010 地獄を見て、吹っ切れる(ユリウスSIDE)
今日は史上最低な日を更新中。
ドッグショーの会場に王妃殿下がいると少し騒ぎになり、その結果僕の愛する妻エミリアは、侍女のカルラと近衛に守られ退散してしまった。
そんな僕に課せられた最重要任務は、一刻も早く屋敷に戻り、彼女にうまい具合に言い訳をすること。
しかし僕はもはや何もしなくても垂れてくる鼻水のせいで、鼻の穴にティッシュを丸めて詰め込むという、紳士にあるまじき状態でドッグショーの参加者控室にいた。
せめても救いは、僕をショーに無理やり参加させた御人が、侯爵という爵位持ちだったおかげで、個室の控室を特別に与えられているという事だろう。
他の犬がいない。今の僕にはそれだけでありがたいことだ。
「まさか、こんな所で君に会うとは。しかし助かった。君のおかげで優勝出来たようなものだからな。ハハハ。エミリアたん、よかったなぁ。よちよち、いいこ、いいこ」
豪快に笑いながら子犬に頬を擦り付けているのは、代々王国を武の力で支える名家、ベルゲマン侯爵家の当主ゲラルト卿だ。
騎士団長を勤める彼の見た目は、まさに伝説上のモンスターであるオークそのもの。皮膚こそ緑や青ではないが、コップを握っただけで捻り潰しそうな太い腕、分厚い胸筋。そして彼の身長は二メートルを優に超え、百八十センチの俺よりも頭一つ高い。
顔だってそうだ。顎は割れているし、髭を蓄え、鋭い三白眼はまるで飢えたオークのよう。
そんな見た目からして恐ろしく強そうな彼が、ミルクティー色をした愛らしい子犬に頬をスリスリとしている。
もはや食べようとしているようにしか見えないが、実のところ、全力でデレデレしているのである。
しかも目尻を下げっぱなしの彼は、あろうことかわが妻の名に「たん」という謎の敬称を付け足しながら。
これほど恐ろしい光景を、僕は今まで見たことがない。
しかしながら、その見た目に反してゲラルト卿は気さくで話しやすく、何より他人への思いやりに溢れた人格者だ。
僕も結婚の際に仲人をお願いしたくらいには、彼を慕っているし、彼も家族を亡くした僕を実の家族のように気にかけてくれている。
そして、そんな彼から。
『そうだ、ユリウス、君がエミリアたんを連れて参加したら話題性抜群。つまり、儂が出るより優勝の可能性はあがるよな?……ふむ』
そう言われた時、なんとなくこうなる気はしていた。
なんせゲラルド卿といると、何かしら無理難題を笑顔で押し付けられる事が多いから。
だからといって、抵抗しないわけにはいかない。
『しかし、私は、くしゅん、用事が……くしゅん』
『ユリウス。ドッグショーだと思って油断してはならない。儂はこの戦いに己の全てを賭け、必ず勝利せねばならんのだ。そう、世界一愛らしいエミリアたんのために』
まるで今から国をかけた戦いに参加するかのような気迫を放出させたゲラルド卿は、決意に満ちた表情で僕を睨み付けてきた。
『ですがゲラルト卿』
『頼むユリウス。見てみろ、このエミリアたんの可愛らしさ。間違いなく優勝も夢ではないだろう?』
ぬっと顔の前に差し出される小さな犬は、うるっとした瞳で僕を見つめてくる。
『……まぁ、かわいいですけど』
『じゃ、決まりだな。ハハハハハ』
というやり取りの末、僕は急きょ参戦する羽目になったのだが……結果的に本当に優勝してしまったのだから怖いものだ。
「エミリアたん、お前は本当にかわいいでちゅな」
ゲラルド卿はエミリアを鷲掴みにし、顔をベロベロ舐められて喜んでいる。
もはや、地獄を見せられている気がするのだが。
「しばらく騎士団の方に顔を見せないから、心配していたんだぞ。それで、新婚生活はどうなんだ?エミリアた……様と上手くいってるのか?」
犬のエミリアに舐められ、てかった顔をこちらに向けるゲラルド卿。しかも今、僕の愛する妻に変な敬称を口にしかけた気がする。
もはや細かい事は気にするな。
そう自分に言い聞かせ、口を開く。
「ええ、まぁ」
なんとも歯切れの悪い返答になってしまう。
数日前であれば、ゲラルド卿の「上手くいっているか?」という問いに対し、「もちろんです」と笑顔で即答したに違いない。
しかし現在は「犬の毛」「浮気」「涙の痕跡」「別居」に「ドッグショー」という怪しい単語のせいで、どう答えるのが正解なのか全くわからない。
彼女を信じたい気持ちはあるが、壇上から見下ろした彼女の周りには、怪しい男がうじゃうじゃいたのだから。
あの中のどれかが、彼女の間男かも知れないと思うと、無駄な抵抗だと知りつつも、つい犬のエミリアを通し、彼女への思いを口にしてしまった。
その結果、司会者には引かれた気もするが、彼女を手放したくはない一心で、あの時は無我夢中だったのだから仕方がない。
「なんだ、はっきりしないな。その答えは、ノーともとれるぞ?」
「そういうわけでは」
「お前の親父は昔から自分にも他人にも厳しい奴だったからな。お前も必要以上に自分を律しようとしてるんじゃないのか?それは他人にとって窮屈な場合があると、散々教えただろうに」
ゲラルド卿はいつも僕にそう口にする。
