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短編

私は今夜、夫に毒殺されるようです

作者: 岸根しき
掲載日:2026/10/02


 嫁いで半年。夫にこんなにじっと見つめられるのは、初めてのことだった。


 ただし、見られているのは私の顔ではない。口元だ。


 今夜の夕食に、見慣れない煮込みが出てきた。赤黒いとろみの中に、牛肉と、名前も分からない粒がいくつも沈んでいる。


 ひと口食べた途端、舌がびりびりと痺れはじめた。遅れて喉の奥がかっと熱くなり、額にじわりと汗がにじむ。水を飲んでも、ちっとも治まらない。


 夫は、自分の皿に手もつけていない。


「どうだ……?」


 いつもは料理の感想なんて、一度も聞かない人なのに。


 今夜に限って身を乗り出し、私の答えを待っている。まるで、何かがばれていないか確かめるみたいに。


 ――ああ、そういうことね。




 私は今夜、毒殺されるようです。




「……よく、効いております」


 夫の眉が寄った。


「入れすぎたか」


 入れすぎた。


 ……旦那様、今、はっきりおっしゃいましたね?




 私の夫、ジークヴァルト・ローエン侯爵は、戦の手柄で伯爵から侯爵になった人だ。陛下の信頼も厚い。青みがかった黒髪に、よく整った顔立ち。そして、愛想はない。


 私、ノエラがこの方に嫁いだのは、半年前だ。陛下のお声がかりの縁談だから、世間では政略結婚と呼ばれている。


 けれど私は、戦勝の行進で旦那様を見た日から、ずっとお慕いしていた。朝食の席へ行くだけで好きな人の顔が見られるなんて、結婚ってなんて素晴らしい仕組みなのかしら。


 返事が「そうか」ばかりでも、夕食をご一緒できなくても、寝室が別でも、私はそれなりに幸せだった。


 どうやら、それどころではなかったらしい。


 この人は私を、相当憎んでいたのだ。



 心当たりなら、ある。


 だって、旦那様には好きな人がいるのだから。



 ひと月ほど前から、旦那様は夜ごと下町の食堂へ通っている。使用人たちのあいだでは、若い愛人ができたと噂だ。


 その食堂には、視察の帰りに私も連れていってもらったことがある。給仕をしてくれたのは、栗色の髪の、よく笑う女性だった。


 食事のあいだ、旦那様は何度も私の肩越しに、彼女のいるほうを見ていた。帰り際には一人で店の奥へ引き返し、なかなか戻ってこなかった。


 きっと、あの女性なのだろう。


 だからといって、私を消そうとしなくてもいいのに。


「水が足りないか」


 旦那様が、水差しを持ち上げた。


「ありがとうございます」


 こんなときでも、お礼は口から出るものらしい。飲み干すと、すぐに次を注いでくれる。


 ずいぶん親切な毒殺だ。


 思えば今夜は、初めから様子がおかしかった。旦那様のほうから「二人で夕食を」と誘ってくれて、料理が並ぶなり使用人を全員下がらせたのだ。


 私は浮かれて新しいドレスに着替え、髪まで巻いてきた。なのに、結局今夜も「似合う」のひと言もまだない。


「今夜の料理は、君のためだけに用意した」


「私にだけ、ですか」


「ああ。特別だ」


 つまり、自分の皿には入っていないということね。


 交換してくださいと言ったら、どんな顔をするのかしら。


「全部、食べられそうか」


 全部食べさせて、確実に仕留めるおつもりなのね。


 ここでスプーンを置いたら、毒に気づいたと知られてしまう。そうなれば旦那様は、毒よりずっと早い方法に切り替えるだろう。あの方の剣の腕は、国でいちばんなのだ。


 逃げようにも、私が椅子を引いているあいだに、戦場の英雄は扉の前へ回りこんでしまうだろう。


 食べるのをやめても駄目。逃げても駄目。


 だから私は、何も気づいていない顔で、次のひと匙をすくった。


 ……それに、旦那様と二人きりの夕食なんて、嫁いで初めてなのだ。


 毒が回りきるまでは、この時間を楽しんだっていいはずだ。


 口に入れると、牛肉がほろりと崩れた。匂いも悪くない。ただ、辛さと苦さがいつまでも舌に残り、飲み込んだあとで、なぜか妙に甘いものがやってくる。


