002 犬の毛、浮気、涙の痕跡、別居
慈善事業イベントにおいて親友であるハンナの夫、ステア様が浮気をしているかも知れないと聞かされた私は、貴族街にある屋敷に帰宅してからも、その事で頭が一杯になっていた。
それは、ユリウス様が王城の職場から帰宅し、共に夕食を取り、各々湯浴みを済ませ、寝室のベッドに寝転んだ状態になっても変わらず、私の頭のほとんどは「浮気」という言葉で占められていた。
「浮気の証拠か」
湯船から上がった私は、装飾が施された豪華な大型のベッドに寝そべり、眠気との戦いに身をゆだねつつ、ユリウス様の到着を待っている。
「犬の毛ねぇ……」
とりあえず明日、ステア様が不在の時間帯にラインマイヤー家の屋敷にお邪魔して、何か手掛かりになるものがないか、ハンナと二人で調べようという事になっている。
問題の犬の毛もハンナがしっかりと保管してあるとの事なので、じっくり見せてもらうつもりだ。
ただ、それを見て犬の種類がわかるかどうかは微妙だ。そして万が一、犬の犬種が判明したところで、何か状況が変わるのか……それすらも不明。
「にしても」
犬と戯れるステア様の姿を思い浮かべつつ、やはり全くもって浮気しているとは思えないなと思う。
「そもそも犬を飼いたいから、別居する」
それは果たして浮気にジャンルわけされるのだろうか。
でもハンナのあの悲壮な姿を思い出すと、何とかしてあげたいという気持ちが湧き上がってくるのも事実だ。
ガチャリという音と共にドアが開き、「失礼します」という声がしたのち、寝巻きに身を包んだユリウス様が寝室に姿を現した。
湯浴みしたてらしいユリウス様の登場により、部屋の中に仄かに石鹸の香りが漂う。
いつもはきっちりと整えられた、闇を思わせる黒い髪の毛。それが今は、大雑把な感じで乾かしたのか、ワサワサと自由な感じで跳ねている。その姿は、少し幼く見えてとても可愛らしい。
几帳面で真面目なユリウス様に、こういう一面があるのを、当たり前だけれど私は結婚してから知った。
彼の姿を確認した私は、慌ててベッドの上で半身を起こし、ユリウス様を出迎える。
実のところ、良き妻となるべく学ばされた淑女教育によると、夫より先にベッドに入っていてはいけない事になっている。けれど、結婚した当初ユリウス様に「風邪を引いたら大変なので、私を待たずに先に入っていてください」と言われた。だから、遠慮なくその言葉に甘えさせてもらっている。
「申し訳ございません。お待たせしました」
ユリウス様は私のいるベッドまで歩いてきて、そこで一度停止した。
「お隣を、よろしいでしょうか?」
少し照れた様子で、私に伺いを立てるユリウス様。
「どうぞ」
もちろん、私は快く了承する。
彼は私が先にベッドを占領している場合、入るとき必ず確認する癖がある。
それは、私が王女として彼と接していた時期が長いからだと思う。
今の私はユリウス様の妻で、ここは二人のベッドなのに。
そう思いつつ、いつも冷静な彼が見せる僅かな照れは、とても貴重だし可愛いから好き。
だから敢えて指摘しないまま、半年が経過中。
「失礼します」
ユリウス様はベッドに入り、ごそごそと動き、私の隣に横になった。
今日の位置を確定したらしい彼に背を向け、私も起こしていた体を布団の中に潜り込ませる。
するとすぐに彼の腕が後ろから伸びてきて、私の腰のあたりをしっかりと抱きしめた。
これも結婚してから知った事だけれど、彼は寝るときに何かを抱きしめていないと落ち着かないらしい。
本人から聞いたわけではないけれど、いつも私を抱きしめて寝るので、たぶんそういう事だろう。
きっと独身時代は、私の代わりに枕でも抱えて寝ていたに違いない。
全くそんな風には見えないのに、意外に寂しがり屋さんなのは、彼が十九でご両親を亡くしている事に関係するのかもと、私は密かに推測している。
「今日は何かありましたか?」
背後から彼に問われる。
「いいえ、何も」
「……そうですか」
私は嘘をついてしまった。
その事に罪悪感を抱きつつ、自分の問題ではないのだから、仕方がないと言い訳する。
