019 彼女の困る顔も好き(ユリウスSIDE)
良く人生はバラ色だなんて言うけれど、それはまさに今の僕のこと。
エミリアが情けない僕を丸ごと受け入れてくれて、犬アレルギーの件もしっかり伝えられた。
その結果、前よりも僕は幸せを満喫している……はずなのだが。
「ねぇ、ユリウス様。この子の調子がおかしいかも知れないわ。だってヒモみたいなものがヒラヒラしてるの。それに色だって何だかくすんできた気がするのだけど」
エミリアは居間に飾ったやたら意匠の凝ったアクアリウムに張り付き、中に入る二匹の金魚に、心配そうな表情を向けている。
そう、彼女は犬の代わりに購入した金魚に夢中なのである。
「ヒラヒラしているのは糞です。そして色がくすんでいるのは、光の関係です。むしろ元気に二匹で仲良くしているじゃないですか」
魚ごときの分際で。
我ながら酷な言い方である気もするが、僕の貴重な休日からエミリアを奪っているのだから、それくらいは許されるというものだ。
そして金魚に嫉妬した僕は、あえてアクアリウムに無関心を装うという作戦に出ている。
「それに、何だかまた水草が枯れてきちゃってる。どうして上手く行かないのかしら……」
エミリアは納得いかないといった表情で、アクアリウムとにらめっこし始めた。
「もしかしたら、アクアリウムにおける、「情緒による心地よさ」の、情緒部分が足りないのかも知れないわ」
呟くにしては大きな声でそう言ったエミリアの手には、『淡水アクアリウム、その作り方と維持管理法』という本がこれみよがしに広げられている。
どうやら「情緒における心地よさ」の部分はそこから引用したようだ。
ただし、彼女のアクアリウムの中央には情緒とは程遠い、線型で肉厚な葉が何本も天井に向かって元気よくはみ出しているという状況。その他にもカボンバと呼ばれる水草が底からふわふわと水の中を漂い、色が変色したわけのわからない、どろっとした物体も存在する。
もはや、ぼうぼうに生えた雑草の集合体にしか見えない僕にとって、彼女のアクアリウムは金魚を鑑賞するというよりは、室内をガーデニングする役割を担ったものとして認識されている。
「そうね。ミズスミレあたりがいいかも知れないわ」
ブツブツと呟く彼女はパタンと本を閉じ、そわそわした様子でソファーに座る僕の前に立つ。
「ユリウス様、何だかお天気も良いですし、たまにはお散歩にいきません?」
どうやら僕が、休日は極力屋敷に引きこもり、エミリアと二人でのんびり過ごしたいと願う事を知る、彼女なりの気遣いのようだ。けれど本音としては、アクアリウムショップに水草を買いに行きたいのだろう。
以前の僕ならば「いいですよ」と紳士の心を持ち二つ返事で了承するところだ。
しかし、どうやら本当の僕は、好きな女性が困る姿にも快感を得るたちらしい。
「散歩でしたら、王立公園あたりがいいですね。あそこなら人もいますし、あなたの知り合いに偶然会えるかも知れませんよ」
「だめよ、公園には犬が散歩に来るもの。ユリウス様の具合が悪くなってしまったら困るでしょう?」
む、何とも可愛い返しに、僕の頬が思わず緩んでしまう。
だがしかし、可愛い顔もいいが、困った顔もまたいいわけで。
「ではやはり家でまったりしていましょう。僕もアレルギーにならなくて済むし」
「それはそうだけれど、情緒を追加するためのミズスミレが……」
僕の言葉にエミリアは不満げな表情を僕に向けた。
そんなところもまた可愛らしくて……僕は意地悪な気持ちが沸々と湧き上がるのを感じた。
「ミズスミレは低温を好み、水温は二十四度以下にするのが良いはずです。だとすると、夏を迎えるこれからの時期、育成が難しくなりませんか?」
「それは……」
むくれたエミリアの表情に僕は思わず笑みがこぼれる。
彼女は本当に表情が豊かで見ていて飽きることがない。
「それに、もし失敗したら大変です。僕はエミリアのアクアリウムを楽しみにしているのですよ?」
もちろん、それは嘘ではない。彼女が試行錯誤する姿を眺めているのは悪くないし、アクアリウムという物が奥深い事も、彼女の愛読書をこっそり読んで理解している。