 よくこれだけ、いろいろな味をひと皿に詰めこんだものね。


「一度食べたら、忘れられない味だそうだ」


 忘れる前に、私のほうがいなくなります。


「……ええ。きっと、一生忘れません」


 そう答えると、旦那様の顔がふっと明るくなった。


 褒めてはいません。けれど、私が次のひと口を食べないので、気になったらしい。


「無理はしなくていい。別のものを運ばせよう」


 別のもの。


 次はもっと強い毒が出てくるのかもしれない。今のところは、舌が痺れるだけで済んでいるのに。


「いえ、少しお待ちください」


 私はお皿をそっと手元へ引き寄せた。


「……いつから、お考えだったのですか」


 覚悟を決めて尋ねた。


「あの食堂へ行った日からだ」


 即答だった。


「今日まで、ずっと?」


「ああ。君に気づかれないようにするのが、いちばん大変だった」


「あの女性にも、お手伝いいただいたのでしょう」


 旦那様の目が、大きく見開かれた。


「……そこまで知っていたのか」


「ええ」


「あの人がいなければ、ここまではできなかった。夜遅くまで付き合わせてしまった」


 夜遅くまで。


 聞いたのは私だ。なのに、舌より胸のほうがひりひりする。


「本当は、もう少し驚かせるつもりだったんだが」


 十分、驚いておりますとも。


 私は水をひと口飲んで、考えた。


 死にたくはない。


 けれど、毒まで使うほど邪魔だったなんて。離縁してくれと言われれば、それで済んだのに。


 ……言われていたら、泣いていただろうけれど。


 そう思ったら、痺れた舌が急に怖くなった。これが喉まで下りてきて、息ができなくなったら。


 視界がにじむ。ぽたりと、涙がテーブルクロスに落ちた。


「……どうした」


 旦那様の顔から、さっと血の気が引いた。


「どこか痛むのか。すぐに医者を――」


 医者を呼んだら、毒がばれてしまいますよ。


 こんな顔も、なさるのね。


 この方はきっと、私が陛下に言われて、仕方なく嫁いできたと思っている。


 それだけは、違うと伝えておきたい。


 私は涙をぬぐい、スプーンを置いて背筋を伸ばした。




「旦那様。私は、あなたに嫁げて幸せでした」




 水差しを握ったまま、旦那様が固まった。私はかまわず続ける。


「ずっと、お慕いしておりました。あなたとこうして食事ができるだけで、毎日うれしかったのです」


 今度は旦那様が、椅子から腰を浮かせた。


「君は――」


 テーブルに手をついて、ぐっと身を乗り出してくる。


 待ってください。とどめは、最後まで言わせてからにしてください。


「あなたがお望みなら、私は身を引きます」


 旦那様の動きが、ぴたりと止まった。




「ですから……解毒剤をいただけませんか。離縁状には、今夜のうちに署名いたしますので」




「……解毒剤?」


 旦那様が、ゆっくりと聞き返した。


 この期に及んで、とぼけるおつもりなのね。


「この煮込みに、毒を入れてくださったのでしょう?」


 旦那様は私のお皿をさっと取り上げると、自分のスプーンで煮込みを口へ運んだ。


「えっ……な、何を」


 止める間もなく、ごくりと飲み込んでしまう。


 眉間に、深いしわが刻まれた。


「……辛いな」


 辛いで済むはずがない。


「は、吐いてください、今すぐ! 旦那様まで倒れたら、あの女性はどうなるのですか!」


「女性?」


「お好きなのでしょう」


「誰が」


「旦那様が」


「……待て」


 旦那様は額を押さえた。


「この料理で、私が君を殺そうとしたと?」


「舌が痺れましたので」


「火噛み椒だ。東の香辛料で、そういう味がする」


「では、この苦さは」


「少し焦がした」


「甘いのは」


「苦みを消せるかと思った」


 私は旦那様を見た。旦那様も、私を見た。


「そこまでお分かりなら、どうして料理長に作り直させなかったのですか」


「料理長は、今夜は厨房に入れていない」


「では、どなたが」