ステア様が浮気をしているかも知れないという話は、まだ疑惑の段階。ここでおおごとにしたら、万が一勘違いだった場合、ステア様の名誉を傷付ける事になりかねない。
それに、ハンナには内緒にしてと言われたし、そもそも犬を飼いたいから離縁するというのは、浮気と言うには微妙なライン。しかもまだ本当にステア様が犬を飼いたいかどうかも不明だという状況だ。
だから私はまだ、ユリウス様には言えない。それに何より、悪い事をしているわけではないからきっと後で報告しても許されると思う。
こうしてユリウス様に背中に張り付かれると、何だか暖かくて眠くなってくる。
「はぁ……浮気ってどこからなんだろう……」
思わず小声で呟き、ウトウトしつつ。
「お休みなさい、ユリウス様」
私は最後の力を振り絞り、睡魔を押しのけ囁くように彼に告げる。
「おやすみなさい、エミリア様」
ユリウス様は私の頭に唇を軽く押し当てる。
私は彼の温もりに包まれながら、すぐさま眠りについたのであった。
◇◇◇
~ユリウスSIDE~
彼女の規則正しい寝息が聞こえてきた事を確認し、ついため息をつく。
「浮気か……」
自分は浮気などした事もないし、したいとも思わない。
なぜなら彼女を愛しているからだ。
それはもう、かなり前から。
よって、彼女が先ほどもらした「浮気はどこからか?」という小さな呟きは、僕への問いかけではなく、彼女自身の心の声だという事になる。
彼女は今日、慈善事業のイベントに参加するために出かけた。
行き先は、聖マイヤー教会。行き帰りは我が家の馬車を利用したと執事のヨハンから報告を受けている。
『途中どちらかに立ち寄った様子もなく、通常通り帰宅されました。ただ、帰宅後涙を流した痕跡があり、うわ言のように「浮気」「犬の毛」と呟いていたと、侍女のカルラ様が申しております』
ヨハンのだいぶ皺が目立つようになってきた顔と共に、そんな言葉を思い出し、胸が押しつぶされそうになった。
浮気と犬の毛の関係性は現時点では理解不能。しかし、涙の痕跡と浮気という関係性は見過ごせない。
しかも寝室に入る前、ドアに手をかけた時に漏れ聞こえた不穏な彼女の言葉。
『そもそも犬を飼いたいから、別居する』
あれはいったいどういう意味だというのだろう。
「まさか……」
実は僕が犬アレルギーであることに、ついに気付いてしまったというのだろうか。
そもそも国王陛下と王妃殿下も犬を飼っている。
どうみてもスパニエル犬からもじった名を付けられたと思われる、「スパンクル」と「ニエル」という、二匹の犬を彼らが溺愛しているのは国中の誰もが知る有名な話。
現に最近王城内でもこんな噂を耳にした。
ある日王妃殿下がスパンクルを連れて散歩していたところ、スパンクルが庭園にある池に転落し溺れかけた。すると、たまたま近くにいた庭師がその様子に気付き、着の身着のまま池に飛び込みスパンクルを救出。
王妃殿下はスパンクルが無事であることを確認すると庭師に感謝し、褒美を与えただけではなく、彼を王妃殿下専属の庭師として現在も大切に扱っているらしい。
嘘か本当かは別として、このような噂が真であるかのように話題にあがるのは、国王夫妻がやはりペットの犬を大事にしているからだろう。
そして二人の大事な一人娘であるエミリアも同じ。
ヨハンからの報告によると。
『エミリア様は、セントラルにオープンした犬用品店にお出かけになられました。特に犬用のお洋服に興味があるとのことで……』
超重要機密。僕が犬アレルギーであることを知るヨハンが言い辛そうに伝えてくれたのが数日前のこと。
「やはり、犬を飼いたいのか……」
そして犬を飼いたいが故に、犬アレルギーもちの僕と別居するかどうか彼女は悩んでいる。
しかもそのためにすでにペットショップにまで足を運んでいるとなると、いよいよ僕の推理の信憑性が増すと言うものだ。
「なるほど、犬の毛は毛並みのことか」
きっと飼う犬種の色で悩んでいるのかも知れない。
「しかし、浮気の件はいったい」
まさか、ついでに犬好きな男と浮気もしたいという事だろうか。
