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011 荒れる過労

 ドッグショーから逃げるように帰宅した私はいま、てんぱっている。


 まず、ステア様がクラウディアに告げた言葉。


『……私はクラウディアになら、いくらでも払えますよ』


 という言葉の意味もそうだし、誘拐だの身代金だなんて物騒な話もそうだ。


 これは夫の浮気を疑うハンナにとって重要なはずなので、慎重に吟味したのち彼女に伝える必要がある。


 しかしながらハンナには悪いけれど、今はそれどころではないという状況だ。


「なんなの、あのエミリアは」


 私は落ち着かない気持ちで、自分の部屋の中をいったりきたり、ウロウロする。


「そもそも朝、仕事に行ってたはずなのに」


 なぜ彼はドッグショーの会場にいたのか。


「それに、あのエミリア」


 もちろん私ではない。彼の足元にいたミルクティーみたいな色をして、つぶらな瞳の可愛いミニチュア・シュナウザーのこと。


 赤らめた彼が感極まったような鼻声で犬のエミリアに対し、まるで愛の告白のような素敵な言葉をかけていたのを思い出す。


「だからあのエミリアはなんなのよ」


 さらに私が部屋をウロウロする速度が増す。


「まさかユリウス様があそこまで犬を好きだなんて、全然知らなかったわ」


 初顔合わせは三歳の時だと聞いているから、ざっと十七年。私は、彼の犬好きな気持ちに全く気付かなかった。


「そういえば……」


 昨日の夜、脈略なく彼が犬について口にしていたことを思い出す。


『たとえばですが、犬を飼いたいと思ったりされる事はありますか?』


 私は彼に背中を向けていたから表情まではわからない。


 けれどそう告げる彼の声のトーンは、おどおどしている感じで、まるでシュンと肩を落としている子犬の様な雰囲気だったような。


 そして私は何と答えた?