 旦那様は、ぐっと口を結んだ。耳の先が、ほんのり赤い。




「……私が作った」




 今度は、私が黙る番だった。


「旦那様が、直接?」


「視察の日、君はあの店の料理を気に入っていただろう。また食べたい、と」


 そんなこと、言ったかしら。


「野営では、わりと得意だったからな。せっかくなら、腕をふるおうと思った」


 ちょっと誇らしそうだ。


「味見はなさらなかったのですか」


「した。何度もした。途中から舌が痺れて、何が足りないのか分からなくなった」


 それで、ご自分のお皿には手をつけなかったのですね。


「では、夜ごと食堂へ通っていらしたのは」


「店を閉めたあとなら教えられると、女将が言ってくれた」


 女将さん。


 夜遅くまで付き合わせていたのは、女将さんだったらしい。


「では、視察の日、あの女性のほうばかり見ていらしたのは」


「給仕の娘か? 注文のほかは、口をきいたこともないが」


「見ていました。私の肩越しに、何度も」


「……君を見ていたんだ」


 旦那様が、ふいと目をそらした。


「君が、あまりにおいしそうに食べるから」


 ……え?


 私を、見ていた? あの女性ではなく?


 旦那様の視線ばかり気になって、味なんてひとつも覚えていないのに。そんな私のひと言のために、この人は夜ごと下町へ通っていたの?


 顔が、一気に熱くなった。舌の痺れなんて、どこかへ飛んでいってしまう。


「そ、そんなはず……だって旦那様、夕食もご一緒してくださらないし、寝室だって」


「夕食は……向かいに座ると、君ばかり見て食事にならない」


 朝食は、毎朝向かいに座っていらっしゃいますけれど。


「朝は、仕事の前だから我慢している」


 我慢。


「寝室は、陛下の命で嫁いできた君に、無理をさせたくなかった」


 旦那様は耳まで赤くして、ぼそりと続けた。


「好きな相手に、嫌われたくはないだろう」




 好きな、相手。




 うそ。ほんとうに? この人が、私を?


 声が出ない。私は両手で頬を押さえたまま、ぶんぶんと首を横に振った。嫌うなんて、とんでもない。


 旦那様は目を伏せ、少し言いにくそうに付け足す。


「……まさか、毒だと思われるとは」


「も、申し訳ありません」


「ですが、そのお言葉を先にいただきたかったです」


 旦那様は、ぐっと言葉に詰まった。


「……善処する」


 戦の報告みたいな返事だった。


 旦那様がお皿を下げようとしたので、私はその手を止めた。


「いただきます」


「無理はしなくていい」


「私が食べたいのです」


 改めて、ひと匙すくって口へ運ぶ。


 辛くて、苦くて、やっぱり甘い。


 戦場の英雄が、夜ごと女将さんに頭を下げて、この料理を習っていた……そう思ったら、どうしても頬がゆるんでしまう。


「どうだ……?」


 さっきと同じ声で、尋ねられた。


 私は今度こそ、正直に答える。




「おいしくはありませんが、幸せです」




 旦那様は、困ったように笑った。初めて見る顔だった。


「次は、おいしく作る」


「また、作ってくださるのですか?」


「君がよければ」


 もちろんです。


 うなずくと、旦那様は少し迷ってから、私の肩のあたりに目をやった。


「……それと。そのドレス、よく似合っている」


 私は笑って、残りの煮込みをひと匙残らず食べきった。


 食事のあと、旦那様は私を部屋の前まで送ってくれた。いつもは、食堂の前で別れるのに。


 扉の前で、旦那様が足を止める。


「明日の朝食で、ゆっくり話そう。……これからのことも」


 これからのこと。


 明日の朝が、こんなに待ち遠しいのは初めてだ。

 扉を閉めても、向こう側の足音はなかなか遠ざからなかった。

 お腹の奥が、きゅうっとする。きっと、恋というのはこういうものなのだ。





 ――そして、翌朝。


 私は腹痛で寝込み、寝台の横には、いつもの無表情が嘘みたいにしょげかえった旦那様がいた。





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