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鍵と鉄と水の匂い(かぎとてつとみずのにおい)

芝浦しばうら埠頭ふとう

錆びた波止場に打ち付ける波の音だけが、帝都の喧騒から切り離された、この空間の存在を主張していた。

久道龍二は、廃墟と化した倉庫の隅に、真木葉月を引きずり込んだ。外気よりも冷たい潮風が、破れた窓枠から吹き込み、埃と鉄の臭いを運んでくる。

「大人しくしていろ。騒ぎを起こしたら、ここで死ぬのは貴様だけじゃ済まねえぞ」

龍二はそう言い放ち、コートを脱ぐことなく、地面に座り込んだ。彼の全身から、雨と汗と、帝国ホテルでの戦闘で付着した恐怖の匂いが立ち上っている。

葉月は壁に背中を押し付け、寒さと恐怖で全身を震わせていた。彼女の足元には、泥と水滴に濡れたスケッチブックが置かれている。

「貴方は……柏木さんを助けてくれた方じゃない」

葉月の声は、か細い糸のように震えていた。彼女は、目の前の男の瞳に宿る殺気の炎を、はっきりと見たのだ。

「俺は貴様の金で動いている。それだけだ。だがな、あのホテルの連中に捕まれば、貴様は舌を噛み切る暇もなく、柏木と同じ場所へ送られる」

龍二はタバコに火をつけ、スケッチブックを足で引き寄せた。

「さあ、吐け。この中には何が描かれている? これは、柏木耕治が残した『鍵』なんだろう」

葉月はうつむいたまま、首を横に振った。

「分かりません。耕治こうじさんは、ただデッサンを続けてくれと……それだけ」

「デッサンだと? そんなものが、特高の残党とGHQを動かすと思っているのか!」

龍二は声を荒げた。一瞬、かつての憲兵隊曹長としての厳しい声が蘇る。

葉月は怯えて泣き出した。嗚咽おえつが、倉庫の広大な空間に虚しく響く。

「耕治さんは……戦争で全てが変わったと。言葉は嘘をつくが、絵は嘘をつかないと。だから、風景を、建物を、記憶を、ありのまま描くことが大事なんだって……」

龍二は、その言葉に違和感を覚えた。柏木耕治は、ただの経済学部生ではない。彼は、巨大な陰謀を暴こうとした男だ。彼が残したものが、単なる風景画であるはずがない。

龍二はスケッチブックを乱暴に開き、中身を調べ始めた。

鉛筆の濃淡で描かれた、東京の風景。

上野公園の木々。荒川の橋梁。そして、崩れかけたレンガ造りの建物のデッサン。

確かに、技巧は優れているが、秘密を示すような暗号は見当たらない。

「ふざけるな。これは、ただの風景画だ。時間稼ぎのつもりか?」

龍二は苛立ち、次のページをめくった。その瞬間、彼の指が止まった。

そこにあったのは、風景ではない。

一枚の緻密なチャコール画。

それは、まるで空撮写真のように俯瞰ふかんで描かれた、古びた地下壕ちかごうの図面だった。正確な寸法。換気口の位置。そして、図面の隅には、小さく、しかし明確な文字で、**「東都銀行・旧地下金庫」**と記されていた。

東都銀行。戦時中、軍需産業に深く関与していた、今は解体された巨大銀行だ。その旧金庫室。

「これだ……これが、鍵だ」

龍二の乾いた唇から、掠れた声が漏れた。

葉月は龍二の隣に這い寄り、図面を覗き込んだ。

「あ、これ……耕治さんが、最後の夜に徹夜で描いていたものです。どこかのビルの地下室だと……」

「ビルじゃない。金庫だ。地下金庫の構造図面だ。なぜ、こんなものが描けた?」

「耕治さんは、戦時中に軍の秘密施設の建設に関わっていたという、退役技師から情報を得ていたようです。その技師は、戦後、全ての秘密を絵として残すことで、自分を許そうとしていた、と……」

龍二の脳裏に、柏木耕治の死体の胸にあった、あの奇妙な焼き印が蘇った。あの印は、秘密を結びつける儀式的な証。そして、この図面は、その秘密の所在を示す地図。

「東都銀行の金庫室が、柏木の探していた『黒い帳簿』の隠し場所だ」

龍二は図面をスケッチブックから破り取った。その紙は古いが、鉛筆の線は力強い。

「あそこに行けば、帳簿がある。そして、その帳簿を手に入れれば、あの女、レイコに金を要求できる」

龍二の瞳に、わずかながら、生存への執着が戻った。

だが、葉月は、図面ではなく、龍二の顔を見上げていた。

「どうして、そんなに怖い顔をするんですか……耕治さんは、この帳簿を『平和の証』として世に出したかった。貴方は……」

「平和だと? この東京のどこに、そんな生温い言葉が存在する? 俺が追っているのは、平和じゃねえ。暴力と、裏切りと、そしてこの命の代償だ」

龍二は立ち上がり、コルトの安全装置を外した。冷たい鉄の感触が、彼の神経を研ぎ澄ませる。

「東都銀行。今すぐ行くぞ。貴様はここで待て。……いや、待てないな」

龍二は逡巡しゅんじゅんした。この女を一人にすれば、すぐにカノン機関の犬どもに捕まるだろう。そして、拷問の末に、この場所を吐かされる。

「来い。だが、足を引っ張るな。もし俺を裏切れば、あの死体よりも酷い目に遭わせてやる」

龍二はそう言い残し、スケッチブックの図面をコートの内ポケットに押し込み、倉庫の扉へと向かった。

外は、まだ夜の闇に包まれていた。潮風は強く、遠くで犬の吠える声が聞こえる。

龍二の背後で、葉月は恐怖に目を閉じながらも、立ち上がった。彼女の心の中には、恐怖と、そしてわずかな希望が、混在していた。

鍵は手に入れた。あとは、扉を開けるだけだ。

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