンプレックスの塊に、あっさりとヒビを入れてくれたのだ。
「さ、というわけで少し眠りなさい。ね?」
「は、はい」
子どもじみた悩みを口にしてしまったという気恥ずかしさから、これ以上加賀父と話すのが躊躇われた。
とりあえず目を瞑ってごまかしてしまえ! とあたしはぎゅうと目を閉じた。
「おやすみ、美弥緒ちゃん」
さらりと髪を梳くようになでられて、こりゃもう絶対に目を開けらんねえ、と思う。
とにかく意識をそらせ! と鳴沢様名場面集(美弥緒セレクション)を回想し始めたら、いつの間にか眠りに落ちていた。
「――――美弥緒ちゃん、美弥緒ちゃん」
夢の中で、金吾様が呼んでいた。
月代も青々とした、や組の半被姿が麗しい金吾様だ。
一面のひまわり畑の中で、すごく優しく、繰り返し名前を呼んでいる。
ふと自分の体を見下ろしてみれば、町娘のような着物を着ている。
髪に手をやれば、綺麗に結い上げられており、簪なんぞも刺さっている様子。
なんだ、この夢。一生目覚めるなっていう神サマからのサイン?
「美弥緒ちゃん!」
よく分からんが、金吾様が呼んでいる。
これは行かずしてどうする。
はーい。今すぐ参りますう。
アハハ☆ と駆け出すあたし。
金吾様捕まえた、なんちて。
と、金吾様にがっしと肩をつかまれた。
いやん、情熱的、と思った瞬間、ぶんぶんと揺らされる。
ちょ。乱暴すぎ!
いやそういう強引さもいいけど!
「美弥緒ちゃん!」
「……あ、はひ?」
肩を揺らされて目が覚めた。
月代などない、加賀父の横顔がそこにあった。
目をこすりながら起きたあたしにちらりと視線を寄越す。
「もうすぐつくけど、君がバッグを入れたコインロッカーはどこ?」
「へ? こいんろっかー? って、は……ああああ! もうこんなところ!?」
窓の向こうは、K駅まであと少し、といったところの景色だった。
しかも何故か、さっきまで快晴だったはずなのに雨がざあざあと降っている。
フロントガラスには大きな雨粒が打ちつけられていた。
「時間がないんだ。どこ?」
「へ? へ?」
時計を見れば、7時32分。
ぎゃ! すんげえギリギリ!
でも、着いてるんだ!!
すげい、加賀父とトマトパスタ!
「えーと、えーと。あ! あそこのバス停です!」
きょろきょろ見渡せば、見覚えのあるバス停があった。
「分かった。カギ出してて! あと、多分追加料金かかってるはずだから、これ」
じゃら、と小銭を渡される。
「か、かたじけない」
「ぷ。こんなときにボケないで」
あんな夢をみていたせいか、間の抜けた礼を口走るあたし。
加賀父はバス停前に車を停めた。
バスを待っているらしい高校生くらいの女の子が、エンジン音も仰々しいトマトパスタを見て、あからさまに顔をしかめた。
見た目は怖い感じの車だけど、運転手はすんげえかっこいいよ! 絶対だよ!
なんて言える余裕もなく、ロッカーにまっしぐら。
「えーと、あ、ここだ!」
小銭をいれ、カギを回す。
妙に懐かしさを覚える旅行用バッグを引っ張り出すと、すぐに車に戻った。
「持ってきました!」
「出すよ」
K駅に向かって、慌しく車は走りだした。
少し外に出ただけなのに、髪や肩がしっとりと濡れた。
「す、すいません、あたし、爆睡してたみたいで」
「構わないさ。君をゆっくり休ませられなかったのはこっちのせいなんだから」
峠道と違い、何台も車が走行している国道を、トマトパスタは縫うように走っていく。
街中をこんな運転で大丈夫なのか。
雨だし、スリップの危険が!
ていうかパトカーでもいたら大変ですよ!
