004 浮気疑惑の調査開始2
問題の犬の毛が付着していたウェストコートは、ウール素材のものだった。
ハンナはそれを麻袋に入れ、浮気の証拠として確かに屋根裏に保管していた。
黒いウエストコートを袋から出した瞬間、屋根裏の埃っぽい匂いに混じり、ほんのりシトラスの香りが辺りに漂う。
「あ、これって」
ユリウス様が普段つけている香水の香りだ。
となると、現在屋根裏にふんわり漂う香りは、ステア様が普段つけている香水の匂いである可能性が高い。
ステア様は貿易商という事もあり、流行を作る側だ。だからきっとこの香水は男性の流行りなのかも知れない。
「なるほど。ユリウス様って案外流行に敏感なのね」
私は初めて知った事実を噛み締める。
古く格式あるスタイルが好き。そんなふうに思い込んでいたけれど、ユリウス様だって現在二十四歳。流行りを取り入れたい部分を、しっかり持ち合わせた人なのかも知れない。
それから私は、ユリウス様に思考を飛ばす事を辞めて、窓から差し込む光にコートを当て調べ始める。すると、取りきれない犬の毛が袖口と前見頃についているのが確認できた。
「これは犬を抱っこしたのかも知れないわね」
私は探偵を気取り、ハンナに告げる。
「やっぱりそうよね。だとすると、犬を飼おうとしている事は明らかという事になるわよね?」
「うーん、どうだろ。通りすがりの犬が可愛かったとか。それで抱っこさせてもらった可能性があるかも知れないし」
「そんな見ず知らずの人に、ほいほい抱っこされてたら、番犬にならないじゃない」
「確かに」
私はおっしゃる通りですと頷く。
「ポケットの中は調べたの?」
「調べようと思ったけれど、鼻水とくしゃみが酷くなったから、諦めたわ」
なるほどと頷き、私はハンナを見つめる。
「確認していい?」
「怖いけど、お願い」
不安げな表情でハンナが私に頷く。
「では、お調べいたしますわ」
私はウエストコートの外側についたポケットに手を入れる。
しかし特に何も入っていなかった。
次に内側についたポケットに手を入れると、明らかに紙のような感触が指先に触れた。
私は「出てきちゃった」と少しがっかりした気持ちでその紙をポケットから取り出す。
私の指がしっかりとつまむのは、名刺サイズのピンクの紙。
「まぁ、それは何かしら?名刺みたいだけど」
ハンナが興味深そうに、私がつまんだ紙を覗き込む。
「さあ、何かしら」
私は紙を裏返し、そこに書かれていた文字を読み上げる。すると紙には『クラウディア・ アーベライン』と書いてあった。その下には『バラ色のわんわんライフをあなたと』と記載されている。
「クラウディアって言うことは」
私はそこで口を噤む。この先に続く言葉は、浮気かもと悩む親友の前では言えなかったからだ。
「確実に女性の名前だわ」
私が持った名刺を覗き込むハンナは、震える声でこちらが飲み込んだ言葉を告げる。
「やっぱり浮気していたんだわ。ステア様はその人と仲良く犬を飼ってバラ色のわんわんライフを送るんだわ」
目尻に涙を溜め、ハンナは泣き崩れた。
「べ、別にこれは浮気とは限らないでしょ」
私はそんな事をしても意味がないと知りながら、紙の裏表を何度も確認する。
けれど心は落ち着かない。だって、どう考えてもクラウディは女性の名前だから。それにピンク色の名刺に『バラ色のわんわんライフ』という響きがいやらしくも感じてしまう。
「いったいどういう関係なんだろう」
「きっとこのクラウディアって人は、ステア様の愛人なのよ。犬を飼いたいステア様は、犬アレルギーの私捨てて、その人とラブラブわんわんライフを送るつもりなんだわ。女の勘よ。間違いないわ」
興奮したハンナは、泣きながら私を見つめる。
「でも、私にはそうは思えないわ」
ハンナは浮気を疑うし、状況証拠もステア様に不利なものばかり。けれど一年間、毎日リルケ伯爵に頭を下げ続けたステア様が、結婚して一年も絶たずに浮気をするとはどうしても思えなかった。
「それにハンナに毎日お花を贈るなんて、やっぱり愛されている証拠だと思うけど。そもそも恋愛結婚なんだし、すぐに冷めたりしないでしょう?」
私は懸命にここにはいない、ステア様を庇う。それは別に彼の味方だからではなく、単純にハンナに傷付いて欲しくないからだ。
「それはやましいからよ。現にこうやってわざわざ内側のポケットに、女性の名刺を隠し持っていたんだし」
ハンナは鼻をぐずぐずさせながら続ける。
「それに恋愛結婚なんて、実はそんなにいいものじゃないわ。所詮相手を思う気持ちなんて見えないわけだし。それに大好きは大嫌いの近くにあるものよ。だから政略結婚のように、一から十まで、きちんと約束事を決めて、理性的にした結婚の方が傷つかなくていいのかも知れないわ。そもそも大好きという爆発的な想いで始まらないから、きっと浮気されても冷静に対応出来るはずだもの」
ハンナは感情の赴くまま、まくしたてるように気持ちを吐きだす。
確かに政略結婚をした私とユリウス様は、穏やかな日常を繰り返している。それはもうお互いを婚約者だと認識してからずっと。
もちろん彼を特別な人だと思う気持ちはあるけれど、それは家族の好きに近い気がする。出会ってから今まで、彼に対する私の感情は平坦なまま。爆発的な想いなんていうものは経験した事がないから。
でももし、ユリウス様に愛人が出来たら……。
想像してみるも、彼に限ってあり得ないという謎の信頼感から、私はすぐに考えるのをやめる。
