018 いつも隣に2
夫婦の寝室。枕を背もたれ代わりにし、ベッドの上に並んで座るユリウス様と私。
何度もしつこく「犬を飼いたいか」と聞かれ、私は今本音を口にしようとしている所だ。
「そうですね。犬を飼えるなら飼いたいです。でも……」
私はそこで言葉を区切ると、ユリウス様の目を見る。そして微笑んで見せた。
「私はまだ、ユリウス様と二人で過ごす時間も大事だし、子どもも欲しいです。だから今すぐには犬を飼うことを望んでいませんわ」
正直にと言われたので、思ったままを答えた。すると途端にユリウス様は赤面する。そして私から視線をそらした。
そんな恥じらうユリウス様を見て、私は「しまった」と焦る。
今の言い方だと、どうしたって現在進行系で誘っているように聞こえてしまうからだ。
「あ、今のはその、別にお誘いではなくて、ええと流石にユリウス様が病み上がりなので、私もしばらく控えるつもりですから、ご安心下さい」
そう慌てて補足するが、ユリウス様からの反応はない。ただじっと下を見て動かなくなってしまった。
「あの、どうかなさいましたか?」
私は少し心配になり、声をかけるも反応がない。
仕方がないので、手元のチラシをひっくり返す。
するとそこには、金魚の絵が描いてあった。
どうやらドロッセル様の店では魚類も取り扱っているようだ。
チラシに描かれた魚を興味深く眺めていると。
ユリウス様はようやく口を開いた。
「……エミリア様は」
「はい」
「一生犬が飼えない男をどう思われますか?」
「え」
「一生犬が飼えない男です」
「……」
ユリウス様が何を言い出したのか、私には理解しきれなかった。けれど何か彼が思い悩んでいる事は分かったので私は考え……。
「別に一生犬が飼えなくても気にしないと思いますけど」
と、正直な感想を口にした。
「……気にならないんですか?」
意外そうにユリウス様は顔を上げる。
何故だろう?そんな変なことだったろうか?
私は首を傾げた。
「どういう事情で犬が飼えないのか、それにもよりますけれど、一生犬が飼えないならいっそ、金魚を飼うってどうですか?」
「き、金魚ですか?」
「はい。このペットショップでは金魚も販売しているそうなんです。実は私、金魚にも興味があって。それに犬は散歩に連れて行かないといけません。でも金魚ならその心配はない。だから私、子供ができても金魚なら大丈夫だと思うんです」
どうですか?と私はユリウス様に訊ねる。すると、ユリウス様が突然、可笑しそうにお腹を抱えて笑いはじめた。
「す、すみません。エミリア様らしいです。それに、私との生活を第一に考えて下さる気持ちが嬉しくて」
「私、何か変なことを言いました?」
「いえ。とても良い提案だと思います」
クスクスと笑いを嚙み殺すようにして言うユリウス様。
私はそんなユリウス様の態度に、「変な質問をしたのはそっちなのに」と、少しムッとしたが、彼が笑ってくれたのでよしとする事にした。
「本当に、わた……僕は幸せです」
ユリウス様は、私に柔らかい笑顔を向けてくれる。
「それは良かったです。というか、ユリウス様って、普段はご自分のことを「僕」呼びなんですね」
私は思わず見惚れてしまう程のその笑顔に、軽い動悸を覚えながら言葉を返す。
「おかしいですよね。でも、僕は本当は僕なんです。一時期は「俺」なんて粋がって使ってみた時期もあったんですが、シュナイダー侯爵家の者には乱暴すぎると父に矯正されました」
どこか苦い思い出があるらしく、ユリウス様は苦笑いする。
「乱暴なのはいけないと思いますが、私はユリウス様の「俺」姿も見てみたかった気がします」
私は素直な感想を口にする。すると、ユリウス様は少し考え込む素振りを見せたあと。
「だったら……今だけ、俺に戻ってもいいですか?」
そんな提案をしてきた。
私はその申し出に驚きつつも、すぐに頷く。するとユリウス様の表情が途端に変わった。
それはいつも私に向けてくれる優しい笑顔でも、仕事中の凛々しい笑顔でもない。
私を初めてベッドの中に引き込んだ時に見た、大人の男性の……少しずるい笑顔だった。
