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暗渠(あんきょ)の獣道、東京の心臓(しんぞう)

海軍整備場跡の廃墟へ繋がる側溝から、一行は、コンクリートで固められた、古びた**暗渠あんきょ**へと滑り込んだ。

光は、入り口のわずかな隙間から差し込むだけだ。空気は重く、湿気とさび、そして戦時中に使用された重油の腐敗した臭いが、鼻腔を襲う。

「ここが、東京の裏側だ」教授が言った。

「戦時中、日本海軍が、秘密の物資輸送と、兵員移動のために築いた地下通路です。表の地図には、もちろん記載されていない」

龍二は、教授の言葉に耳を貸す余裕がなかった。彼の全身は、泥と血と雨水にまみれている。腹の傷口は、再び開き、シャツの下で生々しい熱を放っていた。

「葉月、杖になれ」

龍二は、葉月の肩に体重を預けた。教授は、前方を照らすため、小型のランタンを手にしていた。その僅かな灯りが、地下を流れる汚い水面を照らす。

道は狭く、天井は低い。彼らは、腰まである冷たい水の中を、音を立てないように、ひたすら南へと歩み続けた。

「龍二さん、大丈夫ですか」葉月が囁いた。彼女の顔色は、恐怖と疲労で真っ青だが、その声には、不思議なほどの決意が宿っていた。

「大丈夫なわけがない。だが、止まれば、佐藤の犬どもに、この水の中で肉を食い千切られるだけだ」

龍二の言葉は、自己への叱責だった。彼は、自分の肉体が限界を迎えていることを知っていた。頼れるのは、葉月の細い肩の力と、教授の持つ地形の知識だけだ。

教授は、疲労の表情を見せず、冷静に解説を続けた。

「この先は、銀座の主要な金融街の地下へと繋がっています。この暗渠は、旧東都銀行の金庫室とも連動していた。裏切り者の岩尾いわおが、M資金を隠匿するために、いかに周到に準備を進めていたか、わかるでしょう」

彼らが、水の中を二十分ほど歩いた、その時。

龍二の耳が、遠い水の乱れと、金属の擦れる音を捉えた。

「伏せろ!」

龍二は、教授と葉月を、コンクリートの壁の陰へと、力ずくで押し込んだ。龍二は、血まみれのコルトを構え、暗闇の中を凝視した。

音が、近づいてくる。水の中を歩く、二、三人の男の足音だ。間違いなく、佐藤の部下だ。

葉月は、龍二の腕に顔を埋めた。教授は、ランタンの灯りを消し、完全に暗闇に身を潜めた。

息を潜める。心臓の鼓動だけが、耳の中で嵐のように鳴り響く。

佐藤の部下の一人が、彼らの隠れている壁のすぐ横を通り過ぎた。男が履いているのは、米軍の重いブーツだ。その足音が、水の中で鈍く反響する。

男は、彼らに気づくことなく、そのまま先へと進んで行った。

「……行くぞ」龍二は囁いた。

彼は、この暗渠で銃撃戦を始めるわけにはいかない。銃声は反響し、追跡者をさらに引き寄せる。龍二の狙いは、常に脱出だった。

彼らは、静かに、追跡者の後を追うように、さらに暗闇の奥へと進んだ。

やがて、暗渠は、垂直に伸びる古びた鉄製の梯子はしごへと繋がった。梯子は、天井のハッチへと続いている。

「ここだ」教授が言った。

「この上は、銀座の裏通りにある、廃墟と化した公衆浴場の地下室です。地上へ出られる」

龍二は、教授と葉月に先を譲った。葉月は、最後の力を振り絞り、教授を支えながら、梯子を登った。

龍二は、最後に梯子を登り、天井のハッチを開けた。

ハッチの向こうは、古い地下室の、埃とカビの臭い。そして、上からは、わずかながら、地上を走る自動車の音が聞こえてきた。

彼らは、地上へ出た。時計を見ると、午前九時を過ぎたところだ。

東京の心臓部、銀座の裏側。

彼らは、地下鉄や水道管が複雑に絡み合う、東京の暗い血管を通り抜け、光の中へと戻ってきた。しかし、残された時間は、わずか十二時間。

「隠れ家を探すぞ。このままでは、夜まで持たねえ」龍二は言った。

彼の腹の傷口は、泥と水で汚染され、痛みはピークに達していた。七月七日の夜九時。彼らが、和光の時計台に辿り着くためには、この十二時間で、再び体を鉄のように固めなければならなかった。

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