けれど自分では律する事が当たり前だし、シュナイダー侯爵家の当主としてふさわしい選択をし、行動しているつもりだ。だから他人から窮屈に思われているかどうかなんて、良くわからない。
口にしてくれれば改善したいとは思うが、今のところゲラルド卿にしか言われないのだから、杞憂なんじゃとすら思う。
「五年前、お前が十九の時に父親が亡くなった。まだ若いお前を心配する声もあったが、立派に職務をこなし、シュナイダー侯爵家も守り立てた。そして誰もが羨む妻も迎えた。しかし、今のお前は全てを手にした男には見えない。まだどこかで無理をしているんじゃないのか」
「私はそんなつもりは」
「俺はお前とエミリア様に上手くいって欲しいと願っている。もちろんこの国のためにも。お前はどうも他人とは壁を作りがちだし、エミリア様には少し過保護に過ぎるところがあるからな」
「……はい」
言われてみればそうかも知れない。
結婚してからというもの、彼女の前だと去勢を張ってしまう自覚は、確かにあった。過保護な部分は愛する故の行動なので許して欲しいというところ。
「エミリア様は家族の愛を一心に受けて育ったお方だ。だからこそ、他人を愛そうとする慈愛に満ちた姫だと国民からも愛されている。だから政略結婚だとしても、お前を愛そうと努力はなさるお方だ」
「…………」
ぐうの寝も出ないとはこの事だ。
確かに行ってきますの頬のキス一つとっても、彼女は僕を家族として愛そうと努力してくれている。
「しかしお前は、感情が表に出にくい。いや、出ないようにしろとそう言われて育ったのかも知れないが、お前にそれを強要した者はもういない。それに――」
ゲラルト卿は犬のエミリアを床に下ろすと、椅子に座り僕に向き直る。そして彼は身を屈め、椅子に座った僕に真面目な表情を向けると口を開く。
「お前がこのまま、変わらなければ、今後生まれてくるであろう子どもに、同じ思いをさせる事になるんだぞ」
まさかゲラルト卿にそんな事を言われるとは思ってもいなかったので驚く。すると彼の威圧感のある三白眼がさらに鋭さを増し、髭の生えた唇がにやりと吊り上がる。
「お前は家族愛というものを知らずに育った。しかし本来、家族愛に勝るものもないんだ。特に妻は、一番甘えていい存在なんだぞ」
そう言って彼は犬のエミリアを抱き上げると、その頬に己の顔を何度もこすりつける。
オークみたいな恐ろしい顔の目尻を下げ、綿菓子のような愛らしい犬を愛でている。
その姿は滑稽で笑い飛ばしたいと思うけれど、僕のパンツの膝部分に、何かが落ちてシミを作った。
「よし、泣けたな。まずは一歩前進だ。いいか、お前の幸せは俺の幸せでもあるんだユリウス。だから俺を悲しませるなよ」
僕から見たゲラルト卿はまさにモンスターだ。しかし彼のような人間こそが本当の騎士という気がしてならない。
柄にもなくそんな事を思い、僕は彼の言葉を嚙みしめる。
「はい」
紳士に答えたつもりだった。しかし正面から笑い声が聞こえた。
顔をあげると、犬のエミリアがゲラルト卿の顔を舐めている。そしてゲラルト卿はエミリアに舐められながら実に嬉しそうに「かわいいでちゅね」を連呼し笑っていた。
その姿を見た途端、僕の心の奥底から一気に笑いが込み上げてきた。
「はははっ」
思わず声を出して笑ってしまう僕に、ゲラルド卿が驚いているのがわかったがもう遅い。一度口からこぼれた笑みは止まらなかった。
僕は椅子の背もたれに体を預けると天井を見上げる。
ああ、なんて馬鹿馬鹿しいんだろう。
一人で勝手に悩んで、一人で勝手に解決しようとして、それで泣きながら笑っているのだから。
『自分が完璧な紳士でいれば、彼女に想いが伝わる』
そんなわけがあるか。
僕が変わればエミリアを幸せに出来るはずだし、僕が笑えばエミリアもきっともっと笑う。
なぜなら、僕たちはもう家族なんだから。
「ゲラルト卿」
僕は目端に溜まった涙を手の甲で拭き取りながら彼に声をかける。するとゲラルト卿は床にエミリアを下ろし、僕に体を向けた。三白眼が僕をじっと見つめているのがわかる。
「ご心配おかけしました。私は家族を、エミリアの前では着飾る自分を少し変えてみようと思います。すぐに、とはいかないかも知れませんが」
「……そうか」
彼は僕の言葉を聞き、一度目を伏せた後、再び僕をじっと見つめてきた。その目には明らかに安堵の色が見えたが、彼が口を開く前に僕が言葉を続ける。
「では、この想いのまま、帰宅したいと思いますので」
僕は椅子から立ち上がると、ゲラルド卿に腰を曲げて一礼する。
「そうか頑張れよ」
「今日は気付きを頂き、本当にありがとうございました」
僕が礼を言うとゲラルド卿は頭をかく。その顔はやっぱりオークそのもので怖かった。けれど彼はとてもいい人間だ。そして僕から見れば、とても羨ましい人でもある。
出来れば彼を長とする家に生まれたかった。けれどその場合、エミリアとの婚約はなかったかも知れないので、やっぱり僕はシュナイダー侯爵家に産み落とされて、良かったと思うしかなさそうだ。
そんな事を考えつつ、僕はようやくドッグショーを後にしたのであった。