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007 罪悪感を抱える朝

 私は屋敷の玄関前で、いつも通り仕事に向かうユリウス様のお見送り中。


「では、いってきます」


 少し顔色が悪く、疲れた様子のユリウス様が気になる。

 けれど、今日ばかりは「お休みなさったらいかがですか?」という言葉を彼にかけるわけにはいかない。


 なぜなら、ドッグショーに行かなければならないからだ。


 私は心を鬼にして、ユリウス様に告げる。


「いってらっしゃいませ」


 それからユリウス様に、いってらっしゃいのキスを頬に送ろうと背伸びして、ふと罪悪感に駆られる。


 嘘をついていること。それから疲れた様子の彼を仕事に追い立てていること。


 理由は、主にその二つ。


 だから今日は、いってらっしゃいのキスを唇に軽く落としてみた。

 喜ぶかどうかは別として、せめてもの謝罪の気持ちを込めたつもりだ。


「……!?」


 案の定、ユリウス様は目を丸くし固まってしまった。


 夫婦とは言え、使用人の前で唇にキスはやり過ぎたかも知れない。


 けれど、私にとって夫婦の見本となる両親は、わりと愛情表現豊かな人達で、人前でも軽く触れ合う程度のキスは日常茶飯事。


 挙げ句、接触を控えるよう提言した家臣に対し。


『私たちが仲睦まじい姿を見せると国民も喜ぶからな』


『えぇ、これは愛のおすそ分けなの』


 悪びれる様子もなく、そんなふうに言っていた。


 だから、いってきますの頬のキスも、我が家では当たり前の光景だ。


 けれどユリウス様はどうやらその儀式をご存知なかったようで、一度目はすぐに背を向けられ失敗。


 二度目は私が逃がすまいと伸ばした手を握手され、困惑。


 三度目でようやくユリウス様に事情を説明し、彼が「なるほど、そういうしきたりが夫婦にはあるのですね」と感慨深そうに頷く彼の頬に、ようやくキス出来たという経緯がある。


 最初は戸惑う感じだったユリウス様も、半年経った今はちゃんと私が頬にキスをするまで、その場で待機してくれる優しさを見せてくれている。


「あの……」


 ユリウス様が私の真意を探ろうとしているのか、こちらの顔を覗き込む。


「うっかり場所を間違えてしまいましたわ」


 私は今さら恥じらう気持ちに襲われ俯く。


「……嬉しかったです。では、いってきます」


 耳まで赤くしたユリウス様は、言い逃げするかのようにくるりと私に背を向け、素早く馬車に乗り込んでしまう。


 そしてあっという間に彼を乗せた馬車は我が家から姿を消してしまった。


「今日はやり過ぎちゃった」


 言いながら振り返ると、見送りに出た使用人たちの、ニマニマとした、生暖かい視線が私に向けられていたのであった。




 ◇◇◇




 今日の私は、身軽な格好だ。


 ウエストから下に広がるようなデザインの花柄の生地の長いスカートに、襟や袖口にレースやリボンが施されたフリルのついたブラウス。


 ウエストはリボンをしっかりと締め、シルエットを引き締めてある。


 頭にはリボンで飾られた帽子をかぶり、ソックスの上から、ボタンで留めるタイプのブーツという、実に活動的な装いとなっている。


 お化粧でそばかすを付け足せば、もはや王女の私はいない。


「何だかワクワクしてきたわ」


「生き生きとしたエミリア様を拝見するのは久しぶりです」


 侍女のカルラが私の準備を終えたことを確認し、微笑む。

 その笑みに、私は笑顔のまま頷く。


「ええ、そうね。何だかすごく体が軽いし、いつもと違って気持ちが前を向いてる感じ」


「それは何よりでございます。エミリア様には長らく我慢を強いてまいりましたから、主に……アイツノセイデ」


 何やら不穏な声が聞こえたような気もするけれど、カルラが一礼したので、詳しくは聞けなかった。


 因みに、ユリウス様にはハンナの家に行くと伝えてある。この嘘も、朝うっかり唇にキスを落としてしまった原因の一つだ。


 そして用意を済ませた私は、ドッグショーの会場となる展示会場へ向かうためにカルラと馬車に乗車する。


 このお散歩用の馬車は、嫁入り道具の一つとして、父が特注で作ってくれたもの。小型で軽量な二輪構造で、側面や車体の周囲に優雅な曲線的なデザインの飾りが施されている。この馬車はボックス型ではないけれど、開閉式の屋根がついているし、大型の箱馬車よりも、小回りがきくので都市の短い移動や散策に適している。


