私は今夜、夫に毒殺されるようです
嫁いで半年。夫にこんなにじっと見つめられるのは、初めてのことだった。
ただし、見られているのは私の顔ではない。口元だ。
今夜の夕食に、見慣れない煮込みが出てきた。赤黒いとろみの中に、牛肉と、名前も分からない粒がいくつも沈んでいる。
ひと口食べた途端、舌がびりびりと痺れはじめた。遅れて喉の奥がかっと熱くなり、額にじわりと汗がにじむ。水を飲んでも、ちっとも治まらない。
夫は、自分の皿に手もつけていない。
「どうだ……?」
いつもは料理の感想なんて、一度も聞かない人なのに。
今夜に限って身を乗り出し、私の答えを待っている。まるで、何かがばれていないか確かめるみたいに。
――ああ、そういうことね。
私は今夜、毒殺されるようです。
「……よく、効いております」
夫の眉が寄った。
「入れすぎたか」
入れすぎた。
……旦那様、今、はっきりおっしゃいましたね?
私の夫、ジークヴァルト・ローエン侯爵は、戦の手柄で伯爵から侯爵になった人だ。陛下の信頼も厚い。青みがかった黒髪に、よく整った顔立ち。そして、愛想はない。
私、ノエラがこの方に嫁いだのは、半年前だ。陛下のお声がかりの縁談だから、世間では政略結婚と呼ばれている。
けれど私は、戦勝の行進で旦那様を見た日から、ずっとお慕いしていた。朝食の席へ行くだけで好きな人の顔が見られるなんて、結婚ってなんて素晴らしい仕組みなのかしら。
返事が「そうか」ばかりでも、夕食をご一緒できなくても、寝室が別でも、私はそれなりに幸せだった。
どうやら、それどころではなかったらしい。
この人は私を、相当憎んでいたのだ。
心当たりなら、ある。
だって、旦那様には好きな人がいるのだから。
ひと月ほど前から、旦那様は夜ごと下町の食堂へ通っている。使用人たちのあいだでは、若い愛人ができたと噂だ。
その食堂には、視察の帰りに私も連れていってもらったことがある。給仕をしてくれたのは、栗色の髪の、よく笑う女性だった。
食事のあいだ、旦那様は何度も私の肩越しに、彼女のいるほうを見ていた。帰り際には一人で店の奥へ引き返し、なかなか戻ってこなかった。
きっと、あの女性なのだろう。
だからといって、私を消そうとしなくてもいいのに。
「水が足りないか」
旦那様が、水差しを持ち上げた。
「ありがとうございます」
こんなときでも、お礼は口から出るものらしい。飲み干すと、すぐに次を注いでくれる。
ずいぶん親切な毒殺だ。
思えば今夜は、初めから様子がおかしかった。旦那様のほうから「二人で夕食を」と誘ってくれて、料理が並ぶなり使用人を全員下がらせたのだ。
私は浮かれて新しいドレスに着替え、髪まで巻いてきた。なのに、結局今夜も「似合う」のひと言もまだない。
「今夜の料理は、君のためだけに用意した」
「私にだけ、ですか」
「ああ。特別だ」
つまり、自分の皿には入っていないということね。
交換してくださいと言ったら、どんな顔をするのかしら。
「全部、食べられそうか」
全部食べさせて、確実に仕留めるおつもりなのね。
ここでスプーンを置いたら、毒に気づいたと知られてしまう。そうなれば旦那様は、毒よりずっと早い方法に切り替えるだろう。あの方の剣の腕は、国でいちばんなのだ。
逃げようにも、私が椅子を引いているあいだに、戦場の英雄は扉の前へ回りこんでしまうだろう。
食べるのをやめても駄目。逃げても駄目。
だから私は、何も気づいていない顔で、次のひと匙をすくった。
……それに、旦那様と二人きりの夕食なんて、嫁いで初めてなのだ。
毒が回りきるまでは、この時間を楽しんだっていいはずだ。
口に入れると、牛肉がほろりと崩れた。匂いも悪くない。ただ、辛さと苦さがいつまでも舌に残り、飲み込んだあとで、なぜか妙に甘いものがやってくる。
よくこれだけ、いろいろな味をひと皿に詰めこんだものね。
「一度食べたら、忘れられない味だそうだ」
忘れる前に、私のほうがいなくなります。
「……ええ。きっと、一生忘れません」
そう答えると、旦那様の顔がふっと明るくなった。
褒めてはいません。けれど、私が次のひと口を食べないので、気になったらしい。
「無理はしなくていい。別のものを運ばせよう」
別のもの。
次はもっと強い毒が出てくるのかもしれない。今のところは、舌が痺れるだけで済んでいるのに。
