九時の静寂、錆びた犬の誓い(くじのせいじゃく、さびたいぬのちかい)
銀座の裏通り。表の華やかさとは裏腹に、そこには怪しいネオンが灯る、古い連れ込み旅館が立ち並んでいた。
龍二は、一番奥まった場所にある、窓のない部屋を選んだ。畳は古く、煙草の焦げ跡がいくつもある。この場所なら、GHQの犬どもや、カノン機関の影も、金に物を言わせて侵入することはできない。
龍二は、疲労困憊で、敷かれた布団の上に倒れ込んだ。地下の汚水で感染した傷口が、再び脈を打ち始めている。
葉月は、旅館の女将に気づかれないよう、熱湯と持参した包帯で、龍二の傷の手当てを始めた。
「痛むな」龍二は、そう言ったが、その声には、もはや感情が宿っていない。
「我慢してください。地下の水で、傷口がひどく汚染されています。……もう少し、我慢すれば」
葉月は、龍二の血と泥にまみれた体を洗い清めながら、涙を流す代わりに、唇を噛みしめた。彼女の指先は、戦場での手術医のように冷静だったが、心の中は、今にも崩壊しそうだった。
手当てが終わった後、葉月は、龍二の隣に座った。窓のない部屋は、夕方にもかかわらず、深い闇に包まれている。
「あと、何時間ですか」葉月が尋ねた。
「六時間だ。教授の言う通り、九時の鐘が、俺たちの終焉を告げる」
龍二は、天井を見つめたまま、コルトM1903を分解し、再び組み立て始めた。銃身の油の臭いが、部屋の空気を満たす。
「龍二さん。……なぜ、貴方はそこまでして、私を守ろうとするのですか」
葉月は、初めて真正面から、その問いをぶつけた。彼は、金で動くと常に言う。だが、その行動は、自己犠牲としか言いようがない。
龍二は、銃の組み立てもやめず、冷たい声で答えた。
「これは、俺自身の過去への清算だ。俺は、満州で、多くの人間を見殺しにした。特高警察として、命令に従い、人を裏切り、泥の中に埋めてきた」
龍二は、葉月に顔を向けた。その瞳の奥には、戦争が残した、深い傷跡が見えた。
「お前の婚約者、柏木耕治は、平和のために死んだ。だが、平和など、この東京には存在しない。あるのは、腐敗と暴力だけだ。俺は、お前がその真実を、生き残って語り継ぐための**『壁』**となる」
「貴方は、死ぬつもりでいるのですね」
龍二は肯定も否定もしなかった。彼は、組み立て終えたコルトを、葉月の手に押し付けた。
「これを、持っていけ。教授を和光の時計台まで連れて行け。そして、鐘が鳴り、教授が帳簿の真実を語り始めた瞬間、貴様は逃げろ」
「なぜ、私に銃を?」
「教授の護衛のためではない。貴様自身の命のためだ。もし、俺が倒れ、奴らの手に落ちそうになったら――」
龍二は、葉月の目を見つめた。
「躊躇うな。俺の頭を撃て。生きて、奴らの拷問を受けるよりマシだ。貴様が生き残ることが、柏木と、そしてこの泥の中に消えた俺の、唯一の救いだ」
葉月は、コルトの冷たい感触に、全身が凍りついた。彼女は、目の前の男が、自分の命を、彼女に託していることを理解した。
その時、襖が叩かれた。教授だ。
教授は、中に入ると、龍二の回復を見て満足げに頷いた。彼は、黒い帳簿を絹の風呂敷包みに丁寧に包み、部屋の中央に置いた。
「最終準備だ、久道さん。和光の時計台の周囲には、すでに佐藤の部隊が展開している。彼らは、時計台の下、四丁目の交差点で、あなたを仕留めようとするでしょう」
教授は、地図を取り出した。
「だが、岩尾は、四丁目には来ない。岩尾の真の居場所は、銀座八丁目、戦時中の地下司令部跡だ。彼らの目的は、帳簿の公開を防ぎ、私の口を封じること」
「あんたは、どうやって岩尾に接触する」龍二が尋ねた。
「九時の鐘が鳴る瞬間、私はラジオを通じて、東京全体に真実を公開する。岩尾は、私が放送を始める前に、私を黙らせようとするだろう。私の役割は、真実を公開する時間を稼ぐことです」
教授は、龍二に最後の指示を出した。
「あなたが生き残る道は、一つ。九時の鐘が鳴るまでの数分間、佐藤の部隊を時計台の下で足止めすることです。そして、鐘が鳴り終わった瞬間、全てを捨てて逃げなさい」
龍二は、目を閉じ、そして開いた。彼の頭の中で、銀座四丁目の地図が、血と硝煙のイメージと共に、完全に構築された。
彼の仕事は、鉄の壁となること。葉月を逃がすこと。そして、この腐りきった東京に、一発の真実の銃弾を撃ち込むことだ。
時刻は、既に午後三時を回っていた。
長い、静かな午後が、始まった。




