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003 浮気疑惑の調査開始1

 私はいつも通りユリウス様が出勤するのを見送っている。


 彼の頭にはトップハットが乗せられ、右手にはステッキが握られている。


 襟の立つ黒いウエストコートの下は、フリルの付いたシャツに黒いベスト。それから細長いシルエットのパンツにピカピカに磨かれた黒い革靴。


 よく言えば、堅実で格式のあるスタイル。悪意ある言い方をすればまるでカラスのよう。


 けれど我が国における紳士は、素材の違いこそあれど、皆こんな感じだ。


 そして紳士の制服に身を包むユリウス様は、今日もまた、いつもと変わらず完璧で美しい。


 彼の黒髪は艶やかで、光が当たると微かな輝きを放つ。指先で触れた時に、意外に柔らかくて滑らかさを感じる事は、結婚してから知ったこと。


 それから、奥深さを持った碧い瞳は、常に冷静な眼差しで物事を把握している。けれど、主に私の我儘で困惑気味に揺れる事に、最近気付いた。


 そんなユリウス様の顔立ちは整っていて、全てのパーツが美しく調和している。彼の肌はなめらかで、高い額から鼻筋がすっと伸び、口元はやや厳しい印象を与えるけれど、微笑むと途端に柔らかな表情が現れ、私はそっちの方が好き。


 彼が常に自信に満ちた態度なのは、この国全体を見つめる仕事に誇りを持っているから。


 以上のことから、ユリウス様はたぶん誰もが羨む夫だと思う。


 そんな彼の隣に立つ私は、絶世の美女と世の中から謳われる母ではなく、悲しいくらいに父親似。


 それでも上に兄が三人いる、末っ子の姫という環境で育ったため、私は家族からも王宮の使用人からも、みんなから愛されて育った自覚がある。


 けれど、完璧なユリウス様の隣に立つには、もう少し完璧な見た目と落ち着いた中身を持つ女性の方がお似合いなのになと、冷静に思ったりもする。


 私もユリウス様もたぶんお互い、声を大きくして唱える不満はない。けれど、だからこそ物足りなくも感じてしまう。


 まぁ、政略結婚なんてそういうものなんだろうけど。


「では、いってきます」


 執事のヨハンから仕事用のバックを受け取ったユリウス様は私に告げる。


「いってらっしゃいませ」


 私は背伸びして、ユリウス様の頰にキスをした。彼は照れたように微笑むと、馬車に乗り込もうと私に背を向ける。


 その姿を笑顔で見送っている時、ふと大事な事を言い忘れている自分に気付き、慌てて彼に声をかける。


「あ、ユリウス様!昨日はユリウス様に……いえ、私が疲れてしまい、つい言い忘れたのですけれど、今日はハンナのお宅にお茶会に行ってまいります。よろしいでしょうか?」


 危ない。使用人たちの前でうっかり「昨日はユリウス様が私の言葉を待たずにキスをしたから言えなかった」と言いそうになった。


 いくらなんでも、爽やかな朝にそれはない。


「当日の朝のご報告になってしまい申し訳ございません。でも、よろしいでしょうか?」


 私がさりげなく付け足すと、馬車についたドアのすぐ下にあるステップに片足をかけていたユリウス様が、ピタリと体を停止させる。


 それから数秒ほど謎の沈黙が訪れて。


「もちろんです。妻が友達の屋敷を訪ねる事を許さない夫などおりませんから。良かったら、庭に咲くチューリップを摘んだらどうでしょうか。確かハンナ嬢の好きな花だったと記憶しておりますので」


 見惚れるくらい美しい笑みで、ユリウス様は素敵な提案をしてくれた。


 怒られないで良かったと安堵する気持ちとユリウス様の記憶力の良さに舌を巻く。それからやっぱり模範的な紳士で、全てが美しい人だなと感心してしまう。


「いいんですか?」


「もちろんです」


「ではお言葉に甘えて数本ほど、彼女のために摘ませてもらいます」


 私は有り難くユリウス様の提案を受け入れる。


「ええ。では」


「行ってらっしゃいませ。お気をつけて」


 私は、ユリウス様の乗車した黒塗りの馬車の姿が視界から消えるまで見送る。そして、ユリウス様のご厚意に甘えるべく、チューリップを摘むために中庭に向かうのであった。





 ◇◇◇





 ハンナの家は我が家と同じように、多くの貴族が居を構える地区にあるので、歩いて行ける距離。けれど私は侍女を連れていたとしても、呑気にその辺をウロウロ歩く事わけにはいかない。