「いえ、少しお待ちください」
私はお皿をそっと手元へ引き寄せた。
「……いつから、お考えだったのですか」
覚悟を決めて尋ねた。
「あの食堂へ行った日からだ」
即答だった。
「今日まで、ずっと?」
「ああ。君に気づかれないようにするのが、いちばん大変だった」
「あの女性にも、お手伝いいただいたのでしょう」
旦那様の目が、大きく見開かれた。
「……そこまで知っていたのか」
「ええ」
「あの人がいなければ、ここまではできなかった。夜遅くまで付き合わせてしまった」
夜遅くまで。
聞いたのは私だ。なのに、舌より胸のほうがひりひりする。
「本当は、もう少し驚かせるつもりだったんだが」
十分、驚いておりますとも。
私は水をひと口飲んで、考えた。
死にたくはない。
けれど、毒まで使うほど邪魔だったなんて。離縁してくれと言われれば、それで済んだのに。
……言われていたら、泣いていただろうけれど。
そう思ったら、痺れた舌が急に怖くなった。これが喉まで下りてきて、息ができなくなったら。
視界がにじむ。ぽたりと、涙がテーブルクロスに落ちた。
「……どうした」
旦那様の顔から、さっと血の気が引いた。
「どこか痛むのか。すぐに医者を――」
医者を呼んだら、毒がばれてしまいますよ。
こんな顔も、なさるのね。
この方はきっと、私が陛下に言われて、仕方なく嫁いできたと思っている。
それだけは、違うと伝えておきたい。
私は涙をぬぐい、スプーンを置いて背筋を伸ばした。
「旦那様。私は、あなたに嫁げて幸せでした」
水差しを握ったまま、旦那様が固まった。私はかまわず続ける。
「ずっと、お慕いしておりました。あなたとこうして食事ができるだけで、毎日うれしかったのです」
今度は旦那様が、椅子から腰を浮かせた。
「君は――」
テーブルに手をついて、ぐっと身を乗り出してくる。
待ってください。とどめは、最後まで言わせてからにしてください。
「あなたがお望みなら、私は身を引きます」
旦那様の動きが、ぴたりと止まった。
「ですから……解毒剤をいただけませんか。離縁状には、今夜のうちに署名いたしますので」
「……解毒剤?」
旦那様が、ゆっくりと聞き返した。
この期に及んで、とぼけるおつもりなのね。
「この煮込みに、毒を入れてくださったのでしょう?」
旦那様は私のお皿をさっと取り上げると、自分のスプーンで煮込みを口へ運んだ。
「えっ……な、何を」
止める間もなく、ごくりと飲み込んでしまう。
眉間に、深いしわが刻まれた。
「……辛いな」
辛いで済むはずがない。
「は、吐いてください、今すぐ! 旦那様まで倒れたら、あの女性はどうなるのですか!」
「女性?」
「お好きなのでしょう」
「誰が」
「旦那様が」
「……待て」
旦那様は額を押さえた。
「この料理で、私が君を殺そうとしたと?」
「舌が痺れましたので」
「火噛み椒だ。東の香辛料で、そういう味がする」
「では、この苦さは」
「少し焦がした」
「甘いのは」
「苦みを消せるかと思った」
私は旦那様を見た。旦那様も、私を見た。
「そこまでお分かりなら、どうして料理長に作り直させなかったのですか」
「料理長は、今夜は厨房に入れていない」
「では、どなたが」
旦那様は、ぐっと口を結んだ。耳の先が、ほんのり赤い。
「……私が作った」
今度は、私が黙る番だった。
「旦那様が、直接?」
「視察の日、君はあの店の料理を気に入っていただろう。また食べたい、と」
そんなこと、言ったかしら。
「野営では、わりと得意だったからな。せっかくなら、腕をふるおうと思った」
ちょっと誇らしそうだ。
「味見はなさらなかったのですか」
「した。何度もした。途中から舌が痺れて、何が足りないのか分からなくなった」
それで、ご自分のお皿には手をつけなかったのですね。
「では、夜ごと食堂へ通っていらしたのは」
「店を閉めたあとなら教えられると、女将が言ってくれた」
女将さん。
夜遅くまで付き合わせていたのは、女将さんだったらしい。
「では、視察の日、あの女性のほうばかり見ていらしたのは」
「給仕の娘か? 注文のほかは、口をきいたこともないが」
「見ていました。私の肩越しに、何度も」
「……君を見ていたんだ」
旦那様が、ふいと目をそらした。
「君が、あまりにおいしそうに食べるから」
……え?