「確かに犬に触れて顔を腫らす男より、一緒に撫でられる男の方がいい……くっ、完全敗北」
「……ん」
エミリアが苦しそうな声を漏らし、ハッとする。
まずい、ついキツく抱きしめてしまったようだ。
僕は腕を緩め、彼女の柔らかい髪に自分の顔を埋める。
「……エミリア」
縋るように彼女の名を呼ぶ。すると、不意に彼女から信じられない言葉が返ってきた。
「犬が先か……浮気が先か……」
瞬間、息が止まるかと思った。
「くっ……はっ!ゴホゴホ」
肺が押し潰されそうで、慌てて空気を吸い込むと逆にむせてしまった。すると、彼女がモゾモゾと動き出し、僕の腕の中でくるりと体を回転させる。
「ユリウス様、大丈夫ですか?」
どうやら僕の咳で、エミリアが目を覚ましてしまったようだ。
「すみません。起こしてしまいましたね。大丈夫ですので、おやすみ下さい」
彼女に動揺を悟られないように微笑む。
すると寝ぼけ眼の彼女が僕の胸にすり寄りながら、安心したように小さく微笑む。
ああ、可愛い。彼女の一挙手一投足が僕のささくれた心を癒してくれる。
エミリアという存在は、神が世界に創造した全ての中で、最高傑作であり尊いもの。そしてそんな彼女が僕の妻に割り当てられたという幸運。
どうやら僕は前世で、相当徳を積んだに違いない。
来世の僕がいるとしたら、なんだか申し訳ない。
僕は今のところ、誰かに誇れるほど徳は積んでいないから。
「今何時ですか?」
エミリアが眠たそうに目を擦りながら、僕に尋ねた。
「そろそろ日付が変わる頃ですね」
部屋の隅に置かれた柱時計で確認し、彼女に知らせる。
「え? もうそんな時間なんですか?」
あくび混じりに彼女が驚く。
「今日はお昼過ぎから慈善活動のお手伝いに行かれたとか。大変でしたね」
「ええ、でも、思ったより寄付が集まって、教会の方がとても喜んで下さいました」
そう言って微笑む彼女の笑みが、僕だけに向けられている事実に今だけは安堵する。と同時に、長年待ち続け、ようやく手にしたこの幸せを手放すことなど無理だと悟る。
「……しかし、犬が……」
思わず口にすると、エミリアのまるで枝に芽吹く若葉のように生き生きと美しい瞳がカッと見開いた。
それから、すぐにうつむき、誤魔化すように僕の胸におでこをつけてくる。
「……もしかして私は、寝言で何か言ってましたか?」
彼女の普段は鳥のさえずりのような美しい声が僅かに震えていた。
「いえ、なにも」
もちろん嘘をつく。それから僕は微笑んで彼女の垂らした蜂蜜のように輝く美しい髪を優しく撫でる。すると安心したように彼女が微笑んだ。
「ねえ、ユリウス様」
「なんですか?」
エミリアがゆっくりと顔を上げ、僕を見上げる。そのどこか切なそうな、とろんとした眼差しに僕は思わず息を飲む。
そして彼女は恥じらう様子で僕に告げた。
「早く、こどもが欲しいですね」
火照ったように、顔を赤らめた彼女がそんな事を言う。
「……エミリア様」
不意打ちに脳が活動を停止した僕の口から自然に彼女の名が漏れる。
「そうですね、でも私はまだ二人でも構いません。ゆっくり時間はあるのですから」
何とか冷静を装い、子どもを焦る必要はないと僕は告げる。
いずれは欲しい。けれど今は、帰宅した屋敷の玄関で彼女が僕を迎えてくれるという、幸せの余韻に浸りたい気持ちの方が大きい。
けれど彼女が僕との子を望んでくれているという事実は死ぬほど嬉しいわけで。
「では……いいですか?」
そんな事を尋ねる間もなく、彼女に触れたい。
しかし紳士たるもの、そのような振る舞いはスマートとは言い難い上に、彼女に余裕のない男だと思われたくもなかった。
僕は、はやる気持ちに対し、己の理性を総動員させ何とか堪える。
「はい、お願いします」
照れた様子の彼女に、僕は顔を近づける。
「あ、そうだ、ユリ……」
彼女の言葉が僕の唇で塞がれる。
すまない、あまりに嬉しくて待てなかった。
こうして彼女の全てを手に入れた僕は、犬の毛、浮気、それから涙の痕跡に別居。それら不穏な言葉をうっかり忘れ、今日も幸せに眠りにつくのであった。