私の胸はドキンと高鳴る。と同時に、無理をさせた結果、荒れる疲労になってしまったという事実を思い出す。
「あ、あの。俺って言うユリウス様を見たいとは言いまし――」
「エミリア……」
いつもより少し低い声で名前を呼ばれ、私は胸がぎゅっとなる。
そして次の瞬間にはその逞しい腕に抱きしめられていた。
「あっ」
そんな声が思わず漏れてしまうくらいに驚きつつも、私は慌てて口を閉じる。
けれど、そんな私に構うことなくユリウス様は言葉を続けた。
「君は本当に可愛い」
耳元で囁かれてくすぐったい。しかし、それ以上に私の心臓はバクバクと激しく音を立てている。
「あ、朝の真似ですか?」
「はい。エミリアが可愛いのがいけないんですよ」
ユリウス様は、私の耳たぶに軽く歯を立てる。そして彼の唇が移動して、私の頬に軽く唇を落とす。
「ひゃっ」
私は思わずそんな声を上げてしまう。するとユリウス様は、私を抱きしめたままベッドへ横になった。
「エミリア……」
熱っぽい声が耳元で聞こえる。私はその声だけで腰が砕けそうになったが、なんとか堪えて彼の目を見た。すると彼は少し意地悪な笑みを浮かべている。
「!?」
私はそこでようやく、彼の罠に嵌められた事に気が付く。
「ユリウス様、からかったんですね!」
「すみません。でもエミリアが可愛いのが悪いんです」
そう言ってユリウス様はクスクスと笑うと、私を強く抱きしめる。
「僕は確かに「俺」呼びに憧れてみた時期がありましたが、やっぱり無理でした。エミリア、一つ告白していいですか?」
「ええ、どうぞ」
ユリウス様の胸元に頬をつける私は頷く。
「……実は、僕、犬アレルギーなんです」
「え!!」
私は、驚いてユリウス様を見上げる。
「すみません」
彼は申し訳なさそうに謝る。とはいえ、なぜこのタイミングでカミングアウトしたのか。
その意味がさっぱりわからない。
「えっと、つまりさっきの犬を飼えない男っていうのは、金銭的な意味とかではなく、アレルギーでってことですか?」
私は確認のために訊ねると、ユリウス様は頷いた。
「はい。こういった、夫婦間に亀裂を生みかねない重要な問題は、結婚する前に知らせておくのが常識だと思うのですが、私はあなたを妻にとずっと願っておりましたので、秘密にしておりました。もしこの件で離縁をお考えだと言うのであれば……むっ」
「ちょっとストップ」
私は手を伸ばし、ユリウス様の完璧に整った口元を手のひらでふさぐ。すると彼は、自分の口をふさいでいる私の右手を取った。
「離縁はしません。私がユリウス様を離すことも絶対にありませんから」
私は真っ直ぐ彼を見て言い切る。それから、モゾモゾと体を動かし、彼と顔が向き合う位置で停止した。
「だって、私はあなた以外の人と結婚するなんて、考えた事はないんです。結婚したらしたいと願っていたこと。それは全部ユリウス様あってのことなんです。だから離縁なんてしません。それに、アレルギーは仕方ないですし」
私はそう言って、ユリウス様をしっかり見つめる。
「今日いいことを聞いたんです。犬アレルギーの人も、程度にはよるみたいですけれど、飼う犬種を選んだり、犬と触れ合う際には、手を洗ったり、犬の毛を触った後は顔を触らないようにするとか。あとはこまめに掃除をするとか、色々と対策はあるそうです。だから、気にする事はないですよ?」
私は今日ドロッセル様から仕入れた情報を、早速披露する。
まさかユリウス様もハンナと同じ。犬を飼いたいのにアレルギー持ちだった事実に、驚く気持ちはある。
けれど、この先ずっと犬が飼えないわけではないし、そもそも犬アレルギーはなりたくてなるものではないから、仕方がない。
なにより今は、そしてこの先もユリウス様に側にいて欲しい。
今ならステア様がハンナのために浮気だと疑われるくらい、必死になって犬を飼おうとしていた気持ちがわかる気がした。
「昨日の夜、ユリウス様がいなくて寂しかったです。それで一人で色々考えてみたんですけど、私は正直、ユリウス様とは、一緒にいて当たり前だけれど、あまりに平穏すぎることに物足りなさを感じていたんです」
「物足りない、ですか?」