私を、見ていた? あの女性ではなく?
旦那様の視線ばかり気になって、味なんてひとつも覚えていないのに。そんな私のひと言のために、この人は夜ごと下町へ通っていたの?
顔が、一気に熱くなった。舌の痺れなんて、どこかへ飛んでいってしまう。
「そ、そんなはず……だって旦那様、夕食もご一緒してくださらないし、寝室だって」
「夕食は……向かいに座ると、君ばかり見て食事にならない」
朝食は、毎朝向かいに座っていらっしゃいますけれど。
「朝は、仕事の前だから我慢している」
我慢。
「寝室は、陛下の命で嫁いできた君に、無理をさせたくなかった」
旦那様は耳まで赤くして、ぼそりと続けた。
「好きな相手に、嫌われたくはないだろう」
好きな、相手。
うそ。ほんとうに? この人が、私を?
声が出ない。私は両手で頬を押さえたまま、ぶんぶんと首を横に振った。嫌うなんて、とんでもない。
旦那様は目を伏せ、少し言いにくそうに付け足す。
「……まさか、毒だと思われるとは」
「も、申し訳ありません」
「ですが、そのお言葉を先にいただきたかったです」
旦那様は、ぐっと言葉に詰まった。
「……善処する」
戦の報告みたいな返事だった。
旦那様がお皿を下げようとしたので、私はその手を止めた。
「いただきます」
「無理はしなくていい」
「私が食べたいのです」
改めて、ひと匙すくって口へ運ぶ。
辛くて、苦くて、やっぱり甘い。
戦場の英雄が、夜ごと女将さんに頭を下げて、この料理を習っていた……そう思ったら、どうしても頬がゆるんでしまう。
「どうだ……?」
さっきと同じ声で、尋ねられた。
私は今度こそ、正直に答える。
「おいしくはありませんが、幸せです」
旦那様は、困ったように笑った。初めて見る顔だった。
「次は、おいしく作る」
「また、作ってくださるのですか?」
「君がよければ」
もちろんです。
うなずくと、旦那様は少し迷ってから、私の肩のあたりに目をやった。
「……それと。そのドレス、よく似合っている」
私は笑って、残りの煮込みをひと匙残らず食べきった。
食事のあと、旦那様は私を部屋の前まで送ってくれた。いつもは、食堂の前で別れるのに。
扉の前で、旦那様が足を止める。
「明日の朝食で、ゆっくり話そう。……これからのことも」
これからのこと。
明日の朝が、こんなに待ち遠しいのは初めてだ。
扉を閉めても、向こう側の足音はなかなか遠ざからなかった。
お腹の奥が、きゅうっとする。きっと、恋というのはこういうものなのだ。
――そして、翌朝。
私は腹痛で寝込み、寝台の横には、いつもの無表情が嘘みたいにしょげかえった旦那様がいた。
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