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005 名前を呼んで欲しい

 ラインマイヤー邸を後にした私は、急いで帰宅した。本当は、屋根裏で埃っぽくなった体を、湯浴みして綺麗さっぱりしてからユリウス様をお迎えしたかった。


 しかし、残念ながらそんな時間は取れなかった。むしろ、ユリウス様の帰宅時間にギリギリセーフという状況で、密かに焦ったくらい。


 そしていつも通り夕食を一緒にとり、湯浴びをして夫婦の寝室に行くと、今日はすでにユリウス様がベッドの中にいた。


「お待たせしました。申し訳ございません」


 私は急いでベッドに潜り込み、定位置につく。そして、私を抱きやすいように彼に背中を向ける。


 なぜなら、今日の彼は少し寝不足のご様子。夕食時も上の空と言った感じで、珍しく疲れた雰囲気が表に出ていたからだ。


 そういう日は早く寝るに限る。けれど、困ったことにユリウス様は、何かを抱いていないと眠れない体質もち。


 よって、私が素早く背中を彼に預けないと、彼は眠れないわけで……。


 私としても、完璧に見えるちょっとした彼の弱みのような部分は嫌じゃない。だから、喜んで背中を差し出している。けれど、彼が早く寝たい時に今日みたいに待たせてしまうと、申し訳ない気分になるので、良し悪しという感じだろうか。


「ありがとう」


 ユリウス様はそう言うと、私を背中から抱きしめ、私の頭に口づけた。


 やはりお疲れだと、密かに私は確信する。


 というのも、ユリウス様自身は気付いてないかも知れない。しかしながら、疲れている日ほどこの時間彼は、私に対しスキンシップが多くなる傾向である事を知っているから。


 だからいつも私は、何も言わず、ただ彼のしたいようにさせてあげている。なぜなら、私も彼に抱きしめられると、とても心地が良くて安心するので嫌じゃないから。


 それに、枕より人肌の方が落ち着く気持ちは理解できる。父や母に抱きしめられると安心する。それと同じ種類なんだと思う。


 そして、現在進行形で私の首筋に顔を埋めるユリウス様は、やはりだいぶお疲れのようだ。


 彼は現在、司法官のお仕事をされていると父から聞いている。


 それによると、王国で制定される法的な文書や契約の作成に携わり、それにかかわる問題や不明瞭な点を解決するために、関係各所に助言するお仕事をされているということ。


 だからユリウス様のお仕事は、必死に勉強して得た知識を持つ彼にしか出来ない、とても重要な仕事なのだと、父は言っていた。


 因みにユリウス様は仕事の愚痴は一切私の前で話した事がない。仕事とは言え、たくさんの書類や会議に忙殺されて、うんざりする事だってあるはずなのに。


 以前彼は結婚した当初、こんな風に言っていた。


『二十年間過ごした場所から新たな場所に移るというのは、とてもストレスのかかることだと思います。ですから、新しいこの家でも以前と同じように、殿下にリラックス出来る場所となるよう励みます』


