朝焼けの襲撃、血路を拓(ひら)く(あさやけのしゅうげき、けつろをひらく)
七月七日、早朝。四時三十分。
夜明け前の空気は冷たく、海霧が教授の屋敷の広大な庭園を包んでいた。
龍二は、新品同様の黒い背広を着ていた。しかし、そのスーツの下には、銃創の開いたばかりの傷口を固く巻いた包帯が隠されている。龍二の顔色は悪いが、その瞳だけは、満州の極寒の空のように澄み切っていた。
一行は三名。教授は、古い絹の着物の上に黒いコートを羽織り、厳かな佇まいだ。葉月は、教授の隣で、龍二の古いコルトを預かり、半ば茫然自失の状態で立っている。
教授の用意した護衛は、二人。元特務機関の出身と思われる、無口で屈強な男たちだ。彼らは、旧式の短機関銃を携行し、一台の黒塗りセダンに乗り込んだ。
「予定通り、海側の裏街道を通る。久道さん、あなたは常に前方を」教授が言った。
「わかっている。奴らは、もう待ち構えている」
龍二は、セダンの助手席に乗り込んだ。彼は、シートの冷たい感触に、腹の傷口が軋むのを感じながら、銃口を窓の外に向けた。
屋敷の門を出て、車は急勾配の坂道を下り始めた。道は竹林と生い茂った木々に囲まれ、視界が悪い。理想的な待ち伏せ場所だった。
案の定、約五分後。
カーブを曲がりきった直後、前方の道が、木材と土嚢で完全に封鎖されていた。セダンは急停車する。
「止まれ! 戦闘だ!」龍二は叫んだ。
その直後、竹林の茂みから、凄まじい機関銃の連射音が響き渡った。
ダダダダダ!
教授の護衛が乗った後部座席が、瞬時にハチの巣にされる。プロの護衛たちは、反撃する間もなく、血の飛沫と共に沈黙した。
「教授! 伏せろ!」
龍二は、後部座席の教授と葉月を庇いながら、助手席のドアを蹴り開け、外へ飛び出した。
龍二の腹の傷が、全身の筋肉の動きに引き裂かれる。彼は呻き声を上げる暇もなく、セダンの車体の陰に身を隠した。
竹林の中から、三人の男が、三方向から車を包囲するように近づいてくる。彼らは、米軍のM1カービン銃で武装している。カノン機関、すなわち佐藤の部隊だ。
龍二は、冷静だった。恐怖は、すでに五日間の高熱で焼き尽くされていた。残っているのは、戦場で生き延びるための、純粋な反射神経だけだ。
龍二は、竹林に向かって、コルトの弾倉を全て撃ち尽くした。ダァン!ダァン!
彼の射撃は、狙いを定めたものではなく、敵の頭を上げさせないための、牽制射撃だ。
その一瞬の隙を利用し、龍二は、セダンのボンネットを這うように乗り越え、竹林とは逆側の、急斜面の側溝へと転がり落ちた。
「教授! 這って来い! 葉月もだ!」
龍二は、斜面の下から叫んだ。銃声の反響で、耳がキンキンと鳴る。
教授と葉月は、龍二の指示に従い、銃弾の飛び交う中で、側溝へと転がり落ちた。
「久道龍二! 逃げられると思うな!」
林の中から、佐藤の鋭い怒声が響いた。待ち伏せを破られたことに、佐藤は激しく苛立っている。
龍二は、側溝に溜まった汚い雨水と泥の中に横たわったまま、教授から受け取った予備の弾倉を装填した。
「教授、道はあるか」
「この側溝の先は、旧海軍の魚雷整備場跡の廃墟へ繋がっている。そこを通れば、奴らの包囲網を抜けて、首都高の入り口へ出られる」
「よし」
龍二は、教授の言葉に安堵した。彼は、知識人である教授が、戦時中の東京の裏の地形に詳しいことを頼りにしていた。
龍二は、教授に葉月を預け、再び竹林に向かって、威嚇射撃を浴びせた。
その間に、教授と葉月は、泥と水にまみれながら、側溝の中を前進した。
龍二の腹の傷口から、新しい血が滲み出し、水の中で混ざり合う。痛みは、もはや龍二の感覚の一部になっていた。
龍二は、竹林の敵に向かって、最後の弾丸を撃ち込んだ後、セダンに駆け戻った。運転席の護衛は、すでに事切れていたが、車のエンジンはまだかかっていた。
龍二は、銃弾で穴だらけになった車体を、そのまま土嚢のバリケードに激突させた。**グシャ!**という鈍い音と共に、バリケードは崩壊した。
彼は車を捨て、銃を構えたまま、教授と葉月を追って、側溝へと飛び込んだ。
佐藤は、竹林の向こうで、崩れたバリケードと、泥だらけの側溝の入り口を見つめていた。
「チッ……。逃がすか。分隊、追え! 裏道から銀座へ先回りする! 絶対に、和光前で仕留めるぞ!」
教授の館は、すでに過去のものとなった。
龍二、教授、葉月。彼らの運命は、血と泥にまみれた、この地下の逃走経路に委ねられたのだ。七月七日の夜まで、あと数時間。