「はい。例えるならユリウス様はいつも高潔な騎士様で、私はユリウス様のお姫様。でも平和な世界だから、事件は起きない。どっちが悪いってわけじゃないんです。ただ、恋という感情に一喜一憂している友人たちを見ると、羨ましいなと思う事もあって」
私はそこまで言って、ユリウス様の前髪をかきあげる。
「私たちは確かにずっと、あなたのお姫様でいられたけれど、恋愛っぽいことは一切なく結婚しちゃいましたよね?」
「まあ……そうですね」
ユリウス様は小さく頷く。
「だから私、恋ってものに憧れていたんです。でも実のところ平穏が一番なんじゃないかって思ったんです」
「それは、何故?」
「ステア様の浮気騒動で、ユリウス様が浮気したかもって思った時、悲しくて苛々して、苦しくて。あぁ、みんなこういう思いをしてたんだって思ったからです」
「僕が浮気ですか?そんなこと、しようと思ったこともないですが、浮気……僕が?」
私の発言に驚いた様子で、ユリウス様は私の言葉を反芻する。
「たぶん私の勘違いです。あの犬がゲラルト卿の犬だから」
そう。誰かと飼ったりしていないし、そもそもアレルギーだから犬を飼えない。
昨日壇上でエミリアに愛の告白をしていた時、彼の瞳が潤んで涙ぐんでいたのは、感極まってではなく、アレルギー。
そして、もしあの時ユリウス様が告げていた言葉が、犬のエミリアに言ったものではなかったとしたら。
私はユリウス様の頬に両手を添えて、逃げられないようにする。
「ユリウス様は、本当に私の事を愛して下さっている。そう思ってもいいんでしょうか?」
「もちろんです。僕はもうずっと前からあなたを……愛してるから」
私はユリウス様の頬から手を離し、彼の首に両腕を回す。
「うれしいです。私もユリウス様を愛しています。それと、これからは遠慮しないでもっと私に構ってください。心も身体的にも。あと、犬が飼えなくても、私がいるじゃないですか。私はあなたの妻なんですから」
「くっ……エミリア、可愛すぎる」
ユリウス様は私の体をギュッと抱きしめた。そして、私の耳元に唇を寄せて囁く。
「実は僕、全然紳士じゃないし、こうしていると今すぐ君を抱きたくなるし、何なら朝、行ってきますのキスをされる時だって仕事を投げ出して君と一日ダラダラ過ごしたいと願ってしまうし、それに、本当は君に嫌われるのが怖くて、ずっと格好つけてるだけなんだ。でも君を誰よりも幸せに出来る自信はある。だから、どうか僕の側にずっといてほしい」
「はい」
私が返事をすると、ユリウス様は私の左手を取って、薬指にそっと口づけをした。それから手の甲を自分の唇に引き寄せてもう一度口づける。
そして私の左手を両手で包み込むように握り直し、胸の高さまで持ち上げると、私を見つめながら言った。
「病めるときも健やかなるときも、富めるときも貧しきときも……死が二人を分かつまで、いや分かつとも……ずっとあなただけを愛することを誓います」
ユリウス様はそう言って、私の手の甲に口づけをする。
その仕草があまりに綺麗で、私は胸が高鳴るのを感じた。
そしてやっぱりユリウス様は、真面目だなと思ったのだけれど。
「では、私も……」
私が言いかけたところで、ユリウス様は首を振った。
「だめですエミリア」
「え?」
断られたのが意外で目を丸くする私の鼻に、ユリウス様は自分の鼻をくっつける。
「君があまりに可愛すぎて、今僕は、もっと激しく、声を我慢できなくなるくらいまで君を攻め立てたくなってるから。待てないんだ。いいよね?」
「え、でも病み上が――」
ユリウス様は私の言葉を遮り、私の口を塞ぐ。
「んっ……」
唇を割って入ってくる荒々しい口づけ。
私は求められていると嬉しくて、キスの合間に何度もユリウス様の名前を呼ぶ。すると、彼は熱っぽく私を見つめながら言った。
「エミリア……愛してるよ」
その瞬間に体中を駆け巡る甘い痺れに、私はなすすべなく陥落する。
いつから彼が好きだったのか、それはもうわからない。
だって私が二歳、彼が六歳の時に、王命によって勝手に決められた人だから。
でも、私の想像する未来に彼がいなかった事はない。
たぶん、それが全てだと思う。