 そんな風に言うユリウス様の事だから、たぶん私に気を遣ってくれているのだろう。


 ユリウス様は、私には勿体無いくらい、本当にお優しい方だ。


 でも私は彼のご両親が亡くなった時、何もしてあげられなかった。


 普段は冷静沈着。常に顔に張り付くのは穏やかな表情で喜怒哀楽がわかりにくい人。


 そんな彼が両親のお葬式の時、泣きたそうに顔を歪め、涙を堪える姿を見た私は、心を打たれた。


 どうにか励まそうと思ったけれど、浮かぶのは人並みな言葉ばかり。それに、家族が健在な私には、彼の抱える悲しみが本当の意味で理解できない。


 だけど目の前の彼は、とても悲しそう。


 十五歳だった私は、どう声をかけるのが正確なのかわからず、思うまま何かを言った気がする。


 すると彼は、初めて私を睨んできた。


 だから間違ったのだと理解し、悲しくなって涙をこぼしてしまった記憶がある。


 そのあとの彼は、二度と私を睨む事はない。むしろその事をきっかけとして、私をようやく婚約者だと認識してくれたような気もする。


 二歳から二十歳まで。流石に二歳の記憶はないので彼との思い出はもう少し後から始まるけれど、私が彼に睨まれたのは、その一回のみ。


 彼の心を傷付けたかも知れない私に対し、普段は優しい顔を向けてくれるし、妻への無理難題な注文も一切しない、とても素敵な人だ。


 そして私は、そんな彼に甘えてばかり。


 今はシュナイダー侯爵夫人であるのに、いつまでも彼に王女殿下と呼ばれていた時のまま、甘やかされて、そして甘えてしまっている。


 だけど、どうしたら彼が喜ぶのかわからない。

 十年以上、私は彼に仕えてもらう側だったから。


 これは本当に意識の改革が難しいし、未だ私に遠慮気味なユリウス様をも巻き込まないと改善するのが難しそうな問題なので、一筋縄にはいかない。


 とは言え、私だっていつまでも彼に甘えたままではいけないと思っているわけで。


「ユリウス様は、最近お仕事が忙しいのですか?」


 私は敢えて、仕事の事をたずねてみた。


「いいえ、そんなことはありません。お気遣いありがとうございます」


 やはりいつもの調子で、はぐらかされてしまう。

 となるともう仕事の事をしつこく聞くのは失礼に当たるわけで。


「なら、良かったです。ご無理をなさらないで下さいね」


 私は当たり障りのない会話で、勇気を出して口にした会話を締めくくる。


「ありがとう」


 ユリウス様はゆっくりと息を吸った。そして吐くと同時に、珍しく彼の口から言葉が紡がれる。


「エミリア様は、何かお悩みを抱えてらっしゃいませんか?」


 突然確信を突くような言葉に、私はドキリとする。


 自分の悩みではない。けれどステア様の事で悩むハンナの悩みを、共に抱えている。


 それは立派に、私の悩みになるだろう。


 でもハンナの件は、彼女のプライベートな事なので打ち明ける訳にはいかないというジレンマ。


 ユリウス様も大事だけれど、ハンナも大事。


 その結果。


「あ、ありがとうございます。でも特に悩みはありませんわ」


 また私は嘘をついてしまった。


「そうですか。それなら良いのですが」


 彼はそう言うと、私を抱き込む腕に力を込めた。そして、そのまま彼は話を続ける。


「……家にいて、寂しいことはありませんか」


「特にないです。私には兄しかおりません。だから、昔から一人で遊ぶ事には慣れているんです。それに、最近はハンナと会ってますし、寂しくはないです」


「安心しました」


 そう口にするわりに、ユリウス様が私を抱き込む腕の力をまた強めた。


「私はエミリア様に、何かして差し上げたいのですが、何もできない自分が不甲斐ない」


「そんな事はありません。ユリウス様はいつも私を助けてくれます」


「……そうでしょうか?」


「はい、そうです」


「では、私が貴女の助けになれる事とはなんでしょうか? 私はそれを知りたいのです」


 それはとても難しい質問だった。だって、私は彼に何も求めていない。


 彼はすでに、王女という取り柄でもあり、面倒ともなる肩書持ちである私の夫になってくれた。


 本来であれば、王女なんて政治の駒でしかない。

 他国と友好関係を結ぶために差し出されるのが、王族に女性として誕生した者の責務であり運命だ。


 けれど私は有難いことに、大好きなリーデルシュタイン王国で暮らせている。


 この屋敷から大好きな家族の住む実家である王城が見えるし、かけがえのない親友の家は数ブロック先にある。


 それを叶えてくれたのは、ユリウス様が私を妻として受け入れてくれたから。


 それはシュナイダー侯爵家の当主である、彼にしか出来ない私への最大の贈り物。


 だからこれ以上、何かを望むなんて罰が当たるというものだ。


「ユリウス様にはたくさん助けてもらっています」


「例えば?」


「……その……今日も、お仕事を頑張ってきて下さいました」


「でもそれは、エミリア様の為でもありますが、この国のためでもある。それに与えられた責務を果たすことは、当たり前ですから」


「でもその当たり前がなかなか難しい人も沢山いますもの。だからユリウス様はとても偉いと思いますわ。それに、私は今のままでも幸せです」


 何とか上手く話をまとめあげる。


 そして、今日のユリウス様は少し変だ。

 私は何となく、そう思った時。


「たとえばですが、犬を飼いたいと思ったりされる事はありますか?」


「え、犬ですか?」


 突然話が飛び、しかも最近私の頭を何かと悩ます犬の話題だっため、嫌でも心臓の鼓動が早まってしまう。


「い、犬は好きですけど、でも今はいりません」


 私はくるりと体の向きを変える。そして私を抱き込むユリウス様の胸に自分の頬をつける。


「だって今は子どもの方が欲しいですから」


 私はまた、彼に甘えてしまう。


 しかしながら、この言葉を口にすると、ユリウス様はわりと他の事を投げ出し、優先してくれる事を私は学習済み。


 そしてこの言葉の先に続く行為を、私は嫌いじゃない。


 もちろん慎ましい女性であるべきだから、自分から誘うなんてはしたないこと。


 でも子を残す責務を負う、夫婦同士なら許される誘いの言葉でもある。


 そして、いつも難しい事を考えているユリウス様の本音が見えるこの行為を、私は求めている。


 敬称を付けずに私の名を囁く彼が見たい。その気持ちは嘘じゃないから。


 しかし彼は難しい表情のまま、固まってしまった。


 流石に疲れているのに、申し訳なかったかも知れない。


 微妙な空気が部屋の中に流れてはじめ、私は彼の体調を気にせず、軽率に誘ってしまった事を後悔し始めたそのとき。


「では……いい……でしょうか」


 小さな声で待ち望む言葉が囁かれる。

 窮地を脱した私は、しめしめと思う。


 そしてこれから始まることに期待し、淑やかな妻とは真逆の感情で心が埋まる。


 それは、彼との平穏な生活に唯一もたらされる、ありのままお互いの本能をぶつけ合う事が出来る時間だから。


「もちろんですわ。頑張りましょうね」


 私は二つ返事で了承する。


 それから、昨日の仕返しとばかり、正面から抱き合う形になるユリウス様に、自分から口づけをする。


「!?」


 彼は驚いたようだったが、すぐに私の口づけに応えてくれた。


 そして遠慮がちな彼は姿を消し去り、私を渇望する荒々しい彼に変化する。


 お疲れのユリウス様には申し訳ないけれど。


 たぶん今日も私の勝ちだ。

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