東都銀行、地下の亡霊(とうとぎんこう、ちかのぼうれい)
東都銀行の本店ビルは、戦後すぐに業務を停止し、今は巨大なコンクリートの墓標と化していた。
真夜中、濃い霧が築地の魚市場の腐臭を乗せて、ビルの壁面にへばりつく。龍二は、葉月に懐中電灯を持たせ、裏手の、サービスカー用の傾斜路から地下へと降りて行った。
「呼吸を止めろ、葉月。ここは、金と裏切りの臭いが凝り固まっている」
龍二の声は、地下の冷たい空気に反響し、異様なほど大きく聞こえた。
スケッチブックから破り取った図面が、唯一の灯りだ。図面によれば、旧金庫室は地下三階にある。
地下二階。途方もなく広い空間だった。天井は低く、埃を被った事務机や金庫が、まるで巨大な怪物の骨のように散乱している。龍二は、懐のコルトM1903の冷たい感触を頼りに、警戒しながら進んだ。
葉月は、まるで自分の心臓の音に怯えているかのように、微かに震えていた。彼女は、龍二の背中だけを、唯一の現実の錨として見つめていた。
「この柱の裏に、地下三階へ続く隠し階段があるはずだ」
龍二は、図面に描かれた指示に従い、分厚いコンクリートの柱を叩いた。音は鈍い。だが、彼は憲兵隊時代、満州の地下壕を探す訓練を受けていた。
「ここだ」
彼は持参したバールを使い、柱の付け根にある鉄板を無理やり剥がした。錆びた蝶番が不快な悲鳴を上げ、隠された階段が現れた。
地下三階。空気はさらに澱んでいた。
龍二は葉月を先に降ろし、自分は銃を構えたまま背後を守った。
「貸金庫室だ……」
葉月が、震える声で呟いた。
目の前には、巨大な鋼鉄の扉。戦時中の軍需物資保管を目的とした、厚さ一メートル近い、円形の金庫扉だ。扉の周囲のコンクリートは、年月によりひび割れているが、扉自体は、まるで時間の流れを拒むように、重厚な威圧感を放っている。
「さすがだ、柏木耕治。これなら、空襲でも焼け落ちなかっただろう」
龍二は舌打ちした。これほどの扉をこじ開けることは、この場では不可能だ。
「何か、錠前を解除する『合図』はなかったのか?」龍二は葉月を振り返った。
「合図……」葉月は図面を思い出し、再びスケッチブックの残りのページをめくり始めた。
「耕治さんが、この扉の絵も描いていたんです。鍵穴の横に……**『真実を求むる者は、東の音を聞く』**って」
「東の音?」
龍二は考える。東都銀行。東。音。
「東……イースト・メトロポリタン・バンク……E.M.B.……」
龍二は、扉のダイヤル式の錠前を調べた。錠前には、既にダイヤルの取っ手が外され、代わりに小さな四角い穴が空いていた。
彼は、その穴にコルトの銃身を突きつけようとしたが、葉月が悲鳴を上げた。
「待って! 耕治さんは言いました。『東の音』は、**『絵筆の振動』**だと!」
葉月は、自分のスケッチブックから、先のページを破り取った。そこには、金庫扉の鍵穴周辺の緻密なデッサンが描かれていた。
「耕治さんは、ここが音に反応する仕組みだと知っていたんです! 振動で、内部のセンサーが……」
龍二は一瞬の判断を迫られた。この女の言葉を信じるか。
彼は逡巡の末、葉月の差し出したスケッチブックの紙片をダイヤルの空いた穴に差し込み、コルトのグリップエンドで、その紙片の裏を強打した。
キン。
乾いた金属音が、ダイヤル内部に響く。
すると、古びた錠前が、二十年ぶりに、ゆっくりと**「カチリ」**という、希望とも絶望ともつかない小さな音を立てた。
開いた。
龍二は鋼鉄の扉を押し開け、先に中へと飛び込んだ。
