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その夜、と言えるのか。太陽もなければ、月もないあの世はとにかく淡く、刑視局内も明るかった。
シドのジャケットにくるまって眠っていたルカは、のどの渇きで目が覚めた。
女性の写真が散乱していたり、ぐにゃぐにゃに曲げられたスプーンやフォークが突き刺さっていたり、個性強めのデスクがバラバラに置かれている死神一課には誰もいない。
シドはどこにいるんだろう。
彼も仕事に行ったのだろうか。
デスクからイス、イスから床へ。ほぼ落下しているような着地から、次は窓を目指す。
よたよた、もつれる脚を駆使して、窓際に。なにも入っていない形だけの2段ラックに渾身のジャンプをすれば、想像以上の高さで軽やかに上ることができた。
刑視局を出ていくシドが見えて、彼を追う。
膝をつけずに、前脚と後ろ脚を同じほうから出すのか、人間と一緒で前脚とは逆の後ろ脚を出せばいいのか。赤ちゃんのハイハイとはまた違う。力の入れ方が分からない。猫ってどんな風に動いていただろうか――今はとにかくがむしゃらに進むしかなかった。
「シドっ、待って!」
灰色の街中を、必死で走る。
これほど信号機を欲したことがあっただろうか。
まったく、差が縮まらない。
現世を模しているのに、猫の目線からか土地勘もつかめず、ショートカットもできなかった。
ぜえぜえと猫らしからぬ息づかいを感じてシドが足を止めたのは、ガラス張りの大きな建物の前だった。
刑視局から、結構な距離を歩いていた。
「なにしてんの」
「のどっ……かわ、い……てっ」
シドはその原因がピンときたようで、「……味の濃いものばっかりだったな」と、今日の夕食を振り返った。
口元が汚れ、それを人間のごとく前脚で拭おうとする彼女を制しては、おしぼりで綺麗にして。甘辛いタレがふんだんにかかったつくねのおにぎりと、煮玉子が半分埋め込まれたそばめしのおにぎりに対して、ルカはマグカップ1杯分のお茶を飲み干して、ごちそうさま。
体の大きさに合わせて、1番小さな紙パックを選んだのがよくなかったようだ。
水でも飲んでいろ、と言うのは簡単だが、生きている者がいないあの世に、そんなものはない。
ルカを抱えると、破裂するんじゃないかってぐらいに全身で脈打っていて、この状態で帰れというのも酷な話だった。が、シドにも用事がある。
「しょうがない」
2つを天秤にかけるまでもなく、シドはそのまま連れていくことを選んだ。
ガラス張りの建物をぐるっと1周して、外壁に沿う非常階段を駆け上がる。
相変わらずのジオラマに、中から上へ行く術はない。
『人工 の用意を――大至急!!』
『直前まで していたのに……どう っ……』
――6階に着く頃には、そんな声が聞こえてきた。
非常口から中へ入れば、色味のない1フロア……では、なくなりつつあった。
そこを仕切ろうとする壁や扉、ストレッチャーやワゴンが半透明でたゆたい、内装を伴おうとしていた。
この空間は?
ルカはシドを見上げるが、彼は前を向いたまま廊下を突き進む。
ストレッチャーが体をすり抜けた。
室名札が揺れる。
続く部屋番の合間に〝休憩室〟の文字を見つけ、シドはその扉を開けた。
自動販売機の光だけが淡く主張する、薄暗い部屋に出た。
消毒液のにおいがする。
……現世だ。
ここは現世の、病院だ。
現世に繋がる道が鳥居だけではないのだと、あたりをきょろきょろするルカをテーブルに置き、シドは自動販売機で飲み物を買う。
彼女を連れてくるつもりはなかったので、シドのてのひらがマグカップがわりだ。炭酸や珈琲はべたつくので、水1択。
それでも、ルカは文句の1つも言わず美味しそうに口をつけた。
「い、生き返るっ……」
「本気でそう聞こえる」
「シド、ありがとっ」
「しっ。声、結構通るから、ここ」
ぽたぽたと絨毯のような床にシミを作りながら、水分補給を続けていると――――
「血中酸素濃度、脈拍、共に低下!!」
「ダメです!! あがりません!!」
より鮮明に聞こえる声に、この病院の緊迫感が伝わってくる。
あたりが静かになったのを確認して、シドは動いた。
ルカを抱えているため、ステルスとはいかなかった。宙に浮く猫なんて説明がつかない。
誰にも見つからないよう注意をはらいながら、607の部屋の前で止まった。
ゆっくり扉を開け、中に入る。
呼吸器をはじめ、いろいろな機械に繋がれた少女がベッドで眠っていた。機械音にかき消されるほど弱々しい心電図に、顔色もよくない。
目に見えて、衰弱していた。
もう……長くない。
だから、死神が来たのか。
彼はおもむろに少女に肩に触れ、目を瞑った。
間延びした心電図が耳を刺してくる。
なのに、
すごい静かだった。
静かに、
命を狩り、執るのだと。
――思ったのも束の間、シドは手を離した。
心電図が微力に跳ねる。
「ちょっとなにしてるのっ。息、吹き返しちゃったけどっ」
声を潜めて大慌てするルカとは対照的に、シドは落ち着きはらっていた。
「違った。俺のじゃなかった」
こちらに向かってくる足音が聞こえても変わらず。シドは踵を返すどころか、部屋の奥へ行き、窓に手をかけて。
「な、なんでっ、窓っ!?」
「非常口は一方通行」
「だからって、まさか……まさッ――」
「舌、気をつけて」
冷たい指先がルカの口元をきゅっと包んだ。
そうして、なんのためらいもなく6階から飛び降りて、なんの衝撃もなくコンクリートの地面に着地する。
1度、目の前に落ちてきたことを知っているだけに、ルカは肩すかしをくらった。
「……生きてる」
「元からでしょ」
「死ぬかと思ったの!!」
「死にかけてる」
なんの励ましにもならない言葉をかけるシドの足は止まらない。病院の敷地を後にし、淡々と繁華街へ戻っていった。