『犬は好きですけど、でも今はいりません』


 自分の言い放った言葉を思い出し、これはもはや離縁直行だと青ざめる。


 しかも最悪なことに、この会話を交わしたあと、私はその話をうやむやにしようとして彼に迫ってしまった。


 その後彼の「いいですか?」が発せられる間が、いつもより長かった気がする。


「本当は犬が飼いたくて仕方ないけれど、私が反対したからどうしたらいいか?なんて、悩んでたのかも知れないわ」


 だからこそ、いつもより彼の返答までの時間が長かった……。


 私は「それだ!」と確信し、さらに落ち込む。


「でも、エミリアはいったい誰の犬なの?それに何で私の名前がついてたの?」


 一人で呟いているため、返事がない。その事もあって、頭が混乱しているという状況だ。


 その時私の脳裏に謎の言葉が降臨する。


「かしいぬ、そうよ、あれはきっとどなたかにレンタルした犬に違いないわ。レンタルだから、エミリアなんだわ」


 だとすると、彼は犬に私の名を付けてしまうほど私が好きで、あの愛の言葉は私に向けて語りかけていたと言うのだろうか。


 ほんのり期待する気持ちが浮上し、すぐに否定にとって変わる。


「まさか、それはないわ」


 ユリウス様は肌を重ねる時以外は、冷静で紳士な人なのだから。


 とは言え、自分の問題は解決に向かったと感じた私は、ホッと胸を撫で下ろしかけ、さらなる問題に突き当たる。


「だとすると一体誰にかりたのかしら……」


 小型で可愛らしい犬を飼うなんて、嫌でも女の人である気がしてしまう。


「どうしよう。ってユリウス様はどちらにいらっしゃるの?」


 私の名前をつけた犬の飼い主と、今頃楽しくやっているのだろうか。


 そう思ったら、途端に悲しくなってきて、私は涙をぐっと堪える。


「もしユリウス様に他に好きな人が出来たら、私はどうするのが正しいの?」


 一、犬の飼い主と共に楽しく暮らす生活を応援するために離縁する。


 二、政略結婚なのだから、離縁はできないので愛人を認める。


 パッと頭に浮かんだ考えに青ざめた。


 どちらを選んでも、今までのようにのどかで平穏な生活とは縁遠いものだったからだ。


「もしかして、私は今まですっごく、幸せだったのかも」


 今まで物足りないと感じていた生活は、実は何よりもかけがえのないものだった。


 いまさらそんな気がしてきた。


 そしてこんなに動揺しているということは、私にとってユリウス様はかけがえのない人なのだと改めて気付く。


「そもそも私はユリウス様が好き。だとしたら、もうこれは、恋愛結婚と言えるのでは?」


 私は自分の閃きに胸がドキンと高鳴った。


 そんな時だ。部屋のドアがノックされて私はハッと我に返る。


 この忙しないノックはきっとカルラだろう。


「はい、どうぞ」


 慌ててドアを開けると、そこにはやはりカルラが立っていた。


「どうしたのカルラ。そんなに慌てて」


「エミリア様!」


 彼女は私の両手を握って、どこかホッとした様子であった。


「エミリア様、落ち着いて下さいね」


「どうかしたの?」


 私が尋ねると彼女は悲痛な声でこう言った。


「実はユリウス様が、帰宅途中で具合が悪くなったそうで、今日はもう自室でお休みになられるそうです」


「まぁ、ではすぐにお部屋に」


 私は大変だと、慌てて身をひるがえそうとした。

 だがカルラはそんな私を引き止める。


「実は、エミリア様が来られては困ると、ユリウス様からの伝言です」


「え、どうして?私は彼の妻なのよ?」


 夫の一大事に駆け付けない妻なんているだろうか。


 そんな私の疑問にカルラが答えをくれた。


「なんでも急な体調不良で、エミリア様に感染すると申し訳ないので、お会い出来ないとのことです」


「それは……仕方がないわね」


 納得できない気持ちは、どこかに落ちて消え去る。


 なぜなら、私は王族として育ったから。


 家族の誰かが具合を悪くした時、感染の恐れがある場合は面会謝絶となるのは当たり前だというのは常識だ。


 それは、国王である父に感染してもしもの事があれば、大勢の国民が混乱に晒されるから。


 だから自分が風邪をひけば、どんなに辛くても一人でいなくてはならないし、父が風邪をひいた時は、どんなに側にいて励ましてあげたくても、お手紙を従者に託すことくらいしかできない。


 そしてユリウス様は私に感染させないようにと、配慮してくれている。


 その優しい気持ちを汲み、会いたくても我慢しなくてはいけない。


「だからエミリア様はどうか、ユリウス様にお会いされることなく、本日はご自身のお部屋でお過ごし下さいとのことです」


「……わかったわ。ユリウス様がそうおっしゃるのなら、そうするしかないものね。ところで彼の具合はどうなのかしら?」


 どうかおおごとではありませんようにと、私は祈る気持ちでカルラの返事を待つ。


「医師に診察してもらったところアレル……過労とのことでした」


「まぁ、荒れる過労なんて、お辛いでしょうね。命に別状はないのかしら?」


「はい。それはご心配されなくても大丈夫かと」


「そう。安心したわ。それにしても荒れる過労なんて……。きっと彼を無理させてしまった私のせいでもあるわね。お大事になさってと、せめてお手紙を書くことにするわ」


 ほっと息をはく。ユリウス様は意外に頑張り屋さんな所があるし、私が頼むと断れない性格だ。


 昨日だって犬の件をうやむやにするために私が誘ったから無理をして、きっとそれが致命的だったに違いない。


「カルラ、お手紙を書いたら、届けてもらっていいかしら?」


「それは構いませんけれど」


 カルラは私の事をじっと見つめる。その視線はどこか厳しいものだった。


「あのエミリア様」


「なにかしら?」


「どうしてもユリウス様じゃなきゃ、駄目なんですか?」


 私はその質問に驚いた。


 彼じゃなきゃ駄目かどうかなんて考えた事がなかったからだ。


「政略的なものではなかったら、あの人を選びましたか?」


 最初の質問の答えすら、まだ出ていないのに、カルラはさらに私に難しい質問を投げかけてくる。


「こればっかりはわからないわ。だって私は二歳でユリウス様の妻になる未来が決まっていたんだもの。だから彼以外の男性との未来なんて考えた事もないから」


 自分で口にして、なんだかそれが全ての答えであるような気がした。


 もしかしたら、周囲に上手く言いくるめられて、そう思うようになっているのかも知れない。けれど、私は今までユリウス様と一緒にいて、嫌だと思った事はない。


 むしろこんな私が彼の隣にいていいのか。それは時折感じるけれど。


「でも、正直に言うとユリウス様には、私よりもっと素敵な女性がお似合いだと思う時はあるわ。だから私は、彼の妻でいられるだけで十分なの」


 気持ちを吐き出したら、なんだか楽になった。けれど目尻に涙の粒が溜まってきて、泣きそうだ。


「エミリア様、悲しまないで下さい。それにそっち方面は考えないことです。あなたが思っているよりずっと、あの人は情けない所がありますけれど、エミリア様の事をたぶん誰よりも大事に思ってくれているのだけは確かですから。ムカツクケド」


「カルラ、最後はなんて言ったの?」


 よく聞き取れなくて、聞き返したら彼女はぷいっと顔を背けてしまう。


「いいえ。エミリア様はそのままでいて下さい」


 そう言ったきり、彼女はいつもの優秀な侍女としての表情に戻る。


「手紙はユリウス様に直接お渡ししますね。書き終えたらお知らせ下さい」


 そうしてカルラは一礼すると、部屋から出ていく。


「それにしてもユリウス様は大丈夫かしら。荒れる過労なんていう病気、はじめて聞いたし」


 私は不安でいっぱいになりながら、今込み上げる気持ちを書き綴ろうと、ひとまず机に向かう事にしたのであった。

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