しかし、このお陰で時間までにK駅前のバス停につけるのだ。
ありがたや。
「あ、あの、ありがとうございました。あたし、あの」
「お礼はさ、また今度会ったときでいいよ。9年後、でね」
目前にあった信号が、黄色から赤に変わった。
しかしトマトパスタはスピードを緩めることなく突っ切った。
他車からのクラクションを背中に聞きながら、頭を下げた。
すんません、緊急事態なんです、勘弁してつかあさい。
今度から交通標識は絶対に守りますんで!
「そ、そうしたいのは山々ですが、あの、本当に帰れ」
「帰れる。信じろ!」
「っ! は、はい」
駅前通りに入った。
時計は7時41分。
爆発しそうなくらい、心臓が動きを早めた。
無意識に握った手に、汗がじっとりと滲む。
体はみっともないくらいに震えていた。
帰れるの?
本当に?
ああでも信じないと。帰れなくなっちゃうかもしんない。
行く手に、イノリと出逢った、大澤と別れたバス停が見えた。
「あそこです! あれ!」
「了解!」
幸い、バス停には人がいなかった。
勢いよくドアを開け、車から降りる。
「どこでイノリに会った?」
「ええと、あ、確かその木の下辺りです!」
そう、あの辺りだ。間違いない。
「正確な時間は分からないんだよね? じゃあもうそこに立っていたほうがいい。
イノリも近くにいるし、大丈夫だろう」
「はい! あ、でも、ちょっと待ってください」
荷物を加賀父に預けて、車に戻った。
身を乗り出して、後部座席で未だ眠っているあどけないイノリを見た。
ほっぺたにご飯粒をつけたままで、口の端にはヨダレが一筋。
眠りは深そうで、きっとまだ目覚めることはないだろう。
ああ、きちんと話してお別れしたかったな……。
いや、でもこれでよかったのかな。
急にいなくなる理由を聞かれたら、上手く説明できないもん。
寝顔にそっと手をのばした。
柔らかなほっぺたから、ご飯粒を取り除く。
ありがとう、イノリ。
あんたのお陰で、ふいに起きたタイムスリップを、楽しい時間旅行にできたみたい。
不安で、どうしようかと途方に暮れていたあたしを見つけてくれてありがとう。
一緒にいてくれてありがとう。
たくさんの人に出会えて、たくさんの経験をさせてもらえたよ。
小さな紳士の君にはもう会えないけど、でも。
「美弥緒ちゃん! 早く!」
「はい!」
車の外にいる加賀父に返事を返し、再びイノリの顔を見た。
おにぎりを握ったままの小さな手をとり、ぎゅ、っと握った。
「また、会おうね? やくそくだよ、イノリ」
「美弥緒ちゃん! 44分だ!」
「っ、はい!」
手を離して、車を出た。
記憶にある位置へ戻り、荷物を受け取った。
「じゃあ……またね」
「はい、また。三津とか、柚葉さんによろしく。あと、織部のじいさんにも」
「伝えとくよ」
「イノリには……」
「上手く言っておくさ。もちろんタイムスリップのことは内緒にしとく」
「お願いします」
雨の降りしきる中、少しの距離を取って、加賀父と向き合った。
傍から見れば、奇妙な光景かもしれないな、と思う。
周囲に人がいなくてよかった。
車は何台も通り過ぎているけど、そこまで目立ってるわけじゃないし、問題ないよね。
しかし、雨激しいな。
9年後もすごい雨だったけど、こんな感じの大雨だったっけ。
あ。加賀父、傘を差していないんだった。
「あの、濡れるといけないから、車のほうに」
「構わないさ。見送りたいんだ。あ」
加賀父が目を見開いた。
安心したように大きなため息をつく。
「どうかしましたか?」
「君の周りの空間が広がってく。そうか、時間がきたんだ」
「じかん?」
「そう。じゃあ、9年後にまた、ね?」
にこり、と雨の中、加賀父が笑った。
あたし、帰れるの?
「え、あ、あの」
「また会うのを楽しみにしてるよ」
「あ、あの……また!」
瞬きを、した。




