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凍てついた依頼人(いてついた依頼にん)

二階にある久道龍二探偵事務所は、雨漏りと埃と、そして龍二自身の過去の悪夢が染み付いた、東京で最も孤独な場所だった。

狭い部屋の真ん中には、傷だらけの安っぽい木製デスクが一つ。鹿島レイコは、そのデスクの前に置かれた折りたたみ椅子に、背筋を伸ばして座っていた。

彼女の着ている小綺麗な洋装からは、湿ったカビの臭いがするこの事務所の空気に、微塵みじんも馴染もうとしない。化粧品の甘い匂いと、泥と安酒の臭いが混ざり合い、龍二の鼻腔を刺激した。

龍二はデスクの反対側に立ち、窓から差し込む薄暗い光の中に、レイコの横顔を捉えた。

「で。貴様は俺の事務所で、一体何を求めている?」

龍二はそう問いかけたが、その視線はレイコの指先――無理やり泥から引き上げられた際に微かに震えている、その指先から離れなかった。

「話は鮫島刑事から聞きました。私が探している人物と、あの死体が関係している、と」

レイコは静かに答えた。その声には感情の起伏がない。まるで、遠い雪山で凍りついた氷塊のような響きだった。

「その『人物』の名を言え」

「弟です。一週間前から行方不明に……」

「嘘だ」龍二は遮った。

「あの死体の写真を見たか。口には砂利が詰められ、胸には焼き印。あれはただの行方不明者じゃねえ。ヤクザの懲罰か、あるいは軍部の秘密のおきてに従った処刑だ。貴様の弟がそんな目に遭う理由を説明しろ。あるいは……」

龍二は一歩踏み出し、デスクに両手をついた。レイコが反射的に後ずさる。

「あるいは、あの死体こそが、貴様の探している『弟』なんじゃねえのか?」

レイコの顔色が、ろうのように白くなった。彼女は両膝の上で手を握り締め、爪が手のひらに食い込む。しかし、その瞳だけは、依然として冷たい炎を宿していた。

「……私の婚約者でした。**柏木耕治かしわぎ こうじ**と申します」

弟ではない。婚約者。その呼び名の裏に隠された真実を、龍二は嗅ぎ取っていた。婚約者という言葉は、社会的な体裁を保つための仮面だ。だが、その名前は聞く価値があった。

「柏木耕治。どこの誰だ。趣味は鉄道模型か?」龍二は嘲笑した。

「彼は……東大の経済学部に籍を置いていました。だが、戦後、彼はある秘密の調査にのめり込んでいた。終戦直前に旧陸軍が密かに隠匿した**『M資金』**に関する調査です」

M資金。

龍二の背筋に、氷を滑らせたような悪寒が走った。それは戦後の東京を覆う最も分厚い黒い霧だ。この街で起きる腐敗、汚職、そして暴力の、全ての根源と言われる伝説の資金。

「特務機関の亡霊に追われていると、うちのテツは聞いたぞ。柏木は何を知っていた?」

レイコは深呼吸をした。そして、彼女は初めて、目を伏せることなく龍二の瞳を見返した。

「彼は、M資金を非合法に運用している**黒い人脈の帳簿ちょうぼ**を見つけてしまいました。GHQと、日本の政治家、そしてヤクザが手を組んだ、裏の国家予算とも言うべき名簿です」

「名簿だと?」

「その名簿こそが、柏木が命懸けで守り、そして死体となって発見された時に持ち去られたものです」

レイコは、小さなカバンを開け、中からくしゃくしゃになった札束を取り出した。それは、龍二が半年働いても稼げないほどの、桁外れの金額だった。

「探偵さん。私の依頼は、柏木耕治の行方を探すことではありません」

札束は、血の臭いと欲望の臭いを放ち、デスクの上に無造作に置かれた。

「あの『黒い帳簿』を、この街の闇から見つけ出してほしいのです。それが世に出れば、日本という国は、根底から崩壊します」

龍二は札束には目もくれず、レイコの瞳だけを見ていた。彼女の言葉は全て嘘かもしれない。だが、その瞳の奥に宿る、強烈な使命感だけは本物だった。

「俺は、国家の崩壊なんてどうでもいい。だがな、貴様が俺のシマで嘘をつくことは許さねえ。……この仕事、命の保証はない。それでも、やるか?」

「ええ。命懸けで」

レイコは、凍てついた笑顔を浮かべた。

龍二はタバコの灰を床に落とし、札束を片手でデスクの引き出しに押し込んだ。彼がその瞬間、金に興味があったわけではない。彼はただ、再び血の臭いを嗅ぎたくなっただけだ。

「わかった。その黒い帳簿、見つけてやる。だが、これだけは覚えておけ。この瞬間から、貴様の命は俺のものだ。俺の指示には絶対に従え」

外では、再び山手線が通過する轟音が、二人の間に交わされた血の契約を祝福するかのように響き渡った。

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