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白昼の賭場(はくちゅうのとば)

久道龍二は、上野の煤煙と泥濘ぬかるみを捨て、銀座のコンクリートの上を歩いていた。

敗戦の傷跡は、この街にも残されていたが、上野が貧困と悪意の発酵した臭いなら、銀座は腐敗した資本と権力の、凍てついた臭いだった。米兵向けの高級クラブ、横流しの舶来品を並べるショーウィンドウ。全てが、敗戦国にあるまじき、虚飾きょしょくの輝きを放っていた。

目指す場所は、晴海通りから一本入った裏路地のビル、その地下二階。

そこは表向きはダンスホールだが、奥はヤクザの仕切る違法な賭場、そして闇の資金洗浄所だった。

階段を降りるたび、空気は重くなり、湿気を帯びた札の臭いと、汗、そして緊張の熱気が混ざり合う。

重い鉄扉をノックもせずに開けると、一瞬、場内の喧騒が止んだ。

畳敷きの部屋には、十数人の男たちが集まっている。賭博台の中央では、若頭わかがしら朱盆しゅぼんを前に座り、サイコロの音だけが、不規則なリズムを刻んでいる。客の中には、背広姿の政治家崩れや、革ジャンを着た「第三国人」の姿も見えた。

「これはこれは、久道さんじゃありませんか」

若頭の**井上いのうえ**が、口元に張り付けた笑みを深くした。三十代半ばの男だが、既にその瞳の奥には、裏切りの数だけできた深い皺が刻まれている。井上は、戦前、龍二が叩き上げた愚連隊の一員だった。

「何の用だ、元憲兵殿。ここは特高のシマじゃねえぞ」

「商売だ、井上。お前が仕切っている賭場じゃなくて、お前の『情報』を買いたい」

龍二は脇目も振らず、部屋の隅の、最も暗い場所に腰を下ろした。

「ずいぶん金回りがいいようですな。まさか、お前さんもM資金の噂を嗅ぎつけて、犬っころのように這いずり回っているんじゃねえだろうな」

井上はサイコロを振りながら、龍二を挑発した。この男は、龍二の落ちぶれた現状を知っているからこそ、高圧的だ。

「無駄口を叩くな。俺は、柏木耕治という名の男について尋ねに来た。東大の経済学部だ。お前たちのシマで、最近妙な調査をしていたはずだ」

井上が静かに朱盆を置いた。場の空気が、瞬間的に冷え込む。

「……そいつは、お高くとまった学生だ。うちの組が横流ししている米軍物資の価格について、しつこく嗅ぎ回っていた。それがどうした?」

「『カノン機関』という名を聞いたか。あるいは、背広を着た元軍人の三人組だ」

龍二は、哲から聞いた情報を一つずつぶつける。

井上は目線を龍二から外し、カウンターの奥の壁に固定した。龍二が核心に触れたことを示す、明確な反応だった。

「カノン機関……それは、お前さんの遊び相手には過ぎた代物だ。GHQの裏の顔だぜ。関われば、骨の髄まで吸い尽くされる」

「柏木はその骨の髄まで吸われた。お前は何も知らねえフリをするつもりか」

龍二は、懐から取り出した二つ折りの札束を、賭博台の縁に滑らせた。それはレイコから受け取った金の一部だった。

井上は札束を見つめたが、手を伸ばさない。その額では足りない、と言葉なき圧力で訴えてくる。

「井上。お前は戦前、俺に叩きのめされ、命乞いをしたことを忘れたか?」龍二は声を低くした。

「俺は今でも、お前のような生ゴミを、鼻先一つで嗅ぎ分け、地獄へ送ることができる。札束か、それともお前の命か。選べ」

脅しではない。それは、満州の荒野で憲兵曹長が発する、絶対的な暴力の予兆だった。井上の顔から、貼り付けた笑みが消え失せた。

「……ちっ。しょうに合わねえヤツだ」

井上は諦めたようにため息をつき、周囲の賭客に「少し席を外せ」と命じた。

「柏木耕治は、ただの学生じゃねえ。ヤツは、あの**『東条の金庫番』と呼ばれた、今は亡き大物政治家の隠し子の可能性が高い。ヤツが狙っていたのは、M資金の全容を記した、『大蔵省おおくらしょうの秘密名簿』**だ」

龍二は、それを聞いた瞬間、全ての点が線で繋がったのを感じた。柏木耕治の死は、単なる組織犯罪ではない。それは、戦後日本の権力構造そのものを揺るがす、クーデターにも等しい事件だ。

「その名簿はどこにある?」

「名簿が持ち去られた後、柏木は、自分の身に危険が迫った時のために、一つの『鍵』を信頼できる仲間に預けていたらしい」

井上は声をさらに潜め、まるで自分の舌の上で言葉を転がすのを恐れているようだった。

「鍵は、上野の美術学校に通う女に預けたと聞いている。名前は知らねえが、その女は**『帝国ホテルの喫茶室』**で、毎晩九時に誰かを待っている、という噂だ」

龍二は、札束を井上に押しやり、無言で立ち上がった。

「貸し一つだ、龍二。次に来る時は、死体になってくるなよ」

井上の声は届かなかった。龍二の頭の中には、ただ一つの光景だけが焼き付いていた。

帝国ホテル。

そこは、GHQの高級将校や、日本の財界人が密かに会合を持つ場所だ。泥と血にまみれた龍二とは、最もかけ離れた、**『表の東京』**の象徴。

龍二は再び、懐のコルトの冷たい感触を確かめた。

鍵はそこにある。そして、その鍵を守るために、柏木を殺した者たちが、必ずや待ち伏せしているだろう。

彼は、闇の賭場を出て、光と虚飾に満ちた銀座の街へと戻った。今夜、その光の奥で、血の雨が降ることを予感しながら。

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