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和光前、三つ巴(わこうまえ、みつどもえ)

高熱が、久道龍二の視界を濃い霧で覆っていた。事務所の電球の光が、赤と青の歪んだ色になって、頭蓋骨の裏を叩く。

「……行かせねえ」

龍二は、荒い呼吸と共に呟いた。腹の銃創は、もはや痛みというよりも、冷たく全身の血を吸い上げる、重い鉛の塊になっていた。葉月をおとりにしたのは、自分の判断だ。だが、彼女を死なせることは、彼の矜持きょうじが許さなかった。

龍二は、デスクの引き出しから、隠しておいた残りのM資金を鷲掴みにした。そして、ヨレヨレのコートを羽織り、コルトM1903を懐に押し込む。

歩くたび、体中の骨がきしむ。階段を降りる動作一つが、戦場の行軍よりも困難だった。彼は、闇市の外れに停めてあった、埃を被った古いタクシーに、有り金全てを叩きつけて乗り込んだ。

「銀座四丁目、和光前だ。……急げ。死ぬ前に着きたい」

運転手は、血と汗と安酒の臭いに顔をしかめたが、龍二の鬼気迫る表情と、目の前の札束を見て、黙ってエンジンをかけた。

銀座四丁目。和光の時計台の下。

葉月真木は、呼吸器が限界を超えているのを感じていた。銀座の舗道は、上野とは違う。大理石とコンクリートで舗装された道は、走るには硬く、逃げ場もない。

彼女の背後、五〇メートル先に、佐藤スマイリーの影があった。佐藤は、慌てて走ることはしない。まるで、獲物を追い詰めるのが、純粋な歓びであるかのように、緩慢に、しかし確実に距離を詰めてくる。

葉月の胸元には、黒い帳簿が重い。彼女は、このまま逃げ切れないことを悟っていた。図書館で教授に送ったメッセージの通り、彼女の目的は、佐藤をこの人目につく場所へ誘い出すこと。そして、この帳簿を誰も手に入れられない場所に葬ることだ。

時計台の真下に達した瞬間、葉月は立ち止まった。

周囲には、夕方の買い物客や、進駐軍の将校たちが群がっている。だが、誰も、この一人の女とその背後の暗殺者が演じている、命がけの劇には気づかない。

佐藤も立ち止まった。彼は、葉月が観念したと判断した。

「賢明な選択だ、真木さん。その帳簿を渡せば、命だけは助けてやろう」

佐藤の声は、静かだったが、その背後には、カノン機関の冷酷な暴力が透けて見えた。

葉月は、胸に抱いていた帳簿を、両手で頭上に掲げた。

「これは渡さない! 私が、ここで燃やす!」

彼女がそう叫んだ時、四丁目の交差点全体が、突如として動き始めた。

まるで芝居の幕が上がるように、周囲の人混みが、一瞬で左右に割れたのだ。

そして、その人々の間から、四人の黒い背広の男たちが、無言で現れた。彼らは、佐藤と葉月の間に、壁のように立ちはだかる。彼らの服装は目立たないが、その眼光と、ポケットの膨らみが、彼らがただのビジネスマンではないことを示していた。

「教授の護衛だ」佐藤が低い声で呻いた。

そして、人混みが再び割れ、一台の黒塗りのキャデラックが、静かに歩道の傍に横付けされた。

後部座席のドアが開く。そこに座っていたのは、細身の体躯、白髪をオールバックにし、絹のような高価なスカーフを巻いた老紳士だった。

**教授プロフェッサー**だ。

彼は、静かに葉月の手を止めるように、指先を動かした。

「待ちなさい、娘さん。その帳簿は、火をつけられるには、あまりにも重すぎる」

教授の声は、威圧的ではなく、知的な響きを持っていた。彼は、この銀座の喧騒全体を、一瞬で支配下に置いた。

その瞬間、荒い息遣いと共に、タクシーから、血にまみれた龍二が、這い出てきた。

龍二は、熱で朦朧もうろうとする視界の中で、和光の時計台を二つ見た。しかし、彼の銃口は、教授でも護衛でもなく、佐藤一点に向けられていた。

三つ巴。

帳簿を持つ葉月。帳簿を破壊しようとする龍二。帳簿を回収しようとする佐藤。そして、帳簿を支配しようとする教授。

「……葉月を、離せ」龍二は、喉の奥から絞り出すように言った。

佐藤は、龍二の姿を嘲笑した。

「久道龍二。貴様はすでに終わりだ。その傷で、私を撃てると思うか?」

教授は、その対峙を、無表情で眺めていた。彼は、二人の男が持つ暴力の質を、まるで美術品のように鑑賞しているようだった。

そして、教授は、静かに結論を出した。

「佐藤君。あなたの行動は、あまりに騒がしい。この銀座で、銃撃戦は許されない」

教授はキャデラックの窓を開け、葉月に向かって言った。

「娘さん、私を信頼しなさい。その帳簿の価値は、あなたや、あの半死半生の男には扱いきれない。七月七日。和光の時計台の鐘が鳴る時、私は、全てを清算しよう」

教授は、龍二と佐藤の間に、最後の取引を突きつけた。

「今夜、我々は休戦する。帳簿は、私が預かろう。そして、七月七日の午後九時。この場所で、貴様たちの命と引き換えに、帳簿の真の所有者に引き渡す。これが、私が定めるルールだ。従うか、久道」

龍二は、引き金にかけた指の震えを、必死に抑えた。彼には、もはや戦う力は残されていない。

教授の提案は、彼にとって唯一の生還の道であり、そして、新たな地獄への入口だった。

「……わかった。だが、葉月に指一本でも触れてみろ。地獄の底まで追う」

龍二は、その言葉を血の誓いとして、その場に崩れ落ちた。

和光の時計台は、静かに、午後九時の鐘を打ち鳴らした。その音は、この三つ巴の緊迫した休戦を告げる、静かで恐ろしい宣言だった。

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