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帝国ホテル、影の待ち合わせ(ていこくホテル、かげのまちあわせ)

午後九時。銀座のネオンが、雨上がりの舗道に反射し、色とりどりの光の泥を作り上げていた。

久道龍二は、帝国ホテルの正面玄関から百メートル離れた路地に、黒い影のように立っていた。ホテルの入口では、厚地のコートを着たドアマンが微動だにせず客を迎えている。

ここは東京ではない。ここは、進駐軍(GHQ)と日本の上流階級が、敗戦を無視して踊り続ける、もう一つの国だ。龍二のくたびれたツイードのコートは、この場所では異物であり、**憲兵隊ケンペイ**の嗅覚は、この空気の中に漂う、甘い香水と腐った金銭の臭いを瞬時に嗅ぎ分けた。

ホテルの裏口。龍二は、古い煙草の灰と錆びた工具の匂いがするサービス用通用口を選んだ。かつての戦場では、正規の道を通る者は、必ず死んだ。

彼は、コックや給仕に紛れて、迷うことなくロビーへと潜り込んだ。

ロビーは、大理石と真鍮しんちゅうの光沢に満ちていた。米軍の高級将校が、日本の政治家や財界の男たちと、低く笑いながら葉巻をくゆらせている。誰もが顔に分厚い仮面を貼り付けている。

目指すは、二階のティーラウンジ**『オリエンタル』**だ。

階段を上がる龍二の足取りは、音を立てない。彼の目は、常に周囲の動きを捉えていた。特に、目立たない隅のテーブルで新聞を読んでいる、背広姿の男たち。彼らは、客のフリをしているが、その瞳は常に、入口と階段に向けられている。

『カノン機関』の犬どもだ。

ティーラウンジ。

白亜のテーブルとベルベットの椅子。優雅なピアノの旋律が、この場の緊迫感をかき消そうと虚しく響いている。龍二は、すぐに『鍵』となる人物を見つけた。

隅の、薄暗いテーブル。

真木葉月まき はづき

彼女は井上が言った通り、上野の美術学校の学生だろう。粗末な木綿のワンピースに、肩から提げた大きなスケッチブックが場違いに浮いていた。彼女の顔色は青ざめ、手のひらで冷たくなったコーヒーカップを包み込んでいる。

彼女は、明らかに誰かを待っている。そして、その『誰か』が来ることで、全てが終わることを恐れていた。

龍二は、ホテルのウェイターを呼び止め、葉月のテーブルとは対角線上の、最も警戒しやすい位置に陣取った。

「一番苦いコーヒーを」

龍二は、甘いものを嫌った。この街の甘い誘惑は、常に毒を隠している。

席に着き、龍二は葉月を観察した。彼女は常にティーラウンジの入り口を見つめ、たまに、不安を誤魔化すようにスケッチブックを撫でている。そのスケッチブックが、柏木耕治が残した『鍵』に違いない。

十分が経過した。九時十五分。

その時、一人の男がラウンジに入ってきた。

**「スマイリー」**と呼ばれていた、GHQ憲兵隊の日本人通訳、**佐藤さとう**だ。彼は日本人だが、その仕草はアメリカ兵よりも傲慢だ。

佐藤は、葉月の方へは行かず、龍二が警戒していた、新聞を読む三人の男のテーブルへと向かった。

――罠だ。

龍二はグラスの中の氷が溶ける音を聞きながら、確信した。彼らは、柏木を殺した名簿を追っていると同時に、誰が柏木の鍵を取りに来るかを**「餌」**で待っていたのだ。

佐藤が男たちと何かを囁き合うと、三人は同時に新聞を閉じ、ラウンジ全体を見回した。その視線が、龍二のテーブルを掠める。

「真木葉月さんですね」

龍二は立ち上がり、葉月のテーブルへと向かった。彼は微笑まない。表情は、満州の冬の空のように硬い。

葉月は龍二の気配に気づき、飛び上がるように顔を上げた。その目には、恐怖と警戒心が混ざり合っている。

「ど、どちら様ですか……」

「久道だ。柏木耕治から預かった者だ」

龍二は簡潔に言った。言葉の裏に、一切の親切心も偽りもない。

「柏木さんから……? 何も聞いていません」

葉月は、スケッチブックを胸に抱きしめ、警戒を露わにした。当然の反応だ。この薄汚れた男が、あの優雅な学生の仲間だとは信じられないだろう。

「嘘をつくな。俺はお前のスケッチブックの『中身』が目的でここに来た。このままでは、お前はすぐにあの連中に連れ去られるぞ」

龍二は、ティーラウンジの入口を指差した。新聞を閉じた三人の男が、ゆっくりと葉月のテーブルを囲むように動き始めている。

葉月の顔から血の気が完全に失せた。彼女は自分が罠にかかったことに、初めて気づいたのだ。

「私には、何もありません! ただの、デッサン帳です!」

「デッサン帳を見せろ!」

龍二は、ほぼ命令するような口調だった。その時、三人の男のうちの一人が、龍二に向かって歩み寄り始めた。

「失礼。我々は警視庁の人間だ。そちらの女性に、参考人として少々お話を伺いたい」

偽警官だ。彼らは、GHQの手先として動く、日本の警察組織の残滓ざんしだ。

「悪いな。この女は、俺が先に予約した」

龍二は、その偽警官の胸元に、一発の「ピース」を突きつけた。

「静かにしろ。騒ぎを起こすな」

「貴様!」

偽警官が龍二を掴もうと手を伸ばした瞬間、龍二はピースを放り投げ、その火のついた先端を男の顔面に押しつけた。男は小さく「あちっ」と声を上げ、体勢を崩す。

この一瞬の隙。

龍二は、葉月の腕を掴み、問答無用で引きずり上げた。そして、彼女の抱えていたスケッチブックを力ずくで奪い取った。

「逃げるぞ!」

ティーラウンジは騒然となった。

龍二は、葉月のスケッチブックを脇に抱え、そのまま窓際のテーブルを蹴り倒し、逃走経路を確保した。

「捕まえろ! 撃つぞ!」

背後で、偽警官たちの怒声が響く。だが、龍二はすでに、窓の外の薄暗い非常階段へと続くテラスへと飛び出していた。

龍二はテラスの手すりを飛び越え、非常階段の鉄骨に飛び移る。

彼の手には、凍えるような金属の冷たさと、そしてスケッチブックの乾いた紙の感触だけが残っていた。

この紙切れ一つが、東京の、いや、日本という国の運命を握っている。

龍二は、追手の銃弾が頭上の空気の層を切り裂く音を聞きながら、闇の中へと消えていった。

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