 荷台には御者と、王城から派遣された私の警備する近衛騎士が変装して乗り込んでいる。


 今日はお忍びなので、顔見知りの近衛を何とか丸め込んだ。でもたぶん、両親には報告が言っていると思う。


 そこからユリウス様に伝わるかどうかは不明。

 なぜなら、結婚してから半年。彼に嘘をついて外出するのは初めてだから。


 そんなことを考えるながら、馬車に寄りかかり、御者が手綱を握る姿をぼんやり眺めていると、隣に座るカルラが話しかけてきた。


「エミリア様、少しお尋ねしてもよろしいでしょうか?」


「なあに?」


 珍しいこともあるものだと思った私へ、カルラは真剣な目を向けてくる。


「私はあと半年ほどで、エミリア様の元を去ります。でも、拗らせた……コホン、ユリウス様の元にエミリア様を一人残していくのが心配なのです」


 カルラは心配そうな表情を私に向ける。


 男爵家の娘、しかも三女である彼女は私が唯一王宮から連れてきた侍女だ。


 けれど、姉のように慕っていたカルラも半年後には私の元を去る。なぜなら私より三つ年上、現在二十三歳のカルラは、子爵家の青年と来年めでたく結婚するからだ。


 しかも子爵家の青年がカルラを見初めた所から始まる、恋愛結婚だ。


 だから寂しい気持ちを抱えつつも、お祝いする気持ちの方が大きい。


 そしてカルラが去るという事は、シュナイダー侯爵家で元々働いていた者たちの中に、私一人が取り残される事になるということ。


 その状況を、カルラは心配してくれているのだろう。


 不安がないと言えば嘘になるけれど、もうずっと覚悟して準備してきたのだから、平気なはずだ。


「心配してくれてありがとう。でも大丈夫よ。シュナイダー侯爵家の使用人はみんな良くしてくれるし、執事のヨハンだって、私に優しいもの。それにカルラとは、『貴族の夫を献身的に支える妻の会』で会えるでしょう?だからずっとお別れするわけじゃないわ」


 私が笑って言えば、カルラが感動したように胸の前で手を組んだ。


「ああ……エミリア様が尊い……」


「え?」


「……いえ。何でもありません。まあ、確かにエミリア様の仰る通りでもありますね……でも、いいえ。何でもありません」


 カルラは微笑むと、馬車の窓から外の景色へ視線を向ける。


 何だか言いたい事を喉につまらせている。そんな表情のカルラが気になった。


 まさか結婚に対して不安になっているのだろうか。


 まだ結婚半年ではあるけれど、新米の妻としてはカルラより先輩だ。となると、彼女の悩みに対して何らかのアドバイスが出来るかも知れない。


 そう考えた私は、外を見つめるカルラに声をかける。


「私、カルラが言いたいことわかるわ」


「まぁ!さすがエミリア様ですね。ご賢察が早くて助かります。それでは率直にお聞きしますが──」


 カルラは私をじっと見つめながら尋ねた。


「あの初恋を拗らせたような男と結婚して、本当に後悔はないのですか?」


 その言葉に、私は目をぱちくりと瞬かせる。


 初恋と聞こえた気がする。けれど、彼は初恋をいつ、誰にしたのだろうかと素朴な疑問が湧きおこる。


 なぜなら、ユリウス様は六歳の時に私と婚約した。つまりユリウス様の初恋は六歳より前だということだろうか。


 しかも拗らせているとは、いったい。


 私は混乱するも、王女時代に培ったスキルを駆使し、なんとか笑みをたずさえる。


「後悔なんて、ないわ」


 感謝こそすれ、後悔はない。平穏すぎて物足りなくはあるけれど、それは後悔ではないから。


 私の答えを聞いたカルラは驚いた表情をしたあと、すぐに口を開く。


「ユリウス様をお慕いされているからですか?」


「そうね、それもあるけど……一番は政略結婚だからよ」


 私は胸を張って答える。

 するとカルラは残念そうな顔で目を伏せた。


「カルラが心配してくれるのは嬉しい。でも大丈夫よ。それにこう見えて、ユリウス様の事をちゃんと好きだから」


 私の脳裏に、めくるめく夜の時間を過ごすユリウス様が「エミリア」と耳元で囁く姿が浮かぶ。


 途端に恥ずかしさが込み上げてくる。頬が熱くなり、慌てて両手で頬を押さえた。


 最近の私はどうにもおかしい気がする。


「エミリア様?」


 そんな私を見て、カルラが困った子を見るような目つきになった。それから私を安心させるように微笑むと、私の手に自分の手を重ねる。


「わかりました。エミリア様がそこまで仰るのなら、私もこれ以上申し上げることはいたしません」


「カルラ……」


 ほっとする私に、カルラは続けた。


「ですがもしユリウス様がエミリア様を泣かすような事があったら、色々と物申したいと思っておりますので」


 まるで宣戦布告のような言葉に、私は目を丸くする。


 カルラはそんな私を見つめ、楽しそうに笑った。


「エミリア様、どうかお幸せに」


 そして祝福の言葉をくれたのだった。

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