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黒い霧の奥

頭上を山手線が轟音ごうおんを立てて通過するたび、バラックの天井からすすが舞い落ちる。

ガード下の闇市は、夜になっても眠ることを知らなかった。裸電球の頼りない明かりが、泥濘ぬかるみうごめく人々の影を長く引き伸ばしている。

龍二は、湿ったコートの襟を合わせ、人混みをかき分けるように進んだ。

「社長さん、寄ってってよ」

「米軍の横流しモン、あるよ」

「お兄さん、綺麗な、空いてるよ」

呼び込みの声が粘液のように絡みつく。龍二は一切無視し、奥へ奥へと歩を進めた。目指す場所は、闇市の最深部、ドブ川の淵にへばりつくように建つ一軒の飲み屋――『カサブランカ』だ。

引き戸を開けると、紫煙と喧騒が一度に押し寄せてきた。

店内は狭く、薄汚れた壁には進駐軍(GHQ)のピンナップガールが貼られている。カウンターの奥には、隻眼せきがんの男が黙々とグラスを磨いていた。

「いらっしゃ……なんだ、龍二か」

マスターの**テツ**は、龍二の顔を見るなり、愛想笑いを引っ込めた。彼は元海軍の下士官で、南方の激戦地で片目を失っている。この街で数少ない、龍二が背中を見せられる男だ。

「水割りだ。濃いめで頼む」

龍二はカウンターの隅に腰を下ろした。スツールが軋んだ音を立てる。

哲は無言で琥珀色の液体をグラスに注ぎ、氷を放り込んだ。

「相変わらず死神みてえな顔してやがる。……また、きな臭いヤマか?」

「ただの人探しだ」

龍二はグラスをあおり、鮫島から預かった写真をカウンターに滑らせた。

「このホトケに見覚えはないか。最近、この辺りをうろついていたはずだ」

哲は独眼で写真を睨みつけた。一瞬、グラスを拭く手が止まる。そのわずかな反応を、龍二は見逃さなかった。

「……知ってるな」

「よせ、龍二。関わらないほうがいい」

哲は声を潜め、周囲を警戒するように視線を走らせた。

「こいつは三日前、店に来た。ひどく怯えていたよ。『特務機関トクムの亡霊に追われている』とわめき散らしてな」

「亡霊?」

「ああ。**『カノン機関』だとか、『児玉こだま』**だとか、物騒な単語を口走ってた。それに、こいつはただの浮浪者じゃねえ。懐から分厚い封筒を出して、俺に預かってくれと頼んできやがった」

龍二の眉がピクリと動く。

カノン機関。GHQ参謀第2部(G2)直轄の諜報組織。戦犯免責と引き換えに、旧軍の将校や特高警察の生き残りを集め、共産主義者の摘発や非合法活動を行っているという噂の組織だ。

「その封筒はどこだ」

「断ったよ。俺はもう、戦争ごっこは御免だ。……だが、奴は店の裏口を出たところで、待ち伏せしていた連中に連れ去られた。黒塗りのセダンだ。ナンバーは隠されていたが、ありゃあ進駐軍の車じゃねえ」

「どんな連中だった?」

「三人組だ。全員、背広を着ていたが、立ち振る舞いは軍人そのものだった。それに――」

哲が言いかけたその時、背後で乾いた音がした。

ガラス瓶が割れる音だ。続いて、酔客の怒鳴り声と、女の悲鳴。

「おいコラ、どこ見て歩いてんだ、このパンパンあずれが!」

振り返ると、店の入り口付近で、三人の愚連隊ぐれんたい風の男たちが、一人の女を囲んでいた。女は小奇麗な洋装で、泥の中に倒れ込んでいる。

「あーあ、大事なスラックスが汚れちまったじゃねえか。どう落とし前つけてくれるんだ、あ?」

リーダー格の男が、女の髪を掴み上げた。女の顔が見える。

透き通るような白い肌に、意思の強そうな瞳。恐怖に震えてはいるが、その眼光は鋭く男を睨み返していた。

「……離して。汚らわしい」

「なんだと? この売女バイタが!」

男が拳を振り上げた瞬間、龍二の体が動いた。

思考するよりも早く、本能が反応していた。

椅子を蹴り倒し、数歩で距離を詰める。男の拳が振り下ろされる前に、龍二の左手が男の手首を掴み、右手がその肘関節を逆方向にねじり上げた。

「ぐぎゃあッ!」

骨が軋む不快な音が店内に響く。

龍二は悲鳴を上げる男の腹部に膝蹴りを叩き込み、そのまま泥床に転がした。一連の動作に、無駄は一切ない。かつて満州で叩き込まれた、憲兵隊流の制圧術だ。

「て、テメェ! 何しやがる!」

残りの二人が懐からドス(短刀)を抜き、龍二に向かってくる。

客たちが悲鳴を上げて逃げ惑う中、龍二は冷静に間合いを測った。

「『新誠会しんせいかい』のシマで暴れるとはいい度胸だ……殺してやる!」

一人が大振りで突きかかってくる。遅い。

龍二は半身でそれをかわし、すれ違いざまに男の顔面をカウンターの角に叩きつけた。鈍い音がして、男が崩れ落ちる。

最後の一人が怯んだ隙に、龍二は懐のコルトM1903を抜き、その銃口を男の眉間に突きつけた。

「……消えろ」

低く、地を這うような声だった。殺気だけが凝縮されたその瞳に射抜かれ、男は腰を抜かしたように後ずさりし、仲間を引きずって逃げ出した。

店内に静寂が戻る。

龍二は銃をしまい、倒れている女に手を差し伸べた。

「立てるか」

女は龍二の手を見つめ、それからゆっくりと顔を上げた。

その顔を見て、龍二は息を呑んだ。

写真の男と同じ、独特の顔立ち。そして、その瞳の奥にある深い闇。

「……ありがとうございます」

女は龍二の手を借りずに立ち上がり、スカートの泥を払った。そして、凛とした声で言った。

「探偵さんですね? 鮫島刑事から伺いました。……私が、依頼人の鹿島かしまレイコです」

龍二は、偶然とは思えない運命の悪戯いたずらを感じながら、再びタバコに火をつけた。

煙の向こうで、運命の歯車が、軋みながら回り始めた音がした。

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