雨と煤煙(あめとばいえん)
昭和二十四年、六月。東京はまだ死んでいた。
空は鉛色に澱み、焼夷弾で焼き払われた帝都の傷跡を、容赦のない梅雨の雨が打ち叩いている。上野駅の不忍口から溢れ出すのは、腐った魚の臭いと、安酒のアルコール臭、そして人間の欲望が発酵したむせ返るような熱気だった。
アメ横。
そこは、敗戦国日本の縮図であり、胃袋であり、排泄器官だった。
久道龍二は、バラック小屋の軒下で、湿った「ピース」に火をつけた。マッチの硫黄の匂いが、鼻腔にへばりついた雨の匂いを一瞬だけ消し去る。紫煙を深く吸い込み、肺の中で転がしてから、ゆっくりと吐き出す。その煙は、行き交う浮浪児やパンパンガールたちの群れに混じり、瞬く間に消えていった。
「おい、久道。シケた面してんじゃねえよ」
背後から野太い声がした。振り返るまでもない。所轄の刑事、鮫島だ。戦前からの腐れ縁だが、今では「狩る側」と「狩られる側」に近い関係にある。
「何の用だ、サメ。俺は今、商売中だ」
龍二は視線を雨に煙る路地に固定したまま答えた。
「商売だと? どうせまた、家出人の捜索か、盗まれた配給米の取り返しか。落ちたもんだな、元憲兵曹長殿も」
鮫島は嘲るように笑い、龍二の隣に並んだ。そのコートからは、防虫剤と古い血の匂いがした。
「皮肉を言いに来たなら帰れ。俺にはもう、階級章もなければ、国家への忠誠心もない。あるのは、この錆びついた体だけだ」
龍二が言うと、鮫島は表情を硬くし、懐から一枚の写真を取り出した。雨に濡れないように、丁寧に油紙に包まれている。
「……仕事だ、久道。警察じゃ動けねえヤマだ」
龍二は横目で写真を見た。
写っていたのは、男の死体だった。場所はどこかの線路脇だろうか。男の顔は判別できないほどに潰され、口には大量の砂利が詰め込まれている。だが、龍二の目が釘付けになったのは、死体の胸元にあった。
奇妙な形に切り裂かれたシャツの隙間から、皮膚に刻まれた焼印が見える。
それは、かつて龍二が満州で見たことのある、ある秘密結社の紋章に酷似していた。
「下山事件のほとぼりも冷めやらぬ中だ。国鉄総裁が轢死体で見つかったばかりだぞ。これ以上、妙な死体が出りゃ、GHQ(進駐軍)が黙っちゃいねえ」
鮫島は声を潜めた。
「この仏、身元が割れてねえ。だが、所持品の中に、お前の名前が書かれたメモがあった」
龍二の指先で、タバコの灰が音もなく崩れ落ちた。
心臓の鼓動が、不快なリズムを刻み始める。戦場の記憶。血と泥の味。そして、置き去りにしてきたはずの過去の亡霊。
「俺の名前だと?」
「ああ。だから俺が先に回収した。公式な捜査資料には載せてねえ。……久道、お前、何に関わっている?」
龍二は吸い殻を泥水の中に弾き飛ばし、靴底で踏みつけた。ジュッという短い音が、死の宣告のように響く。
「知らねえな。だが、その写真の男が誰であれ、俺を呼んでいることだけは確かだ」
「危険なヤマだぞ。相手は、ヤクザや愚連隊のレベルじゃねえかもしれん」
「構わん」
龍二は襟を立て、雨の中へと歩き出した。冷たい雨が頬を叩く。だが、体の奥底では、長く眠っていた獣が、飢えた目を覚まそうとしていた。
「金は弾む。……死ぬなよ、龍二」
背後で鮫島の声が聞こえたが、龍二は答えなかった。
アメ横の雑踏を抜け、ガード下の暗がりへと向かう。そこには、光の当たらない世界がある。敗戦の混乱に乗じて肥え太った「第三国人」たちの賭場、米兵相手の売春宿、そして、政治家たちの裏金が動く料亭。
この街は腐っている。だが、腐敗こそが熱を生み、その熱だけが、凍えた魂を温めてくれることを龍二は知っていた。
彼は懐のコルトM1903の冷たい感触を確かめた。
錆びついた犬が、再び牙を剥く時が来たのだ。