 なぜなら、現在シュナイダー侯爵夫人である私なのに、王女の地位も保持したままになっているからだ。


 こればかりは国の法律で決まっているので、「いりません」と言った所でなくなるものではない。だから死ぬまで私は王女でいなければならないということ。


 というわけで、私は数ブロック先にあるハンナとステア様の愛の巣、ラインマイヤー邸にわざわざ馬車に乗って移動した。


 そして現在、ハンナと問題の『犬の毛』を眺めているところだ。


 問題の犬の毛は、ご丁寧にもシルクのハンカチに包まれていた。


 毛の色は薄茶色で巻き毛。それが数本ハンカチの上に乗せられている。


 因みに犬アレルギーであるハンナは、口元にハンカチをあて、目には伊達眼鏡をかけているという、完全防備の状態だ。


「それ、どう見ても犬の毛でしょ?」


「鳥じゃないことは確かね」


 私がとぼけると、ハンナはジロリと私を睨んできた。


「こっちは離婚の危機なの。真剣にお願いします、探偵エミリア様」


 おふざけ全開。茶目っ気たっぷりに私を叱りつけるハンナ。

 どうやら自分はふざけてもいいらしい。


「では失礼して、問題の『毛』を確認してみますわ」


 探偵ぶった私は頼まれた手前、出来る範囲で鑑定を試みる。


「うーん、犬っぽい気もするけど……もし仮にこれがスパニエルだったら、うねってるから耳の所の毛かなってくらいしか。あと色は茶系なのかな」


「そうよね。私もスパニエルだと思う。だってそこかしこで見かけるもの。ふわふわでもふもふしたやつ。いつか私も……」


 ハンナは切ない表情でハンカチに載った、犬の毛を見つめる。


 やはりたとえアレルギーだったとしても、ハンナは犬をもふもふしたいようだ。


 その気持ちは良くわかると私は大きく頷く。


「因みにペットショップの売上の半分以上はスパニエルらしいわ。で、残りの半分が小型のテリア。その他には、ドッグショー関連で、ポメラニアン、プードル、セッター、ハウンド、コリー。あぁ、それからミニチュア・シュナウザーなんかも売られていたけど」


 私は新しくできたペットショップに見学に行った時の事を思い出す。


 父と母の愛犬、スパンクルとニエルの誕生日が迫った事もあり、プレゼントを探しに新しく出来たペットショップに数日前に足を運んだ。


 その時、店員さんが私に気づくと、色々と教えてくれたのである。


 子犬を見ると、たまならく「ここから、ここまで全部連れて帰るわ」と言いそうになったけれど、何とか堪えた。


 そもそも犬はペットだけれど、生き物だ。よって飼うには責任が伴うし、家族の一員に迎えるということは、ユリウス様の許可だって必要。


 それにすでに姪っ子や甥っ子がいる私は、自分の子どもが欲しいと願っている。


 もちろんこれは、自然の流れに身を任せるしかないことだけれど、今は犬より人間の赤ちゃんを希望する気持ちの方が強いというのが本音だ。


 犬の毛を見つめる私は昨日、寝ぼけていたのかユリウス様がボソリと呟いた言葉を思い出す。


『……かし犬が……』


 確かそうだったと思う。


 私は犬という言葉を耳にした瞬間、まさか頭の中を覗かれたのかと驚いて固まった。それから、もしかして寝言で何か呟いてしまったのだろうかと、慌てて彼に探りを入れた。


 けれど彼は何も言ってないと教えてくれたから、安心した。


 寝言というものは、どうしたって意識してやめられる事ではないので困ったものだ。


 これは結婚して隣で一緒に寝る人が出来た事により、初めて感じた悩みの一つ。


「でもいったい……」


 彼が口にした『かしいぬ』という単語は初めて聞いた。もしかしたら空前のペットブームで犬をレンタルできるお店が出来たのかも知れない。


 ただ、どうしてユリウス様が犬を貸して欲しいのかは不明だけれど。


 犬の毛を眺めながら昨晩の記憶を遡っていた私は、ついユリウス様に強引に唇を奪われてからあった、あれこれまでもを思い出してしまう。


 彼は普段とても紳士的だ。世の中に紳士を知らない人がいたら、彼と対面させればこういうものだとわかりやすいくらい、教本通りの模範的な紳士。そのせいで私は、「え、まだ結婚してないんだっけ?」と自分が傷物になるのを恐れる独身令嬢なんじゃないかと、うっかり勘違いしそうになるくらい礼儀正しく淡白だ。


 つまり、私には適切な距離を維持し、彼はあまり触れてこないのである。


 けれど肌を重ねる時だけは、まるで別人のようになる。


 まず私に敬称を付けず「エミリア」と呼んでくれる事が一番大きい変化で、私も嬉しい。


 なぜなら、王女である私にとってそれは、家族しか呼ぶ事が許されない呼び方だから。


 だから彼がそう呼んでくれると、家族だと認めてくれていると分かりやすくて嬉しいので、つい彼を求めてしまう。


 それに、肌を重ねる時の彼は積極的でどこか余裕がない感じがするのも好き。


 まるで、私を心から渇望しているんじゃないかと、そんな錯覚に陥ることが出来て幸せだし、ついうっかり恋愛結婚の末、ようやく結ばれた二人だと、錯覚したりもできるから。


 その結果、心から彼に求められていると感じ、満たされた気分で眠る事が出来るのだから、悪い事じゃないと思う。


 それに、肌を重ねる時の荒々しい彼を結構好ましいと感じているし……って他人の家で私は何を思い出しているのだろうか。


 その事に気付いた私は一人顔を真っ赤に染めあげる。


「と、ところでこの毛ってどこについてたの?」


 私は慌ててハンナの問題に話を戻す。


「やだ、エミリア様。何で顔がそんなに赤いの?」


「下着を間違えて一枚多く着てるのかも。おほほほ」


 慌てて誤魔化す。


「やだ、下着を間違えて多く着るなんて、ありえないわ。って、この毛の話だけど、実は彼のウエストコートについてたの」


「そのコートって、今は屋敷にないの?例えば毛のついた位置で犬の大きさとか特定出来ないかな?」


「あるわ。私がこっそり隠しておいたの。浮気の証拠だから」


 ハンナは自慢げに胸を張る。

 その行動力に驚きつつ。


「じゃ、移動しましょ」


「うん」


 私はハンナと共に、応接室から移動するのであった。

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