九時の鐘、修羅の街の終焉(しゅうえん)(くじのかね、しゅらのまちのしゅうえん)
七月七日。午後八時五十分。
銀座四丁目の交差点は、ネオンの光と、涼しい夜風に浮かれた人混みで溢れていた。龍二は、教授と葉月を連れ、裏の喫茶店の脇から、和光の時計台へと向かう。
「奴らは、いる。空気の臭いが違う」龍二は囁いた。彼の腹の傷口は、再び脈動しているが、痛みは、もはや遠い記憶のようになっていた。
佐藤の部隊は、買い物客や、カフェの客に紛れて、交差点の四隅に展開している。彼らは、静かに、しかし確実に、教授を中央に追い込む罠を張っていた。
龍二は、教授を時計台の真下へと導いた。教授は、驚くほど冷静だった。彼は、トランクの中から、小さなラジオ送信機を取り出し、葉月に持たせた。
「葉月さん。九時の鐘が鳴り終わった瞬間、これをオンにするのです。これが、真実の鐘の音となる」
「龍二さん……」葉月は、龍二の顔を見上げた。龍二の顔には、生への執着はもはやない。ただ、果たすべき役割の冷徹な決意だけがあった。
「約束を忘れるな」龍二は、コルトを抜き、教授と葉月を背後に庇った。
午後九時。
和光の時計台の荘厳な鐘の音が、銀座の夜空に響き渡った。
その瞬間、佐藤が動いた。
「捕らえろ! 抵抗すれば射殺だ!」
佐藤は、隠れていた黒いセダンの陰から飛び出し、数人の部下と共に、教授に向かって突進した。周囲の人々が、悲鳴を上げて逃げ惑う。
「貴様には、歴史の真実を語らせん!」
佐藤は、M1911を構え、教授の頭部を狙った。
「通すか!」
龍二は、教授の前に躍り出た。彼の傷ついた体は、最後の悲鳴を上げながらも、鉄の盾となった。
龍二は、コルトの弾倉全てを、佐藤とその部下に向かって連射した。ダダダァン!
狭い交差点での銃声は、衝撃波となって街を揺さぶる。佐藤の部下の一人が倒れ、もう一人は肩を負傷した。
佐藤は、教授ではなく、龍二を狙った。彼は、龍二が限界であることを知っていた。
「久道龍二! 貴様の時代は終わった! 泥の中に這い蹲って死ね!」
佐藤と龍二の距離は、わずか五メートル。
佐藤は、引き金を引いた。
ドン!
龍二は、腹の古傷の上に、新たな銃弾を受けた。致命的な一発。
龍二の全身が、大きく後ろに反り返る。彼の視界は、時計台の光と共に、急速に暗転していく。だが、彼は、倒れる直前に、最後の力を振り絞った。
龍二は、コルトM1903を、下から上へと、佐藤の利き腕に向かって撃ち上げた。
ドォン!
銃声と共に、佐藤はM1911を取り落とし、凄まじい叫び声を上げた。右腕の骨が砕けたのだ。
佐藤は、龍二を殺す代わりに、永遠に銃を撃てない体となった。彼は、痛みに顔を歪ませながら、地面を這い、無力化された。
その時、九時の鐘が、最後の音を告げた。
葉月は、教授の指示通り、ラジオ送信機のスイッチをオンにした。
「東京の皆さん、私は桐生です。今、貴方たちに、戦後日本を支配してきた腐敗の真実を告げます……」
教授の声が、ラジオの電波に乗り、銀座の、そして東京全土の、闇の中に響き渡った。
カノン機関の計画は、失敗した。真実は、解放された。
龍二は、冷たい大理石の舗道の上に倒れ込んでいた。彼の視界には、空を切り裂く時計台の針と、恐怖に目を見開いた葉月の顔だけが映っている。
「龍二さん……!」
葉月は、泣き叫びながら、龍二の傍に駆け寄った。彼女の手には、龍二が渡したコルトが、まだ握られている。
「撃て……葉月。俺の頭を……」龍二は、最後の力で囁いた。彼の瞳には、屈辱に生かされることへの、激しい拒絶があった。
葉月は、震える手で銃を龍二に向けた。彼女の顔は、涙で濡れている。
「撃てません……!」
彼女は、龍二を撃つ代わりに、コルトを舗道に叩きつけ、そして、ラジオ送信機を掴み、教授の傍に駆け寄った。
「龍二さん。私は生きます。そして、真実を語り継ぎます!」
葉月は、龍二の命令に背いた。彼女は、彼の命を終わらせる代わりに、彼の苦痛と共に生きる道を選んだのだ。
終焉。
警察とGHQのサイレンが、銀座の街に鳴り響く。
龍二の意識は、音も光もない、深い闇の中へと沈んでいった。
彼が最後に感じたのは、舗道に残された冷たい血の感触と、葉月の遠い叫び声、そして、和光の時計台が、静かに、時の流れを刻み続ける音だった。
東京の『修羅の街』で、一匹の『錆びた犬』は、血まみれの清算を終えた。真実は、夜空に放たれた。だが、その代償として、彼の命は、永遠にこの闇の中に埋もれることとなった。