金庫室内部は、外界よりもさらに冷たかった。中央には、いくつものロッカー式の貸金庫が並んでいるが、多くは空っぽだ。
龍二は、図面に描かれていた目印を探した。東南隅。
そこには、他の貸金庫とは異質の、高さ一メートルほどの、黒い鉄製の箱が、ボルトで床に固定されていた。
龍二はバールを箱の隙間に差し込み、全身の体重を乗せて軋むボルトを引き剥がした。
「あった……」
箱の蓋を開けた瞬間、龍二は一瞬、息を止めた。
中には、金銀財宝ではなく、古びた革製の黒い帳簿が、恭しく収められていた。表紙には、金文字で**『資金源管理簿』とある。これこそが、M資金の黒い流れ、そして戦後の日本を裏から支配する人脈の全容を記した、『黒い帳簿』**だった。
龍二が、その帳簿に手を伸ばした、その時。
背後の暗闇から、冷たい銃声が響いた。
「動くな、久道龍二」
音は、龍二の頭上、数センチのコンクリートを砕いた。
龍二は反射的に、金庫室の床に飛び伏した。その動きは、弾丸よりも速い。
「さすが、元憲兵曹長殿。犬のように鼻が利く」
暗闇の中から、背広を着た男が、ゆっくりと姿を現した。彼は、帝国ホテルで龍二が顔を焼いた男ではない。もっと冷酷で、より専門的な、殺し屋の匂いがする。
「貴様は……カノン機関の犬か」
龍二は這い蹲ったまま、問いかけた。
男は静かに、銃口の煙を息で吹き払った。彼の手には、GHQ憲兵隊が使用するM1911オートマチックが握られていた。
「私は佐藤。スマイリーと呼ぶ者もいる。貴様が、我が組織の秘密に土足で踏み込んだ、その代償を払いに来た」
佐藤の瞳は、感情を一切持たない。それは、龍二が戦場で何度も見てきた、訓練された**暗殺者**の目だった。
「その帳簿は、貴様の汚れた手には重すぎる。それは、日本という国の未来を保証するための、最後の保険だ」
「保険だと? それは、腐敗した権力者どもの悪行の記録だ!」
龍二は怒鳴りながら、金庫室の隅にある金属製のロッカーの陰へと移動した。
「葉月! 逃げろ!」
龍二は、そう叫んだが、葉月は恐怖でその場に立ち尽くしていた。
佐藤は、葉月を無視し、龍二に向かって歩み寄る。
「無駄だ。貴様は、あの腐りきった憲兵隊の亡霊と共に、この地下で死ぬ運命だ」
佐藤は銃口を龍二に向け、引き金を引こうとした。
その瞬間、龍二は懐のコルトを抜き、ロッカーの陰から佐藤の足元に向かって、盲目的な連射を浴びせた。
ダダダァン!
狭い地下空間で、銃声は地獄の雷鳴のように響いた。
佐藤は反射的に後退したが、龍二の放った最後の弾丸が、彼の利き腕の肩を掠めた。
「ぐっ……!」
佐藤は呻き声を上げ、M1911を床に落とした。しかし、彼はすぐに負傷した腕を抑えながら、素早く金庫室の外へと後退した。
龍二は立ち上がり、落とされたM1911を蹴り飛ばした。
「逃がすか!」
龍二は追跡しようとしたが、突然、全身の力が抜けるのを感じた。
彼は自分の腹部を見た。そこには、佐藤の銃弾が、皮一枚で貫通した小さな血痕があった。致命傷ではない。だが、激しい痛みと共に、体力を奪っている。
龍二は息を荒げ、黒い帳簿を抱きしめた。
「手に入れた……」
彼の眼前で、黒い帳簿の表面が、冷たく光を反射していた。
だが、その勝利の裏で、葉月は、金庫室の入口付近で、自分の手を見つめていた。
彼女の手に握られていたのは、龍二の命令を無視して、彼を守るために投げつけられた、小さな石のデッサン像だった。
この帳簿は、龍二の命の代償に、この地下から持ち出されようとしている。だが、その代償を払ったのは、彼一人ではなかった。




