021 私達は政略結婚の夫婦です
アクアリウムのお店でのお買い物が終わり、待たせていた馬車に乗りこもうとした時。
「エミリアたん、それは食べてはだめでちゅよ」
不穏な言葉に、つい私は声がした方向に顔を向ける。
「エミリアたん、上手にペッできまちたね。本当に君はおりこうさんでちゅね」
両手で持った子犬に顔を舐められながら、うっとりした表情を見せるのは、いかつい男性。
顎が割れて、口ひげをはやし、筋骨隆々。オークこと、ゲラルド卿に間違いない。
「儂はエミリアたんの騎士でちゅよー」
実に男らしい雰囲気を纏いながら、その口から飛び出る赤ちゃん言葉は違和感しかない。しかも「エミリアたん」って……。
ゾゾゾと背中を走る悪寒に、思わず私は身震いをした。
「エミリア、みなかった事にしよう」
無の境地に達したような表情をしたユリウス様が、私に告げてくる。
「ですが、ご挨拶はしなくてもいいのですか?」
今のゲラルド卿は受け入れ難い。しかし普段の彼は、とても頼りになる武人であり、私たちの仲人を勤めたくれた恩人でもある。
「一応どんな状況でも、ゲラルド卿ですものね?」
私は失礼があってはいけないと、ユリウス様に問いかけた。すると、彼は私の答えに少し考える素振りを見せたあと、言い聞かせるように話し出す。
「いいんだ。あれは君には衝撃的すぎるし、君が知らなくていい世界だからね。それにあれはゲラルド卿であって、彼じゃない。それよりも、君には他にやるべき事があるだろう?」
ユリウス様の目は鋭い。そして私の持っている購入したばかりの水草を見ていた。
「た、たしかにそうですね。これ以上知ってはいけない気がします」
知ってしまえば、次からゲラルド卿を見る目が変わってしまう事は間違いない。
「ゲラルド卿、またこんど普通の状態の時に、必ず……」
犬にベロンベロン顔を舐められているゲラルド卿に小さな声で別れを告げる。
この場は見なかったことでと意見が一致したユリウス様と私は、帰りの馬車に素早く乗り込む。
馬車に乗るときは向かい合わせに座ることが多いけれど、今日は隣に座りたいと私はわがままを言うことにした。
私が隣に座ってもいいかと尋ねると、ユリウス様は快く了承してくれる。
二人で並んで座ると、ユリウス様が屋根を叩き、ゆっくりと馬車が走り出す。
「エミリア、今日は楽しかった?」
「はい、とっても」
「それは何よりだ。僕は君がいれば、どこでも楽しめるという事がわかった。たまにはまたこうして外出しよう」
そう言って彼は微笑む。
そんな彼の表情は、いつもの優美なものとは違い、とても無邪気で少年のように見えた。
ユリウス様は相変わらずいつだって紳士で完璧だ。けれど私の前では、その仮面を外してくれる。
それは妻だけの特権だから、とても嬉しい。
「でも、さっきみたいに、見たくないものを見ちゃうこともあるから要注意ですね」
「確かに」
ユリウス様は苦笑いで頷く。
「ユリウス様、これからもずっと、隣にいて下さいね」
私はユリウス様に寄りかかりながら、そうお願いする。
すると彼は私の肩を抱いてくれる。
「もちろん。君が嫌だと言っても、隣に居座るつもりだ」
優しく微笑んでくれた。
「約束ですよ」
私は彼に小指を差し出す。
ユリウス様はその小指に、私より大きな小指をしっかりと絡めてくれた。
「あぁ、約束だ」
私の指から伝わる彼の体温にホッとする。
彼とこうしていられるなら、私はどんな場所でも楽しめるし、いつだって幸せだ。なによりとても安心する。だからずっと……ずっとこうして一緒にいられればいいとそう思う。
「エミリア」
ユリウス様は、私の名を愛おしそうに呼ぶ。
そしてそっと顔を寄せて、私に口づけをしてくれた。
私はその幸せな温もりに目を閉じる。
今日は本当に素敵な一日だった。ユリウス様と手を繫ぎながら馬車に揺られる帰り道は、私にとって今日という日を彩ってくれる、どんな物語より素敵なワンシーンだ。
だからきっと……。明日も明後日も……。ずっとずっと、私は幸せでいられるだろう。
そう確信した私は、目を開けて大好きな人の隣で微笑む。
私と彼は政略結婚だ。
しかも物心つく前から。
だから、恋愛結婚をした人のように、常に心が揺さぶられるようなそんな激しい感情を含む恋をしてきたわけじゃない。
でも、私たちはお互いが唯一無二で、いつも隣に居たいと思っている。
他のどの夫婦にもこの想いは負けないし、譲れないと自信を持って言えると思う。
もしかしたらそう思えるのは、政略結婚のおかげかも知れない。
だって私の隣には、いつだってユリウス様しかいなかったから。
出会いが仕組まれたものでも、今はとても幸せだ。
「エミリアが可愛すぎて、もうずっとこうしていたい」
ユリウス様が、私の頬を撫でながら恥ずかしい願望を口から漏らす。
「でも私は、お仕事に行く凛々しいユリウス様も好きですよ?」
私が言うと、彼は笑う。
そしてもう一度だけ軽く口づけして、私たちは家路につくのであった。
◇おしまい◇
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