「確かにハンナの言う通りかも知れない。でもまだ好きなら、諦めるのは早いし。現実問題として、離縁するにしたって簡単には出来ないわ」
私は冷静になれと諭す。
離縁になった場合における、財産分与方法など取り決めは各々違うとしても、面倒な事には違いない。
なにより。ラインマイヤー商会の御曹司が伯爵家の一人娘と結婚したというニュースは、大きな話題になっている。
特にラインマイヤー商会は潤沢な資金を元に、積極的に慈善活動に募金している。よって、市民からは絶大な人気を誇っている商会だ。
そんな中、三ヶ月で離縁となると、ハンナに悪い噂が立ってしまう事は避けられない。
いわく。
「貴族の令嬢は堪え性がない」
「わがままだ」
「きっと庶民の暮らしに耐えられなかったんだ」
「これだからお貴族様は」
などなど。貴族女性全体の反感を買う恐れがある。
それだけは流石に避けたいところだ。
「とりあえず、取り乱すのはいつだって出来るわ。今はこの人が誰なのか。そしてステア様のウエストコートに犬の毛がついた理由を示す証拠をなにか探さないと」
「……そうね。エミリア様の言う通りだわ。証拠を集めるために執務室に行きましょう。あそこには帳簿があるから、何かわかるかも知れない」
気持ちが落ち着いたらしいハンナはハンカチで涙を拭うと、「くしゅん」と大きなくしゃみを一つした。
私は慌ててコートを麻袋に詰め込むと、白い布がかけられた、使っていないソファーの裏に隠しておいたのであった。
◇◇◇
屋根裏部屋を後にした私達は、執務室で証拠探しを始めた。
さすがに人の家の帳簿を見るわけにもいかないので、私は机の上やら本棚の本やらを調べるに留めておく。
その代わりハンナはアカウントブックと呼ばれる帳簿に目を通している。
アカウントブックは、個人や企業が収入や支出、資産、負債、取引の詳細などを記録し、財務状況や取引の履歴を追跡するために使用される帳簿のこと。これを調べれば自ずとステア様の動きがわかるというわけだ。
「あ」
「何かあったの?」
ハンナの声に反応した私は、つい読み込んでしまっていた『紳士における経済心理学入門』という本からバッと顔を上げる。すると、思い詰めたような表情をした彼女と目が合った。
「これって、さっきの名刺の人へ払ったんじゃない?」
そう言いながら彼女は帳簿を指差す。
そこには確かに、『アーベライン』と綺麗な筆記体で記されている。
名前の横にある取引の詳細は『ドッグショー』と記されており、金額は残念ながら空欄だ。
「どうして空欄なのかしら。あ、でも日付が明日になってる」
私は日付の欄を指差す。
「つまり明日行われるドッグショーに、ステア様がこの女性と参加されるってこと?」
泣きそうになりながらも、ハンナは何とか堪えて私に問いかける。
「そういうことになるのかも」
私は再びページに目を走らせる。
するとすぐに気になる記述を見つけることができた。
「あ、ほら、ここ」
私が指差す、数日前の日付が書かれた部分には、『ドッグショーの入場料二名分』『クラウディア・アーベライン』と支出項目として記されている。
「でも私は、犬が多いところには行けないわ。だってアレルギーだもの」
ハンナは悲しそうに呟く。
「大丈夫だよ、ハンナ。ドッグショーには私が行くから」
「え? 大丈夫なの?」
心配してくれる彼女に向かって私は微笑む。
「私には王女時代に培った変装スキルがあるもの。だから任せて!」
私は満面の笑みで答える。
「ありがとうエミリア様。何からなにまで本当に感謝してる。あなたがいなかったら、私は自ら犬をもふもふして、命を絶ったかも知れないわ」
ハンナの言葉にギョッとする。そして、まさかそこまで追い詰められていたとはとショックを受けた。
けれどそこまで思い悩むということは、やはりハンナはステア様を心から愛しているということだ。
感情の赴くまま結ばれた恋愛結婚はいいもの。憧れる気持ちと共にそう思っていた。しかし、浮気疑惑を前にすると、愛が深い故に暴走してしまう恐れがあるという悪い面もあるようだ。
とにかく、犬アレルギーの親友を犬の群れに突っ込ませるわけにはいかない。
私はハンナの手を取る。
「明日は私に任せて。とりあえず今日は遅いから帰らないと。ユリウス様が帰宅しちゃうし」
時計を見るともうすぐ日が暮れそうな時間だった。
流石に彼より遅く帰宅するのは妻としてまずい。
「そうね、エミリア様を独り占めしてずるいって、そう怒ったユリウス様に、もう私と付き合うなって言われちゃうと困るし」
ハンナは冗談っぽく笑う。
「大丈夫よ、ユリウス様はそんな人じゃないから安心して」
私は笑顔で首をふる。
帰りたいのは、私がそうしたいから。
ユリウス様の帰宅を、妻としてちゃんと玄関でお迎えしたいと勝手にそう思っているからだ。
それに彼は、私の友人のために花壇の花を摘んで持っていきなさいと、気遣いが出来る優しい人。だから独り占めなんて思わないだろうし、怒ったりもしない。なぜなら、とても心の広い人なのだから。
「連日忙しくさせちゃってごめんね」
ハンナは申し訳なさそうに、謝ってきた。
「気にしないで。ハンナの役に立てて嬉しいから。それからあまり気にし過ぎちゃ駄目だからね」
「うん。なるべくステア様の前では笑顔でいられるように頑張る」
「そう、その調子よ」
私達は顔を見合わせて、クスリと笑い合うのであった。