ただ、金魚ごときに僕のエミリアを奪われたくないというだけの浅ましい気持ちで、無関心を装っているだけ。
「そうね……どうして上手くいかないのかしら……」
きっと彼女は手にした本を暗記するほど読み込み、僕の前では失敗しない完璧なアクアリウムを作る自信があったのだろう。それが早速失敗して、よほどショックだったようだ。
そんな落ち込み切った彼女の様子に、僕もそろそろ罪悪感が沸いてきたので「嘘ですよ」と伝えようとしたその時だった。
「では、ユリウス様に喜んでもらうアクアリウムを制作するために、ちょっとそこまでおでかけしてきますわ。ユリウス様はお留守番していて下さい。すぐに行って帰ってきますので」
ニコリと微笑み、逃げるが勝ちとばかりくるりと僕に背を向ける。
「まって」
僕はエミリアの腕を掴み、引っ張る。
すると彼女は僕の膝の上にストンと落ち、腕の中にすっぽりとおさまる。
「もう、ユリウス様! はなして下さるかしら?」
じたばたと腕の中で暴れる彼女を抱く腕に力を入れると、抵抗がぴたりとやんだ。
それでもしばらくそのままにしていると、彼女の腕の力がぬけて僕に身を委ねてくるのがわかる。
「そうだ、ユリウス様。あの子たちの名前を考えたの」
エミリアは腕の中でもぞもぞと動くと、僕の顔を見つめながら得意げな表情をみせた。
「それは是非お聞かせ願いたいですね」
そうは言ってみるものの、同僚によると金魚の飼育は手間がかかる上に難しいらしい。
アクアリウム初心者の彼女の作品を見るに、どうみたって長生きはしそうにないような。
だから死んだ時の事を考えると、二匹の金魚に名前をつけるのは得策ではない。なぜなら、彼女が悲しみ落ち込むのは目に見えているから。
落ち込む彼女を慰める機会を与えられるのは嬉しいけれど、そもそも落ち込む事のないよう気を配るのが夫である僕の役目だ。
「あの二匹ね、ユリウス様があんまりにも長生きしなさそうって言うから、私、ユリウス様があの子たちに本気で向き合えるような、素敵な名前を考えたの」
「それはとても気になります」
僕の反応にエミリアは嬉しそうに微笑むと、まるで宝物を自慢するように話を続ける。
「ユーリとエミー。あの子達は私の命令で政略結婚をして、それで私たちみたいな夫婦になる予定」
「…………」
ユーリの方はどうでもいい。しかしエミー。それはダメだ。まるで彼女の分身みたいな名前をつけられたら、嫌でも救ってあげたくなるから。
どうやら金魚に嫉妬し、敢えて無関心を貫いてきた僕は、機転を効かせた可愛い妻にまたもや敗北したようだ。
「分かりました、では、一緒に出かけましょう」
「話のわかる夫を持って幸せですわ」
僕が譲歩すると、エミリアはあからさまにホッとした表情で、嬉しそうに笑う。
その笑みは僕を確実に幸せにしてくれるものだけれど、今は少し悔しい。
「では、外出の準備をしてきます」
僕は立ち上がりかけたエミリアの肩を掴み、優しくソファーに押し倒した。
「ユリウス様?」
少し驚いた表情のエミリアに跨り、その整った愛らしい顔に自分の顔を近付ける。
「デートをしましょう」
鼻と鼻が触れ合いそうな距離で、僕は熱っぽい声で囁いた。
「デート?」
「ええ、せっかくの休日をあなたと外で過ごすのですから、アクアリウムショップだけではもったいないでしょう?」
エミリアは目を丸くし、それから少し恥ずかしそうに頬を赤らめる。その反応がまた愛らしく、僕の胸を高鳴らせた。
「それに、僕があなたのお願いを断るわけがないでしょう?」
エミリアの可愛らしい唇に自身の唇を重ねると、彼女の口から小さな吐息が漏れる。
「では、デートに行きましょう。エミリア」
唇を離すと、彼女は恥ずかしそうに頷いた。その仕草がまた愛らしく、僕の胸は高鳴りっぱなしだ。
この調子だと早死にするかも知れない。けれど僕は一分一秒でも長く、彼女の側にいたい。
だから僕は長生きする。この可愛い妻の隣で。
「エミリア、手を」
僕はソファーから立ち上がり、エミリアに手を差し伸べる。
「ありがとうございます」
エミリアは僕の手を取ると、ゆっくりと立ち上がる。
「今日は、思いのほか良い日になりそうだ」
彼女は僕を見つめ、それから明るく微笑んだのであった。