教授の館、時の猶予(きょうじゅのやかた、ときのゆうよ)
次に龍二が意識を取り戻した時、彼の鼻腔を突いたのは、血とカビの臭いではなく、上質な伽羅の香と、清潔な消毒液の匂いだった。
彼は、自分が畳敷きの広い部屋に寝かされていることに気づいた。白い布団は、龍二の体に馴染んだ汚れた毛布とは違い、絹のような肌触りだ。窓の外は、手入れの行き届いた庭園の竹林が、静かに風に揺れていた。
「目を覚ましましたか、久道さん」
静かな声が、部屋の隅から聞こえた。
教授が、紋付き袴という厳格な和装で、茶を点てていた。銀座の喧騒の中で見た洋装とは異なり、彼は、古い時代の日本の権威そのものに見えた。
「ここはどこだ」龍二は、掠れた声で尋ねた。腹の傷口は、プロによる手当てが施され、痛みは和らいでいたが、体が鉛のように重い。
「私の隠居所です。東京湾を見下ろす、古い屋敷ですよ。ここは、カノン機関の犬どもでも、易々(やすやす)と手出しはできません」
教授は、茶碗を龍二の枕元に置いた。熱い茶の苦味が、龍二の意識を覚醒させた。
「あの娘は無事か」
「真木葉月さんですね。ご心配なく。別の棟で休ませています。彼女は、あなたのおかげで、もはやただの一般人ではない。七月七日の**『人質』**として、価値が高い」
教授は、龍二の言葉を冷淡に受け流した。
「あなたは、私に協力する義務がある。なにせ、貴方の懐から持ち出した黒い帳簿は、今、私の手にあるのですから」
龍二は、抵抗する気力もなく、布団に沈み込んだまま、教授の真の目的を問いかけた。
「あんたの目的は、金か。この帳簿を、一番高く買う連中に売りつけるつもりか」
教授は、静かに首を横に振った。
「金ではありません。私が求めているのは、清算です」
教授は、茶碗を片付け、龍二の枕元に座り直した。
「私の名は、桐生。戦前は、大蔵省で、旧軍と政治家たちの資金管理を一手に引き受けていました。あのM資金も、私の指揮のもとで、隠匿されたのです」
龍二の目が、僅かに見開かれた。この老人が、この物語の全ての始まりを知る、生きた金庫番だったのだ。
「M資金は、敗戦後の日本経済を再建するための**『最後の砦』**として、非公式に蓄えられました。しかし、一部の政治家と軍人が、それを私物化し、GHQの第2部(G2)と手を組んで、自己の権力維持のために利用した。それが、カノン機関の正体です」
教授は、静かに続けた。
「柏木耕治君は、私の弟子でした。彼は、その資金の流れの裏切りに気づき、私を頼ってきましたが、間に合わなかった。彼は、この国の**『恥の記録』**を、世に出したかったのです」
「そして、あんたは、その清算を、七月七日に行おうというわけか」
「ええ。その日、銀座四丁目の和光前には、帳簿を回収しようとするカノン機関のボス、そして、その資金で再起を図ろうとする旧軍部の残党、そして、その全てを監視するGHQの影が集まるでしょう」
「まるで、劇場だ」龍二は嘲笑した。
「その劇場を動かす役者が、あなたです、久道さん。あなたは、この東京で唯一、裏切りの痛みを知り、なおかつ暴力に屈しない、真の『錆びた犬』だ」
教授は、龍二に、一通の封筒を差し出した。
「七月七日までの五日間。あなたはここで、体を回復させなさい。そして、この封筒に書かれた指示通りに動いていただきたい。帳簿は、私の手元にある。あなたの仕事は、私を、和光の時計台まで無事に送り届けることです」
龍二は、封筒を掴むことができなかった。彼は、葉月を危険に晒し、自分の命を危険に晒す、この狂気の計画に参加する義務があるのか、自問した。
その時、襖がそっと開き、葉月が静かに部屋に入ってきた。彼女は、手拭いを濡らし、龍二の額の汗を拭き始めた。
「私は、残ります」葉月は、教授でも龍二でもなく、自分自身に言い聞かせるように言った。「耕治さんが命を懸けたものを、無駄にはさせません。私にできることは、なんでもします」
龍二は、葉月の顔を見た。その瞳の奥には、恐怖ではなく、師の意志を継ぐという、強い意志の光が宿っていた。
龍二は、その光に突き動かされるように、封筒を力強く握りしめた。
「わかった。教授。だが、もし貴様が俺やあの娘を裏切るようなことがあれば……あんたの喉笛に、この血の臭いを嗅がせてやる」
龍二の言葉は、熱にうなされ、掠れていたが、その殺気だけは、教授の館の厳粛な空気を切り裂くほど鋭かった。
外の竹林が、サラサラと音を立てた。七月七日まで、あと五日。東京の最も暗い秘密が、今、動き出した。




